秋の冷たい風を感じるようになって、綺麗な紅葉が始まったと思えば一瞬にして氷のような冬の風が吹き始めた。
大学には無事受かり、学校の期末テストも今までと変わりなく真面目に取り組んでいい点を取った。クラスの子たちともあと数週間でさよならだ。同じ大学に行く子は少なからずいるらしいが同じ学科の子は私以外にいないらしい。
学校の門を通って学校外に出る。卒業生はもう1日も学校にいない。半日になって、卒業という言葉が重くなって来た。
風が吹いて寒いとマフラーに顔を埋めた。自転車は冬になると苦痛で、寒くて死にそうになる。自転車の鍵を取り出して家路につく。あの日通った河が見える。
凪は、いなくなった。
正確には自主退学していた。色々噂にはなったが元々の性格か、それともそういう雰囲気のある子だったからか。一番大きいのは私たちがみんな受験だったからだが、風のように竜巻を作ってはそよ風のように噂は消えた。
私は凪の連絡先を消さずにずっと持っている。ここに連絡をして、果たして、向こうが連絡を返してくれるのか。それとももう変えてしまっているのか。確かめるのが怖くてなんとなくできなかった。
卒業が明後日に迫ってきている。私は学校の抜け道からあの神社に向かった。相変わらず、浮いているように見える。いつもの場所に座る。冬の空は低くて風は自分を殺すかのように冷たかった。あの夏の日の暑さも、ぬるい風も、ラムネ色の空も消えてしまった。
あの日一緒に見た入道雲はなく、空には長い飛行機雲が伸びていた。祭りの日に聞いた、凪の話。微かに思い出して立ち上がった。自転車置場に戻る途中に、冬になって使われなくなったプールが目に留まった。勝手に入ることは自分にはできなかった。冷たくて透き通ってて気持ち良さそうな水はなく。緑色をした汚いプールになっていた。また、春になったら水泳部が綺麗にするんだろうな。フェンス越しに花火大会の日に座っていた場所を見る。あの一瞬の青春を思い出して無意識に唇に指を触れさせた。
あの夏に出会った、水色したシュシュはあのラムネ色した空と同じ色だった。鮮烈な清々しい若さの象徴を終わらせてしまった。あの日、初めて会った日も、初めて見たあの青も、初めて知った煌めきも、溺れたままにはできなかった。ただ、あの時は息ができなかった。できていたはずなのに、まったくできなかった。叫んだはずなのに叫んでなかった気がする。きっとそういうもんだと思う。青春なんて、若さなんて一瞬だ。この制服を脱いでしまったら私はきっと大人になるしかなくて、凪はそれを早めてしまっただけだ。やりたいことはできた。だから、やめたというように。
卒業式。母は私の好きな着物姿で来てくれた。クラスの子たちとはそんなに仲良くなかったから写真を撮るなんてことはしなかった。ただ、学校内を回って記憶に刻むようにあちこちを見ていた。卒業式。なんとなく重い空気が流れる。仰げば尊し。青春は終わった。青さが終わった。若さは残ってる。でも、今の若さは終わった。一瞬だった。あの夏。あの青さを駆け抜けたら一瞬だった。
お母さんと一緒に帰って、お父さんにおめでとうと言われてご飯を食べに行ってお風呂に入ってその日は疲れて早めに寝ようと思って、おやすみなさいを言って部屋に向かった。ふと机の上を見るとあの渡せなかった鍵があった。形のように置いてある鍵。私は無言で布団の中に入った。
暖かい日差しが入るようになって春が来た。大学にはレポートがあって、慣れないことがたくさんあった。バイトも始めた。友達はすごくできたわけではないが、そこそこ挨拶する程度とノートの見せ合いをするくらいの友達はできた。主に私が見せている気がするが。ノートの取り方が綺麗だと褒められて嬉しかった。
