アメジストの気位

コン、コン、コン。

慎重に3度、間を空けたノック音。
空間も違えば扉の材質だって違うはずなのに、その耳馴染みのある響きに反射的に顔を上げた。
するとほぼ同時に扉が開き、紳士服を身に付けた男性がゆっくりと姿を現す。
後ろでパタンと扉が閉まったのを合図に、男性は目深に被っていた帽子をおもむろに脱いだ。

さらりとした金髪に特徴的な眉、琥珀色の瞳。
それらを捉えた瞬間、強張っていた体にようやく血が巡る感覚がして勢いよくベッドから立ち上がる。

「…っ!ぜん、」
「お静かに、」

そう一言で制されて慌てて口をつぐんだ。
どうして、どうやってここに。困惑の余り固まるあたしに、善逸は至極冷静な様子でゆっくりと近付く。

「外に見張りがおります…少しの間、私に合わせてください」

その言葉からして、何か策があるに違いない。こくこくと素直に頷いて目にした善逸は、落ち着き払って微笑んでいた。

「さすがは苗字家ご令嬢、噂に聞く通りの見目麗しさだ」
「へ!?い、いえ、そのような事は…」
「そう謙遜する必要はない、もっと顔をよく見せてくれ」

その言葉と共に頬に手を添えられ、ぴくっと肩が震えてしまう。
普段とは違う彼の口調や雰囲気のせいで、一気に体が熱を帯びていく。いつもは手袋に遮られている体温が直接肌に触れるだけで、こんなにも熱く感じるなんて。
あくまで彼は客を演じているだけ。そう必死に自分へ言い聞かせても、左胸は高鳴るのをやめてくれない。
期待と不安でぐちゃぐちゃのあたしの心中を知ってか知らずか、善逸はさらに距離を詰めて囁く。

「珠のような瞳に白磁の肌、唇は熟れた桃のように瑞々しい…」
「っ…!ぜ、っんむ、」
「すぐにでも食べてしまいたいくらいだ」

歯の浮くような台詞に堪らず声を上げそうになる口を、すかさず彼の手でそっと塞がれる。
そのまま至近距離で見つめ合う内、いつの間にか善逸の顔にピントが合わなくなっていた。
ちゅっと音を立てて離れていく彼の顔はどこか切なく、だけど蕩けそうなほど甘い視線が向けられていて。
なんて色っぽい顔するの。そう心の中で形容した瞬間、ようやく手のひら越しにキスされたと頭が理解した。
腰が抜けたようにベッドへお尻を預ければ、スプリングの軋む音が小さく部屋に響いて、余計に変な空気になってしまった。

「そういう初心なところ、男心を擽るなぁ」

顔から火が出そうになっているあたしをよそに、善逸は目を細めながらすぐ隣へ腰掛ける。今すぐ文句の一つでも浴びせたいくらいだけれど、普段では有り得ないシチュエーションに頭と体が追いつかない。
それに一番困惑しているのは、他でもない自分の感情に対してで。恥じらいはともかく、この状況に少しもどかしさを感じてしまっているなんて。

「お嬢様、会話を」
「わ、分かってるわよ…」

小声で促されて蚊の鳴くような声で返す。
こんなあたしとは対照的に、善逸は澄ました顔で芝居を打っていて何だか悔しくなってくる。
人の気も知らないで、と心の中でこっそり悪態を吐く内に、張り詰めていた緊張感や恐怖心が少し和らいだ気がした。
ひとまず落ち着いて、今は善逸に全てを委ねるべきだ。下手をすれば彼まで危険に晒してしまう。
それだけは絶対に避けなくちゃ、と薄く息を吐けば、火照った胸の谷間をつうっと冷汗が流れていく。握ったままだったハンカチを胸元に寄せると、善逸がはたと気付いて声を上げた。

「それは…」
「とある方からいただいた物です、肌身離さず持っておくようにと」
「言われた通りにするなんて従順なひとだ…選り好みできる立場だろうに、君ほどの女性なら」

善逸が発した言葉はどこか自虐のようにも聞こえた。眉を下げて笑ってみせたその表情は、あたしのよく知る彼の顔で。
いい加減やめなさいよ。ちょんとつついただけで色々溢れてしまいそうな、そのギリギリの笑顔。

例えば、麗しいとか可憐だとか。
誰かにそう言ってもらえるのは勿論悪い気はしないけれど、こんな環境で生まれ育った以上、社交辞令みたいな挨拶としか受け取れなくて。
だけど同じ言葉でも、善逸の口から紡がれるだけで驚くほど素直に沁みていく。まるで魔法みたいに言葉の一つ一つが心を揺さぶるの。

