散り散りパール

「本日はよくお越しくださいました、どうぞ心ゆくまでお楽しみになってくださいませ」


今日だけで、この文言をもう50回以上も口にしている。もちろん口角は上げたまま、ゆったりとした所作も忘れずに。

こんな大規模な立食パーティーに何の意味があるのかというと、それは列席する人々の会話の内容で一目瞭然だ。
取引、縁談、敵情視察にその他諸々。嫌でも耳に入ってきてしまうそれらは、相手よりも優位に立とうとする大人たちの陰謀渦巻くやり取りばかり。
そんな会話を耳にする度に、あたしだけでなく、抗えない渦の中心となった子たちが他所にもいるのだという事を思い知らされる。

そろそろ上げたままの口角が引き攣ろうかという頃に、お父様による主催者スピーチが始まった。
舞台へ登壇したお父様に列席者たちの注目が集まったのを確認して、しめた、と視線を彷徨わせて黄金色の頭髪を探す。
廊下側の扉脇に控えているのを見つけ、「疲れた、席外す」の意をアイコンタクトと手元のジェスチャーで伝えると、善逸は呆れたようにため息をついて小さく頷いた。


正面の扉から静かに庭へ出ると、木香薔薇の優しい香りが鼻を擽った。
ずっとおへそのあたりで緩く結んでいた両手と微笑み地獄からやっと解放されて、思いっきり伸びをする。

「っあー…!つかれた〜…」

こんなにいいお天気だっていうのに屋内でつまらない会話なんて聞いてる場合かしら、と心の中で愚痴を吐く。
春めいたポカポカ陽気に包まれて、思わず大きなあくびを一つ漏らすと、どこからか小さく笑い声が聞こえた気がした。

「…嘘、誰かいるの?」
「あぁすみません、盗み聞きするつもりでは」

そう言って一人の男性が植え込みの後ろから姿を現した。見たところあたしよりも2、3ほど歳上のようだ。
ただどう見てもうちの使用人なんかではないし、その身なりの良さからして列席者の内の一人である事は明白だった。
ドレスの内側で冷や汗が流れていくのを感じつつ、どんな風に取り繕おうか必死で思考を巡らせていると、今度は目の前で男性が笑った。

「ハハ、そんなに焦らなくてもいいんじゃないですか、実際疲れますし」
「…っえ、」

笑いながらそう言った男性は、すっと背筋を伸ばしたかと思うと、至極品のある所作で自己紹介をする。

「僕は西園寺誠、少しお話ししませんか」
「…もしかして、あの西園寺グループの?」
「まぁ、そうだね…と言っても息子の僕はただの雑用係だけれど」

あたしみたいな小娘でもその名を知るくらいの巨大組織。
よりによってそんな大手グループの御曹司の前でだらしない姿を晒してしまったとは、とんだ失態だ。

「女性に対してこんな事、失礼だとは承知の上なのですが…よければ君の年齢を聞いてもいいかな」
「え?えぇ、ちょうどあと一週間で16になりますわ」


そう、実は一週間後に誕生日を控えているあたし。だからこそこんな時にこんな所でお人形みたいに笑ってる場合じゃないのよ。
一刻も早く外出許可を貰って、街で誕生日プレゼントを物色したい。そうでもしないと、欲しくもないテディベアがまた1体部屋に増える事になってしまう。それも冗談かと思うほどの大きさのものが。

そんな思考を密かに頭の片隅で巡らせていると、誠さんは意外だというような表情を見せた。

「…驚いた、思っていたよりも随分と若齢なんだね」
「未熟者でお恥ずかしい限りです、」
「いや、君の事はいつも父さんから話を聞いているんだ」
「っえ、ど、どのような…?」
「苗字一族の御令嬢は器量も気立ても良く聡明な方だ、お前も見習うべきだ、と」
「とんでもないですわ、そのような事…」

謙遜して言葉を返している間に、誠さんはあたしに手を差し伸べ、傍らに設えてあるベンチへと誘導する。
そのさり気なくスマートなエスコートは、さすがとしか言いようがない。

「それで少しでも大人達の会話について行こうと躍起になっていたはずなのに、どうも慣れない社交場で気疲れしてしまったみたいで」
「まぁ…それはお気の毒に」
「そうして薔薇の香りに癒されているところへ、君の大きなあくびが聞こえてね」
「ご、ごめんなさい、わたくしったら」
「構いませんよ、おかげでもっと癒されましたから」

