空白の一日1

 一度目は、驚いて、手を伸ばすことも忘れた。だから、二度目は、ちゃんと捕まえた。
 もし、三度目があったら、自分はどうするだろうか。今度は、恐ろしくて手を伸ばすことさえできない気がする。


「変だよね? ねえ、さくちゃん」
「作兵衛がぐったりしてるなんて、めずらしいな」
「……数馬、助けてくれ。三之助がうっとうしい」
 藤内が最後に席について、三人はいっせいに顔を見合わせた。
「なんなんだよ、あの三之助は」
 藤内は顔をしかめて、少し離れて座る三之助をあごで示す。なるべく声は小さめで、三之助に届かないように。
「いつもだったら、別に食べるなんてことしないもんね」
 数馬がコロッケに箸を入れながら、うーんとうなった。
「今朝からだよね? 三之助がおかしいのって」
「ちげえ、昨日からだ。委員会から帰ってきてから、ずっとあんな調子だ」
 数馬の発言を訂正しながら、作兵衛は熱々のコロッケをほお張った。
 作兵衛によると、めずらしく滝夜叉丸に送り届けられた三之助は、ひどく消沈した様子だったという。それが朝になっても、昼になっても解消されないので、同室の作兵衛はその雰囲気に当てられて、ぐったりしているというわけだった。
「昨日何か変わったことでもあったの?」
「いつもの迷子だけど、後輩を巻き込んだっていって、滝夜叉丸先輩にずいぶん怒られていたようだぞ」
 作兵衛は言ったが、彼自身も、それが原因だとは思っていない。三之助が今さら迷子になったくらいで落ち込むはずがないことは、同学年の三人は知っていた。

「その後輩って誰?」
 藤内に尋ねられ、作兵衛は頭をかいた。どうやらしっかりと覚えているわけではないらしい。
「えーっと、四年生だった気がする」
「時友四郎兵衛。体育委員はよく保健室に来るから知っているけど、あまり目立つ生徒ではないよ」
 数馬が名前を出したが、二人とも顔を思い出すにはいたらなかったようだ。そこで話は途切れた。三人とも話すことなく、食事に集中する。
 ところが、しばらくして、藤内が突然呆れたように「四年生?」と言った。
「四年生だったら巻き込まれて迷子になろうが、そんなに怒る必要はないだろう。滝夜叉丸先輩も過保護だな」
 数馬はコロッケを飲み込んでから、四郎兵衛の顔を思い出す。
 あの、四年生らしくない小さな体の少年。ぼんやりした様子で、いつも誰かの後ろ、一番遠いところから治療を見守っている。目立たないといえば目立たないが、誰もが彼の存在を当たり前にしているような雰囲気を感じていたのは確かだ。
 「でも、滝夜叉丸先輩の気持ちも分かる気がするよ」と口にすると、藤内が信じられないといった様子で顔を上げた。
「過保護が?」
「そうじゃなくて。時友くんって、なんていうかぼんやりしてて、四年生にはあんまり見えないんだよね」
「でも、四年生なのには変わりないだろ」
「そうなんだけどね」
 眉をひそめる藤内に、数馬は反論をあきらめて、再び食事に戻った。
 藤内の言い分が分からないわけではない。でも、きっと体育委員会自体が、四郎兵衛が当たり前にそこにいることに慣れてしまっているのではないかと思う。だから、滝夜叉丸は三之助が巻き込んだことに腹を立てたのだ。
 しかし、と数馬の思考は出発点に戻る。
(だからといって、あんなふうに落ち込むのは三之助らしくないよね)
 横目で三之助の様子をうかがうと、彼の食事は半分も減っていなかった。ゆっくりの数馬や、きちんと噛んで食べる、が信条の藤内でさえ、もうあと少しで食事を終えるというのに。
「あとでちょっと話してみるよ」
 数馬が言うと、作兵衛はぱっと顔を輝かせた。
 あの陰鬱な空気と一緒の部屋にいるのは、心底いやだったようだ。


 四郎兵衛は涙をこぼしながら、決して顔を上げようとはしなかった。
 三之助に顔を見られまいとしているかのようだった。
(どうしたらよかったっていうんだ)
 三之助は鬱々としながら廊下を歩いていた。
 授業が終わって、掃除や委員会に向かう者で、廊下はそれなりに騒がしいが、今の三之助はそれをうるさいとも思えない。朝から、いや、昨日の夜からずっと、静かに泣く四郎兵衛の姿が離れていかない。おかげで授業には身が入らないし、気分は晴れないしで、委員会もないというのに、いやに疲労がたまっている。
 四年生になってから、四郎兵衛の元気がないことは気が付いていた。滝夜叉丸も感付いている様子だったが、彼はあえて手を差し伸べないようにしているようだった。委員長の意図は三之助にも分かる。四年生といえば、もう上級学年で、何もかもを先輩に助けてもらっていたのでは成長しない。
 だけど、あんな泣き顔を見せられては、そんなふうに突き放していることはできそうになかった。
 そもそも、三之助は滝夜叉丸とは違った。滝夜叉丸が“あえて”していることでも、三之助はしかたなくそうするしかないのだ。元気のない四郎兵衛に何をしてやったらいいのか分からないのだから。金吾にだったら、二年生にだったら、ああしてやればいい、こうしてやればいいといえるのに。

「三之助!」
 ふいに肩をつかまれて、三之助は足を止めた。振り返ると、数馬がなぜか肩で息をしながら立っていた。
「数馬」
「めずらしいね。本気でぼけっとしていることなんて、あまりないのに」
「もしかして、呼んだ?」
「何度かね」
 数馬は肩をすくめ、そうしてから「どこへ行くつもりだったの?」と尋ねた。
「どこって……」
 三之助は困った。
 特にどこへ行こうとしていたわけではない。授業が終わったから教室を出て……おそらく、長屋へ向かおうとしていたんだと思う。
 数馬にそう告げると、彼は改めて三之助の肩に手をかけた。

「三之助、そっちは正門だよ」


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