昔から、“あなたの長所はなんですか?”というありふれた質問には、身体の丈夫さだけは誰にも負けません、と速攻で答えられるほど至って健康体のわたし。
よく滑ったり転んだりする割に骨折をしたことは一度もないし、インフルエンザにも罹ったことがない。小学校の頃からの皆勤賞記録は高校二年生になった今も現在進行形で更新中だ。ましてや入院なんて、お母さんのおなかから出てきた時の一度きり。


一階の渡り廊下で中庭を抜けた先の、一番奥。
保健室と書かれたプレートを掲げるこの部屋は、文字通りわたしのような健康な人間が来るべき場所ではない。
そんなわたしに縁もゆかりもなかったはずの場所に、なぜこうして通う事になってしまったのか。
なんかもう逆に体調悪くなりそう。あ、ほらなんとなく頭が痛いような気がしてきた。
ふう、と軽く息を吐いて少し重たい引き戸を引いた。


「失礼しまーす、」

「じゃあさー、せんせーの好きなタイプってどんな子ー?」
「たしかに超気になる!どーなんですか?」
「え、タイプかー…まぁ料理上手な人はいいなって思うよ」
「あっあたし肉じゃが作れる!!」
「え、ちょっと!抜け駆けずるい!せんせっ、あたしオムライス得意です!!」


目に飛び込んできたのは、いかにも女子力磨き上げてます、といった感じの女子生徒3人に囲まれた先生の姿。
この光景ももう見慣れたものだ。

俗に言う甘いマスク、さらりとした明るい髪、おまけに母性本能をくすぐる高めの声。
我妻先生は、おそらくこの学校での女子生徒人気ナンバーワンだ。
身長こそ高くはないけれど、そんなものは白衣による補整でむしろプラス評価になってしまうのだから恐ろしい。


「んー、でも俺甘いもの好きだからお菓子とかの方が嬉しいかなあ」
「じゃあ今度クッキー焼いてきます!」
「え!じゃああたしケーキ作ってくる!」
「あたしシュークリーム作っちゃおー!」
「ダメダメ、そういうもん持ってきちゃ、こー、そく、いはんっ」

呆れたように眉を下げて微笑みながら、ぽんぽんぽんっと軽く女子生徒たちの頭を順番に叩く。
はい出ました、先生の必殺技。
女子という生き物はどうしてこうもギャップというものに弱いのか。優しい我妻先生のたまに醸し出す少しSっ気のある雰囲気が、さらに女子のハートを掴んで離さない。ま、ちょっとわかるけどさ。
案の定顔を真っ赤にしてきゃあきゃあ騒ぐ乙女たち。

ふむ、ところでわたしはいつまでここに突っ立ってればいいんですかね。
眉間に皺を寄せるとイライラが募りはじめていよいよ本格的に気分悪くなってきた。
なぜか胸の奥がつっかえる感じがして軽く咳払いをすると、ようやく先生の顔がこちらを向いた。


「ほら君たち、もう下校時間だからそろそろ帰らないと」
「え!せ、せんせー、あたしちょっと頭痛くて…!」
「あのね、頭痛い人はそんなにぎゃーぎゃー騒げないから」
「うう、」
「あ、せんせ、最後にもう一個だけ聞かせて!」
「うん?」
「あの、彼女とか、いるんですかっ?」

きゃー!と甲高い声を上げて騒然とする女子たちは興奮しながらも、しっかりと先生の答えを持ち詫びている様子。
というかわたし自身もちょっと気になったりして、ちゃっかり耳を澄ます。

「んー、…内緒」
「えー!?」
「なにそれーっ」
「はいはい、帰った帰った!」

あんまり遅いと親御さん心配するよ、と優しく背中を押すと女子生徒たちは面白いくらいにすんなり帰っていく。

「せんせー、さよーならー!」
「はーいさようなら」
「また来週も来るねっ」
「来なくていいから勉強しなさーい」

先生は生徒の姿が見えなくなるまでひらひらと手を振ると、たん、と引き戸を閉める。
その音を合図に、終始絶やすことのなかった微笑みは一瞬で消え去り、それはそれは大きなため息を吐いた。



「っはあぁー…」
「あらあら今日もモテモテですねえあがつませんせー」

「…他人事だからって面白がってんじゃねぇよ」

皮肉たっぷりに話しかけると、さっきとはまるで別人のように冷たい顔でこちらを睨み暴言を浴びせてくる。ご丁寧に語尾におかすぞ、までつけて!


