そっと握れば、ぎゅっと握ってくる。そのままバナナフィッシュを追いかける。暗くネオンが輝く街を抜けて電車の音が遠くなる。人が全くいない暗い道を抜ければ、ボロくて小さいアパートが見えた。今みたいな長細くて綺麗な同じようなドアが並んでいるアパートじゃなくて。ベランダは錆びついててコンクリートの壁がいやに冷たく感じた。二階建ての二階で右端の部屋が彼女の家だった。
ワンルームのアパート。本当に寝るためだけにあるような家だったが、家の中は綺麗だった。

「外見よりも綺麗でしょ」

と笑った彼女。

「リフォームしたの。してくれるっていうかしたいって人がいたから」

綺麗好きなのか、物が少ないからか。ワンルームにしては広く見えた。

「夕飯。結局食べてないね」

と言った。

「うん、食べに行こう。冷蔵庫の中なにもないし」

と言って。いつものサコッシュに財布を突っ込んであの日のように口を開けた。財布を入れろと言ってるのだと勘づいた。無言で入れた。
近くのコンビニに行って食べたいものを買った。彼女は明日のパンなのか食パンとか真空パックされているチキンなどを買っていた。

「大体は、ママのとこ行くんだけど。今日は疲れたから」

と言った。
敷布団の前に置かれてる机の上に買ってきたコンビニのご飯を置く。あまりコンビニを利用したことがないから少しワクワクして割と多く買ってしまった。

「いいよ。明日の朝にでも食べたら」

と言った。

「最近のコンビニは、こんなに美味しそうなものが多いのね」

「アメリカンドックとか、たまに食べたくなるよね」

「おにぎりの種類があんなにもあるなんて思ってなかったわ」

「よかったね」

テレビもなにもないし部屋で無言で食べる。

「だいたいはさ。ママのとこで食べるんだよ。健康がとか言って作りにくるよりも食べに言ったほうが早い」

ママがいい人なのがすごく伝わってきた。本当の娘じゃないのに、優しくできる。

「いい人ね」

「いい人だよ」

と笑った。
久しぶりに食べたコンビニのおにぎりは海苔がパリパリしていて懐かしく感じた。
お腹いっぱいになって、2人で無言だった。

「お風呂入りなよ」

とシャンプーやトリートメント。コンディショナーの使い方を教えてくれた。
あまり狭いシャワー室に入ったことがなかったから少しワクワクした。

「お風呂、ありがとう」

「いいよ。はい。ドライヤー」

とドライヤーを借りた。
ふと気づいたが、彼女の家にはものがないが、必要なもの。炊飯器やドライヤー、エアコンに洗濯機などはすべて最新だった。よくない察しがつくが、私には関係ない。これは善意だ。彼女がそう言ったのだから。問題はそこじゃない。そう、私が聞きたいのは

「難しそうな顔をしているね」

後ろを向いたら凪がいた。

「そ、う?」

「聞きたいことあるもんね」

そう言ってドライヤーをかけ始めた。このドライヤーが終わったら。熱風が止んだら。私たちはどこまで深くなれるだろう。
ゴォという音が、消える。

「なんだっけ?私に聞きたいこと」

「あなたは。凪はどうなのかなって。そうなって、どうなのかなって」

「どうもないよ」

「叫びたいんでしょ?」

「なんでも、うまく叫べるわけじゃないよ」

「じゃあ、寂しくないの?」

「さあ?どうかな。わからないんだよ」

「じゃあ、わからないって叫べばいいのに」

「誰もがそんなに叫べないよ」

「私には、叫べって言っておきながら?」

「叫ぼうって言ったんだ」

「屁理屈ね」

「本当のことだよ」

「どうして、私だったの?」

「なにが?」

「あなたにとって、私はなに?」

聞けなかったことが聞けた。心臓がドクドク言ってる。うるさい。静まれ。

「憧れ」

ポソリと言った。

「あの日君を見つけたのは初めてじゃない」

「入学式の日。私は1人だった」

入学式。めんどくさくてサボろうとしていたところ。ふと目に入ったのが私だったらしい。
まるで何も知らない。親に守られてる私はすぐに目に止まったと言う。

「他の子も、そうだよ。守られてる。でも、みんな。自分の世界を持ってて、親の知らない自分を存在させてた」

「でも、君はまったくもってなかった。何もない私とは違って持ってるのに持ってなかったんだ」

暖かさしか知らない私は無知で幼稚でつまらなくてただのいい子だったんだ。でも、凪にはそれがとても眩しく見えた。

「それから、体育の時とかに見かけたりしたよ。移動教室とか。目にとまるんだ。いつも1人でいる君が。私と正反対で、全てを取り逃がさないように必死になってる君を見てて少しバカバカしいと思ったし羨ましいと思ったよ。君の話だって聞いたことがある。真面目でいい子だと。女の子って悪口が好きだから何か言うかと思えば、それしか言わない。逆にそれしか言えないんだ。君のことを知らないから。知らなくても悪口を言うのに、それさえもない。なんて中身がない子だと思ったよ」

