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目の前に立ちはだかった長身の男は、大きなビニール傘を差していた。目元は隠れていたけれど、代わりに曝け出された口元は綺麗な弧を描いていて、空いた片方の手をポケットからするりと出して私に手を振った。

「ごきげんよう、名字なまえ」

目元を隠した知らない男に自分の名前を呼ばれて、心臓が口から飛び出しそうだと言う表現の意味を、その時初めて実感することになる。心臓は警鐘のように煩いくらい音を打ち鳴らしているはずなのに妙に静かで、その男が雨に打たれたたままの私を楽しそうに見下ろしている光景を、もう一人の自分が道路を挟んで向こう側から見つめているような気分に陥ったのを覚えている。酷い男だなあと心が呟いた時、自分が誰かの固定概念に足を踏み入れたような気がした。この人に憐れんで欲しかったの?頭の中に飛び交っていた文字がぐるりと反転した瞬間だった。

「突然だけど、君を消さなきゃならなくなった」

彼が次の言葉を吐くと、途端に心臓の音が大人しくなる。家族の状況と同様、その言葉も素直に受け入れられた。そして、今度は頭の中がスッキリしていた。素直に受け入れたのだと悟った。こくりと頷いた私に、彼の口角がさらに上を向く。

「随分物分かりが良いんだね」

消す、というのは多分そういう事なんだろう。余りにも現実味がなくて、上手に想像ができていなかったのが良かったのかもしれない。どちらでもよかった。今まで自分のペースで生きてきたから後悔はない。明日からの色々を考えなくて済むし、私が一人いなくなったところで世の中は何も変わらず普通に回っていくのだから。

「三‥二時間だけ待ってもらえませんか。昨日録画した音楽祭だけ見たいので」
「いいよ。家に戻ろうか」
「‥ありがとう」

頭を下げ、垂れ下がった髪の毛の先から弛んだ蛇口のようにぽたぽたと雫が滴った。私の涙の代わりなんだろうか、と思った。

「お邪魔します」

家に戻る間も、彼が私に傘を差し出す事は無かった。私よりも先にソファに腰掛けた彼の前にコップに注いだお茶とさっき買ったドーナツを一つ置く。

「これ、君の?」
「‥あ、そうです」

彼の手にぶら下がる床から拾い上げたばかりのペンダントを受け取り、着け直してからリモコンを手に取りテレビの前に腰を下ろす。二時間と言ってしまった手前、1.3倍速で所々飛ばして見るしかない。お風呂に入るのは‥無理か。どうせならこのお気に入りを着ていたいし。歌の時は速度を戻して、CMは飛ばして。リモコンを手放さない私を、彼の隠れた目にはどう映っただろうか。必死だと笑っていたかもしれない。そもそも見ていないかも。音も気配もない彼が座ったはずのソファを振り返れば、そこに彼はいなかった。再びテレビに視線を戻して、お目当てのアーティストのパフォーマンスをしっかりと目に焼き付ける。最後に聴く曲も着る服も、自分の好きなものを選べるなんてこと出来る私は幸せかもしれないと思った。
残り三十分を残して、私の最後の願いは終了した。もう一度ソファを振り返ってみたけど、やっぱりあの男はいない。どうしたらいいんだ。家の中にいるのかな。それとも出ていっているのかな。ここで待ってていいかな。ごろりと横になって、膝を抱えるように蹲る。‥こうしてたらあの人の手を煩わせなくても済んでしまいそうだ。

「おーい、まだ死んでもらっちゃ困るよ」

瞳を閉じた私に降ってきたその声に、パチッと目を開ける。終わったかと聞かれたので一度頷けば、彼は脱衣場から持ってきたであろうバスタオルを頭の上からばさりとかけた。

「寒いの我慢して見てたでしょ」
「‥」
「そのくらいの時間もあげない奴に見えた?」

そう聞かれて、私は首を横に振った。そんな人に見えたわけじゃない。そんな人に見えなかったわけでもない。そこを確認しようと思わなかっただけだ。

「時間だ、行こうか」
「お願いします」

頭に乗ったバスタオルを置いて、彼の後を追うように玄関を出る。私の最後のお願いは、名前も知らない男が聞いてくれた。

夜明けを閉ざすレース


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