「お前、もう来なくていいから」


目の前でガタンと引き戸が閉まっておまけにかちゃりと鍵のかかる音。
その言葉と光景が先週からずっと、授業中も食事中も頭を離れない。


毎週金曜日、放課後にここへ来いと言いだしたのは他でもない、先生だ。
はじめは来たくて来ていたわけでもなかったのに、いつの間にか習慣になって当たり前に保健室へ足を運ぶようになっていた。

相変わらず女子生徒に大人気の先生は、きゃあきゃあと騒ぐ子たちに優しい笑みで相手をしつつしっかり下校を見届けたあと、人が変わったようにわたしに愚痴を吐き捨てたり、どうでもいい話をしたりする。
そんなちょっと不思議な関係がなんだか心地よくなって、楽しみな時間になりつつもあった。
もしかしたら、先生は他の子たちよりもわたしには少なからず心を開いてくれてるのかな、なんて思っていた。
それだけに、先週のあの出来事がちょっと、いやかなり、未だに整理できていなかったりする。

確かに、わたしといる時の先生はぶっきらぼうで冷たくて、恐ろしい数の悪態をついたりシャレにならないからかい方をしてきたりする。
ただ、いつもの先生の冷たさとは少し違うものをあの時感じて、それが妙に気がかりなのだ。
誰も寄せ付けないような、誰にも近づかれたくないような、そんな冷たさ。
いま思えば、あの時何も反応できなかったのはおそらくその違和感のせいだろうと思う。

何かわたしが知らないうちに、無意識に先生の逆鱗に触れるようなことをやらかしたのかもしれない、そう思ってここ最近の先生とのやりとりを思い出してみるけれど、一向に思い当たる節はない。


「よし!女子は4キロ、男子は5キロの道のりだな!」
「えーせんせー、もうちょい短くなんない?」
「なんない!いいか、持久走というものは自分との闘いだ!心して掛かれ!!」
「先生は走んないの?」
「うむ!共に高め合いたいところだが、俺はタイムキーパーという責務を全うしなければならない!必ず君たちの勇姿をゴールで見届けると約束しよう!!」
「なにそれ煉獄せんせーずるい!!」
「よもやよもやだ、はじめるぞ!位置について、」


駄々をこねる生徒とやたら快活な体育教師を横目にため息を吐く。
毎度思うけど、どうしてわざわざこの寒い時期に長時間走らせようとするんだろうか。
やる気が出ないのはこの寒さのせいなのか、いま心の中で渦巻いてるもやもやのせいなのか。どっちにしろ憂鬱でしょうがない。

「おい、名前」
「うん?」
「俺とお前どっちが先にゴールするか競争しよーぜ」
「ごめん伊之助、今そういう気分じゃない」
「なんだよノリ悪いな」

ニヤニヤしながら話しかけてきた彼には悪いけど、その申し出には今は乗れそうもない。
それでも当の本人は、大丈夫か、腹でもいてーのか、と心配してくれていて、本当にいい奴だなあとしみじみ思う。


用意!という先生の掛け声の後に、ぱんっ、とスタートの合図が鳴った。
一斉に走り始める生徒たちについて行く形でわたしも走り出す。

「んーん、ちょっとね、考え事」
「なんだらしくねぇな、まさか恋のお悩みってやつか?」
「…恋、ねえ」

そこんところもかなり問題。
実際、この気持ちがなんなのかいまいち決着が着いていない。
ドキドキするとか、キュンキュンするとか、そういう自覚はないけれど、でも、
例えば他の女の子たちに囲まれて楽しそうに笑う先生を見ると、胸の奥がずきんと痛んだり、息苦しくなったり。そんなことを考えているとまた無意識に眉間に皺が寄っていた。

「うちらって結構仲いいじゃん?」
「は?なんだよいきなり」
「急にわたしが伊之助に対して冷たくなったらどうする?」
「お前もともと冷てえじゃねーかよ」
「さらによ、さらに!」
「んー、そりゃ単刀直入に、『なんなんだよお前』って言う」
「…理由を聞くってこと?」
「おう、」