誰でも良い訳ないじゃない。何気ない会話や、小さな贈り物だってそう。
些細な事でも特別に変わるのは、あなただから。善逸だから。


ねぇ教えてよ、この気持ちが恋じゃないなら、他にどんな答えがあるっていうの。


「わたくしにとっては特別なハンカチなんです」
「…え、」
「お慕いする殿方からの、大切な贈り物ですから」

真っ直ぐに、彼の目を見て言い切った。
お芝居だと思われたかもしれない。たとえそうだったとしても、言わなきゃよかったなんて後悔は絶対しない。こんな状況でもなければ、一生伝えられない気がしたから。
本当に火が出てるんじゃないかと思うくらいに顔が熱い。きっと目も当てられないほど真っ赤になってる。
でも気持ちだけはちゃんと伝わってほしくて、善逸の顔から目を逸らさずじっと見つめ続けた。
するとそれまで憂えた表情を見せていた善逸が、面食らったような顔で頬を染めた。
これまで散々ドキドキさせられた仕返しよ、甘んじて受け入れなさい!なんて、心の中でこっそりとふんぞり返ってみせた。

「そ…うか、それは…妬けてしまうな」
「っ、きゃ…!」

善逸の苦し紛れの台詞に少し気が緩んだ瞬間、突然視界がぐるりと回った。

背中で小さく弾んだマットレスの感触と、控えめに軋む音。
シーツに縫い付けられた箇所から伝わる体温。
真剣な眼差しでこちらを見下ろすその姿。

感覚の一つ一つをこうも片っ端から揺さぶられてしまっては、体も心も保たなくなっていつか壊れてしまいそう。だけど、そうなってはいけないと思いながらも変化を望んでいる自分も確かにいて。
家柄も、身分も、体裁も、何もかも気にせず生きていけたら。
彼をもっと深く知れるだろうか、あたしをもっと奥まで知ってもらえるだろうか。

熱に浮かされたように潤んだ琥珀色に吸い寄せられ、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が頬に触れた途端、善逸はあたしの手を包むようにして捕えるとそのまま手首へと唇を寄せた。

「っ、…名前、」

善逸があたしの名を口にしたその瞬間、背中がぞくりと震える。
お金で買われたあたしは客である彼の所有物で、名前をどう呼ぶのもお好み次第…そう解釈する他ないはずなのに。お嬢様、という敬称が関係性を保つのにいかに重要か思い知らされる。
挟むように角度を変えながら何度も与えられる熱に、腰が堪らなく疼いておかしくなりそう。
知らなかった、手首がこんなに敏感だなんて。
浅く荒い呼吸と共に熱を帯びた吐息が掛かって、それが余計に身も心も焦がしていく。
このまま、彼の名を呼んで縋ってしまいたい。

「っん、ぁ…っ!」

最後に少し強めに吸われて、抑えていた声が出てしまい咄嗟に口を抑える。
すると善逸は一瞬、ぐっと何かを堪えるように眉を寄せたかと思えば、部屋の扉の方へ顔を向ける。

「護衛の者は少し席を外してくれないか、悪いがあまり聞かせたくない…彼女を独占したいんだ」

少し声を張って部屋の外へ呼び掛ければ、返答こそ無いものの微かに足音が聞こえた気がした。
なるほどこれが狙いだったのねと内心納得しながらも、未だにじんじんと熟れるように熱を持つ左手首に意識が向いてしまう。見れば仄かにピンク色に染まっているのに気が付いて、また胸の高鳴りがぶり返しそうになった。
しばらくじっと耳を澄ましていた善逸と目が合えば、彼は勢い良くあたしの上から飛び退いた。

「ごっ…!ごごご無礼をっ!!大変失礼いたしました…っ!!」
「い、いえ、いいの、」

恥ずかしいような気まずいようななんとも言えない空気に、ようやく頭と体が落ち着きを取り戻す。
それは善逸も同じだったようで、土下座する勢いで下げていた頭を上げるや否やぐるりと部屋を見回した。

「思った通り監視カメラはありませんね、太客への配慮か証拠を残さない為か…どちらにせよ好都合です」
「えぇ、でも外はきっと厳重に警備されてるわ」
「ある程度は対策済みですが…ご説明は後ほど、すぐにここを出ましょう」

迷いなく促され大きく頷けば、はたと自分の恰好が目に留まった。
あれだけ着替えの手伝いを躊躇していた彼に、やっとお披露目できた下着姿がこれだなんてね。
足元に纏わりつく布地を一思いにびりりと引き裂いていると、何やら辺りを探っていた善逸がこちらに気付いて目を丸くする。