暖かい日差しは消えて、蝉が鳴き始めた。あの青さを何度も思い出す。私は自転車通学をしてない。電車になってからあの河の大きさと長さを知った。相変わらず、青さは変わらなくて何度もあの溺れた心地よさと苦しさと苦さを思い出した。大学の夏休みは長くて勉強をしなくてもいい期間が長いことに驚きをしながら赤点がなかったことにほっとしながらバイトに励んだ。大学では私服のためいろんな服を着る。その分衣服代がかかる。シンプルだが割と好きなブランドを見つけたのでそこの秋服を買うために貯金も頑張ってる。遊ぶ友達もそんなにいないため貯まる一方だ。凪ならどんなふうに使うんだろうか。
秋になって、冬になって、一年が経った。凪の形見になった鍵はずっと机に置いたままだ。
春が終わって、蝉が鳴き始めた。夏。
あれから2年経った。電車に揺られる。山が碧くてなんだか懐かしく思えた。
眩しい日差しはジリジリと肌を焼くようだった。銀色の額縁の向こうには綺麗な風景が広がっていた。
無人駅を利用するのはこれが、3回目。
相変わらず、ここは田舎だ。何もない。だが、それが良かった。眩しい日差しを日傘で遮りながらサンダルで歩く。あの時よりは何もかも大人になった。服も、化粧も、髪型も。みんなのように派手な化粧はまだできないからしてないし、黒髪のままだが。大人になった。
あの日見た家は、あの時よりマシになっていた。
深呼吸をして、ベルを鳴らす。
ドアの向こうから久しぶりの声がする。
「はーい・・」
ドアを開けて固まったあなたを私は久しぶりと笑った。
「君から会いに来るのは、初めてな気がする」
他に言うことあるでしょと思うが、そこがあなたらしくてまた、笑った。
久しぶりに会ったあなたは白いTシャツに短パンで、あの日にあった服装とそう変わりがなかった。ただ、少し化粧をしていて大人になっていて、あのバナナフィッシュは消え、長くて綺麗な首が見えていた。
「汚いけど、上がって」
私はその家に。2年ぶりに来た家に初めて入った。
「久しぶりだね」
「急に消えたから、驚いた?」
冷たい麦茶を出してくれた。氷がカランと音を立てた。
「驚いたと言うよりも、なんだか呆気なかったわ。まるで、季節が変わるようにいなくなったんだもの」
「生活はどう?」
「まあまあね」
「大学でしょ?」
「そうよ。受かったからね」
「どう?」
「普通ね。わりとやりたいことはしてないわ」
「やりたいこと?」
「思ってた授業と違うと言うか」
「なるほど」
「あなたは?」
「私?あー、そうだね。元気だよ。なにも変わりがない」
「そうそう。私返すものがあって」
私はそういうとあの形見代わりになっていた鍵を取り出した。
「ああ。それ。もういらないのに」
「大家さんに返さなくていいの?」
「ん?ああ。そうだね」
忘れてたと言って鍵を受け取った。机に頬杖をつきながら受け取った手で鍵を持ち上げて眺めた。
「懐かしいな」
「どうして、消えたの?」
「どうしてだと思う?」
いたずらっぽく言って来るところは変わってない。
「私、色々考えたの」
日陰の部屋は少し冷たかった。縁側に差し掛かる日陰も冷たそうだったが、空気が暑そうだった。
扇風機が回る。エアコンは部屋にあったのと同じような気がした。使ってないところからして、彼女らしい。だから、まだこの部屋は暑い。
「あなたが消えた理由。私に色々話したからじゃないかって」
風が吹いてるのを木々の揺れで覚えた。
「でもね。色々思ったの。もしかすると鍵を置いていったのって意味があるんじゃないかって。だって、合鍵があるならポストに入れといてとかじゃない?でも、あなたはそれをしなかった。だから、私は考えたの」
お互いに大人になった。大人になって色々考えた。
「言ってなかったけど。私、夏生まれなの」
「そうなんだ」
「そして、私は明日、20歳になるの」
「ほお。それはおめでとう」
「19歳って。わりとさみしいのよ。大人でもなければ子供じゃない。間にあるのよ。子供として過ごせる最後の18歳と、大人になる20歳。18よりはできることは多いけど、20よりは少ない。さみしいのよ。忘れ去られやすいから」
