「機会があったらまた対戦しよう。今度は、そうだな……"楽しむテニス"で」

握手を終えた幸村くんがベンチに戻ってくる。応援席の最前列まで来ていた私は、歩いてくる彼と正面から目があった。いつも彼が私と目を合わせるといつもするように、私は彼に向けて微笑んだ。彼は驚いたのだろうか、大きく目を見開き、笑い返してくれた。しかしその笑みはいつもと異なり、どこかぎこちない。

閉幕式が終わり、私は会場の出口で部員たちが出てくるのを待つ。見たことがないユニフォームを来た中学生たちを大勢見送ってしばらくすると現れた芥子色の集団を見て、私は座っていた公園のベンチから立ち上がった。

最初に目があったのは、あの二年生の子だった。昨日も今日もとてもテニスとは思えないくらい恐ろしい試合をしていたはずなのに、とてもケロリとした表情の彼は、私を見てはっとしたような表情をしたあと、すぐに明るい笑みを浮かべ、隣を歩いていた背の高いレギュラー部員(多分F組の人だ)の腕をぐいぐい引っ張った。つられた私の方を見たF組の彼は、後ろを歩いていた幸村くんに何か一言言ったようだった。

幸村くんがはっとしたようにこちらを見た。目が合う。他の部員が各々幸村くんに何かを言ってその場を通り過ぎて行っても、幸村くんはこちらを見たままその場を動かなかった。

いつの間にか閑散として二人だけになったその場所で、私は彼に近づいた。

目の前に立って、彼を見上げる。

「お疲れ様。…すごかった」
「……見に来て、たんだね。」
「もちろん。昨日約束したから」

少し歩こうか、と言うと、何も言わずにこくりと頷いた彼は、私の隣を歩き始めた。

「私、初めて生のテニスの試合を見たんだ。凄い迫力だった。」
「…そう、だね」
「誘ってくれて、本当にありがとう。見られて良かった。」
「……ちっとも良くない」

隣から消え入りそうな言葉が発せられた。

「……幸村くん?」
「俺は、良くないよ。こんなの――」

歩みをいきなり止めて、彼は勢い良くこちらを振り返った。鋭い視線が正面から私を捕らえた。

「こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ――俺、苗字さんに約束したのに負けたんだ……いいはず無いじゃないか!」

いつか彼に感じたのと似た、熱を孕んだ言葉が私に鋭く投げかけられる。でも、今日の言葉からは、以前にはあった重苦しい圧力が消えていた。私は、その鋭さを受け止めようと、彼をまっすぐ見返して口を開く。

「私、知らないよ。そんな約束、知らない。」
「……え、」
「試合を見に行く約束はしたけど、勝つ約束なんて、してない。」
「…、でもっ!」

真正面から突き刺さる視線の鋭さが増した。

「……やっと見てくれた」
「え?」
「いつも幸村くんと話してるとき、幸村くんが私のことまっすぐ見てくれたこと、なかったから…」
「…俺が……?」

訝しむように少し眉間に皺を寄せたのち、幸村くんは私から視線を外し、ふっと詰めていた息を吐き出した。

「そっか…そう、かもしれない」
「だから、ずっと不思議だったの。私の事嫌いなのかと思って。でも、それだったらどうして仲良くしてくれるんだろう…って」
「嫌いなんて、そんなわけないだろ!…実を言うと俺も、不思議だったんだ。苗字さんと話すと、いつもと違くて……」
「…違う?」

頷いた幸村くん、視線を再び私に戻したまま、どこか遠くを見るような目つきをした。

「苗字さんと話すと、急に…確実に進んでると思った優勝への道が…曖昧になってる感じがしたんだ。…君だけだった、大会に出られるのか、優勝出来そうか…って聞く意図無しに俺を心配したのは。」
「……」
「それどころか、君は俺がテニスをすること自体にちょっと否定的だった。」

そうだろう?と投げかけられた問に、私は躊躇いながら頷いた。

「だから、曖昧さを消したくて苗字さんとの話の途中に熱くなっちゃったこともあったんだ。自分に、曖昧なんかじゃないって言い聞かせたくて…そして、優勝のことなんてそっちのけで俺の事を心配する君に、常勝の大切さを教えたくて。」
「……そうだったんだ」
「でも、曖昧さは消えなかった。だから、苗字さんを試合に呼んで、曖昧さを感じてる中で勝つことで、…曖昧さを克服しようともした。でも、だめだった。どんどん先の見えない感じがしてくるし、何よりも、俺自身が目的を見失って。」
「目的を…?」

