男子バスケットボール部更衣室。少し肌寒くも感じられるその部屋で、緑間は人知れずため息をついた。今日の練習は自分ひとり、それもたったの30分だけ。一人だけだと、この更衣室もいつもより広く感じられる。
他人がおらず集中しやすい絶好の環境の中で、30分しか練習できないのは少し惜しい。30分だけというのは自分から提示した条件ではあるのだが、これは失敗だったかもしれない。彼にしては珍しく己の言動を後悔しながら、緑間は今日を振り返る。


* * *


まだ少しだけ暑さが残る初秋の日。そんな今日、本来ならあるはずの部活がなくなってしまった。先週の部活後のミーティングで、急に監督が「来週のこの日は部活ないから」と言い出したときはなんのことか理解できず、緑間を含めた全員がしばし沈黙してしまった。

それほど、部活が急になくなるということは異常だった。

部活動がなくなった理由は、今週から放課後に全生徒で手分けをして、数年前まで使われていた旧校舎の片付けを手伝うからだ。主に体育会系の部活動に所属する男子が旧校舎から物を運び出し、女子はそれらの仕分けと掃除、その他男子は仕分けられたものの運搬、と分担されているらしい。

体育会系部活動に分類されるバスケ部の部員である緑間も、否応なしに運び出しの担当になっていた。片付けなど業者の役目ではないのか、とか、他の仕事はクラス単位で分担なのに、一番大変そうな運び出し作業だけ部活単位で割り振るのは不公平ではないのか、などと頭の片隅で思いつつ、テキパキと作業する部の先輩達の手前、流石に文句を言うことも出来ないので、黙々と運び出し作業を続けた。

机をいくつか重ねて持ち上げた緑間の目に、胸ポケットに入れた今日のラッキーアイテム、桃色のレースハンカチをちらっと見えた。ラッキーアイテムを肌身離さず持ち歩いている上に、今日の占いは3位と好調。きっとこの片付けにも何かいいことがあるに違いない…と、なんとかプラスの方向に思考を持っていこうと努めた。
そうだ、広い旧校舎を早足で出たり入ったりすることがウォーミングアップになり、この机を運ぶことで筋トレになる。校舎の階段を繰り返し上り下りすることが持久力アップの助けになる可能性も…。だがそもそも、この作業でどこか痛めるといったことがあってはならない。怪我をしないように気をつけるために集中しなくてはいけないから、注意力と集中力のトレーニングにもなるか……

そこまでなんとかプラス要素を考えて、緑間はふと気づく。
基礎練はいい(?)として、…肝心のバスケの練習がどこにも取り入れられないではないか!
仕方なく緑間は、今日は使う予定のなかった“あの権利”を行使することにした。

数十分後、今日の作業が終わり、明日の部活の連絡などをするために部員が集められた。
「――連絡は以上だ!明日は通常通りだから間違えないように。解散!」
大坪主将のよく通る声を聞いて、部員たちがぞろぞろとその場を去ったところで、緑間は大坪の隣に立って何やら話している監督に近寄った。

「監督、ひとつお願いがあるのですが。」
「んー?なんだ緑間?」
「これから30分だけでいいので体育館、開けていただけませんか」
「…練習する気か?片付け担当日は部活禁止だって、知ってるだろ?」

隣の大坪が見かねて緑間に声をかける。緑間はそれに「はい」と返事をしながらも、引こうとはしない。

「練習というほど大々的なものではなく、ただタッチを確かめたいだけなのです。」
「うーん…どうしようかね…」

監督は少し考えるような素振りを見せたあと、組んでいた腕を解いた。大坪は「また始まった」と言わんばかりの呆れ顔を隠そうともしない。だが彼は、バスケをしたいという今回の緑間の我が儘に対しては断固反対してくるわけでもない。今日の練習がなくなって複雑なのはきっと主将とて同じなのだろう、と緑間は思う。

「わかった。が、これは個人の練習で、他の先生に見咎められたら緑間が全責任を持つ。時間はさっき緑間が言ったとおり30分だけ。今日は重いものを沢山運んでいるだろうから、これ以上負荷をかけるような練習は絶対しない。それを守れるなら私は咎めないし許可するが、どうする?」
「構いません。」
「うん、じゃあいい。」
「ありがとうございます。それでは、失礼します。」
「ああ、それと――」

部室へ向かおうと踵を返した緑間の背中に、監督は声をかけた。不思議に思って振り向く緑間に、表情一つ変えず言葉を足した。

「?…なんですか?」
「今日は部活がないし、本当なら我が儘言う権利もないはずなんだが、我が儘聞いたからね。明日の分から一回引きだから。」
「………、わかりました」

……まあいい、最後の以外は想定の範囲内だ。30分という、いつもよりはるかに短い練習時間を有効活用するために、緑間は体育館へ駆け出した。


* * *


30分という時間は、集中して練習していた緑間にはほんの数分だけに感じられるほど短かった。けれども約束したものは仕方がない。他の先生に見咎められないうちに帰ろう。制服に着替えるために、緑間は眼鏡を外し、着ていたTシャツを脱いだ。

「……きゃ、!」

そんな時だった。誰かが声を上げた。声からして、女子。緑間は驚いてあたりを見回す。けれども、眼鏡をかけていないので何も見えなかった。慌てて眼鏡をおいたはずの場所を手で探る。
誰かが部屋に入ってくる音はしなかった。もともとこの部屋には自分しかいなかった。そもそもここは男子更衣室で、女子更衣室とは離れた位置にあるから間違えるなどということは――

眼鏡はどこだ、この机の上に置いたはずだ。
焦って早く動かした手の小指あたりに、眼鏡らしきものが触れる。…が、手が当たった勢いでそれは弾き飛ばされ、床に落ちて転がる音がした。

しまった。急いでしゃがみこんだ緑間は、落ちた眼鏡を踏んでしまわないように少しずつ移動しながら、床を手で探る。落ちた音は確かこっちのほうだったと思ったのだが…

「……あの、」
「……!?」

その時、また声がした。聞き間違いではなく、今度は完全にどこかから女子の声がした。それも、近くで。

「め、眼鏡。……そこの椅子の下、落ちてます」
「え、」

その声に従って椅子の下を探ると、…手に触れた感触は、確かに緑間の眼鏡だった。緑間は急いで眼鏡を拾って掛け、立ち上がってドアの方を見る。人影は、ない。急に空気が肌寒く感じた。

「……、どこにいる?」
「…うしろです」
「、!!」

怪談のようなその言葉を聞くと同時に後ろを振り返る。そこには、男子更衣室にはどこか不似合いな全身鏡がある。

…はずだった。

「…」
「……」
「………」
「……お前、」

一体どこにいるのだよ?

振り返った緑間の姿が映るはずの鏡はそこにはなく、その鏡には緑間の知らない風景が写っていた。

 




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