霞んだスピネル

震える手が触れようかというその時、辺りが眩く照らされびくりと動きを止めた。
それが車のヘッドライトだと分かったのは、規則的なエンジン音が聞こえてからだった。あっという間にあたし達の横に着けると、ガチャリと助手席のドアが開く。


「…あなたは、」

あたしを庇うように前へ出た善逸が少し驚いたような反応を見せ、つられて恐る恐る確認する。
その人物を目にしたと同時に、善逸の背から身を乗り出した。

「誠さん!」
「お二人共、こちらへ」
「え、どういう…」
「いいから早く、」

急かされるまま後部座席へ乗り込むと、誠さんは声を落としてさらに促す。

「座席の下へ、低く身を屈めて」

あたし達がぎゅっと縮こまったのを確認した誠さんがドアを閉めると、程なくして揺らめく灯りが近付いてくるのが分かった。
駆け寄る足音がまばらに聞こえたかと思えば、誠さんの呼び掛けにぴたりと揃って止まる。

「どうした、やけに騒々しいな」
「若様…!不審な男が侵入したとの事で」
「へぇ、こんな監獄みたいな屋敷に潜り込むなんて度胸のあるコソ泥がいたものだ」

息を潜めながら会話に耳を傾ける。
誠さんは驚くほど自然な素振りで護衛達をいなしていて、さすがだなぁと少し感心してしまう。

「狙いは金目のものだろう?どうせ逃げられはしないんだ、放っておけば良いさ」
「そ、そういう訳には!」
「それとも何か、盗られては困る物でもあるのかな?」
「い、いえ…それは、その、」
「まぁいい、これから会食に出掛けてくるから帰りは遅くなると門衛に伝えておいてくれ」

そう言って誠さんが再び助手席に乗り込めば、運転手はそのまま車を発進させた。
専属の運転手なのだろう、どこまで示し合わせているかは分からないけれど、主人の意図を汲んで動ける優秀な使用人だ。

「…敷地を抜けた、もう頭を上げて大丈夫だ」
「あ、ありがとうございます…お陰で見つからずに済みました」
「ひとまずは安心していい、あの護衛達の様子からして、おそらくまだ父さんには伝わっていないだろうから」
「…その根拠は?」

そう静かに訊き返す善逸は、未だに警戒を解く気配はない。
明らかに敵意を向ける善逸に対して、誠さんは普段通りの様子で答える。

「逃げられた事が公になれば、間違いなくあの護衛達は処罰されるからね…どうにか父さんの耳に入る前に君達を捕まえようと必死ってわけさ」
「噂通りの独裁ぶりですね、あなたの御父君は」
「…金と権力で支配するからこういう事が起こるんだ」

嫌味とも取れる善逸の返しに、誠さんは反論も擁護もせずただ小さく呟く。
いつもの毅然とした彼の雰囲気が一瞬影を落として、いたたまれなさから咄嗟に口を開いた。

「あ、あの誠さん、あたしがこんな事を尋ねるのは変かもしれないけれど…本当に、良かったのですか?」
「どういう意味かな」
「あたしを連れ出したのが誠さんだと知られたら、それこそ経営に携われる機会がさらに遠のくのではと…ずっと望んでいらっしゃったのに…」
「それじゃ今から連れ戻してもいいのかい?」

あたしが反応するより先に隣の善逸が身を乗り出した。
彼がおもむろに胸ポケットから取り出してみせた小さな電子機器は、チカチカと赤いランプを点滅させてしっかりと稼働している事を示していた。
用意周到さに驚いて善逸の顔を見ると、その見た事のないくらい冷たい表情に思わず息を飲む。

「妙な発言は後々自分の首を絞める事になりますが?」
「重々弁えているよ…魔が差した故の軽口だ、すまない」

誠さんの言葉を聞いた善逸は、変わらず牽制するような眼差しを向けつつもゆっくりと元の座席に戻る。
車内にピリついた空気が流れる中、誠さんは穏やかな口調で話し出す。

「君が我妻氏だね」
「…なぜ名前を」
「天元から聞いているよ、優秀な執事だと」
「何吹き込んだのあの人…」

宇髄さんの名前が出ると、善逸は大きなため息と共に頭を抱えた。
誠さんの口振りからして、宇髄さんは他家でもあんな感じなんだろう。

「それから、なかなか隅に置けない男だとも」
「…失礼ながら、俺は未だにあなたの事が信用できない」
「ちょっと善逸、」
「名前お嬢様をあのような穢らわしい取引の出しに使って…西園寺グループの看板を散々ちらつかせておきながら、当主の独断故に息子の自分は関係無いなんて虫の良すぎる話だ」

