「え、3ヶ月付き合ってまだなの?」


そう言ってぱっちりした目を更に大きく見開くのは、大学の同期の梅ちゃん。
派手な見た目からして絶対友達にはならないだろうと思っていたのに、サバサバした性格や明け透けなく物を言う感じが過ごしやすくて、今や何でも話せるほどの仲となった。
彼女を筆頭に、何故だかわたしの周りには整ったお顔の人が多い気がする。伊之助然り、胡蝶先生然り、それを言うならわたしの彼もまた。


高校卒業と共に晴れて我妻先生と恋人同士となったわけだけど、その関係性は良くも悪くもあの頃と何ら変わっていない。
付き合った時にされたキスが最初で最後、この3ヶ月間手を出すどころか好きだとすら言われないのだ。
お互いに仕事と学業が忙しくお泊まりという決定的なイベントこそないけれど、デート中にそういう雰囲気になれる場所や時間なんていくらでもあったのに。映画とか水族館とか観覧車とか、それこそ先生の車とかさ…!
互いに一人暮らしというこの上ないアドバンテージがあるにもかかわらず、車で家まで送り届けてくれた日はいつも路上でバイバイしてそれでおしまい。わたしに至っては先生の家の場所すら知らないというこの現状。

保健室に通っていた頃はあれだけ犯すだの何だの言ってたくせに、こちらが心づもりした途端にそんな素振りも見せなくなるとは。
妙な危機感に迫られて講義終わりに彼女に相談したところ、飛び出したのが冒頭の発言だ。


「やっぱおかしいよね」
「んーおかしくはないけど、不安にならない?」
「…まぁ、ね」

別に何か問題が起きたというわけじゃない。だからこそ私自身に原因があるのではと考えれば、真っ先に思い当たるのは歳の差のこと。
教員と生徒という壁を取り払ってくれたのは先生だったけど、そうしてただの男女となった分、互いを取り巻く環境や価値観なんかが浮き彫りになった気がして。

わたしは女として見られてないんじゃないか、やっぱり子どもだと思われてるのかも、付き合ってみたら思ったのと違ったとか…と、そんなことを考えない日はない。
教室から校門へと歩いている間に何組も目にするカップルは、手を繋いで笑い合ったり肩を寄せ合っていて一目で恋人同士と分かる。
そこに自分と先生を重ねてはまた肩を落としていると、梅ちゃんの言葉に引き戻される。

「私だったら色々疑っちゃうかも」
「え、疑う?」
「例えば…他に女がいるんじゃないか、とか」
「っな、まさか、」


梅ちゃんの放った衝撃的な一言に、背中が一瞬にして冷えていく。
先生に不信感を抱くつもりはこれっぽっちもないけど、自分に自信が持てない以上そうなってもおかしくないと思えてしまうのだ。


「可能性の話よ、名前の彼って病院勤務でしょ?周りに女性が多い環境だろうなと思って」
「まぁ男性看護師は自分だけだって言ってたけどさ」
「それかただ単に、釣った魚に餌やらないタイプか」
「あー…」

確かに付き合う前からそんな感じで振り回された記憶はあるし、恋人になったからといって大いに甘やかしてもらえるとは思ってなかったけど。
そろそろ餓死しそうだよ、と自虐を込めて笑うと、梅ちゃんは何か思い付いたようにニヤリと笑い返す。

「思い切って誘ってみれば?」
「へ!?む、無理だって!絶対相手にされないし」

寝言は寝て言え、なんて言いながら呆れ返る先生の顔が容易に想像できる。冷たくあしらわれでもしたら二度と立ち直れなくなる気がするし。
両手をぶんぶんと振って勢いよく否定すると、梅ちゃんは眉を寄せて頬を膨らませる。
美人ってこんなわざとらしい膨れっ面しても美人のままなのか、と彼女のポテンシャルの高さに脱帽する。