そう言った誠さんはどこか憂いのある表情で微笑む。明るさと儚さが共存しているような、不思議な雰囲気の人だ。

「父さんは何かにつけてお金の事ばかりで、実の息子の将来よりもそっちが大事みたいでね」
「そんな、」
「経営の勉強をしたいと言ってもまともに取り合ってくれないんだ、お前みたいな半人前に使う金と時間が無駄だって」

誠さんの父親、つまりグループのトップに君臨する西園寺氏はそのワンマンっぷりで有名だ。
誠さんの口ぶりからしても、仕事の時だけでなく普段の私生活からそうなのだという事が窺える。
経営の勉強だなんて、誠さんは自分の立場をはっきりと理解して受け入れてる。
そんな彼に対してあたしは、と若干の後ろめたさを感じていると、不意に問い掛けられる。


「君は、自分の将来について考えたことはある?」
「え、」


イエスかノーだけでも咄嗟に答えればよかったものを、唐突に問い掛けられて出た言葉はただ戸惑いだった。
将来。それは最も考えたいのに考えたくない、自分の人生の課題だって自覚しているから。


「僕たちは有難い事に裕福な暮らしをさせてもらえているし、欲しいものも言えば大抵与えてもらえる」
「えぇ、」
「だけど自分の将来だけは、自分の力で切り開かないと意味がないんだ」


変わらず落ち着いた口調ながらも、その言葉には意志の固さを感じさせる力強さが秘められていた。
屋敷内ではスピーチが終わったようで、人々の歓談する声や演奏で再び賑やかさを取り戻している。
誠さんはそちらを真っ直ぐに見つめて口を開いた。


「僕は将来西園寺家の当主となって、金満体質な今のグループの現状を変えたいと思っている」
「…誠さんはしっかりとした考えをお持ちの方なのですね」
「そうしないと、自分が幸せになれないって悟ったから」
「幸せ、ですか」
「そう、…君にとっての幸せってどんな事?」


言い慣れないその言葉を復唱して、幸せって何だろう、なんてちょっと哲学的なところに足を踏み込み掛ける。
もっと単純な、例えば美味しいハンバーグを食べた時、綺麗なお花を眺めている時、人の優しさに触れた時…
色々と挙げてみればどれも確かに幸せだけど、極端な話、無いなら無いで構わないのだ。
そうじゃなくて、あたしが望んで止まないもの、本当に心が満たされるもの、それは。


「…普通の生活を送ること、でしょうか」


言葉にしてみて、すとんと腑に落ちた。
憧れ、夢、羨望…そんなものを全部ひっくるめたのが『幸せ』なのかもしれない。
あたしの答えを聞いた誠さんは納得したように相槌を打った後、眉を下げて苦笑する。

「普通、か…僕たちにとっては至難の業だね」
「えぇ本当に」
「…ねぇ、その幸せにはプランってあるの?」

少し子どもっぽい笑みを浮かべながらそう尋ねてきた誠さんに、こちらも少し軽い口調で話し出す。


「海の見える丘の上…小さな一軒家で暮らしながら学校へ通い、友達とカラオケに行ったり、食べ歩いて動画を撮るんです」
「へえ、それは随分楽しそうだ」
「えぇ、よろしければご一緒にいかがです?」
「喜んで、と言いたいところだけど、生憎僕は歌が不得手でね」
「まあ、でしたらカラオケではなくボウリングにしましょうか」
「ボウリングか…勝負事は嫌いではないな」
「あら奇遇ね、あたしもよ」


そんな冗談混じりの会話でクスクスと笑い合った後、誠さんは楽しそうな顔のままこちらを向いた。

「やっと素の君で話してくれたね」
「え?」
「お淑やかな言葉遣いとか、本当は性に合わないんだろう?」
「そ、そんなことは…っあります…」
「正直な人は素敵だと思うよ」


そう掛けられたのは口説き文句とも取れるようなものだけど、その屈託のない笑顔で自然と紡がれる言葉には厭らしさなど微塵もない。
人柄の為せる業だなぁと感心しているとその笑顔がさっと一瞬で曇り、直後に後ろから怒気を含んだような声が飛んでくる。


「おい、誠!!」
「っ、父さん」
「勝手に居なくなるんじゃない!まったく、この出来損ないが…っおや、」

あたしの姿を捉えた途端、その威圧的な態度と表情が一変する。
これがこの人の処世術なのだろうけど、どうにも胡散臭くて仕方がない。親子でこうも違うものなのかと内心ため息を吐いた。