いつの間にか幸村くんの視線は柔らかくなっていた。その目でまっすぐ私を見る彼は、恥ずかしげにはにかんだ。

「だんだん…苗字さんに試合を見てもらうほうが優先になっちゃって。曖昧は曖昧のままで来ちゃって、…負けた。」

彼はそれだけ言うと、口を閉じた。私からは何も言うことが出来ず、黙ったままでいた。どれくらいそのままだっただろうか、長い沈黙を破ったのはやはり幸村くんだった。

「今の今まで、俺は…勝ちへの道に現実味がなくなっていったのは、俺が苗字さんと仲良くしてる所為だと思ってた。でも、…今わかった。」

彼は私を見る眼差しを少しだけ強くする。その瞳は澄み切っていた。

「逆だったんだ。常勝なんてもののほうが幻だ。」
「……、」
「俺達が常勝を絶対的な規則としてたのは、知ってる?」
「うん、…さっき、真田くんに聞いたよ。」
「勝負に絶対なんてありはしない。だから、たくさん練習して、できるだけ常勝に近づこうとしてた。でもそれは、あくまでも近づいただけであって決して常勝なんかじゃない。」
「『真剣勝負に"絶対"なんて無い』……。」
「そう、そのはずだった。そして、ありもしないものは、目標にはできるけど規則にはなり得ないはずだった。…でも俺達はそれを掟にした。…現実から遠ざかっていたのは、俺の方だったんだ。」

今初めて、私と幸村くんの視線が、思考が、意図が、本当の意味で交わったように私は感じた。

「苗字さんと仲良くして、俺は曖昧になっていたんじゃなくて、少しずつ現実に戻ってきていたんだ。……ありがとう、苗字さん。君と仲良く出来たから、俺は自分でこのことに気づけたんだ。」

ちょっと気づくのが遅かったけど、と恥ずかしげに笑う彼の表情は、私の心を暖かく満たした。

「でも、私、…準優勝でもとっても凄いことだと思う!」
「そうだね、今ならそう思えるかもしれない…苗字さんのおかげでね。」
「そんな、大げさな…」
「そんなこと無いよ。…地に足がついた、って言うのかな?そんな気が、今すごくするんだ。だから――」

今なら言える気がする、と呟き、彼は少し視線を下げた。

「…何を?」
「――俺、苗字さんが好きだ。」

夏の都内らしくない爽やかな風が、私と幸村くんの周りを撫でていった。

「……本当は、優勝メダルを君の首に掛けて告白しようと思ってたんだけどなあ。メダルは無いし、弱い所とかいろいろ見られちゃったけど、……もし、まだ俺のこと嫌いになってなくて、他に好きな人がいないなら、…俺と、」

付き合って、欲しいな。消え入りそうな声で呟いた彼の表情には、以前までの自信はうかがえなかった。私は、だんだんとうつむきがちになる幸村くんの手を取って頷いた。

「どんな幸村くんでも、嫌いになんてならないよ。でも、私は…、今の幸村くんのほうが好き。」
「……どうして?」
「"神の子"って呼ばれてるのは知ってたけど、今までの幸村くんは本当に神様みたいに欠点が無くて、ちょっとだけど、…怖かった。一緒に喋ってても、本当にそこにいるのか、不安だった。」
「……」
「私が幸村くんと正反対で弱すぎる所為なのかもしれないけど…。……だから私は、…今の幸村くんと一緒にいるほうが安心だし、…そんな幸村くんが私のこと、そんなふうに思ってくれてるのが、…嬉しい、です」
「…それじゃあ――」

「私でいいなら、…幸村くんと、お付き合い、したいです。」
「…君が良いんだ。ありがとう。…普通なら『夢みたい』って言うところなんだろうけど、俺の場合は逆みたいだ。苗字さんのおかげで、目が覚めたから。」
「うん、」
「…これから、また現実の一歩目だけど…、一緒に、来てくれるかい?」
「…うん!」

幸村くんは私の顔を見てふわりと微笑んだ。その人間味に溢れた心からの笑顔は、私が今まで見た中で一番輝いていた。

 




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