8. 二十夜
新しい上司との食事の一件があってから早くも一週間が経とうとしていた。彼はアカギさんが私の恋人なのだと勘違いをしたままなのか、私に対し下心を向けることがなくなった。そのため関係は良好で、前の上司よりも仕事ができることもあり、ここ数日はほぼ定時退社することができていた。

久々に真っ直ぐ帰路につくと、夕日に照らされた商店街が人々で賑わっていた。久々だね、と八百屋のおばちゃんと鮮魚店のおじさんに次々と声をかけられ、旬の野菜と魚をつい買い込んで家に帰った。
家で料理をするのは以前アカギさんを泊めて以来かも、と思いながら手を洗った後、野菜を一口大に切り魚を網を使って炙る。



……最近体調があまり良くない。
いつもならバーに向かうが、今日はどうしてもそういう気分になれず、栄養のあるものでも食べてゆっくり身体を休めようと思っていた。

魚の皮が焦げる匂いが漂い始め、ご飯の炊ける前の甘い香りが部屋に充満する。旬の野菜と豆腐を入れた味噌汁が沸騰する前にガスを消した。

ふぅ、と一息ついて料理をお皿に盛りつけ、食卓に並べた。一人分の食事が置かれた食卓は淋しげに見える。

『いただきます』と手を合わせ食べ始める。この家には勿論テレビなんて高価なものはないし、響くのは近所の子供の声と時計の針の音だけ。部屋の蛍光灯は私の手元だけを照らしており、それらが余計に寂しさを募らせた。




と、トントンと玄関のドアを軽くノックする音が聞こえた。誰だろう……大家さんかな、なんて思いながら玄関を開けるとそこにはアカギさんが佇んでいた。私は目を見開きながら呟く。

「え…………アカギ、さん?」
「名前、上がってもいいかな。……邪魔なら帰るよ」
「じゃ、邪魔じゃないです!どうぞ……」



彼を招き入れると部屋の寂しい雰囲気が一変した。いや、大きく変わりはしていないのかもしれないが、私の気持ちは大分上向いた。

「……飯食ってたの。タイミングが悪かったね」
「気にしないでください。それより、アカギさんの分がなくて……ごめんなさい」
「いいよ俺は。飯は食ってきたから」

そう言いながらキッチンの窓を軽く開けて煙草を吸い始めた。私はその光景を見ながら再度食卓につき、食べ始めた。
無機的な針の音の合間に彼の紫煙を吸って吐く音が聞こえるだけだったが、先程まで感じていた寂しい気持ちはなくなっていた。



味噌汁をすすっていると煙草を吸い終えたアカギさんがこちらへ向かってきて、私の対面に座った。……あ、そういえば来客用の座布団を出してなかったな。

彼は食卓に肘をついて私が食べている姿と料理を見比べたかと思うと、軽く口を開いた状態で私の手元に視線を向けた。どうやら『食べさせろ』と催促しているらしい。
私は魚の身をほぐし、彼の口に運んだ。それを一口含むともぐもぐと咀嚼するアカギさん。

「やっぱり名前の料理は旨いね」
「そんな……お塩振って焼いただけですよ」
「塩加減がいい。酒が欲しくなる」
「ふふ、うちにはご飯しかないです。……お酒が飲みたかったらいつものバーに行けばよかったのに」
「まあそうかもね……」

伏目のままふ、と少し顔を緩ませるアカギさん。その続きは決して語らない。だから勘違いしてしまうんだよな……と私も火照った顔を隠すように下を向いた。


ご飯を食べ終えるとアカギさんのために座布団を出し、お茶を淹れて一息ついた。
相変わらず静かな部屋だけど、心なしか部屋の温度が上がっているように感じた。



お腹が落ち着いた後アカギさんに促され浴室に向かった。身体をいつもより念入りに洗った後お風呂に浸かりながらぼーっと考える。



多分この後……するん、だよね。
……あんまり体調が良くないけど、アカギさんが望むなら……。



いつもより湯船に浸かっている時間は短かかったけれど軽くのぼせてしまった。浴室を出て身体を拭き服を着て基礎化粧を終わらせてから居間に戻る。


「お風呂出ました。次、アカギさんどうぞ……タオルはかけておいたのでそれを使ってください」
「ありがとう、いただいてくるよ」

吸っていた煙を吐いた後まだ半分程残った煙草を携帯灰皿に押し付け火を消すと、アカギさんはお風呂場へ向かっていった。
その背中を見守り、部屋の一角に片付けていた布団を広げた後、座布団に座った。布団に入ったら以前のように寝てしまいそうだった。

少しでも身体を動かしたほうがいいかもしれない、と座布団から離れ眠気覚ましにお湯を沸かし、少し熱いぐらいのお茶を入れた。それをちびちびと飲んでいるとアカギさんが髪を拭きながら脱衣場から出てきた。こちらに気付くと、少し驚いたような表情を浮かべ近付いてくる。

「……名前、寝てなかったの」
「こないだみたいに寝ちゃうといけないと思って、お茶を飲んで待ってました。アカギさんの分も淹れますね」
「ああ……ありがとう」

お茶を淹れてアカギさんに手渡すと彼は来客用の座布団に座りずず、と啜った。ほんのり湿ったままの彼の白い髪に見惚れながら私も飲みかけのお茶を啜った。



二人ともお茶を飲み終え湯飲みと急須を洗い布団に向かうと、先に布団に潜り込んだアカギさんが掛け布団を捲って待ち構えていた。

「名前」
「あ……はい」
「おいで」

私が布団に潜り込むと優しく掛け布団をかけてくれた。自分の布団に入っただけなのに何となく緊張している。布団に入ってみるといつもと違いアカギさんの体温でぬくくなっていた。自分の緊張が少しずつ解れていく。

「それじゃあ……おやすみ」
「……え?」

その言葉に面食らい思わず声を漏らした。

「ん?」
「今日は……その、しないんですか……?」
「何、期待してたの」

そう言われ顔が赤くなる。
そういうことをする関係だと自認しているので、彼と会った時点でそういった行為をする、というふうに期待をするようになってしまっている自分に気付く。まるでパブロフの犬だな、と自嘲した。

「期待させて悪いけど、体調良くない女を無理矢理抱く趣味はないんでね……」
「え……で、でも……そのためにわざわざ家まで来たんじゃ……」
「元々の約束は『あのバーで偶々出会ったら……』でしょ。今日は違う。だから今日はアンタを抱かないよ」
「じゃあ……なんで……」
「俺がアンタの家に来たのかって?さあ……なんでだろうね。ただの気まぐれってとこかな」

もう聞くことはないだろうと言わんばかりにアカギさんは私をその両腕で包み込みながら目を瞑った。



……私の体調が悪いこと、分かってたんだ。
抱けないのに態々部屋に残っていてくれたんだ。
これって……少しは自惚れてもいいのかな。



アカギさんへの気持ちを噛み締めつつ、自分と同じはずなのにどこか違う石鹸の匂いと人肌に包まれ、いつもよりも早く意識を手離した。



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