そう、これが先生の正体。
普段はどこからどう見ても爽やかで心優しい青年だ。
どんな人に対しても和気藹々と接しているところをよく見かけるし、こりゃ生徒からも教員からも人気あるわけだわ、なんて納得していたのも3ヶ月近く前までの話。

運命の日は、突然訪れた。



その日、わたしは欠席していた保健委員の子の代理として、健康観察の報告をするため保健室へと向かっていた。
美化委員であるわたしはその子と仲がいいというわけでもなく、ただ単に出席番号がその子の次だったというだけの理由で抜擢されたのだった。
弾む足取りで廊下を進む。なにしろ保健室にはあのみんなの人気者我妻先生がいるのだから。
そう、我妻先生とお話ができる!なんてわくわくしていた時代がわたしにもあったのです。

少し開いた引き戸から白衣が見え意を決して中に入ろうとした瞬間、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。


『いやマジであのハゲふざけてんの?さっさと退任しろよクソジジイ…!』

『は、』

自分の耳を疑った。本当に今の言葉、我妻先生、が…?
まさかね、と一度はスルーしようとするが、ちらりと見える白衣を纏った先生の顔はあからさまに憤りの現れた表情で、何よりその上擦った高めの声は紛れもなくあの先生のもので。
足がすくんで立ち尽くすも、わたしの脳は即座に“聞かなかったことにしなさい”と判断を下した。

そっと踵を返すのに神経を集中させていたら、手の方が疎かになってしまい、あろうことか持っていたバインダーがバサリと音を立てて落ちてしまった。
まずい!と思ったが時すでに遅し、引き戸の隙間越しに先生とバッチリ目が合ってしまっていた。この時の光景はいま思い出しても身震いするほどのホラー映像だ。


『…あ、すみません、これ健康観察の結果です』

じゃ、失礼しましたー、とにっこり笑って会釈、そのまましれっと逃げようとするが、世の中そんなに甘くはなかった。


『ちょっと待て』
『ひい…!』
『お前、2組の苗字だな』
『は、えっ…!?』

なんで、と声が出かけたのを飲み込んでから、何度も頷いて肯定した。
自分の素性が知られていたのも怖いし、下手な事をすればどんな目に遭わされるか分からない。
恐れおののくわたしに、先生はお構いなしに踏み込んでくる。


『部活は?』
『は、はいってません、』
『…ふーん、じゃあ金曜の放課後、毎週ここに来い』
『はい……え?』
『なに、嫌なの?』
『っい、いえそんなことは!』
『ん、じゃそういうことで。行ってよし』
『え、あ、はいっ』

唐突にこぎつけられた約束の意味が理解できないまま、ひとまず解放されたので心を落ち着けるべく、一歩、二歩と引き返す。
するとまたすぐに先生の声が背中へと突き刺さった。


『ああ、それと苗字、』
『っ、はい!』
『お前さ、さっき何か聞いた?』
『…!!!』

無表情のままそう言う先生の瞳には光がなくて、正直に頷こうものならその闇に引きずり込まれそうな程の圧力を感じる。
背後にどす黒いオーラを纏っているようにも見えて、もう無我夢中で首を横にぶんぶんと振った。


