苗字名前はいつかと同じマンションの廊下を歩いていた。
以前までは二度同じ場所に呼ばれたことなどなかったのだが、ここ数回呼び出された場所はずっと同じ、このシンプルで綺麗なマンションだった。
今までも、明らかに居住を目的として作られたとわかる建物の一室に呼ばれたこともあった。しかし、思い返してみると、生活感を感じられるのはこの場所だけかもしれない、と名前は考えを巡らす。どうやらこの場所は、たくさんの物件を持っているらしいあの'要件'の男が、好んで居住している場所のようだった。
最早見慣れたドアの前に立ち、ドアベルを鳴らした。
静けさがあたりを満たす。
いつもなら測っていたかのように間伐入れずにドアが開かれるのだが、今日は物音一つ聞こえない。
仕方なく、名前はバッグの中を探り、一本の鍵を取り出した。
男には、最初にこの部屋を訪れたその日にこの鍵を渡されていたのだが、今まで一度もこれを使ったことはない。
しぶしぶ鍵を使い、ドアを開いた。人の姿が見えない。
そのまま部屋の奥へと足を運び、リビングを通りぬけて、見慣れた寝室を覗く。電気が付いていた。
「……峯さん?」
キングサイズのベッドに黒い姿が一人。思わず発した呼びかけにも何の反応もなく、その人影は仰向けに横たわったまま、胸を規則的に上下させていた。
「……、」
彼は、また何も掛けないまま寝ていた。ベッドメイクされた上でそのまま横たわる彼には、掛け布団の中に潜り込むという考えは一切無かったらしい。
名前は一旦寝室を出ると、リビングに置かれていたタオルケットを持って再び峯の元に戻った。
タオルケットを静かに掛ける。彼は微動だにしない。
その寝顔には珍しく眉間に皺が寄っていなかった。意外に子供っぽいこの男の寝顔が不思議に思えたのでしばらく眺めてから、名前はリビングに戻った。
何度も訪れている割に一度も座ったことのないソファーに腰をおろした。多人数掛けのそのソファーには、名前が横になれるだけのスペースがある。半ば無意識にそこに寝そべると、いつもこの家の主が名前を抱くときにする香りがした気がした。
自宅に他人が居たら落ち着かない。
いつだったか、名前が吐いた言葉。
こんな仕事をしていても、恥じらいやムードといった感覚は簡単に捨てられたものではない。
だから名前は、自宅に呼ばれるのが嫌いだった。彼女にとって人の自宅というのはある種神聖な場所なのである。
安易に踏み込まれたくはないし、踏み込みたくもない。いくら体の関係を持ったからと言っても、そこに踏み込める関係には程遠い。そうなろうという気もなかった。
他人の家で落ち着いたらいけない。
何度も自分に言い聞かせた言葉とは裏腹に、名前の神経はかぎ慣れた匂いに緩められ、目が次第にうつろになっていく。
初めてここを訪れたあの日の帰り際に見た、彼の驚きの表情をふと思い出しながら、名前はそのまま目を閉じた。
* * *
明るい。
ふと目を開けると、見慣れた天井がよく見えた。電気を消し忘れたか、と峯が上半身を起こすと、体からずるりと何かが落ちた。
それを手にとってぼんやりと眺める。ベッド脇の時計をちらりと見ると、帰宅した時間から2時間も経っていなかった。半端に寝入って目覚めた所為か、どうにも頭がはっきりしない。
帰宅して何もしないうちに眠りこけるという己の醜態に少しばかり苛立ちながら、峯はベッドから下りて立ち上がった。
少しふらつく。毎日ほぼ休みなく、決して楽とは言えない仕事をこなしているが、ここまでの疲れを感じているのは初めてかもしれない。何が原因かはわからなかった。
なんとなしにリビングまで足を運び、そこで彼は僅かにぎくりと身を固めた。ソファーに見慣れない影が横たわっている。
「……、」
苗字名前だった。ベッドに横になる直前に彼女に電話を掛けたことをぼんやりと思い出した。
今日は妙に疲れていて、とても女を抱く気分ではなかったはずなのに、何故呼んだりしたのだろう。女の事といい居眠りといい、今日の自分の行動に何一つも納得できないまま、女の顔を見下ろす。
そういえば、彼女の寝顔を見るのは初めてだった。この女はいつも事が終わるとさっさと帰るからだ。甘い会話も場の雰囲気も必要としていない峯にとっては好都合であったが、最近ふと違和感を覚えることがある。何に対する違和感なのかは、わからない。
そのままじっと見つめていると、彼女が急に身動ぎをして、横向きに丸まった。この狭いソファーでよく丸くなれるものだ、と考えたところで、ふと以前彼女をこの場所に呼んだ時に言われた言葉を思い出した。
「……人に言う癖に自分は何も掛けねえのか」
ソファーの横にタオルケットが置いてあったはずだ、と周りを見渡しても、どういうわけか何処にも無い。小さくため息をついてから、彼は丸まった女の背中に手を差し込んで持ち上げた。
ほぼ無意識にそのまま寝室へと足を運び、ベッドの上に半ば放り出すように彼女を置いた。疲労と眠気の所為か、何故わざわざ寝室に女を運ぶような真似をしているのか理解できないまま、峯はその隣に倒れこんだ。
寝やすい体制をとろうと身動ぎをすると、手に触り慣れない感覚があった。手を動かすのも面倒で、目線だけで手元を探ると、ソファーの横にあるはずのタオルケットがそこにあった。
そういえば、さっき自分の体から落ちたのはこれか、と合点がいった。
今度は何故と考える暇もなく瞬時に、隣に寝かせたこの女が、居眠りする自分に掛けたのだと分かった。
ふう、と溜息をつく。
重力にしたがってベッドに沈む己の身に喝を入れて上半身を起こし、立ち上がる。自分が寝ていた側の布団をめくり、彼女をもう一度持ち上げて、今度は丁寧に彼女をそこに寝かせた。上から布団をかけてやると、自分もその隣で、今度は布団の中に潜り込んで目を閉じる。
シーツがひんやりと冷たい。
急に、何か熱いものが峯の手に触れた。薄目を開けて隣を見ると、彼女がこちらを向いて横向きに丸まって寝ている。腹のあたりまで引き上げて折りたたまれた彼女の脚が、手にあたったらしい。
ふっ、と今度はため息ではないものを吐き出し、再び目を閉じる。
あっという間にシーツの冷たさなど気にならなくなり、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
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