幻想誘うルビー

天真爛漫、という言葉がこれ程までに相応しい人は他にいないのではと思う。

名前お嬢様は、とにかく裏表のない人だ。
嘘を吐けない性格で、すぐに顔や仕草に出てしまうので音を聞くまでもない。
感情表現も豊かで、よく笑い、よく怒り、拗ねたり威張ったり驚いたり。
ただ、泣く姿だけは滅多に見せる事がない。
5年間仕えてきて、彼女の涙を目にしたのはたった二度のみ。

一度目は、炭治郎との逢瀬を阻んで追放した時。
そして二度目が、今しがたの出来事だ。


この時ばかりは自分の耳を恨んだ。後ろ髪引かれる思いを振り切って廊下へ出ても、部屋からは鼻を啜る音が絶えず鼓膜を震わせる。
やり場のない気持ちを握り拳で潰し、帯状に敷かれたカーペットを一歩一歩見つめながら踏みしめる。


お嬢様に初めてお会いした日の事は、今でも鮮明に覚えている。
まだ屋敷の庭が赤やピンクの薔薇で彩られていた頃。その濃厚な香りと共に運ばれてきたのは、純真無垢な澄み切った音だった。
その音の持ち主が不安そうに瞳を揺らして、俺の顔を見上げながら開口一番に言うのだ。


「ごめんなさい、あなたの自由を奪ってしまって」


音の痛切さとその言葉に滲んだ彼女の健気さが、どうしようもなく胸を打った。
まだ10を越えたばかりの幼気な娘がこんな使用人にまで気を遣い、その小さな体に責任を抱え込んでいる。
自分のせいで誰かが、と自らを責め心を痛めている時の彼女からは、今にも壊れてしまいそうなほどの悲痛な音がした。
そんな音を少しでも鳴り止ませたくて、俺はお嬢様が気負わず過ごせるような接し方に努めてきた。話が屋敷から一歩外へ出るだけで、彼女は決まって上機嫌になる。目を輝かせて屈託なく笑うその姿は、どこにでもいるような普通の少女だった。

そんなあどけない少女はいつしか、誰もが惹かれる気品を湛えた女性へと変貌を遂げていた。
その見目麗しさに対して中身は出会ったあの頃の少女のままで、そんなギャップでさえ彼女の人間的な魅力を底上げする。
俺の耳が良いという事は、お嬢様含めこの屋敷の人間には周知の事実だ。だがそれは、せいぜい遠くの音が拾えたり、物事の察しが良かったり、とそんな認識でしかない。
音で大抵の感情が読み取れてしまうなんて、そんな事を誰が想像できようか。
ましてや、誰かに対する好意なんかも分かってしまう事など。

俺は意識的にできる限りの予防線を張っていた。なぜならその音が自分から、また、彼女からも微かに聴こえてしまっていたから。
お嬢様はまだ16になろうかという時分で、あまつさえ外の世界を知らない。
普通の暮らしに想いを馳せ、憂鬱な表情でため息を吐く姿を幾度となく見て来た。だからこそ、これ以上この屋敷に縛り付けるような結末だけは避けなければと思った。
せめて初恋くらいは屋敷の外で、普通の相手と普通の恋愛を経験してほしい、と。

そんな想いで自分の気持ちに何重にも掛けた錠前を、お嬢様はいとも簡単に次々と解いていってしまう。それも無意識に。
そして初めて添い寝をしたあの夜、とうとう最後の鍵が開けられてしまった。
堪らなくなって奥底の感情を漏らした。あれが紛れもない自分の本心だった。


彼女が自分の為だけに、その笑顔を向けてくれたなら。
彼女が主人としてではなく、一人の女性として共に生きてくれたなら。
彼女の陶器のような肌とほんのり色付いた唇を、吐息ごと味わえたなら。
その煌びやかなドレスの下を、自分の香りに染められたなら。


そんな使用人の分際で抱いてはならない願望と劣情が時折顔を出しそうになり、それをまた必死に胸の底へと叩き落とす。
わかっていた、いつかはこんな日が訪れる事など。
彼女にとっての幸せを考えれば、身分不相応な執事なんかより、環境や価値観の合った人の元へ身を置く方が良いに決まっているのだから。



「おい」

「っ失礼…、って何だお前か」

堂々巡りの思考にすっかり意識を持っていかれて、向かいから歩いてくる伊之助に微塵も気付かなかった。
今日一日招待客をもてなすため厨房に缶詰め状態だった伊之助は、さすがに少し疲れた表情を見せている。労いの言葉でも掛けてやろうかと思っていると、向こうが先に話を切り出す。


