「…お邪魔します、」
「ん、ちょっとそこで待ってろ」


いつか来てみたいとは思ってたけど、まさかこんな形でお邪魔することになろうとは。

玄関を入った瞬間に分かる、良いお部屋感。
まぁエントランスにコンシェルジュがいた時点ですでに察してはいたけど。
そんな高級感漂う部屋の玄関にずぶ濡れで立っているわたしは完全に場違いだ。

ここまで先生の車に乗せてもらったわけだけど、車内では特にこれといった会話もなくて。
ただ、寒くないかとか体だるくないかとか、何かと気遣ってくれていた。
ふと保健室で熱を出した時の事を思い出して、あの時の先生も優しかったなぁなんてちょっと切なくなったりして。


「ほら、これ使え」
「あ、ありがとうございます…」
「そのまま風呂入ってこい、着替えはとりあえず俺の着とくしかないけど」
「え、いやお風呂までは」
「風邪引かれても困るの、いいから体温めとけって」

困ると言われてしまっては大人しく従うしかない。
ん、と扉を開ける先生に脱衣所へと誘導される。
ただでさえ初めての部屋で緊張してるのに、お風呂なんていう超プライベートな空間に意図せず足を踏み入れる事となって更にドキドキしてしまう。

「濡れたやつは乾燥機な、帰るまでには乾くだろうから」
「はい、」
「んじゃ、ごゆっくり」


超展開、とはまさにこんな事を言うんだろう。
彼氏の家でお風呂と服借りるって、どう考えたってそういう流れなんじゃないの。

だけど、帰るまでには乾く、という先生の言葉を思い出してふるふると首を振った。
先生はわたしを泊める気はないんだ。服が乾いたらまた家まで送ってくれるつもりで。
そしてわたしはいつもみたいに窓ガラス越しにおやすみを言って、少し寂しい気持ちで眠りにつくんだ。


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ふわふわのバスタオルで体を拭きながら、さっきまで浸かっていた広いお風呂の事をぼんやり考えていた。
全然二人一緒に入れるくらいだったなぁ…と思わず変な想像が浮かびかけると、急に湯上がりの自分から先生の匂いがして落ち着かなくなってしまう。シャンプーから何から全て借りたわけだし当然の事なんだけど。

パンツが無事だったのが不幸中の幸いだ。さすがにノーパンで人様の服を借りるのは憚られるし、単純に恥ずかしい。
とはいえ上はぐっしょりと濡れてしまっていてどうしようもなく、案の定乾燥機のお世話になる事となった。
全部自分が招いた事態なんだからと腹を決めて先生の黒いTシャツを着てみれば、太ももが隠れるくらいぶかぶかだった。この様子だとずり落ちてしまうだろうし、とズボンを履くのは諦めた。
子どもが見栄張って大人の服着てるみたいなだぼつきように、また先生との差を感じてしまう。ため息が漏れそうになるのを一旦堪えて、ドライヤーの音で誤魔化した。


そっとリビングの扉を開けると、先生はソファーに頭をもたれるようにして床に座っていた。
スマホに目を落としているだけなのに、その伏目がちな横顔の雰囲気にどきりと心臓が跳ねる。
こちらに気付いていない様子の先生に、遠慮気味に声を掛けた。


「あの…お風呂、ありがとうございました」
「あぁ、何か飲む…か、」


スマホに向けていた視線をこちらへ移すなり、先生は言葉を詰まらせてそのまま固まってしまった。
だけど次の瞬間には何事もなかったかのように冷蔵庫を開けていて、問い返す事もできずその場でたじろぐ。


「麦茶か牛乳か炭酸水、どれがいい?」
「えっと、じゃあ麦茶で…」
「ん、俺もざっとシャワー浴びてくるわ、適当にくつろいでて」
「え、あ…はい、」


グラスに注いだ麦茶を手渡されてお礼を言う間もなく、先生はわたしと入れ違うようにして脱衣所へと消えていった。
ぱたん、と閉まった扉の向こうから服を脱ぐ音やベルトをカチャカチャと外す音が聞こえてきて、そういう状況でもないのに顔が熱を持ってしまう。

くつろいでて、と言われてもどうしていいものか。
ひとまず先生がそうしていたように床へ腰を下ろし、改めて部屋を見回すと物の少なさに気が付いた。家具以外に目立った装飾品も置かれていない事が余計に空間を広く感じさせているのかもしれない。