「でも、何かきっかけがないと変わんなくない?」
「…仰る通りで」
「変わるのって怖いしめっちゃ勇気いるけどさ、ただ待ってても辛い時間が長くなるだけだからね」


怖い、とわたしが口にする前に梅ちゃんは察してくれていた。
何か行動を起こせば現状は抜け出せるかもしれないけど、それが良い方向に転ぶとは限らない。でもこのままだといつか先生の方から離れていってしまうんじゃないか、そんなネガティブな思考がずっと不安を増幅させていた。

息が詰まりそうになっていると、背中をぽすんと叩かれて。
ハイ息吐いて、と言われるがままに深く吐き出すと、梅ちゃんは満足気に頷いた。


「ま、頑張りなよ、真っ直ぐなとこが名前のいいとこじゃん」
「…ありがと梅ちゃん、」
「いつでも気が済むまで慰めたげるからさ」
「いやそれ上手くいかないの前提で言ってない?」
「あっはは、じゃあ勝利報告待ってるね」


ひらりと手を振って去って行く梅ちゃんの背中に苦笑いで手を振り返して、また一つ息を吐く。
先生と一緒にいるのは楽しいし心地良い、けど。
会える日の朝は下着までチェックして、デートの終わる頃には無駄に緊張したりして。そんなはやる気持ちと進展しない関係のギャップに、幾度となく打ちのめされているのも事実。

こんなに意識してるのわたしだけなのかな、と隙あらば後ろ向きになる思考を引き止めてスマホを取り出す。
さすがに誘うのはわたしにはハードルが高いけど、先生の真意を聞かない事には何も分からない。
ディスプレイに表示されている時刻を確認してから、自宅とは反対方向へと歩き出した。


----------


通り慣れない改札を抜けると、生ぬるく湿った風が顔を撫でた。
見事なまでの梅雨空は何だか幸先が悪いけど、常にカバンに折り畳み傘を忍ばせているわたしに死角はない。頭上に掲げたそれを握りしめ、意を決して歩き始める。


いくつも駅を通過して降り立ったこの地は、紛うことなく先生の病院の最寄り駅だ。
連絡もなしにいきなり押しかけるなんて迷惑なのは分かってるけど、それくらいのイレギュラーさがないと本気度が伝わらないと思ったから。思い立ったが吉日という言葉もあるくらいだし、と正当化してスマホ片手に目的地を目指す。
先生の病院はおろか、家にもお邪魔したことは一度もない。そんなわたしがこの見知らぬ土地でも迷わず歩けるのは、今手にしている文明の利器と先生の苗字の珍しさのおかげだ。
地図アプリに導かれるまま歩き続け、お疲れ様でしたという機械音声と共に目線を上げると、『我妻総合病院』の看板が目に入り立ち止まる。
一層強くなる雨足が傘を叩いて、その音が緊張と不安で早まる鼓動を掻き消してくれている。平静を装って外壁からちらりと様子を伺った。

敷地内の駐車場に見慣れた車を見つけてほっとしたのも束の間、自分の傘で隠れていた視界に入ってきたのは相合傘をした一組の男女。

見間違えようのない、金色の髪。
喉から出かけた声がひゅっと音を立てて引っ込んだ。
片手にピンクの可愛らしい傘を携えて、もう片手は傍らの女性が濡れないよう引き寄せつつ車の方へと歩いていく。

真っ先に脳をよぎったのは、早くここから立ち去れという警告。
見なければ、聞かなければ、知らなければ、これからも今まで通り何も変わらないんだから。
いいじゃないか、別にキスとかそれ以上が無くたって、先生と恋人同士だっていう事実があれば、それで。

そうやって無理矢理に納得させようとしても足がすくんで動かない。
さっきまで味方してくれていた雨音が、ばたばたと追い詰めるように叩き付ける。

病院から一緒に出てきたって事はあの人も看護師さんなんだろうな、まさに白衣の天使って感じの可憐さだ。
仲睦まじそうに話しながらふわりと微笑んだ女性に、眉を下げて笑い返す先生。
その光景を目にした瞬間、頭の中の警告がぴたりと鳴り止んだ。


