09100


感情の波は、いつも凪いだ海のように穏やかだ。幼少期のことはあまり覚えていないけれど、その頃は今よりいくらか感情の幅があったんじゃないかなあと願望のような懐古をすることもある。短所として説明するなら、感情表現が乏しいと言う表現が合っていると思う。

「なまえ、」

そんな私が忙しなく脈打つ心臓の鼓動を感じるようになったのは、この五条悟という男と出会ってからのこと。今から六年と少し前のこと。大学に入学したばかりの私は、いつも通りの休日を過ごしていた。どこに出かけるわけでもなく好きな音楽を一日中流して、窓から見える風景の写生をしたり、読みもしない書籍のページを父親の書斎でそれっぽくめくって見たり、手伝いという名目で母親の家事見学をしてみたり。汗をかいた薄味のアイスティーを飲みながら、来週からの予定に目を通す。そんなつもりだった。

「今日はきっと帰れないから、戸締りだけはしっかりして」
「ん」

平凡な休みの最中、何とかというお化けみたいなもののおかげで、気付けば一人ぼっちになっていた。流石に普通という枠の中には当てはまらなかった出来事だけれど、想像よりはずっと素直に現状を受け入れることができた。残念ながら、涙は出なかった。
ただ、これが正常な思考の下での事かと言われれば、ノーと答えると思う。一人になった事実に付随する面倒毎が、頭の中をひっきりなしに飛び交っていた。確かローンはないと言っていたからとりあえず住む家はある。親戚に連絡するのだろうか。そもそも連絡するような親戚はいるのか。アルバイトもしなくちゃな。したことないけどいくらもらえるのかな。こう言うところを世間知らずと言うんだろうな。明日からは掃除も洗濯も料理も、全部自分でしないといけない。大学はもう行けないのか。手続きってどうするんだろう。

「遅くなるらしいけど、学長が来るって」
「ん」

夏休みの課題と一緒だ。やらなきゃいけないことが山のようにあるという段階までは考えた。明日以降できることをやっていくしかない。アルバイトってどうやって探すんだろう。インターネットを使うと言うことさえ忘れて、とりあえず近くのショッピングモールを一店舗ずつ覗いて回ることにした。お財布の中身は一銭も使わないと決めたのに、ショッピングモールを出た時には右手にフルーツティーを、左手にはドーナツの袋をぶら下げていた。無駄遣いしないと決めて一時間もしないうちに破っている自分が情けない。どうやら意思は弱い方らしい。

「行ってくるよ」

そんな私を罰するように、槍のように降り注ぐ雨がアスファルトを刺している。家から近いし帰ってお風呂に入ればいいだけだ。車道をいく車の群れが、アスファルト上の小さな池にタイヤを突っ込んでは飛沫を上げていく。雨に打たれてお気に入りの洋服の淡い青色が群青に変わる様子をぼうっと眺めていると、その時まだ知らない男である五条悟が私の目の前に立ちはだかった。

物覚えのいい嗅覚


× BACK NEXT