初めて手をつないだ日

 時友四郎兵衛はその日も裏々山を走っていた。
 五月のこと、木々は青々と茂り、下草も負けじと成長の兆しを見せている。だいぶあたたかくなったが風は爽やかで、真夏に比べたらまだまだ走りやすい。それに、山道といえど裏々山辺りではそんなに厳しい道ではない。何度も委員会で往復しているし、この辺りまでは授業で来ることだってないわけではないのだ。
 体育委員会委員長、七松小平太のいけどんのもとに、今日は裏々々山までのマラソンと決まったが、それはいつものことなので四郎兵衛とて気にはしていなかった。だが、常には小平太の横暴を叱責しつつ、後輩たちの面倒を見る滝夜叉丸の、その顔色がよくないことに気付く者はいなかった。


 はじまりは次屋三之助だった。
 迷うのが特技といっても差し支えない彼の性質を慮り、先頭を行く滝夜叉丸のすぐ後ろを走らせていたのだ。その後に金吾と続き、四郎兵衛は最後尾。小平太の姿は当然のようにとっくに見えなくなっている。
 それが、四郎兵衛が顔を上げたとき、三之助は今まさに道を外れようとしているところだった。

「次屋先輩!」
 四郎兵衛が声を張り上げると、すぐ前を走っていた金吾が驚いたように顔を上げた。三之助はというと、振り返りもせずに「なに?」と尋ねる。
「そっちじゃないです!」
 そのまま木々の中へ突入していきそうな三之助に、四郎兵衛は慌てて追いつき、腕をつかんで引き止めた。
「そっちは山の中です、道はこっちです」
「え、でも滝夜叉丸はこっちに」
「そんなわけありません」
 何故だか食い下がる三之助をきっぱりと否定して、四郎兵衛は腕を引っ張った。実際、滝夜叉丸が小平太の提案なくして山の中に分け入ったことはなく、今も道の先で付いて来ない後輩を心配していることだろう。三之助を引っ張って金吾の待つ山道へ戻る。

「滝夜叉丸先輩はそこに」
 言いかけて、道の先に赤紫の頭巾を見つけられずに四郎兵衛は動きを止めた。いつもだったら、三之助が道を外れるのを見つけるのは四郎兵衛でも、引き戻すのは滝夜叉丸のはずだった。四郎兵衛や金吾の叫び声を聞いて、「お前はどうして迷子になろうとする!」と、首根っこを捕まえる。
 その先輩の姿が見当たらない。
「金吾、滝夜叉丸先輩は」
 三之助から手は離さずに尋ねてみると、一つ下の後輩は「すみません」と困ったように頭を下げた。
 四郎兵衛も困った。
 今まで、三之助が姿を消すことはあっても、滝夜叉丸がいなくなることはなかった。おそらく、この道を行けばゴールの裏々々山で会うことはできるだろうけれど。
 確信はない。
 四郎兵衛は空いている手であわせをぎゅっとつかんだ。胸の奥に冷たい風が吹き込んでくる。迷子になりそうな三之助と、一年生の金吾とを自分ひとりで裏々々山まで連れて行かなければならない。
 体力は持つだろうか。時間に間に合うだろうか。
 もしかしたら、まだ道が分かるうちに学園まで戻ったほうがいいのではないだろうか。
 突然、暗闇に放り出されたような気持ちだった。それこそ、迷子になったときのような。

「金吾、先頭を走れるか?」
 唐突に三之助が言った。
 四郎兵衛が驚いて見上げると、彼はいつになくまじめな顔をしている。
「もう何度か走っている道だから大丈夫だよな」
 三之助に肩を叩かれて、金吾が神妙にうなずいた。そのあとで彼は四郎兵衛の頭にぽんと手をのせる。

 見上げると、三之助がふっと笑った。
 あの、いつもぼんやりとしている先輩が、四郎兵衛に向かってほほえみかけたのだ。三之助が皮肉ではなく笑うのを初めて見た。それも、自分のために笑うなんて、想像もしていなかった。うぬぼれかもしれない。だけど、四郎兵衛は自分がその笑みに助けられたのを知った。
「四郎兵衛は一番後ろな」 
「は、はい」
 四郎兵衛は慌ててうなずいた。
 いつの間にか手を離していたが、三之助はきちんと道の先を見ていた。


 裏々々山に入った辺りで、三人は道の先から走ってくる委員長を見た。脇に滝夜叉丸を抱えている。四年の先輩はぐったりとしていて、どうやら意識がないようだった。
「迷わずに来られたのか!」
「金吾としろが迷わなかったから」
 立ち止まった小平太に、三之助がしれっと言った。
「そうか! 金吾、四郎兵衛! よくやった!」
 委員長に乱暴に頭をなでられ、四郎兵衛はうつむいた。
 恥ずかしかったのと、少しの罪悪感があった。ここまで来られたのは自分の手柄ではない。

 しかし、暗い顔をする前に金吾の「うわあ」という悲鳴が四郎兵衛の思考を遮った。小平太が肩の上に担ぎ上げたのだ。
「四郎兵衛!」
「はい!」
「三之助は頼んだ!」
「は……ええっ!?」
 言うが早いか、小平太はすでに駆け出していた。
 あっという間に三人の姿は見えなくなる。四郎兵衛の返事など、届くはずもない。呆然と立ち尽くしていると、背後から「しろ」と呼ばれた。
「手、つなごう」

 三之助が右手を差し出している。四郎兵衛は少し迷った後、その手を取った。
 これは、三之助が迷わないため。
 今度こそ、二人の命運は四郎兵衛の両肩にのせられたのだった。

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