「お、お嬢様、そんなに肌を見せては、」
「だって動きにくいんだもの、それにもうこんなだし今更じゃない」
「…あまり、人の目に晒さないで下さい」

その言葉を聞き終わる前に、滑らかな布地の心地良い質感が晒された素肌を優しく覆っていた。
たった今動きにくいのは嫌だと文句を言ったばかりなのに、肩に感じる重みは全然苦じゃなくてむしろ安心する。
ほんのりと残る彼の温もりと香りにまた一つ胸が音を立てた。

「独占したいというのは、本心ですから」

ぽつりと呟いた善逸の言葉を聞き返す間もなく、手を取られて部屋を出た。
辺りを見回っていたはずの護衛が一人もいないのを見るに、きっと事前に根回しして来てくれたのだろう。
静かに階段を抜けて地上へ出ると、暮れかけていた日は完全に落ちて夜空が広がっていた。

来た時にも通った広大な敷地を少し早足で通り抜ける。
夜間は特に警備を厚くするものだし、うちの屋敷も例に漏れずそうしている。けれど、この広い庭を見渡す限り誰も見張っている様子がない。

「ねぇ、一体どうやって人払いしてるの?」
「ある方達に協力していただいたんです、わたくしもここまで上手くいっているとは…」

そう言って、善逸は突然立ち止まった。
そのどことなく神妙な顔つきに一抹の不安がよぎれば、彼は俯き加減だった顔を上げて静かに呟く。

「足音…一人、いや、二人、」
「嘘、もう気付かれたって事…?」
「おかしい、それにしても早すぎます」
「と、とりあえずどこかに隠れましょ、」
「…お嬢様、少し失礼します」

訝しむ様子でこちらへ一歩近付いた善逸の目線はあたしの首元へ向けられていた。
チョーカーの中心に据えられた宝珠に手を伸ばしくるりと裏返した善逸は、一瞬目を見開いてから小さく声を漏らす。

「GPS、」
「え…!?」
「どうりで表の警備が手薄な訳だ、…部屋を出る前に気付いていれば…」
「あたし、何の疑いも無しに身に付けて、」
「いいえお嬢様、確認を怠ったわたくしの責任です、申し訳ございません…!」

あたしの背後に回り込んで留め具を外しながら、善逸は当たり前のように謝罪の言葉を口にする。
幾度となく聞いたその言葉には、これでもかというほど後悔と自責が滲んでいた。
同時に、彼をそうさせているのはあたし自身に他ならないと、そんな極論だけが浮き彫りになって。

「善逸、逃げて」
「は…?お嬢様何を、」
「あの人の目的はあたしだから、あなたまで捕まる事はないわ」

首から外れたチョーカーを奪い取るように握り締めて、気付けばそんな事を口走っていた。
呆然と立ち尽くす彼から後ずさるようにして距離を取り、諭すように言葉を落とす。

「これ以上、善逸の自由を奪いたくないの」

出逢った時からずっと、心のどこかで後ろめたい気持ちがあった。
あたしと関わる事で、彼が手に入れるはずだった幸せを取り零す事になるんじゃないかって。
心のままに生きたいと願っても、規則やしきたりが第一優先である以上それは許されない。気持ちを汲んでもらえる事なんて無いと、身を持って知っているから。

繋ぎ止めたい。でもそれ以上に、解放してあげたい。この先一生彼を縛り付けるくらいなら。
自分の望みと大切な人の幸せなんて、天秤にかけるまでもない。


「あなたはあなたの人生を生きて」


ここで別れる事になるのなら、せめて最後まで彼にとって誇れるような主人でいたい。
そんな想いで、善逸を真っ直ぐに見据えて伝えた。

すると彼は、じっとこちらを見つめたままゆっくりと足を踏み出した。
あたしが千切れるような胸の痛みを堪えて取った距離を、善逸はじわりじわりと詰めていく。
一歩一歩近付く度、切なくて苦しくて。

「わたくしの人生は、いつまでも貴女様と共にあります」
「…だめよ、はやく行って…っ、!」


突き放そうとした時には、すでに彼の胸の中だった。
背中に回された腕でしっかりと包まれ、身じろげばさらにきつく抱きすくめられる。


「離しません、絶対に」


力の入らなくなった手から、チョーカーがすり抜けていく。かしゃん、と舗道に落ちる音は直に伝わる彼の心音にかき消された。
初めて一緒に眠った夜も、こんな風に包み込んでくれたっけ。どういう訳か、あたしの抱える不安や虚勢なんてお見通しみたいに。

本当は、本当は、自分から全部曝け出してしまいたい。
離さないで。いつまでも一緒にいて。


行き場の無くなった手が、引き寄せられるように彼の背中へと伸びていった。

(あたし、ずっとあなたのこと、)