「これはこれは名前様、ご一緒とは存じませんで大変お見苦しいところを」
「いえ構いませんわ、誠さんにお話し相手になっていただいておりましたの」
「ほう!若い者同士ですでに意気投合とは、こちらが取り持つまでもありませんな」
「はい?」

言葉の意味がよく理解できず小首を傾げると、西園寺さんは誠さんに向き直りとんでもない事を口にした。


「誠、名前様とのご縁談をいただいた」
「っ、は…?」
「苗字様からも、本人同士の承諾があれば了承するとの事だ」


全く状況に頭が追いつかない。縁談、ということは上手く事が運べば結婚、ということ。それもお父様が了承済みだなんて。
あたしが?誠さんと?西園寺家に嫁ぐ、ということ?
あまりに唐突な展開に言葉が出ず硬直していると、誠さんが血相を変えて異を唱え始めた。

「待ってください父さん!名前様とは今日お会いしたばかりですし、突然縁談だなんてそんな、」
「縁とはそういうものだ」
「しかし…!」
「…お前が所帯を持てば、経営に携わる事も容認しようと思っておるのだがな」
「え…」


西園寺さんの呟いた一言に、誠さんの語気が一瞬弱まった。
けれど、そのやり取りを見ていたあたしに気がついたのか再び切り返す。


「ですがこのような急なお話…名前様もお困りのようですし、そもそもご迷惑なのでは」
「そうとも限らない、…実際、名前様が一番よくお分かりでしょう?」
「…それは、」
「せっかくの吉事にこういった話を出すのも野暮だとは存じますがね、」


そう切り出した西園寺さんは、ほくそ笑むように目を細める。
その顔はもはやパーティーの招待客なんかではなく、金銭に物を言わせあらゆる事を掌握してきた独裁者のそれで、狡猾さすら感じてしまう。


「この縁談がまとまった暁には、うちとの取引も今まで以上に太いパイプで繋がることになるでしょう…そちらにとっても決して悪い話ではありませんなぁ」
「…重々承知しておりますわ」
「ちょうど一週間後、16歳のお誕生日をお迎えになるその日にお返事を頂戴する事に致しましょう」


その言葉に、全ての合点がいく。
どこかおかしいと思っていた。こんな大規模な催し事を、わざわざ誕生日当日を避けて決行するなんて。
そもそもこのパーティー自体が、初めから西園寺さんの差し金だったという訳だ。
一週間前倒しして返事の猶予を与える為に。
婚姻のできる16歳を迎えてすぐに輿入れさせる為に。


「では我々はこの辺りでお暇いたしますので…じっくりとご検討くださいませ」
「はい、」
「良いお誕生日になると良いですな、名前様」


そう言って顔面蒼白で立ちすくむ誠さんを無理矢理促し、二人は足早に車へ乗り込み去って行った。
去り際にやりきれない様子であたしを見つめていた誠さんの表情がしばらく脳裏に焼き付いて離れなかった。


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政略結婚、というものが存在するのは知っていた。
だけど、まさか自分がその当事者になるなんて思いもしなかった。

パーティーが終わった後、即座にお父様に事の経緯を問いただした。
西園寺さんの言っていた通り、この縁談が双方にとってより良い結果をもたらすという事、要は利害関係の一致ってやつね。
ただ、あくまで当人たちにその意志があるという事が大前提だという。
つまり、あたしか誠さんが嫌だと一言口にすれば、この話は無かったことになるということ。

きっと以前のあたしなら、その場で突っぱねるくらいの事はしていたと思う。だけど今回はそうする事に躊躇してしまう自分がいる。
なぜなら、誠さんが掴もうとしている『幸せ』を奪ってしまうことになるから。

結婚すれば経営に携わることができると知った時、誠さんの瞳には光が宿っていた。一筋の希望を見つけたような、そんな輝きだった。 
それも西園寺さんの策略の内だってわかっているけど、みすみす無下になんてできない。
こんな事になるなら、あの時庭に出なければ良かった。彼の事を何も知らないままでいれたら、気負うことなくお断りできたのに。
あんなに情熱を持って将来を語っていた彼を、失望させたくない。

またあたしのせいで、誰かが傷ついてしまう。


コン、コン、コン、と鳴ったノックの音に、心臓がどきりと跳ねた。
まるで悪いことでもしているかのような気まずさが全身を駆け巡る。やましいことなんて何一つないはずなのに。
それに彼のことだ、きっともう全部知っている。


