トパーズは煌く

今日もまた、退屈で窮屈な一日だった。
真鍮のドアノブにそっと手を掛け押し開けると、真っ暗な部屋に窓から青白い光が一筋差し込んでいる。
明かりを灯そうと伸ばした手を引っ込めてそのまま扉を閉めると、廊下の眩しいシャンデリアの輝きを遮ってより一層月明かりが際立った。
ふう、と軽めに吐いたはずの息は思いがけず大きなため息となって、しんとした部屋の空気を震わせる。
庭に面した出窓に頬杖をつけば、空に浮かぶ光源が物憂げな表情を照らした。

この部屋はあたしが生まれるのに合わせて作られた、あたしの、あたしのためだけの部屋だ。
壁紙も家具も灯りも、色からデザインまで全てオーダーメイドで作らせた。
と言っても生まれる前のあたしの意見が反映されるはずもなく、結局はお祖父様の独断で勝手に決められたものだけど。

女の子がみんなピンク色とレース地が好きだと思ったら大間違いよ。おかげで部屋に入る度に目がチカチカして仕方ない。
この窓だってそう。傍から見れば大きくてお洒落、こんな窓から街を見下ろせるなんて、と羨むものなのかもしれない。けれどあたしにしてみれば、ただの換気するための装置でしかないの。

丘の上にそびえ立つこのお屋敷は、まるで鳥かごみたい。
『孫娘に傷一つ付けぬよう』なんていう傍迷惑な遺言のせいで、滅多に許可の下りない外出。
おかげで文字通り、こんな箱入り娘が誕生したというわけだけど。
こうして何不自由無い生活を送れている事は、代々お祖父様やお父様が苗字家当主として立派に務めて来られた賜物だ。それは理解しているつもりだし、勿論感謝もしている。
屋敷内できちんと勉強や教養・作法を教えてくれる先生もいる。学校なんて、行ってみたいとは思わない。
でも、やっぱり友達がいれば楽しいんだろうな、なんて。


だから、こうして空を見上げる。
街並みを見下ろしたって、逆に虚しくなるだけだ。
そんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、月が雲に覆われていく。
そういえば洗濯係のメイドさんが明日は雨だから干せないって言ってたような。
夜更かししたい気分だったけど、何となく気持ちが滅入ってしまった。仕方ない、今夜は大人しく眠りにつきましょう。
脇下のホックを外して腰までファスナーを下ろすと、コルセットで締め付けられていた身体が解放されてほっと息をついた。


コン、コン、コン、と扉を叩く音。

少し間隔を空けて慎重に3回鳴らすのはいつものことで、誰であるかは容易に見当がつく。
そもそも執事に限ってはノックをしなくても主の部屋に出入りできるという特権があるのに、頑なにそれをしようとしないあたり、律儀というべきか臆病というべきか。


「はい、どうぞ」
「失礼いたしま…あれ、灯りも点けないでどうな、さ…っ、!」
「ああ忘れてた、点けるわね」
「ア゛ーーーーッ!ちょ、おおお待ちください!!」
「なによ」
「い、一旦わたくし退室いたしますので!!!」
「別に中にいていいわよ」

そう言ってカチリと電気を点けると、慌ててあたしに背を向け、俯きながら両手で顔を覆う執事の善逸。
お構いなしにするりとスカートから足を抜いてソファーに放り投げる。

「お着替えが終わるまでこうしてます」
「もう今更、何回も見てるでしょ」
「みっ見てませんよ断じて!いつもお嬢様が無防備なお姿を晒す度にこっちは大変なんですから!!」
「あのね、主人の身の回りのお世話は執事の務めなのよ?着替えもそのお世話の内に入ると思うんだけど、違うかしら」

ナイトガウンに袖を通しつつ、少し意地の悪いことを言ってみると善逸の肩がぴくりと動いたのがわかった。

「お、仰る通りです」
「でしょ、あ、もうこっち向いて大丈夫よ」
「…はい、失礼いたしました」
「いいえ」

くるりとこちらを向いた彼とようやく目が合った。
もう5年の付き合いになるというのに、ほぼ毎日立ち会うことになる着替えの時間に慣れないだなんて。
ノックの件もそう。まったく、どこまで遠慮しいなんだか。