「お嬢様の事だけどよ、どっか具合でも悪いのか?」
「…いや、別にそんなご様子は」
「嘘つけ、あいつが飯残すとかよっぽどだろ」

夕食にほとんど手を付けず、物憂げな表情で自室へ篭ってしまったお嬢様の姿を思い出す。
こういう時の伊之助は妙に鋭く、核心をついてくる事も珍しくないのだ。こいつに隠し事をするのは得策ではないと思い直し、渋々口を開く。

「…絶対に口外するなよ」
「あ?何だよ大袈裟な」
「名前お嬢様に、西園寺家の御子息とのご縁談が勧められてる」
「…西園寺、ってあの馬鹿みてぇにでっかい屋敷のか」
「まぁその認識で合ってるけどさ」

仮にも良家に仕えているのだから、もう少しまともな表現は無かったのかと思いつつ肯定する。
うちの屋敷の広さも大概だが、伊之助の言うように西園寺家はそれを遥かに凌駕するのだ。まさに金と権力の象徴と言っても過言ではない程の、圧倒的な存在感を持つ。


「その話本当なのかよ」
「こんな冗談言うわけないだろ」
「…紋逸、ちょっと面貸せ」


珍しく首を突っ込む伊之助に違和感を覚えつつも、そのどこか神妙な顔つきが気になり同行する。
足を運んだ先は厨房で、きっちりと内鍵を閉めたかと思えばさらに食糧庫へと誘導される。
余程人に聞かれてはまずい内容なのか、はたまたこいつの私怨でも買ったか、このどちらかだろう。


「で、何なの」
「今日厨房でたまたま聞いたんだけどよ…あの西園寺ってオッサン、どうもきな臭ぇ」
「…どういう事だよ」


眉を顰めて聞き返すと、伊之助は嫌悪感を隠す事なく吐き捨てるように口にした。


「水増し請求、賄賂に脱税、とにかく出所の汚ねえ金まみれだって話だぜ」
「は…?っまさか、あの誰もが知る巨大組織だぞ!そんな事…っ」
「その西園寺家からヘルプで来てたコックが言ってたんだ、まぁ十中八九間違いねぇよ」

何かの間違いでは、と思考が逃げ道を探して行き詰まる。
たらたらと嫌な汗が体を伝っていく間にも、伊之助はさらに言葉を続ける。


「それと、とてもじゃねぇが表沙汰にできないような取引までやってるって噂だ」
「…薬か何かか、」

恐る恐るそう呟くと、伊之助は苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振った。


「使用人の派遣と称して女を…、要するに売春だ」
「な…っ!」
「考えるだけでも胸糞悪いけどよ、あの容姿で年頃の娘、それも苗字家御令嬢と来りゃ引く手数多って訳だ」
「お嬢様…、」
「そんな金のなる木、あの金の亡者なら力尽くで手に入れようとするだろうな」


伊之助の言葉は最もだ、それにそう考えれば全ての辻褄が合う。
パーティーの日程変更も西園寺家からの申し出によるものだったし、当日お嬢様が不在でないか、確実にいらっしゃるのか、と執拗に確認して来ていたのだ。
とすれば、互いの利害関係だとか友好的な取引をというのは建前で、本来の目的は初めから名前お嬢様だったという事か。


「あくまで噂だけどよ…火のないところに煙は立たない、っていうからな」
「…っくそ、」


万が一、お嬢様の身に何かあったら。考える事すら脳が拒むほどだが、そうなれば俺はまともでいられる自信がない。憤怒、後悔、嫉妬、罪悪感…あらゆる負の感情に飲まれて、もうすでに気が狂いそうだというのに。
最悪の事態は防ぎたい。だが、伊之助の言う話は真実味があるものの、実際まだ何も確証は得られていないのだ。

俺は、どうするべきか。
真っ先に思いついたのは旦那様にご報告を上げる事、だが。
こんな何の証拠も持たないまま訴えたところで、素直に聞き入れてもらえるとは到底思えない。
片や実の娘を嫁がせるほど懇意な取引先と、片やただの使用人…どちらの意見を尊重するかは明白だ。
焦りで冷静さを欠いた頭が、一周回って嫌な落ち着き方をする。気付けば自嘲気味に言葉を発していた。