『な、なっ何も聞いてません…!!!』
『そっか、……いい子だねえ』


そう言ってわたしの頭を撫でた先生は、優しく微笑むいつもの我妻先生だったけれど、それが逆に恐ろしくて背筋が凍り付いた。

この日以来、わたしは先生に言われるがまま保健室に通う羽目になってしまったのである。



「よかったですね、来週はお菓子食べ放題じゃないですか」
「そんな毎日毎日甘いもんばっか食えるかよ、第一俺は作ってくれなんて一言も言ってないし」
「誘導してるようには見えましたけど」
「肉じゃが作ってこられるよりはマシだろ、ほんと冗談は顔だけにしとけよな」
「…いまの聞いたらあの子たち泣きますよ」
「知るか」

とまぁ、わたしと2人でいる時は終始こういった感じなのだ。
最初は、呼びつけられて口封じに脅されるのかとビクビクしていたのだが別段そんな様子もなく、ただ先生と色々喋る(というかほぼ先生が好き放題言う)だけ。
実際先生の話の8割は、確実に生徒に聞かせるべきではないような仕事の愚痴や不満だ。
だけど残りの2割ほどで先生自身の事を話してくれる時があって、その話が新鮮で面白かったりする。
たとえば、実家が病院で先生も看護師免許を持っているということ、女性看護師たちがあまりに言い寄ってくるので面倒になり転職したこと、保健室なら平穏に過ごせると思いきや女子生徒たちのおかげで現状変わっていないこと、などなど。

最初こそどうしてわたしをわざわざ呼びつけるのかわからなかったけど、通ううちにその理由が何となくわかるようになってきた。
おそらく、先生はこうして週の終わりに愚痴を吐き出すことでストレス発散をしているのだと思う。
だから、たぶん相手は誰でもいいのだ。たまたまわたしがタイミング的に都合よく現れたというだけで。

そんな事を考えていたら、ふとさっきの女の子たちの質問攻めの光景を思い出した。


「ところで先生、実際、彼女いるんですか」
「は?なに、お前までそういうこと言っちゃうの」
「いや、そういえば先生からそういう話聞いたことないなーと思いまして」

ちょっと気になっただけです、と何気ないフリを装ってみるが、なぜだかさっきから気になって仕方がないのだ。
こうやって、わたしだけに教えてくれることがひとつでも増えてほしい、なんて馬鹿げた事を思ってしまっている。
相手なんて誰でもいい、と自分でもわかってはいるけれど、結局のところこの立ち位置が気持ちよくなってしまったのだ。
心のどこかで、あの女子たちを見下している醜くて情けない自分がいて、その嫌悪感に頭の奥がズキズキと痛む。


「別に、色恋沙汰とかそういうの面倒だし」
「…もしかして先生、ソッチの趣味が、」
「は?上等だ、そんなに犯されたいのか」
「じょ、冗談ですってば!!…っ、けほ、」


ゆらりとした殺気を感じて咄嗟に大きな声で否定すると、突然喉が言うことをきかなくなってしまった。一度咳き込むと止まらなくなって、思わずその場にしゃがみこむ。
自分の身体がこんなに異変を起こすこと自体はじめてのことで、頭の中は軽くパニック状態だ。
息苦しさと頭の奥でガンガン鳴り響く痛みに、生理的な涙が滲んで視界がぼやける。


ふいに、背中にあたたかい感触。

我妻先生がさすってくれている、という事はぼんやりとした頭でも判断がついた。
緩やかに上下する先生の手は、さっきまで物騒な言葉を口にしていた人間のものとは思えないほど、優しくて柔らかい。


「っ、すいませ、」
「喋るな、ゆっくり深呼吸して」

先生の言ったとおりに、大きく息を吸って吐いて、と何度か繰り返すと、ようやく胸の方は楽になってきた。
なんなんだこれ、と涙目で茫然と地べたに座り込んだままのわたしの顔を覗き込んだ先生は、一瞬はっとした表情になったかと思うと、今度は真剣な顔つきに変わる。


「ちょっと顔貸せ」
「っ、ひゃ」

先生の手が伸びてきて、いきなり前髪を上げられた。
反射的に目をつぶると、おでこにこつん、と何かが当たる感覚。
恐る恐る瞼を開けると、目の前に先生の顔があって思わず息が止まる。
伏し目がちな先生の顔まではわずか2センチほどの距離で、恥ずかしいのになぜか目が離せない。