そう言い放った善逸は不信感を露わにしながらも、感情を抑え込むように膝の上で固く拳を握り締めていた。
両家の関係のためでもなく、界隈の品格のためでもなく、あたしのために怒ってくれている。
それが分かるだけに適当な言葉で宥める事なんてできなかった。

「君の言い分は尤もだ、僕一人が謝罪したところで決して許される事ではないが…本当に、申し訳無かった」
「そんな、あなたは何も…」

いいや、とあたしの言葉を遮って首を振った誠さんは、絞り出すように胸の内を吐き出した。

「薄々勘付いてはいたんだ、でも僕はそれを止められなかった…いや、止めようとしなかったんだ、どうせ聞き入れてもらえないと決めつけて」
「誠さん…」
「それに父さんの気に障るような事をすれば、今後一切経営への介入を認めてもらえなくなると保身に走って…僕は本当に愚かな人間だ」

あの時疑心暗鬼になっていたとはいえ、一瞬でも彼を疑った自分を恥じた。
誠さんはこうしてずっと一人で思い悩み、一族としての責任や父親からの重圧と戦っていたというのに。

「愚かだなんて思いません」
「え…」
「あなたほど人脈に長け使用人からの信頼も厚いお方なら、支配から逃れる事もできたはず…それでもあの家に留まったのは、お父上を見捨てたくなかったからでしょう?」

たとえどんなに厳格でも、望みを聞き入れてもらえなくても。
ずっと見続けてきたその背中は一族を纏め上げる長であり、たったひとりの父親だから。
そんな境遇が少し重なる気がして思ったままを言葉にすれば、誠さんはしばらく俯いた後小さく頷いた。

「きっと心のどこかで、父さんを信じたい気持ちもあったんだと思う」
「尊敬していらっしゃるのね、」
「…けれども父さんのやった事は決して許されない、大勢の人々に迷惑を掛け苦痛を与えた罰は受けるべきだ」

自分の信じていた人が過ちを犯すというのは、やるせなく辛いはず。それが身内であれば尚更。
それでも彼は真っ直ぐに前を見据え、淀みない口調で言い切った。踏ん切りの付け方というか腹の括り方というか、その心の強さは天性のものなのかもしれない。

「まずはこの一連の所業を警察に告発しようと思っている、そのつもりで天元から証拠を預かったんだ」
「では、これから暫く大変ですわね…」
「だけど良い機会だよ、必ず僕の手で一から立て直す…罪を償うためにも、世の為人の為になる真っ当な経営をしたい」
「素晴らしいお心構えだと思います、陰ながら応援するわ」
「ありがとう…あぁ、勿論君達をきちんと送り届けてからの話だからね」
「っふふ、それは安心しました」

さっきよりも随分と空気感が和らいだところで、ちらりと隣へ目を遣る。
善逸はしばらく納得できていない様子で助手席の誠さんを見つめていたけれど、ふっと肩の力を抜いて座席にもたれた。

「あの人が証拠品を託すくらいだ、信用に足る何かがあったんでしょう」
「…そう言ってもらえると心が救われる」
「この度のお力添え心より感謝申し上げます、西園寺様」
「誠でいいよ」

そう言って不意にこちらを振り返った誠さんは、憑きものが取れたような朗らかな笑顔で。
その表情はどこにでもいるような同世代の青年で、何故だか少しだけ羨ましく思えた。


そうしてしばらくの後うちへ無事辿り着けば、思わず安堵のため息が大きく漏れた。
たった半日振りだっていうのに、まるで長旅を終えて帰って来たみたい。あれほど家に縛られたくないと感じていたくせに、屋敷の門をくぐるだけでこんなにも心が落ち着くなんて。

旦那様にご報告を、と善逸は足早に屋敷へ上がっていった。
本当に何から何まで彼を走らせてしまっている。つくづく申し訳なく思いながらその背中を見送っていると、誠さんがふと思い出したように口を開く。

