鳳仙花4

 三之助はびっくりして、手を放した。四郎兵衛の体が、崩れ落ちるのを見て、あわてて支え直す。
 ゆっくりと、布団の上に座らせると、四郎兵衛は再び三之助の首に腕を回した。

「せ、んぱい、もっと」


 何が起きたのか、分からなかった。
 とろん、とした瞳に誘われるように顔を近づける。
 どうして、そこで我に返れたのか。後になってどれだけ考えても解明できなかったが、ともかく、三之助は直前で四郎兵衛を引き離した。
「しろ、何を」
 しかし、四郎兵衛はまたしても腕を伸ばす。それを両手でつかまえて、制した。
 それなのに。
「し……」

 触れるだけ。
 くちびるとくちびるを合わせただけの。
 でも、四郎兵衛からもたらされたもの。

 そこまでされては、手を放す理由などないように感じた。
 離れていく四郎兵衛の肩を押すと、簡単に倒れた。顔の横に手をついて、覆いかぶさる。組み敷く、という選択をしなかったのは彼がいつでも逃げられるように。手も、足も、つかまえられていないのなら、忍の術を使っていくらでも脱出できるはず。
 そんな三之助の心中を知ってか、知らずか、四郎兵衛は三之助の首に腕を回した。
「何でだ」
 たまらずに三之助は尋ねた。
 この状況で、三之助がどうするかを分かってやっているのか。それでもいいということなのか。
「信じて、くれないから」
 見下ろした四郎兵衛の目には、涙がいっぱいにたまっていた。
 頬を真っ赤にして。くちびるをぬらして。指や肩が震えているのに気が付かなかったのはどうしてだろう。
 恐くないはずがないのに。

「ぼ、くは、次屋先輩と離れたくないです」
 これほどのことをされても。
「同じ、です。どうして、疑うんですか」
「なら、何でもっと早くに言わない」
 三之助は欲求をほとんど隠さなかった。どこでだって四郎兵衛に触れたし。誰かに取られないようにそばにぴったり張り付いていたし。四郎兵衛が滝夜叉丸を恋い慕っていると思ったときには、ひどく冷たく接した。
 自分が何も伝えなかったことを棚に上げて、都合のいいことを言っているのかもしれないけれど。他の人には見せないような執着を、兆しだけでもいいから見せてくれれば。信じることもできただろうに。
「知らなかったんです」
「なにを?」
「くっつきたいとか、そういうのが、特別だって」
 どうして、わざわざ傷をえぐるようなことを言うのか。それでは、三之助の言ったことを肯定しているようなものではないか。ところが、四郎兵衛は「最後まで聞いてください」と、三之助の肩をつかんだ。
「先輩に口を吸ってもらう前から、そうだったんです。先輩の部屋に泊まるときは、うれしかったし、お布団が別なことはさみしかった。先輩に話しかけてもらえなくなったときは本当に悲しかったです。忘れないでください。ぼくは、先輩がいなくなるのが一番恐いんです。だから、大雨の夜に探しにいったんです」
 忘れていたわけではない。
 ただ、四郎兵衛のことだから、滝夜叉丸がいなくなった場合でも、その行動を選択する可能性を捨て切れなかった。
「後輩ならともかく、先輩で助けに行きたいって思うのは次屋先輩だけです。誰かが助けてくれるのを待っていればいいって分かっていても、自分で行きたくなるのは次屋先輩だけなんです」
 ひた、と三之助を見据えていた四郎兵衛の瞳が揺れた。
「く、ち吸いの練習だって、次屋先輩以外に思いつかなかったんです。そういうのが、恋だって、知らなかったんです」
 見くびっていたのだろうか。まだ、四郎兵衛は分からないって。
 何で、かたくなに信じられていたのだろうか。

「おしたい、しています」
 ぶっと、三之助は吹き出した。
 あれだけ大胆なことを言っておいて、何でそこだけそんなに恥ずかしそうに目を伏せるのか。
 かわいい。
 ああ、もう、かわいい。
「信じる」
 一言、伝えれば、四郎兵衛の顔がぱっと明るくなった。
「かわいい、四郎兵衛」
 付け加えると、ぼんっと音を立てて顔が赤くなった。耳まで、真っ赤だ。

 今は、これ以上を望むのは酷だろう。
 三之助が抱える欲のすべてをぶつけては、こわしてしまいそうだ。
 後がないと思っていたさっきまでとはまるで違う。大事にしたい、という感情。
「しろ」
「はい?」
「ぎゅって、していいか」
「……聞かなくても、いいです」
 四郎兵衛の体を抱き上げて、ごろんと寝転がる。横を向いたまま、力いっぱい抱きしめた。
「しろ」
 名を呼ぶと四郎兵衛は顔を上げる。
 そのくちびるに触れるだけのものを返すと。また、頬が染まった。

 でも、そのあとの笑顔。
 はずかしそうな、それでいて、ひどくしあわせそうな、ほほえみ。

 四郎兵衛の一番かわいい表情だった。



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