そんなさっぱりとした部屋で唯一のインテリアが目に入り、その既視感にはっとして立ち上がる。
サイドテーブルの上にぽつんと佇む、小さな写真立て。近づいて手に取れば、それは間違いなく1ヶ月記念日のデートの時に買ったものだった。
2つセットで対になるようなデザインに一目惚れして、買おうか迷っていたのを先生が引ったくってレジに持って行ったんだっけ。
買ってやるから片方は俺のな、とか言って、結果的にお揃いになったのがちょっと嬉しかったのを覚えてる。

だけど、そこに収められている写真にわたしは写っていない。
先生を中心に大勢の看護師さんたちが並んでいて、その中には可憐に微笑むあの女性もいて。たったそれだけの事なのに、途方もない疎外感に苛まれてしまう。
先生の心の中にはもう、この写真みたいにわたしなんていないんじゃないかって。

だったらわたし、ここにいちゃダメじゃん。
そう思い至ってからの行動は早かった。写真立てを1ミリのズレもなく元の場所に戻し、飲み終わった麦茶のグラスは手早く洗って拭きあげ食器棚へ。
そうしてまだ湿ったままのカバンを掴んだところに、ちょうど先生がお風呂から戻ってきた。


「あの、帰ります」
「は?何言って、」
「すみませんお邪魔しました」
「ちょっと待て、その格好で外出るつもりか」
「…あ、」


先生の言葉を聞くまで、自分の今の格好なんて全く頭になかった。
てきぱきと帰り支度ができるくらいに冷静だと思っていたのは、焦りや不安を隠すために無意識に虚勢を張っていただけだと気付かされて、自分の情けなさにとことん打ちのめされてしまった。

また先生のため息を聞く事になるだろうと身構えるも、その気配は一向にない。
俯きがちだった顔を少し上げると、先生は先ほど座っていた場所の向かい側へと腰を下ろした。


「ちょっとそこ座れ、」


そう言ってソファーを指差す先生は怒っているようでも困っているようでもなく、至って普段通りの表情と口調だった。
意識的にそうしているのかは分からないけど、改めて話す機会を設けてくれようとしている事は分かる。
一度肩に掛けたカバンを下ろして、先生の言う通りにソファーに腰掛けた。


「まず、お前は盛大に勘違いしてる」
「…何がですか」
「あの子はうちで働いてる看護師、車まで濡れるからって傘入れてくれただけ」
「とっても綺麗な人でしたね」
「別に、ただの仕事仲間だし何とも」
「でもお似合いでしたよ」
「…あのなぁ、俺が付き合ってるのは誰だよ」


そんなのわたしが聞きたい。
わたし、本当に先生と付き合ってるのかな。
そもそも付き合うってどういう関係なのか、それすら分からなくなってきた。
好きとも言われない、キスもしない、それ以上なんてもっての外。そんなので付き合ってるって言えるんだろうか。

すう、と胸に取り込んだ空気は鬱積した不満や疑問を纏って、気付けば口の外へと連れ出していた。


「じゃあなんで先生は何もしてくれないんですか、」
「…え?」
「わたしが子どもだからじゃないんですか?先生だってもっと大人っぽくて美人でスタイル良くて色気のある人の方がいいんでしょ!ええそうですよどうせわたしはまな板ですよ!!」
「いや待て、ちょっと落ち着け」
「好きとも言ってくれないし手も出してくれないなんて、わたしは一体先生の何なんですか!なんでこんなのと付き合ってるんですか!!」

先生が慌てたように立ち上がり、わたしの隣に座り直す。こんなに近くにいるのに、望めば望むほど先生が遠ざかっていくような気がする。
感情的に捲し立てるなんて、それこそ子どもみたい。どんどん悪循環に嵌っていくのが分かる。
こんな面倒な彼女なんて愛想尽かされても文句言えないや。
もういっその事、わたしじゃなくて、


「わたしなんかより、ずっとあの人の方が、」
「苗字!」


先生に相応しい、と言おうとしたのを遮られた。
語気を強めて私を呼んだ先生は真剣な表情で、だけどどこか悔しそうに眉を寄せていた。


「わたしなんか、って言うのやめろ」


ぽん、と頭に手を置かれて撫でられる。
その宥めるような手つきが余計に苦しくて、とうとう目からぽろぽろと雫が溢れてしまった。
最悪だ。絶対嫌われた。だって先生は面倒な事が嫌いだから。
そう思って堪えようとすればするほど、鼻の奥がツンとして次から次に涙が込み上げてしまう。


「…泣かせてばっかりだな、」


そんな言葉と共に撫でていた手が後頭部に降りて、そのまま先生の肩口に引き寄せられた。
反対の腕が背中に回されると、久々の先生の体温に胸がじんわりと温まる感覚がしてそれが余計に涙腺を刺激する。