いつもより多く話す彼女。私はずっと聞いていた。

「君と話すようになって。もっと君のことを解放したくなったよ。つまらなそうに生きてるなって思ったから。何に縛られているんだろうって。そう思ったら、私の世界は広いことに気づいたんだ」

下手くそに笑う。私は相変わらず何も言えなかった。

「でもね。まったく嬉しくなかったんだ。逆に苦しかったんだ」

何故だろうねと笑う凪。寝よっかと電気を消して布団に向かう。私はずっと不安の上に座ったままだ。

「あなたが、叫んでないからよ」

と言った。

「全てにおいてあなたは、達観している方だと思うわ。でも、あなただって。子供なのよ。私もそう。言ったじゃない、若いからって。私は、あなたに叫んで欲しいのよ。何が欲しいの?何がしたいの?何を望んでるの?」

「なにかな。わからないんだよ」

「うそよ。それは」

「ほんとだよ」

「違う。そうじゃないわ」

だんだんイライラしてきて少し早口で言った。

「ほんとだってば。じゃあ、逆になんだと思うの?」

「わかっててもやり方を知らないのよ」

そう言えば凪は少し固まった。

「言えばいいのに」

私はそれを聞きたいのよ

そういえば、凪は少し黙って深呼吸してから

「私は、わからないんだよ。なにも。平穏な生活なんてしてきてないから」

「うそよ。おばあちゃんの家では幸せだったんじゃないの?」

「言ったじゃん。近くにいるとうざったくなるって」

「心を許そうとしてないからよ」

「随分と偉そうに言えるようになったね」

言い方はともかく、驚いたまま言う凪に笑って

「あなたのおかげかしらね」

と笑った。

「君はいいね。全て分かった気がするんだろう?」

少し影を落として言う。
ここは駅から離れてるから電車の音が微かにするだけだった。そのかわり夏の終わりを告げるひぐらしが泣き叫んでいた。

「わからないわよ」

「いや、わかってるよ。でも、君だってやり方を知らないんだ」

「なんでそう思うのよ」

「わからんだよ。君はいつも一歩足りない」

そう言われてカチンときた。

「なによ、あなただって、凪だって、わからないくせに!」

押し倒した場所は布団の上で、音はそんなに出なかった。

「あなたはいいわよね。誰に話しかけても、誰と話してても楽しそうで。つまらないと感じられたこともないでしょうに。私はいつもそうよ。一歩足りないのよ。私は面白くないから。なにもかも!」

凪の顔がうっすら見える。

「だから、君は人間なんだ」

冷静な声がした。

「私は、幽霊だから。足りないだらけなんだよ」

弱い声がする。

「死にたいの?」

随分と震えている声だった。

「死にたいわけじゃないよ」

笑うような声が聞こえた。

「でも、生きていたいわけでもないよ」

だから、苦しんだよ。そう言って鼻声が耳に針のように聞こえてきた。
その言葉は切実だった。なによりも、切実だった。

「幽霊は、死んでるからなにもできないよ」

なにもないからこそできる。あの時に言った言葉を私は思い出した。

「わからないから、叫びたいんだ」

随分と子供に見えた。無邪気さも発想力も子供じみた見えていたのに。

「怖いんだ。幸せって、なんだよ」

暗い中で光る雫が、ポタリと垂れる。綺麗な目から流れるそれはなによりも儚くて、美しかった。

「そんなの、誰も知らないよ」

「きっと、誰も知らない」

私の声が届いているのか、凪が始めて私に心を許したのをきちんと感じ取れた。
私は無言で覆いかぶさるように抱きしめた。お互いにお互いの不安は拭えなかった。
私たちは正反対で、同じだった。正反対だったからこそ、ピタリとハマった。ハマりすぎた。

「知りたい。私は。楽になるのを。幸せを」

そんなの誰だってそうだと思ったが、いえなかった。
みんなが思っていても、それはどれだけの重さの言葉になるのかわからないからだ。
一緒に流した涙は、拭えなかった。あの日流さなかった涙は、今流した気がした。だとしたら、私は、叫べたのだなと感じた。
朝、目を覚ましたら彼女はいなかった。鍵は合鍵があるからそのまま持っといて。また今度返してねとだけ書かれた置き書きがあった。
私はコンビニの残ったご飯を食べる気にならずにそのまま家を出た。


一緒に生きようとは言えなかった。


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