「使用人風情がいくら喚こうが、結局無駄なんだ」
「…は?」
「俺にできる事なんて、何もないよ」


結局どこまで行っても、俺はお嬢様の執事なのだから。それ以上でも以下でもなく。
ならば契約が解消されるその日まで、与えられた職務をこなすだけの存在へと成り果てるべきだ。
半ば自暴自棄になっているところへ、伊之助は煽るような言葉を浴びせ掛けてきた。


「じゃあいいんだな、このままあいつを嫁がせちまっても」
「っ、いいわけないだろ!」
「だったらつべこべ言ってねえで行動しろこの弱味噌が!!」

その叱咤に弾かれるように顔を上げると、視界が捉えたのは眉を吊り上げ怒りに満ちた表情の伊之助だった。


「金に物を言わせてやりたい放題やってる奴もムカつくけどよ、そんな奴の言いなりになってる奴はもっとムカつくんだよ!!」
「…っじゃあどうしろってんだよ、」
「今すぐカチ込んで成金ゲスオヤジをボコボコにしないと気が済まねぇ…けど、それじゃ余計に話が拗れる事くらい分かってんだよ畜生!!」


分かってんなら言うなよな、と内心呆れながらも、荒みきった気持ちが少しずつ正気を取り戻していくのが分かる。
いつもは耳に障る伊之助の粗暴な言葉遣いが、へたれてしまった感情を叩き起こしてくれている。
ふうーっと大きく息を吐いた伊之助は、先ほどの吠えるような物言いとは打って変わって、静かに落ち着いた口調で話し出す。


「あいつが生まれてこの方、自由に生きられた瞬間が一秒でもあったと思うか」
「…っ、」
「未来まで縛り付けるつもりかよ」


伊之助の言葉に、頭から冷水をぶっかけられたような感覚がした。
わかっていた、つもりだったのかもしれない。
少なくともこの5年の間、彼女の一番近くにいたのは自分だったというのに。


「お前だけじゃねぇ、この屋敷の人間全員があいつの幸せを願ってんだ、…でもな、」


伊之助は一呼吸置いてから、真剣な眼差しでこちらを見据えた。


「あいつを救えるのはお前だけだ、善逸」
「…伊之助、」

ぼやけた焦点がピンと合わさるような、そんな明瞭さを感じた。
それは伊之助が珍しく俺の名を間違えず呼んだからか、それともようやく自分のやるべき事に気付いたからなのか。


「俺は美味い飯作ってやる事くらいしか思いつかねぇからよ」
「何だよそれ、いつもとやってる事変わんないし」
「うるせぇ、口はいいからとっとと頭と足動かせ」
「…ありがとな、」
「勘違いすんな、別にお前の為じゃねぇっつーの」

そう言いながら扉を開ける伊之助からは、口調とは裏腹に穏やかな音が聞こえていて苦笑する。
食事時でもないのに食料庫から男が二人連れ立って出てくるのを誰かに見られでもすれば、間違いなく怪しい関係だと思われてしまうだろう。若干周囲を気にしつつ厨房を後にする。

「仕方ねえ、明日の昼はハンバーグにしてやるか」
「いいんじゃない、お嬢様もお喜びになると思うし」
「先週の献立と被っちまうけどまぁこんな状況だし、あの派手野郎も大目に見んだろ」
「ああ、…っ!それだ、」


危うく聞き流しかけた伊之助の言葉に、一つ重要な事を思い出す。
あの人なら、もしかしたら。
そんな一縷の望みにかけて、少々乱暴に上着の懐をまさぐる。
挨拶もそこそこに突然駆け出した俺の背中で、頼んだぜ、と小さく呟く声が聞こえた。


普段から携帯している緊急用の端末を手に、自室に戻るや否やその履歴を忙しなく指で送る。
滅多に掛ける事のないその連絡先に辿り着くと躊躇なく発信ボタンを押した。


『おいおい、何時だと思ってんだよ』
「…すみませんね、迷惑なのは承知の上ですよ」
『こんな時間にアポなしで電話寄越すのなんて、付き合いたてのカップルくらいだぞ』


数回のコール音の後、電話に出たのは心底呆れた様子の宇髄さんだった。
時計を見ればすでに日付は変わっており、さすがに失礼だったかと反省しつつも、こうしている間にも刻々とタイムリミットは迫るのだという焦燥感に駆られる。