善逸の特殊な聴覚に目を付けたお祖父様が、あたしの側近に打って付けの者がいると連れて来たのがそもそものきっかけだった。
最初こそ、こちらの思った事や言わんとする事をすべて推し量ってしまうものだから、常に監視されているような気がして嫌だったけれど、彼の人当たりの良さと他の使用人からの信頼度の高さが分かってからは、愚痴や悩みを吐き出せるほど心を許せる唯一の存在となったのだった。

「…名前お嬢様、」
「ん?」
「その…、お着替えのお手伝いの代わりに、わたくしにできるお世話はございませんでしょうか?」


こ、こいつ!とうとう代替案を模索しはじめた!
まあ別に着替えくらい一人でできるし、別段困っているわけでもないのだけれど。
…ただ、なんていうか、変な気持ち。
大抵いつも付き添ってくれているだけに“着替えの時は絶対に面倒見ませんよ”と通告されてしまったようで、ちょっぴり寂しいような、悲しいような。


「っ申し訳ございません、出過ぎた真似を」

あたしの気持ちの揺らぐ音が聴こえたのか、善逸はそう言って頭を下げる。
さすがに本音までは探れない彼の耳の精度に、少し安心している自分がいた。

「違うわよ、頭を上げて」
「あの、ご気分を害されたのでは…?」
「勝手に人の気持ち盗み聞きしておいて、早とちりしないでもらえるかしら」
「も、申し訳ございません」
「…ねぇ、どうして着替えは手伝ってくれないの?」
「は、」

いつまでも頑ななその理由を問うと、善逸は視線を彷徨わせて明らかに動揺し始める。
まぁ恥ずかしいとかそういう気持ちも分からなくはないけど、こうも毎日同じ屋根の下で生活を共にしていれば自ずと抵抗も無くなってくるものだ。
それに彼の業務上、メイドたちを統率する役割も担っているから、当然洗濯係の運ぶあたしの下着なんかも目にしているわけだし。


「それは、言えません」
「…主人に隠し事とは良い度胸ね」
「うっ…!ですがその代わりに、お着替え以外でしたら何なりとお申し付けください、喜んでお手伝いさせていただきますのでっ!」

有無を言わさぬ勢いでそう言い切った善逸は、ぐっと前のめり気味にあたしの言葉を待ち構えている。
こうなったら、うんとやり応えのある仕事を命じてやる!どうしたものかと腕を組むと、シュルッと擦れたシルクの音に、これだと妙案を思いつく。
無意識に口角が上がっていたようで、善逸の表情が少々強張った。


「じゃ、今日から毎晩あたしと一緒に寝なさい」
「へっ?ご、ご一緒に、ですか」
「えぇ」
「…つかぬ事をお聞きしますが、その、ベッドは、」
「もちろんあたしのベッドに決まってるでしょ」
「と、いうことは、つまり、」

一つのベッドで、ですか、とどんどん語気が弱まっていく善逸の顔は真っ赤に染まっていて、思わずクスリと笑い声が漏れる。
ベッド脇に腰掛け、天井から吊るされた天蓋を少し開いて招き入れる。


「ほら、いらっしゃい」
「…っはい、」

善逸はしばらく目を逸らして立ち竦んでいたけれど、やがて意を決したようにあたしの隣に腰掛けた。ギシリとスプリングの軋む音がして、分厚いマットレスが少し沈む。
先に横たわって見上げると、彼はしばらくその体勢のまま動かなかったが、あたしの顔を見るなり観念したように毛布に潜り込んだ。

ひとりで寝るには大きすぎるベッド。隣に一人増えても、まだ余裕があるくらい広い。
こちらに向けられた善逸の背中まで少し距離があるのが何だかもどかしく感じて、思わず自分の手の平と額を寄せていた。じんわりと伝わる善逸の体温が、ものすごく心地よいあたたかさで安心する。
触れた善逸の背中はいつも見るそれよりも広く大きく感じて、当たり前の事だけど善逸も男の人なんだなぁ、なんて考えていた。


「善逸はさ、お付き合いしてる人とかいるの?」
「ど、どうしていきなりそのような事を」
「なんとなく、気になったから」
「…いえ、おりません。禁則事項もありますからね」
「そっか」