「…どうぞ」
「失礼いたします」


かちゃりと扉を開けた善逸は、一歩部屋へ踏み込んで丁寧に扉を閉めたきりそれ以上入ろうとしない。
その妙な距離感に胸がざわついた。


「…どうしたの、善逸」
「お休み前のご挨拶に参りました」


その言葉にじっと彼の顔を見つめるけど、いつもと何の変わりもない様子に少し苛立つ。


「何言ってるの、毎晩一緒に寝るって決めたでしょ」
「そのお申し付けには従えません」
「な…、」


なんで、と言い掛けて思い留まった。そんなの理由なんて一つしかない。
嫁入り前の娘が恋仲でもない異性と一つの布団で眠るなんて、主人と執事の関係だから許されていたのに。
それは同時に、彼が規則一つで意志とは関係なく動けるという事でもあった。
そんな当たり前の事が今になってじわじわと心を締め付けている。


「ご縁談のお話、伺いました」
「…そう」
「品行方正で真面目な方と存じ上げます、名前お嬢様に相応しい殿方かと」
「さぁ、どうかしら」
「何より育った環境や価値観も近しいのですから、パートナーとしてこれほど重要な事はございませんよ」


善逸の放ったそんな言葉に、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
張っていた虚勢も、隠していた孤独も、世間体も、家の事も、全部。


「どうでもいい、そんなこと」
「…え、」


静かに言葉を落としたつもりが芯の通った語気で発せられ、善逸の当惑するような声が聞こえた。
そのまま勢いに任せて口を開く。


「環境?価値観?それがなんだっていうの?そんなものが一番大事なんだったら、心なんて要らないじゃない!」
「お嬢様、」
「結婚って愛し合う二人がするものでしょう、それをお金がどう地位がどうって、気持ちはどうなるの、っあたしのこの気持ちは!!」

一度口にしてしまえばもう止まらない。
ズキズキと痛む胸が苦しくて、ぎゅっとガウンの胸元を握りしめる。
取り乱すあたしを宥めようと、善逸はようやくベッド脇まで近寄ってきた。

「名前お嬢様、少し落ち着いて、」
「落ち着かないわよここ最近ずっと!っ胸が、苦しくて苦しくて仕方ないの、夜が来る度に…っ善逸が戸を叩く度に…っ!!」
「…お嬢、さま、」
「わからない、わからないの、っ、どうしてこんなに胸が痛いのよ、っもういや、苦しい、」


ずっと胸で燻っていたものをぶち撒ければ、感情と一緒に涙も止まらなくなった。
そんなあたしとは対照的に善逸はどこか冷静さを保っていて、何か思案するように目を伏せている。
ひとしきり吐き出して嗚咽しか漏れなくなった頃、善逸は上着の内ポケットからハンカチを差し出した。


「やはり、今夜はお一人でゆっくりお休みになってください」
「っ、ぜんいつの、ばか、人でなし、」
「…その代わり、こちらでお許しを」


そう言うと善逸はおもむろに跪き、そっとあたしの左手に触れた。
さらりとした手袋の感触にぴくんと体が跳ねる。なんとなく恥ずかしくなって一瞬顔を逸らすと、あたしの反応を見た善逸はふわりと微笑んだ。
鼓動が早まるのを感じながらおそるおそる目線を落とすと、そのまま優しく指先を包まれる。


「麗しき名前お嬢様、」


その言葉に反応する間も無く、手の甲に彼の唇が寄せられた。
1秒にも満たなかったはずなのに、随分長い間熱を与えられていたかのような余韻。
体勢を解いてすっと離れていった善逸に、左胸がまた違う音を立てた。


「おやすみなさいませ」


その言葉と共に深くお辞儀をして、善逸は部屋を出ていってしまった。
しんとした部屋に時計の針の音だけが響いて、なおさら孤独な気持ちにさせる。

だけど、左手の甲に残った善逸の感触と体温で、胸がじんじんと甘く熟れるように温まっているのに気が付いた。
まるでおまじないみたい、なんて他人事のように考えながら、これはただのおまじない、と必死で言い聞かせている自分もいた。


「…こんなの、寝れるわけないでしょ馬鹿」


とっくに涙は引っ込んだのに、ハンカチを手放す気になれなくて。
そっと左手を包むように抱き締めて目を閉じた。胸の中で密かに願い事を唱えながら。

(夢の中でいいから、もう一度だけ、)