氷が溶けてカランと音を立てる。結露になってしまった水が垂れる。
「大人になる前にあなたに会おうと思って」
「子供なんだ。まだ」
「人って、きっといつまでも子供よ。でも、本当の子供じゃないわ。大人の真似はできるけど子供の真似はできないもの」
「それで。鍵を返しに来たの?」
「それもだけど。私なりに考えたんだけど」
凪が首を傾げる。
「幸せって。なんだと思う?」
あの日、あなたが欲しかったものを考えてみた。
「私。今ね、恋人がいるの」
「ほお」
「いい人よ。カッコよくて」
「告白は向こうから?」
「そうよ」
「よかったじゃん」
「そこで気づいたの。誰かを愛すというのは。しんどいのよ」
チリンと窓越しの風鈴の音を聞いた。
「好きとか愛してるって、しんどいのよ。人って自分で精一杯なのに。苦しくなるのに、なにをどうしても人を好きになるのよ。でもね。それってとても幸せなことなのよ。その人を守ることも、守っていたのがいつのまにか守りあっていたことに気づいた時。それは、温かな優しさが生まれるのよ」
「恋人ができてわかったの?」
「そ、れもあるわね。でも。それだけじゃないわ。美味しいものを食べたり、楽しいことをしたり、幸せってどこにでも転がってるのよ。でも、私たちはそれに気づかない。正しくは、気づかないくらいの幸せなのよ。ねぇ。凪。あなたのお母さんもそうだったんじゃないの?」
「お母さん?」
「好きな人ができたとして、あなたを捨てるしかなかったとして、お金を振り込んでくれるだけの存在になったとして。それでも、お母さんはあなたのことを愛してたのよ」
「・・・」
「私。探したの。鍵を返す意味を。幸せってなにって」
「それで」
いつのまにか少し下がっていた目線を上げた。
「わかったの?」
いたずらっぽく聞くこともなく、いつになく本気で聞いてくるあなたを見て、笑う。
「わからなかったわ」
凪が少し驚いた顔をする。
「わからなかったわ。でも、その程度なのよ。きっと」
些細なことが幸せだとして。人を思いやることが幸せとして、守りあえることが、守ることが幸せとして。でも、それはきっと気づかない。
「その程度」
「そう。でも。その小さなことに気づかないと意味がないのよ」
凪は私の話を聞いて、なぁんだと顔をして
「澄乃ってさ。わりと、大雑把だよね」
「知らなかったの?」
「2ヶ月でわかるわけないじゃん」
「私はわかったわよ」
「なにが?」
頬杖をつき直した凪をみて、笑う。
お互い大人になった。あの青が消えた。もう戻ってこない。だからといって私は終わらせなかった。きっとそういうことだと思う。
若さもない。けれども、あの夏はある。人は同じ川に、二度入ることはできない。でも、同じだった。
「なんだと思う?」
いたずらっぽくいう私をみて、彼女はあの頃私がしていたと思う顔をする。気にくわなさそうな顔。
なんだかおかしくなって笑った。彼女も笑った。
蝉の声は窓越しに聞こえてくる。畳は少し冷たくて気持ちよかった。
青い空はあの日のように、ラムネ色をしていた。
あの日、あの時、私はあなたに会った。青が支配していたあの世界であなたに会った。
一瞬にして溺れた世界は苦しかった。けれども、それはとても大切なことだった。息ができない。若かった。なにも知らなかった。
あれから大人になって。少しあの日を明確に思い出すことができなかった。でも、暑さも、蝉の声も、真っ白に刺す熱い日差しも、泣けなかった一番星も、塩素の匂いがするプールも、花火も、海も、あの琥珀色に染まるポニーテールも、屋台を泳ぐ尻尾も、忘れることはできなかった。
陸に上がった私は振り返り海を見た時、なにを思うんだろうか。
あの日、あの暑い日。幽霊に会った。あの夏の日。
夏の始まりにあった。夏に生きた。ひと夏の思い出は、青いままだ。
今の私たちは、なにを叫ぶだろうか。
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