あんな風に笑うの、初めて見た。

やっぱそういうことだよね。
結局わたしは、いつまで経っても先生の生徒で、ただの暇潰しで。
あぁもう来るんじゃなかった、こんな残酷な現実を見ることになるくらいなら。
梅ちゃんと別れた後コンビニ寄ってスイーツでも買って、それから真っ直ぐ家に帰ればよかったな。そしたら今頃は、何も知らずに砂糖の甘さに癒されてるとこだったのに。

そう、私は何も知らずにこれからも変わらない日々を過ごして、自分に自信が持てないままで、誰かと比べ続けて、時に先生を疑って、勝手に傷ついて。

…そんな関係、ない方がマシだ。


そう結論付けたのと、先生と目が合ったのはほぼ同時だった。

目を見開いて驚いている先生と目線は合わさったまま、金縛りが解けたかのように足が一歩二歩と後ずさる。
先生が口を開くのを見て、咄嗟にその場から逃げるように駆け出した。

聞きたくない、何も。
放り出した折り畳み傘が落ちる鈍い音も、現実だと思い知らされる呼吸の音も、焦ったようにわたしを呼ぶ先生の声も。
全部聞こえないふりをして、濡れるのも厭わずひたすらに走った。
この後どうしようなんて考える余裕もなくて、というか考えたくもなくて。
ばしゃりと水溜まりをそのまま走り抜ければ一発でスニーカーが水没して、踏み込む度に靴下がスポンジみたいに水を吐き出す。
普段ろくに運動もしないくせにいきなり全力疾走したせいか、息を吸うのに喉の奥が変な音を立て始めた。
わたし、なんて惨めなんだろう。
そう思った途端に力が抜けてきてしまって、ゆっくりと歩幅を狭め始めた時だった。


「苗字!」


アスファルトに打ち付ける雨音に紛れて、走り寄る足音に気付かなかった。
呼び止める声に反射的に足を止めてしまい最後の意地でまた走り出そうとするも、先生に腕を掴まれ阻止される。


「っおい、待てって!」
「…っ、」

やばい追いつかれたとか、先生って足速いんだなぁとか、こんなびしょ濡れで恥ずかしいとか。
色々と気まずくて俯いたままでいると、ずっと頭に降り注いでいた雨の感触がふっと無くなる。
恐る恐る見上げれば、先生が肩で息をしながら眉を寄せてわたしを見下ろしていた。
頭上の雨を遮っているのは、わたしがさっき放り投げた傘だった。


「何で、こんなとこいんの」
「…たまたまです」
「んなわけあるか、お前の大学の最寄り全然先だろ」
「何か理由がなきゃ、会いに来ちゃいけませんか」
「な、いや別に、」
「いけませんよね、私なんかよりずっと良い人がいるみたいですし」
「…は?」

先生は怪訝そうな顔で一瞬考える様子を見せた後、ため息混じりに言い放つ。


「ほんと、お前馬鹿だな」


ずっと見てきたはずの呆れ顔が、今になってとんでもなく心を抉る。
ふとさっきの女性に笑いかけていた先生の顔を思い出して、どうしようもないくらい虚しくなった。


「…っ、馬鹿ですよ、わたしは」
「え、」


泣いたらだめだ、と何とか堪えたのに声が震えてきてしまって、ずっと溜め込んでいた不安が涙の代わりに溢れ出す。


「こんな、わたしばっかり先生のこと好きで、ずっと先生のこと考えてて…っ、ほんと馬鹿みたい…!」


我ながら重すぎるでしょ、こんな女。
だけどもう限界だった。どうせ駄目になるなら、言いたいこと言って、聞きたいこと聞いて、全部精算してしまった方が後腐れない。

半ばやけくそな思考に流されていると、すっかり濡れてしまった頭のてっぺんにふんわりとした温かさを感じた。
顔を上げるとそれは淡いイエローのハンカチで、上から置かれた先生の手が髪に纏わりつく水滴を拭っていく。


「とりあえず、うち来い」
「え…」
「そんな状態で帰るわけにもいかないだろ」


無意識に握り込んでいた手を強引に攫うと、先生は来た道を戻り始めた。
引っ張られる形になるかと思えば、ちゃんとわたしの歩幅に合わせてくれている。
その背中が愛しくて切なくて、胸が苦しくなった。
prev | back | next
TOP