「前に君が言っていた幸せのプラン…カラオケ帰りに街で食べ歩く、だったかな?」
「よ、よく覚えてらっしゃるのね!ちょっと恥ずかしいわ」
「それから海の見える小さな家で暮らしたいとも」
「えぇ…水平線に沈む夕焼けを眺めたり、夜空に広がる星を一つ一つ数えたりして」
「彼の隣で、だろう?」
「え、」

彼とは誰の事でしょうか、なんて涼しい顔で返す技量や余裕は無くて。
実に間抜けな返答が口から飛び出して固まるあたしをよそに、誠さんは目を細め腑に落ちた様子で続ける。

「今日何となく分かったよ、君の思い描く未来には常に彼の姿があるんだろうって」
「そ、それは、」
「別に揶揄うつもりはないんだ、ただ、君にはちゃんとその幸せを掴んで欲しくてね」
「…“自分の将来は自分で切り開かなきゃ意味がない”、ですものね?」
「君こそ、よく覚えてるじゃないか」
「記憶力だけは自信があるの」

恥ずかしさを誤魔化したくて、わざとらしく得意気に笑ってみせる。
すると誠さんは何か言いたげに少し迷うような素振りを見せた後、躊躇いがちに口を開いた。

「またいつか再会する時まで僕の事を覚えていてくれたら、その…話し相手、というか……ゆ、友人に、なってくれるかい?」

こんな風に言葉に詰まる誠さんは初めて見た。
頭も良くて立ち居振る舞いもスマートな名家の御曹司に、女性を口説くのが下手というまさかの弱点があったなんてね。
恥ずかしそうに目を逸らす彼の様子に、思わず口元が緩んだ。

「何言ってるの、もうとっくに友人でしょ」
「…名前さん」
「その代わりあたしの夢がまだ叶ってなかったら、とことん愚痴に付き合ってもらうから」
「っはは、覚悟しておくよ」

どちらからともなく、差し伸べ合った手を軽く握った。
そういえば今まで、仕事上の付き合い以外で握手を交わした事なんて無かったかも。それを言うなら、友人と呼べる存在ができたのも初めてで。
育った環境や価値観が近しい人。確かに善逸が言ったように相性は良いのかもしれないけれど、何も結婚相手に限った事ではないわよね。
現にあたし達はこうして互いの家の事を挟まず、対等な関係として笑い合えているのだから。


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誠さんを見送った後、善逸から事の顛末を聞いたお父様に呼び出された。西園寺家で受けた処遇を全て聞かせてほしいと言われ、善逸の報告を補う形で改めて自分の言葉で伝えたのだった。
憤慨も動揺もせず淡々と事実だけ確認されて、まるで取り調べを受けてるみたい。自分の娘が売られかけて逃げ帰って来たっていうのに、心配とか気遣いとか無いのかしら!とも思ったりした。
だけどお父様の様子がいつもより穏やかにも見えるあたり、さすがに少し肝が冷えたのかもしれない。

根掘り葉掘り聞かれて解放された頃には、すっかり夜も更けてしまっていた。
お昼から何も口にしていないのに全く食欲が沸かないのは、きっと心を使いすぎたせいだ。疲れたらお腹が空くものだと思って今まで生きてきたけれど、必ずしもそうではないって事を今日初めて知った。
噂を聞きつけた使用人達が心配して代わる代わる挨拶に来て、中には泣き出してしまうメイドなんかもいたのに、大丈夫、平気よ、ありがとう、ごめんね、と返すばかりで気の利いた言葉の一つも出てこなくて。

善逸に促されるまま自室へ足を踏み入れ、扉がパタンと閉まる音を聞いた途端に、ふうっと体の力が抜ける感覚がした。

「っ、お嬢様!」
「は…、」

善逸が咄嗟に支えてくれなかったら、思いっ切り床に膝を打ち付けてるところだった。
今まで自分で立って歩けていたのが不思議なくらい、足に全く力が入らない。それどころか手までかたかた震えてきてしまって。
善逸に誘導されてソファーへゆっくりと腰を下ろす。

過ごし慣れたこの部屋に善逸と帰って来た事で、きっと気が緩んだのだと思う。自分が知らず知らずのうちに無理をしていたのがよく分かった。
閉じ込めていた恐怖心が一気に押し寄せる。
善逸が助けに来てくれなかったら、今頃あたしは。