でも俺そういうのよく分かんねぇから気づかねーかも、と笑う彼に少し安心する。
真面目に本気で走る組と話しながら適当に走る組とで大きく差が開いて、わたしたちは完全に後者の部類だ。


「なるほどね、っい、!」
「あ?おいどした、」

あとで煉獄先生に詰められるだろうななんて思っていると、急に右足に激痛が走った。捻挫だと気づくまでに数秒かかって、いかにわたしの頭が他の思考で占領されていたかがわかる。
踏みしめる度にずきずきと響いて、耐え切れず立ち止まる。


「足くじいた」
「マジかよ、大丈夫か?」
「へーきへーき、先ゴールしてて、わたしゆっくり歩いて戻るわ」
「いやお前それ保健室行った方がいいだろ」


保健室。伊之助が発したその単語に心臓が大きく跳ねた。
だんだん熱を持ちはじめる右足首とは対照的に冷や汗が止まらない。

「なんか俺もめんどくさくなってきちまったし、ちょうどいいわ」
「なにそれ、」
「ほれ、行くぞ」

おそらくそのままサボる気であろう伊之助に苦笑いしながらも、ありがとうと肩を借りる。

正直、整理のつかないこんな状態で先生と顔を合わせるのは気まずいというか、緊張するというか、なんだか怖い。
よくよく考えたら、ただの教員と生徒の関係ならこんな状況生まれるはずもない。
だったら、ただの教員である先生は、ただの生徒であるわたしに、どうしてあんなことを。
ずっと、原因ばかり探し続けてしまっていたけれど、伊之助の言うように理由を聞くべきなのかもしれない。

でも、またあの顔で突き放されたら、今度こそ泣いてしまいそうで。


「失礼しまーす」
「…失礼します、」


あの日締め出されて以来、二週間振りの保健室。
引き戸が開くと、ぎい、と音を立てて先生が椅子ごとこちらを向いた。
けれど、その目はすぐに隣の伊之助へと向けられる。


「ん、どしたの、怪我?」
「そーなんすよ、マラソンで足くじいたみたいで」
「なるほど、じゃあここ座ってて」

ぽん、とベッドを叩いて、応急処置の準備を始める先生。
ふいに高熱を出して倒れた時のことを思い出して、あの時の先生の言動や態度が脳裏をよぎって少し切なくなる。


「こんなだっけな保健室、久々に来たぜ」
「伊之助には縁なさそうだもんね」
「おう、俺は元気だけが取り柄だからな、ってやかましいわコラ!」
「あっはは、そこまで言ってないって!」

沈みかけた気持ちを伊之助とのくだらないやりとりでやり過ごす。
それでもやっぱり意識は先生に向いてしまって、カラカラと動く椅子のキャスターや、救急箱の蓋が開くぱたんという音、先生の存在を知らせるものひとつひとつにいちいち緊張して、どんどん胸が苦しくなる。

そんな私を知ってか知らずか、先生はつかつかとこちらへ歩み寄って、私ではなく伊之助に言葉をかける。


「ありがとう、君はもう授業戻って大丈夫だから」
「あー、あと10分だけ!」

時計を気にしながら隣のベッドにもう半分寝っ転がっている伊之助は完全にサボる気満々だ。
頼むよ、我妻先生!と両手を合わせて頼み込む伊之助。
きっとあの“優しい”我妻先生なら「仕方ないなぁ、今回だけだよ」とか言っちゃうんだろうな。


「うるせえクズいいから戻れっつってんだよサボリまつ毛野郎」
「っはぇ、」


思わず変な声が出た。
先生は伊之助を見下ろしたかと思うと、怒気のこもった声で確かにそう言った。
まずい。いや誰にとってどうまずいのかは疑問だけど、でも、確実に良くない状況に陥ってし
まったことだけはわかる。
無表情のままの先生の顔を確認したあと、咄嗟に伊之助を見ると、そのぱっちりとした目をさらにまんまるにして、口をぽかんと開けたまま固まっていた。
ひとまずこの場から伊之助を解放しなければ、という謎の使命感で彼の体を揺すると、ようやく正気に戻ったようだった。