「そんな不安にさせてるとは思わなかった、…ごめん、」

いつもの先生からは想像がつかないほど弱々しく、絞り出すような声で謝罪の言葉を口にする。
回された腕に力が込められたのが分かって、わたしも応えるように先生の背に手を添えた。

「一応、弁明させて」
「…ん、」

すん、と鼻を啜って頷くとゆっくり体が離れていった。
先生はわたしの頬に伝った涙の跡を指で拭いながら、少しきまりが悪そうに話し始める。

「ただでさえ歳の差があるわけだし、俺なりに事の進め方を考えてたっていうか」
「…はい」
「とりあえずハタチになるまでは手出さないつもりだった」
「え、」

という事は、こんな大げさに修羅場っぽいイベントこなさなくても良かったのでは。
普通に仲良く時を過ごしながらまぁいっかと割り切ってれば、丸く収まっていたというのに。これじゃ一人で突っ走って勝手に事故ったただの恥ずかしいやつじゃないか。

「それと、もし仮に俺が美人でスタイル良い色気のある女が好みだったとしたら、そもそもお前と付き合ってないから」
「う、」

とどのつまりわたしは美人でもなければスタイルも微妙で色気もない、って事だ。
それで先生の御眼鏡に適うのなら本望だけど、ただでさえ削られっぱなしだったメンタルに地味に響く。
すると先生はおもむろにサイドテーブルの写真立てに手を伸ばし、裏側の金具を外し始める。
その様子をじっと見つめていると、さっき見た写真の裏にもう一枚収まっているのに気がついた。
思わず顔を見ると、わたしの訝しげな眼差しに気付いた先生は苦笑いでその写真を手渡してきた。

「疑り深いやつだなお前は」
「…これ、わたし?」

いつ撮られたかも思い出せないような、記念日でも何でもない写真。
そこには振り向きざまに不意を突かれて撮られたような、何とも気の抜けた顔のわたしが写っていた。


「でも、なんで…」
「なんでって、好きなもん部屋に飾っちゃ悪いかよ」
「え、あの、さっきの病院の写真は…?」
「新人看護師が多すぎて顔と名前が一致しないから、仕方なく目に入るとこに置いてんの」
「新人…」
「最近の若い奴ってさ、冷たいとか怖いとか言ってすぐ辞めてくんだよ…可笑しくもないのにヘラヘラさせられるこっちの身にもなれっての」

その言葉でようやく腑に落ちたのは、先生が女性の前で見せていたあの笑顔の事。今思えば高校の時、猛アタックする女子生徒たちに向けていたのもあんな顔だったと思い出す。
あの頃に芽生え始めた独占欲がここまで膨らんでしまっているのは、結局のところわたしが先生にとって特別なんだという自覚が無意識にあるからで。
何で付き合ってるのって、そんな事聞かなくたって最初から分かってたのに。自分の心まで疑ってたなんて、わたしは本当に大馬鹿だ。


「他に言いたい事あるなら、この際全部吐け」
「え、と…じゃあこの写真、」
「ん?」
「こんな微妙な顔のやつにしなくても…もうちょっとマシな写りのなかったんですか」
「…何でこれにしたか分かるか、」
「え?」

唐突な問い掛けに写真から顔を上げると、ちゅっと音を立てて唇を啄まれた。
一瞬すぎて驚くことすらできずきょとんとしているわたしを見て、先生は満足そうに笑い掛ける。


「俺にしか見せない顔だからだよ」


やっと思考が追いつけば、一気に顔が火照りだした。
卒業式の時といい、先生のキスは不意打ちばっかりで心臓がいくらあっても足りない。
与えられるのが嬉しい反面、ちゃんと一から十まで全部受け止めたくて。


「あの、せんせ、」
「なんだよまだ不服か」
「…もう一回、してください」
「一回だけでいいの?」
「え、っひゃ…!」

膝下に先生の腕が通ったかと思うと、突然体が浮いて声が上擦った。
保健室で横抱きにされた時よりも遥かに際どい格好なのに、恥ずかしさよりもむしろ期待に鼓動が早まっていく。
太ももと脇下に触れた指先がそろりと体のラインをなぞる動きに体の奥が甘く痺れるのを感じて、腕を回した首元へと顔を寄せた。


「お、抵抗しないんだな」
「…やっと先生が触ってくれたから」
「じゃあ言質も取れた事だし、続きはあっちで」


そう言って歩き出す先生にしがみつきながら、そこそこ可愛いパンツ履いといてよかった、と密かに安堵した。
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