「お嬢様…もう大丈夫です、何も心配は要りませんから」
「ぜんいつ、」
「何か温かいお飲み物をお持ちします、少々お待ちくださ…」

そう言って部屋を離れようとする善逸の腕を、ぎゅっと握って引き留めた。
振り返った善逸は焦ったような困ったような、だけど心配そうな瞳でこちらを見つめていた。

「今は、ここにいて」
「…はい」
「こんな情けない姿、善逸にしか見せられないもの」
「情けない事などありません」

苦笑いで自嘲すると、真っ直ぐな否定が飛んできて少し驚いた。
善逸は優しく穏やかな表情で言葉を続ける。

「苗字家御令嬢としての務めを果たそうとする強い思いとその気高いお姿、大変ご立派でございました」
「…善逸…」
「あなたほどの主人にお仕えする事ができて、わたくしは幸せに思います」

こうして何度彼の言葉に救われてきた事か。あたしの方こそ、こんなに優秀な執事に仕えてもらって幸せ者だと思う。
背中をゆっくりと擦る優しい手つきと体温に、いつの間にか強張っていた体は落ち着きを取り戻していた。

「…お嬢様に、お詫びしなければならない事がございます」

善逸が言いづらそうにぽつりと溢した言葉に首を傾げる。
やけに神妙な顔つきが気になって隣へ座るよう促せば、彼は一礼して静かに腰掛けた。

「実はお嬢様に縁談の申し入れがあった当初から、西園寺家の闇取引について存じ上げておりました」
「え…そうなの?」
「コック仲間に噂を聞いた伊之助から話を聞き、それから間もなく宇髄さんからも報告を受けたんです…彼は仕事柄、他家の内部事情にも精通していますから」

まさか分かった上で送り出されていたなんて思いもしなかったけれど、それほどショックでもなくて。
宇髄さんが裏で動いてくれていたのは話の流れで何となく理解していたし、きっとその方が確実に上手くいくと踏んでの事だろう。
それに、初めからあたしを助けるために計画してくれていたって事だから。

「情報だけではいくらでも言い逃れできるので決定的な証拠を、と…お嬢様が半ば囮のようになってしまった事は否めません…本当に、申し訳ございませんでした」

辛そうに目を伏せ謝罪する善逸を見ていると、こちらまで胸が苦しくなってくる。危険を冒してまで助けに来てくれた彼が何を謝る事があるだろうか、と。
不安と恐怖に押し潰されそうだったあの時、あなたが来てくれてどれほど心が安寧に包まれた事か。
どれほど、愛しいと思った事か。

「善逸、顔を上げて」
「…はい、」
「ありがとう、本当に…心から感謝するわ」
「名前お嬢様…ご無事で、何よりです」

ようやくきちんと感謝の言葉を届ける事ができた。あまりに目まぐるしくて、伝える暇なんてなかったから。
彼に救われた、心も体も。こうしてまた言葉を交わせる事が当たり前のようで当たり前じゃないと身にしみた。
善逸の表情がようやく緩やかになったのが分かって少しほっとする。

「あ…!お嬢様、もう一つ大切な事をお伝えし忘れてました」
「え、今度は何…?」
「お誕生日おめでとうございます、…もう過ぎてしまいましたが」

時計を見れば、上を向いた短針を長針が少し追い越していた。
自分でも誕生日だった事なんてすっかり頭から抜け落ちていた。例年なら当日は大勢の人にこれでもかと祝われて、あまり好みでないプレゼントの行き場に悩まされてるところだけれど。

「ほんとね、ある意味忘れられない日になっちゃった」
「また改めてお祝いしましょう、旦那様もご納得されると思います」
「いいのよそんなの、無事に16の歳を迎えられたってだけで充分じゃない」
「ですが…贈り物一つ無いというのも、少々寂しくはありませんか?」
「…善逸が助けに来てくれたの、本当に嬉しかったのよ」

まさしく、あれがプレゼントだったと言われても素直に受け入れられるくらい。
美味しいお菓子や可愛いお花、綺麗な宝石だって勿論嬉しい。でも何より、あなたがあたしの為に自分の意思で動いてくれる時、一番心が満たされていく感じがするの。

「あの時の善逸、王子様みたいで素敵だったなぁ」
「そ、そのような大層な身分では…!それに、お嬢様をお護りするのもわたくしの使命ですから」

使命。その言葉がいつも歯痒くて。
助けにきてくれたあの時、確かに彼の姿が少女時代に夢見た空想と重なった。こんな事恥ずかしくって人には言えないけれど。
白馬に乗った王子様が携えているのが恋でも愛でもなくただの使命感だなんて、きっと何のロマンスも始まらない。そもそもあたしだってお姫様でも何でもない。