「わ、わたし大丈夫だからさ、ごめんけど、伊之助」
「お、おうわかった、」

失礼しましたあぁ、と逃げるように保健室を出て行く背中を見送る。
せっかく付き添ってくれた伊之助に対する申し訳なさと、さてこの状況をどうしたらという気まずさでさらに息が詰まる。


「せ、せんせ、どうしたんですか、」
「別に」

勇気を振り絞って問いかけてみたものの、先生はそれだけ答えてわたしの足元にしゃがみ込みさっさと応急処置に取り掛かる。
慣れた手つきで包帯を取り出す先生をじっと見つめるけれど、視線が交わることはない。

それでも、じんじんと痛む右足に触れる手は、あの日背中をさすってくれた手と同じで、暖かくて優しくて。
温度差のある先生の言動がしきりに心を揺さぶって、じわり、視界が滲む。


「わたし、何かしましたか」

震える声で小さく呟くと、ぴたりと包帯を巻く手が止まる。
このまま、この手が離れていってしまうんだろうか。
勝手に特別感に浸っていたわたしがいけないんだろうか。


「もう、来ちゃいけないんですか」

自分で言って自分で悲しくなるなんて情けない。だけど、気づいた時にはぽろぽろ零れてしまっていた。
自分が思っていたよりショックだったみたいで、正直ちょっと驚いた。
心臓がぎゅうぎゅう締め付けられるこの気持ちは、やっぱり。


「あいつと来るんじゃなきゃ、別にいいけど」


これ以上涙が零れないようにぎゅっと目を瞑っていたところに、そんな言葉が降ってきた。
いつの間にか足首は綺麗に固定されていて、声のする方を見上げると先生は窓の外へと視線を逸らす。あの日わたしが熱に浮かされて問いかけた時も、確かこんな感じで。
あいつ、とは伊之助のことだろうか、といまいち先生の言いたいこととその理由が繋がらなくて、鼻を啜りながらも懸命に頭を働かせる。


「…あと、」
「、はい、」
「お前は悪くないから、泣くな」

そう言って今度はちゃんとこっちを向いてくれて、ようやく目が合った。
やっと向き合えた先生の顔はいつもの呆れたような、でも慈しみのこもった眼差しで。
その瞬間、ずっと胸を支配していた黒くて重い塊みたいなものがすとんと落ちて、また堰を切ったように涙が溢れ出す。

何でもないふりなんてできるはずもなかった。先生に嫌われるのが、たまらなく怖かった。


「っおま、泣くなっつってんだろ」
「だって、せんせいが、」
「…悪かったって」

ぽん、と頭に手のひらが乗っかって、そのまま緩やかに撫でられる。


「その、俺が勝手にイラついてただけだから」
「…伊之助、に?」
「…まあ、」
「どうして、ですか、」

ようやくこの一言が口に出せた。
もしこの言葉を締め出されたあの瞬間に言えていたなら、こんなに悩まずに済んだのかもしれないけど、あの時のわたしにはそんなことができるほどの勇気も度胸も到底なかった。


「…なんとなく」

先生の返事は驚く程あっけなくて、納得し難いものだった。
あれだけ悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。


「…それって教師としてどうなんですかね」
「うるせぇな人の気も知らないで」
「え?」

涙も引っ込んでいつもの調子を取り戻しつつあった会話、先生が発した一言に引っかかる。
まるで先生も悩んでいたみたいな、そんな言い方に少しだけ胸がざわついた。


「もう足大丈夫だろ、さっさと教室戻れ」
「…あと10分だけ、」

だめですか、と恐る恐る先生の顔色を伺うと、先生は、好きにすれば、と言い放って椅子に深く腰掛けた。
少しだけ先生の耳が赤いような気がしたのは、きっとわたしの都合の良い脳みそのせいだろう。



宵の明星は胸を穿つ

(っおい名前大丈夫かよ、)
(うん、大したことなかったよ、ありがとね)
(ばかちげーよあの先生のことだっつーの!)
(…伊之助、今日お昼何でも奢るから何も見なかったことにして)
(はあ!?)
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