「馬鹿、お前熱あるじゃねぇか」

はやく言えよ、と呟きながらおでこを離して、呆れたようにため息を吐いた。


「ね、熱、ですか、」
「我慢してただろ」
「え、いや、別にそんなことは、」
「なんか変だなと思わなかったの」
「…そーいえば、少し頭が痛いなー、ぐらいの、」
「なんでその時点で言わないんだよ」
「すみません、」


ぼーっとした頭のまま先生の顔を見ながら受け答えをする。
先生のおでこ冷たくて気持ちよかったな、あ、わたしのからだが熱いからか。なんて、叱られているというのにそんなことばかりが頭に浮かんでくる。


「立てるか」

先生はそう言って、手を差し伸べてくれる。
その手を掴んで立ち上がろうとした瞬間、足元がふらついて前に倒れ込んでしまった。
先生に抱き止められる形になって、離れなくちゃ、と思いながらも、手足に力が入らずそのままもたれかかる。


「…こりゃ相当熱あるな」
「っせんせー、ごめ、なさ、」
「ん、わかったからあんまり喋るな」
「はい、」
「…苗字くらいならいけるか、」


ちゃんと掴まれよ、そんな言葉が聞こえたかと思うと、ひょい、と身体が浮いてそのままベッドに運ばれた。
手がきわどいところに!とか、パンツ見える!とか、そもそもくらいならって、わたしの体重どのくらいで見積もったのよ!とか色々詰め寄りたかったけど、到底今はそんな気力もなく、黙ってベッドに横たわる。


「とりあえずこれで熱測ってて」
「ん、」
「生徒手帳借りるぞ」

体温計を脇の下に差し込みながら、電話をかけ始めた先生の背中を見つめる。
連絡先はどうやらわたしの家らしい。まさかわたしが熱を出すなんて、お母さんびっくりするだろうなあ。

ピピピ、と音が鳴った体温計の表示はジャスト39℃。すごい、はじめて見た。


「せんせ、」
「ん、…やっぱ高いな」
「おかあさん、くるんですか」
「いや、直接病院まで来てもらうことにしたわ」

先生はそう言いながら身の回りを片付け始める。おもむろに白衣を脱ぐその姿を見て、余計に熱が上がった気がした。


「俺が付き添うから、タクシー来たら一緒に行くぞ」
「はい、」

わたしの顔を見つめる先生の顔は、みんなに見せる優しい笑みでもなければ、わたしといる時のいつもの面倒そうな顔でもなくて。

心配そうに何かを思いやる、生徒想いの先生の顔。


「せんせ、わたしといて、たのしいですか」
「…なに、いきなり」
「なんで、わたしなんですか」

そんな先生の顔を見ていると、熱でぼんやりとした思考がそのまま口から出てしまう。
先生は一瞬窓の外へと目を逸らす。少しあってからこちらへ向き直ると、いつもより幾分か穏やかな声色で話し出した。


「俺さっき、恋愛とか面倒だって言ったよな」
「はい、」
「そんな俺が、どうでもいい奴の名前とクラスまで覚えてわざわざ毎週呼びつけると思うか」
「…ん、」
「ま、そういうことだ」


そういうこと、とは、どういうことなのか、熱に浮かされた頭ではいまいち見当がつかず、深く考えることは諦めた。
きっと、この異常に早い心臓の鼓動も、胸の奥がきゅうきゅうと締め付けられるのも、全部熱のせいだ。
あとの事は元気になってからのわたしに任せて、瞼を閉じた。



鐘声、はじまりの合図

(お、元気そうじゃん)
(っはい、おかげさまで…)
(ざっと38キロってとこかな)
(え?…っえ、やだ、なんで!?)
(ちゃんと食わないとまな板のままだぞ)
(はぁ!?よ、余計なお世話ですっ!)
(あとパンツくらいは色気出しとけ)
(…っきょーいくいいんかいに訴えます!!!)
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