『ま、お前から連絡来る事は織り込み済みだ』
「え?」
『西園寺家の事だろ』


ざわめき続けていた胸が宇髄さんの言葉を聞くだけで少し和いだ。
悔しいがそれほどまでに頼りがいのある人間なのだ、この男は。


「知ってたんですか、」
『さすがに縁談のことは今日まで知らなかったが、怪しい動きしてんのを追ってたんだよ』
「…じゃあ、別の依頼で?」
『ああ、西園寺家との取引でかなり割を食ってるとこがあってな』


服飾デザイナー兼パーソナルトレーナーとして名だたる良家にその多彩さと技術を買われている宇髄さんには、もう一つの顔がある。
特定の組織の内側に入り込み機密情報を手に入れる、所謂スパイだ。
ただし、私利私欲のために彼を雇おうとする者には決して靡かず、あくまで悪事を公にするという使命のもと動くのだという。
この事を知るのはこの界隈のごくごく一部の人間のみ。俺も初めは明らかに異質な音を立てる彼を警戒してお嬢様から遠ざけていたのだが、しばらくして『仕事にならねぇから勘弁してくれ』と向こうから白状されて知ったのだった。

兎にも角にも、宇髄さんはすでに状況を把握している。となれば話は早い。


「…名前お嬢様はおそらく、縁談をお受けになるつもりです」
『あー…まぁあの性格じゃ無理もねえな』
「猶予は1週間…つまりあと6日、それまでにどうにか阻止しないと名前お嬢様が、」
『待て待て、そう焦るなよ』

先走る俺をいつもの余裕のある口調で制した宇髄さんは、少し声を潜めて話し始める。

『金銭絡みの隠蔽は俺がすでに一通り抑えたし、身売りの件も手は打ってある…西園寺家の使用人に扮した潜入捜査でな』
「囮、ですか」
『ああ、あとは雛鶴たちから報告が上がりゃ、尻尾掴んだも同然だ』
「え、嫁さん達…?いくら何でも危険すぎじゃ、」
『ああ、あいつらも元々スパイのエージェントで俺の部下だよ、それも超が付くほど優秀な…あれ言ってなかったか?』
「初耳なんですけど」

あの美人嫁三人衆までとは驚いた。三者三様のキャラの濃さに紛れてしまっていたが、確かに言われてみれば音の質が宇髄さんと少し似ている気がした。
一人納得していると、宇髄さんが声のトーンを落とす。

『だがどんなに優秀だとしても、相手の陣地に乗り込む以上100%成功するって保証はどこにもねえ』
「…それは、わかってます」
『まぁもしどうにもならなかったら…善逸、お前名前お嬢様連れて派手に駆け落ちでもしちまえよ』
「は…っ!?アンタ何言ってんの!」
『あのな、そもそもお前がもっと男見せてりゃこんな事には…』
「え?」


宇髄さんは冗談とも本気とも取れるような口調でそう言った。その意図がよく分からず聞き返すが、言い淀んだきり返答はない。
どういう事ですか、と口から出かけた言葉は、宇髄さんの大きなため息に遮られてそのまま飲み込んだ。


『…まぁいい、とにかくあんまりジタバタするな、名前お嬢様がこの事を知っちまったらこっちも動きにくくなる』
「はい、」
『勿論俺たちは最善を尽くす、その間お前は指咥えて見てねぇで自分にできる事を地味に考えてろ』
「…承知しました」
『よし、んじゃ後は任せとけ』
「ありがとうございます、宇髄さん」
『礼なら全部終わった後に聞いてやるよ、じゃあな』
「失礼します、」


通話が切れたのを確認して、ふぅと一つ息を吐く。通話しながら部屋中をウロウロと歩き回っていた事に気付き、自分の落ち着きのなさにまたため息が漏れた。
今日だけで色々な事がありすぎて、本当に現実に起こっている事なのか疑ってしまう。寝て目が覚めたら何もなかった事になってやしないかとも。
疲弊しきった頭と体が限界を告げて、服が皺になるのも構わずベッドに身を投げた。
早めに起床してシャワーを浴びよう、そう思いながらアラームの音量を無意識に確認している自分に呆れを通り越して笑えてくる。

隣で寝息を立てるお嬢様を起こさぬよう気を遣う、そんな一日の始まり。
そっとベッドから抜け出しその寝顔を目に焼き付ける、歯痒くも切なく心が満たされるあの時間は、もう二度と訪れないかもしれない。

ならば、せめて夢だけは。


愛しい人よ、どうか、どうか。
俺から離れて行かないで。

火照り出す願望に流されて、幻想の世界に意識が溶けていった。

(夢でもいい、ずっと側に、)