空白の一日2

 結局、数馬に先導されて長屋に戻った三之助だったが、部屋に着いても、数馬は自分の部屋に戻っていこうとはしなかった。何か用があるのかと尋ねると、まあまあと部屋の中に入れられてしまう。
「用があるっていうか、心配でね」
 勝手知ったる他人の部屋というように、数馬は適当なところに腰を下ろす。
 三之助と作兵衛の部屋は数馬と藤内の部屋のようにきちんと片付いているわけではないが、こうやってたまに数馬が来るため、作兵衛がある程度の清潔さを保つようにしている。

「昨日、何かあった?」
「何かって、委員会くらいだけど」
「滝夜叉丸先輩に、ひどく怒られたって聞いたよ」
「怒られた?」
 三之助は首をかしげた。思っていた反応と違ったのか、数馬まで一緒に首を傾ける。
「後輩を巻き込んで、迷子になったって」
「ああ」
 三之助は得心がいったとうなずく。
「滝夜叉丸のは怒っていたんじゃない。っていうかほとんど聞いてなかったし。怒られたと言われているなんて、今まで知らなかったくらいだ」
 数馬が困惑したように眉尻を下げた。
「あれは、しろが心配だったんだよ。だから、俺に文句言っただけ」
 名を口にすると、ちりと胸が痛んだ。
 あの涙、顔を見せまいとする小さな背中。
 思い出したくはないのに、勝手に浮かび上がる四郎兵衛の姿が三之助の胸を締め付ける。
「時友くんだよね」
 数馬がふっとほほえんだ。まるで知っているかのような口ぶりに、三之助は少し意外に思う。
「知ってるのか」
「何度も保健室に来てたでしょ」
「ああ、そうか」
 数馬は保健委員だ。保健委員には委員会活動以外でも世話になることが多い。だから、数馬が四郎兵衛の存在を知っていてもなんら不思議はない。
 だが、三之助はおもしろくなかった。四郎兵衛にだって、委員会以外での活動は当然あるし、むしろ、委員会活動は彼のほんの一部でしかない。それはすなわち、三之助とのかかわりも同じだ。
 突かれたくないところを、言い当てられたような気分だった。

「不機嫌になったね」
 唐突に数馬が言った。
「なにを」
「とぼけても無駄だよ。何年一緒にいると思ってるの」
 三之助は軽く目を見張る。数馬は有無を言わせない笑みを浮かべて、それから急にまじめな顔つきに戻った。
「ふだんは自分の機嫌なんて気取らせない君が、そんなにあからさまになる理由は何?」
「あからさま」
「気付いてないの? 昨日の夜から三之助がうっとうしいって、さくちゃんが嘆いていたくらいなのに?」
 首を振るしかなかった。
 三之助と作兵衛はお互い干渉しあわない。別に大切でないわけではなく、気を遣う仲ではないというだけだ。だから、相手の雰囲気が自分の気分を左右することもない。どんなに作兵衛が落ち込んでいても、彼が助けを求めない限り三之助は何もしない。その作兵衛が、うっとうしいと言ったということは、耐えかねるほどにひどい状態だったということか。
「ぴりぴりしている上に、どよーんとしてるっていえばいいかな?」
「それは、うっとうしいかも」
「でしょう?」
 三之助は息を一つはいて、気を入れなおした。頬に力を入れて、顔を上げる。目があった数馬は、「少しマシになったかも」と言った。

「それで? さっきの返事は?」
「さっき?」
「三之助がそんなになっちゃった理由。ずっと、何を考えてるの?」
 考えていることなんて、一つしかない。
 別れてからずっと、滝夜叉丸の文句を聞いているふりをしていたときも、布団に入った後も、起きてからも、授業中も、今だって。
「しろのこと」
 今、思い出されるのは昨日の泣き姿。
 思い出したいのは、笑った顔や、呆けた顔や、いつもの四郎兵衛なのに。三之助から逃げよう落としたあの姿が、まぶたの裏から離れていかない。
「しろが、逃げたんだ」
「時友くんが?」
「俺から、逃げて、泣いてた」

 四郎兵衛の泣き顔なんて見慣れている。いくら三之助だって、四郎兵衛が泣いたくらいではうろたえたりしない。さすがに最近はそう頻繁に泣くことはないけれど、一年生、二年生のときはよく泣いたのだ。金吾のほうがまだ泣かないと思うほど。
 だけど、三之助から逃げたのははじめてだった。それだけでも驚いたのに、二度目は、泣きながら逃げようとした。
 三之助には身に覚えがなかった。後輩が逃げ出すようなことをしたことはない。迷惑はかけているかもしれないが、疎まれるようなことだって、していないはずだ。

「それで落ち込んでたの」
 数馬の呆れたような声が降って来た。
 三之助が顔を上げると、彼は独特のやわらかい微笑を浮かべていた。
「三之助らしいというか、らしくないというか」
「どっちだよ」
「どっちも」
 数馬はくすりと笑って、三之助に手を伸ばした。彼の手は三之助の頭をなでる。
「後輩のことを、心にかけるのは君らしいけど、それにとらわれるのは、君らしくない」
「とらわれてなんか」
「ないわけないでしょ。こんなになっている人が」
 三之助の否定は、きっぱりと数馬に覆される。
「いつもの三之助は、相手が嫌がったら距離をとるよ。その相手が私でも、藤内でも、さくちゃんだって」
 数馬の指摘は考えてみればもっともだった。三之助は常に他人とは一定の距離をとっているし、それは相手が望めば遠くもなる。それはそうしようと思ってやってきたことではなく、三之助のいわば行動の型だった。
「時友くんとは距離をとりたくないんだね。だから、逃げられて落ち込んでるんだ」
 四郎兵衛と距離をとるなんて、考えたこともない。なぜなら、四郎兵衛はいつも三之助の後をついてきている後輩なのだ。その姿しか想像できない。いや、そこから外れてほしくない。
「好きなんだね」
「え」
「だってそうでしょ? 先輩後輩としての信頼関係なら、距離をとったって落ち込むわけないもの」
「しろを信頼してないわけじゃ」
「信頼がないなんて言わないよ。でも、時友くんは三之助にとって、先輩、後輩っていう関係じゃないんだよ」
 三之助は二の句が告げなくなった。
 数馬はここぞとばかりに、たたみかける。
「滝夜叉丸先輩は、時友くんを後輩として信頼しているから、突き放すことができる。三之助だって、皆本くんにはできるでしょ?」
 たしかに、滝夜叉丸はうっとうしいけど、先輩として信頼できる。金吾は頼もしい後輩として、信頼している。二年生と一年生は、まだ経験が浅いから、先輩として、信頼されるようにつとめている。

 それなら、四郎兵衛は?

 四郎兵衛が、実はしっかりしているということは知っている。滝夜叉丸が三之助の捜索に出れば、後輩たちの面倒をきちんと見ているし。その役目を金吾に譲ることだってできている。後輩たちに目をくばって、三之助を連れて帰ってきた滝夜叉丸をなだめて、三之助が再び列を外れないように気をつけて。それなのに、自分はあんまり役に立っていないと思っていることだって知っている。
 でも、目は離せない。
 信頼してないわけではない。だが、自分の手が届かないところに行ってしまったらどうしようかと思う。
 実際には三之助が自分からはぐれてしまうのだとしても。四郎兵衛からいなくなるようなことがないように。目を離したくない。

「それが、時友くんにはできないっていうなら、それは」

 三之助は顔を背けた。
 言葉の続きを真正面から受け止める自信がない。

「好き、嫌いっていう関係なんだよ」

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