執事は規則で結婚できないという決まりがあるのは知っていた。主に対する忠誠心が薄れてしまう恐れがあるから、とかいう何とも極端な理由なんだそうだ。
不本意ながらそんな事を彼に強いてしまっているのは、立場上あたしという事になってしまうけれど。


「じゃあ、あたしと結婚しちゃう?」
「え、」
「暮らすなら海の見えるとこがいいなあ」
「……仰せのままに、お嬢様」
「あっはは、冗談だってば!そんな事まで従おうとしなくていいわよ」


あまりに真面目な顔と声で返事をするものだから可笑しくなって、あなたは本当に忠実な執事ねえ、とからかった。
いつものように眉を下げて、酷すぎでしょ、と口を尖らせる顔を見ようと身体を起こして覗き込む。


「あ、」


予想していたものとは全く違う結果に、短く声が出た。
目にした彼の表情には羞恥も決まりの悪さもなく、ただただ神妙な面持ちで押し黙っていて困惑する。

この顔は、今までに何度か見覚えがある。

薔薇の棘で指先から血を出した時、お祖父様の形見の大皿をドレスに引っ掛けて割った時、朝から憂鬱で一日中部屋に閉じこもっていた時。
だけどいつもあたしが謝ると、いいえわたくしの責任でございます、と全部ひとりで背負おうとする。
あの時の顔。


「ごめんなさい善逸、怒った?」

いつもみたいに謝り返してきたら、この際あたしが怒ってやろうか。
なんて思っていたのに、返ってきたのは芯の通ったように真っ直ぐな声色だった。


「名前お嬢様、」
「なあに」
「…ご無礼を、お許し下さい」

そう言うや否や、くるりとこちらに向き直った善逸に抱き寄せられた。
ちょうど彼の胸のあたりにおでこが触れて、そこからとくんとくんと脈打つ鼓動が伝わる。
背中よりも何倍もあたたかくて、頭も体も微睡みはじめる。

「ぜん、いつ…?どうしたの」
「もしものお話をしてもよろしいでしょうか」
「うん?」
「まず海の見える丘の上に家を建てます」
「…うん」
「窓は出窓ではなくてバルコニーにします、方角は南向きです」
「うん、」
「電球は暖色で統一して、壁紙は淡いブルーに、レースではなくてツイードを使いましょう」
「うん」
「それから、学校に行きます」
「え、」
「友達とカラオケに行ったり、街中で食べ歩いたり、ふざけて動画を撮ったり」
「…う、ん」

彼の口から次々に紡がれていくのは、あたしが心の奥底に閉じ込めた夢の欠片たち。
願うだけ無駄になり、望むだけ虚しくなる。そう思って見て見ぬふりをしてきた、何でもない日常。


「望まなければ叶わない、…わたくしは、そう思っております」


ゆっくりと、噛み締めるように放った善逸の言葉が胸に突き刺さる。
ぎゅうぎゅうに縛り付けていた心がじんわりとほぐれていくような感覚がして、今まで自分で自分を窮屈にしていたのかもしれないとも思えた。


「願うことは自由ですから」
「善逸は、何か叶えたい事があったりするの?」
「…わたくしは、望んではいけないことを望んでおります」
「へえ、どんな?」
「そ、それは言えません」
「またそれ!ケチ」
「…いつか必ず、お伝えいたします」
「絶対よ、約束だからね」
「はい、」

何かを叶えたいなんて、思ったこともなかった。
もしもの話がほんとの話に。そう考えると、少しだけ胸が高鳴る。
善逸のおかげで、昨日までの自分よりも前向きになれた気がした。


「…外出許可、増やしてもらえるように直接お父様に言ってみる」
「わたくしも、ご一緒致します」
「うん、…ありがとう、善逸」

ぎゅう、と抱きつくと、善逸は慌てながらもしっかり抱きしめ返してくれた。
重くなった瞼を閉じると、名前お嬢様、と微かにあたしを呼ぶ声に続いて、甘く切ない言葉が聞こえた、気がした。
眠りの淵で耳にしたその声は夢現のまま、意識はあっという間に溶けていった。

(ねぇ善逸、昨日寝る直前に何か言った?)
(っ、いえ何も!)
(そう、ならいいの)

(…お慕いしております、なんて、まさかね)