「弦一郎、……入んない…!」
新しいマンションの一室。もう聞きなれて久しい彼女の、助けを求める声に、俺は昼飯を作る手を止め、手をタオルできれいに拭いてから声のする部屋へと急いだ。
「どうした?」
「洋服がっ…!ここに!全部入んな…い…!」
そこには、息をあげて段ボール箱の中の荷物と格闘する名前がいた。俺は彼女の隣にしゃがみこんで「俺がやろう」とつい言ってしまう。彼女はどうも片付けが苦手らしいと気づいたのは今からそう近くない時のことなのだが、まさかここまでとは、と呆れ半分、微笑ましさ半分で、俺はついつい彼女に手を貸してしまうのだ。
「な、なんで!?弦一郎の方が持ってきた荷物多かったのに!私の方がクローゼットのスペース大きいのに!」
なんで入らないの、と言いながら、服の袖で額に浮かんだ汗をぬぐう彼女は相当疲れているように見えた。どうやら彼女は。力技で入らない服をなんとか押し込めようとしていたらしい。寝室のメインクローゼットを半分こにしようと提案した彼女に、俺には多くのスペースは必要ないと反対しておいて正解だったと心底思った。
「ただ積むだけでは駄目だぞ。同じようなものは同じ引き出しに……こんなぐちゃぐちゃではいかん!」
俺がひたすら彼女の服をたたんでしまうという作業を続けている間、名前は隣でじっと俺の手元を見ていた。元々彼女の荷物はそこまで多くなかったため、すぐに片付いた。
「うわー、綺麗。今までこんなに綺麗に片付いたことないや…」
「片付け方など、これからは俺がいくらでも教えてやれるからな。どうしたら良いかわからん時は、俺に聞けばいい。」
「そうだね、そうする。私が汚くしてたら、これからは遠慮なく怒ってね。」
「ああ…わかった。」
これで大方片付いたな、とリビングへ行き、部屋をぐるりと見渡す。これからここで、彼女は社会人、俺は大学生としての一歩を踏み出すのだと思うと、感慨深かった。
「……あれ?お昼作ってくれてた?」
台所から彼女の声がする。すっかり失念していた。俺は慌てて彼女のもとへ駆けた。
「すまん、忘れていた…!」
「ううん、私が片付けに呼んじゃったからだよね。あとは私がやるから、休んでて。」
「いや、しかし…」
「作ろうとしてたのは、お味噌汁と…ここに切ってあるのを玉子とじにしようとしてた、かな?そうでしょ?」
俺のいうことやることのみならず、作るものまでもが彼女にお見通しらしい。俺は二の句が継げなかった。
「その顔はアタリ?…ね、今日はずっと動いてて疲れてるでしょ?だから休んでて?」
リビングに戻り、引っ越すに当たり、名前と割り勘で新しく購入したソファーに初めて座る。程よい硬さだ。
食器や道具が立てる音、名前が動くと起こる衣擦れの音、玉子が焼ける音――一日中引越しの為の力仕事で動き通しだった俺の耳に届くそれらが妙に心地よい。これしきで疲れてなどいないとは思っていても体は正直だ。俺はそれらの音を聞きながら、いつのまにか意識を落としていた。
* * *
「弦一郎、出来たよー…ってあれ?」
寝てる。今日一日の引っ越し作業の力仕事はほとんど弦一郎がやったので、流石の彼でも疲れたのだろう。私は今作ったばかりの昼ご飯をテーブルに置いて、ソファーの前に座った。彼の顔にかかった前髪を優しく払って、頭を撫でる。すると、閉じていた彼の目がうっすらと開いた。
「……ん……寝て、しまったか…?」
「まだ寝てる?それともご飯にする?」
「…昼飯、出来たのか。……食べる。」
「お疲れ様。まだ眠かったら無理しないでいいよ?」
「いや……共に暮らす初日の名前の手料理だからな…。作りたてを食べたい。」
彼はぐっと伸びをしてソファーから体を起こした。私も床から立ち上がる。
「そんなの…これから飽きるくらい食べるだろうに…」
「飽きない。それに、名前ばかりに任せず、俺も作るつもりだ。飯を名前の負担にはしたくないからな。」
「…ありがとう。弦一郎はいいお嫁さんになれるね。」
とても頼もしい彼の言葉に照れ隠しで冗談を返す。彼は動きを止めて、目の前に立つ私を見あげた。
「たわけ。……嫁はお前だろう、名前?」
彼の目は笑みをたたえているが、真剣そのものだ。照れ隠しに冗談を言ったのに、返ってきた言葉に、私はますます照れる羽目になってしまった。
「……ありがと。さ、食べよ?」
ああ、と返事をして彼は立ち上がって、私の手を取った。今度は、私が彼に引っ張られる番なのかもしれない。私はぎゅっと彼の手を握り返して、彼に従った。
END
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