そう、あたしはあたし。
お淑やかでいたいけな姫君になんてなるつもりはない。この気持ちがただの吊り橋効果だっていうなら、橋なんか自分から飛び降りてやるわよ。
だからその一歩を踏み出すきっかけだけ、あたしにちょうだい。

「じゃあ、誕生日プレゼントの代わりに…お願い聞いてくれる?」
「はい!わたくしに出来る事でしたら何なりと」
「今夜は、一緒に寝てほしいの」

いつにも増して献身的な姿勢の善逸に意を決して伝えると、彼は一瞬息を呑んで顔を逸らした。

「…いけません、」
「どうして?もう婚約も解消されたんだし、問題無いはずでしょ」
「今回のような危ない目に遭わないためにも、普段から貞操観念をしっかり鍛えていただかないと困ります」
「何よ、自分はさっき散々色んなとこ触ったりしたくせに」
「あッ、あああれは非常事態でしたから!やむを得ずです!!…そもそもお嬢様は異性との距離感を楽観視しすぎなんです、もう幼子ではないんですから」

分かってるわよ、そんな事。
小さな子どもが歳上のお兄ちゃんを慕うような可愛らしい感情でない事は、あの時期待に満ちた胸と火照った体が証明していたもの。
もう一度彼の温度を感じられたら、自ずと答えが口をついて出て来てくれるような気がして。

「じゃあキスして」
「いやわたくしの話聞いてました!?」
「添い寝とキス、どっちがいい?あ、キスは手の甲や頬はもちろんノーカウントね!ちゃんと唇にする事」
「…いくらお嬢様のご命令であっても、従えません」
「命令じゃないわ、お願いよ」

命令じゃ意味がないの。
呆れ顔の彼にあたしが出来るのは、ただただ懇願する事だけ。


「…お願い、」

最後の一押し、と上目遣いに少し声を落とす。
するとそれまで頑なだった善逸が諦めたようにため息を溢した。

「承知しました」


よし!作戦成功!!
我ながら良策だと内心ガッツポーズを決めながら、ニヤける口元が見えないようにくるりと善逸に背中を向けてベッドへ歩み寄る。
これで添い寝は確定ね、キスと比べれば断然ハードルが低いもの。

前までは当たり前にそうしてきたはずなのに、一週間ひとりで夜を過ごしただけでやたらとベッドが広く思えて。
やっと心地良く眠れそう、なんて思っているとふと枕が一つ足りない事に気が付いた。

「先に横になってるから、枕を持っていらっしゃい」
「いえ、その必要はございません」
「え?」

言葉の意味も考えずに、ほとんど反射的に振り向いた。
いつの間にかすぐ後ろに立っていた彼を見上げれば、その右手があたしの左頬にするりと添えられる。
あ、と思った時にはもう、視界と一緒に唇を塞がれていた。

静かに、確かめるように優しく重ね合わせられ、そっと瞼を閉じる。
伝わるのは熱情を掻き立てるような刺激ではなく、触れたところからじんわりと蕩けていくような感覚で。
ゆっくりと名残惜しそうに離れた唇が不意に薄く開かれ、甘い瞳が切なく揺れた。

「…旦那様には既にお許しいただいたのですが、しばらくお暇をいただく事にしました」
「え…?」
「その間お嬢様の身の周りのお世話は、旦那様専属の執事が兼任でお手伝いする事となりますので」

ぼんやりした頭にそんな言葉をつらつらと送り込まれて、何がどういう事なのか分からないまま。
くるりと踵を返して離れていった善逸が、扉の前で一礼する。

「おやすみなさいませ、名前お嬢様…良い夢を」


おやすみの挨拶に、パタンと閉まる扉の音、しんとした部屋と、窓から差し込む外灯の光。
そんないつもと同じ夜なのに、自分だけがいつもと違う。

唇のみならず思考まで一瞬で奪われてしまって、体の重みに任せてベッドにその身を預けた。
一連の騒動の疲れもあってか、唇の感触と善逸の言葉を反芻している内いつの間にか眠りに落ちていて。


翌朝目が覚めると、既に善逸は屋敷から姿を消していた。
それから一週間経っても一ヶ月経っても、彼が帰って来る事はなかった。

(やっぱり、お姫様なんかじゃない)