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「吹雪。…少し、良いか」
「…うん、何かな、豪炎寺くん」
それは、吹雪が北海道に帰る前日のこと。吹雪が鉄塔広場で特訓していた円堂や、そこに立ち寄ったらしい豪炎寺とこれまでの激闘の日々を懐かしんだその帰り道。現在厄介になっているという円堂家に帰ろうと歩き出した吹雪を、豪炎寺は引き留めた。
「…聞きたいことがある」
そこまで口にして、豪炎寺はふと言葉を切った。そこには何事かを躊躇うような素振りさえ見える。そしてその理由も、聞きたいことでさえ吹雪には心当たりがあった。…あり過ぎた。だから少しだけ意地悪をするつもりで、彼は豪炎寺よりも先にその名前を口にする。
「薫さんのこと、だよね」
「……あぁ、そうだ」
単刀直入に聞く、と前置いて豪炎寺は微かに目を泳がせた。「…あいつのことをお前はどう思ってるんだ」だなんて、そんな聞き方だとまるで、吹雪の心を既に見透かしているような言い方に聞こえた。…実際、見透かした気でいるのだろう。だから吹雪は笑ってみせた。
「好きだよ」
それを聞き、何事かを言いかけた豪炎寺の口はやがて自嘲を噛み殺して静かに閉じた。…恐らく、予想していた答えその通りだったのだろう。
だからこそ、優し過ぎる目の前の彼は、言うべき言葉を告げることが出来ない。
それが豪炎寺の美点であるはずなのだが、と吹雪は内心苦笑して口を開いた。
「人に対して胸を張って言えるくらい、大好きなんだ」
「…」
「…でも、君が思っているような好きじゃないよ」
「……?」
そこで初めて、豪炎寺の顔が訝しげなものになる。発言の意味を問うその目は、吹雪に説明を求めていた。
「薫さんはね、優しいんだ。雨の中、何処にいるかも分からない僕を探しに来て、手を引いてくれるくらい、優しい。
そして温かいんだよ。繋いだ手も、かけてくれた言葉も、向けてくれる目も全部、全部」
「…」
「…まるで、母さんみたいだなって、思ったんだ」
「…母さん?」
「うん、そう。母さん」
寝かしつけるように、自分が寝落ちるそのときまで手を握り続けてくれた彼女を何度か、今はもう何処にもいない母に重ねたことがある。
優しい眼差しも、決して自分を否定したりはしなかった温かい言葉も、導くように引いて繋いでくれた掌の柔さも。
可笑しいだろうか。それでも吹雪にとって薫は、自分の心を精一杯守ってくれた大好きな女の子だ。…それが、目の前の豪炎寺の抱える想いとは色が違うだけで。
「…うん、やっぱり母さんの方がしっくりくる。…安心した?」
「いや、俺は…。…あぁ、まぁな」
ニコニコと微笑みながらそう告げる吹雪に、豪炎寺は思わず舌を巻く。恐らく彼は、豪炎寺の抱える葛藤やら気持ちやらを悟ってしまっていた。…だからこそ、こういう分かりやすい言葉で安心させようとしてくれているのだろう。
いや、それも本心ではあったのだろうが、気を使われている気がしなくも無い。そんな自分のデリケートな感情を何となく悟られたことが気恥ずかしくて、思わず目を逸らした。
…だから、次に言われた言葉の意味を彼は最初、頭で理解することができなかった。
「ところで豪炎寺くんはいつ薫さんに告白するの」
「は?」
「豪炎寺くんなら良いよ、僕。薫さんのこと安心して任せられるかな」
「は?」
「まぁ…ちょっと薫さん鈍いところがあるけど、そこは君の頑張り次第だよ!」
「は?」
豪炎寺が「は?」以外の言葉を忘れた。吹雪の満ち足りた笑顔はなおも崩れない。むしろ先ほどよりイキイキしている気がするのは何故だ。思わず呆然としていれば何を勘違いしたのだろう、吹雪が心配そうな顔で追撃をかけてくる。
「豪炎寺くん…僕、本当に君のこと応援してるんだよ?優しく見守りながら支えてくれた薫さんのことは母さんだと思ってるし、厳しく叱りながらも見捨てないでくれた君のことは父さんだと思ってるから」
「とうさん」
「豪炎寺くんと、薫さんと、僕の三人家族って素敵だと思うんだ。二人が恋人になったらもっと素敵だと思う」
それは自分も素敵だと思う、という思わず口から飛び出しそうになった心の底からの本音は飲み込んだ。彼は別に恋人関係になりたくて彼女を好きでいるわけじゃない。それこそ今も、吹雪がそういう意味で彼女を好きなのなら任せても良いかもしれないと思うほどに、彼は薫の幸せを願っているだけだった。
しかし返ってきたのは予想の斜め上過ぎる答え。シリアスを貫いてメッタメタに刻んだ吹雪士郎の笑顔が眩しい。ズキズキと痛み出すこめかみを抑えながら、豪炎寺は半ば唸るようにして言葉を絞り出した。
「………それは、あいつにも言ったのか」
「え、うん。薫さんにも言ってみたらニコニコして笑ってくれたよ」
『士郎くんのことは弟みたいに思ってたけど、たしかに息子でもそんなに変わらないかもね』というのが彼女のセリフであるらしい。大いに変わる、というツッコミを豪炎寺が口にしなかったのはこの場にその当人が居ないことと、吹雪には何言っても無駄だろうなといち早く察したためである。
実際その通りだったし、吹雪の目はこちらが罪悪感を抱くほど純粋に澄み渡っていた。なおさらたちが悪い。
「何かあったらいつでも相談してほしいな」
誰がするか、という心の叫びは何とか押さえ込み、曖昧な言葉であぁ、だのそうだな、などと返しておくことにする。
*
…そんな昨日の会話を思い出しながら、豪炎寺は蘇ってきた頭痛に思わず顔をしかめた。目の前では、飛行機の搭乗口前で和気藹々としながら手を取り合って別れを惜しむ薫と吹雪の姿が見える。側から見れば幼い中学生の恋人同士の微笑ましい光景に見えるのだろう。実際、隣の鬼道は苦虫を噛み潰したような顔で彼らを見ている。
…だが、豪炎寺だけは知っていた。これは、そんな甘酸っぱい青春のような一幕では無い。例えるならば、一人立ちするために単身旅立っていく息子を見送る母と、そんな母との別れを惜しむ息子の図…!
父が自分だと思われている事実がまたしょっぱい。完全に母子の様子を離れて見守る父。豪炎寺は思わず遠い目になった。
「ッ…!ッ…!!」
「…鬼道、せめて言葉にしないと分からないが」
目の前でお互いに抱擁しあって最後に別れを惜しむ二人を見て、鬼道の顔が引きつるように強張った。分かる。豪炎寺も昨日の話を聞いていなければ恐らく同じ顔をしていた。
しかし今もどうしてもただの親子のやり取りにしか見えないからきっと自分は疲れている。そう思うことにした。
…そんな風に半ばいろいろと諦めながら息を吐けば、ふと薫と抱き締めあったままの吹雪と目が合った。ひらりと手を振ってやれば、彼はどこか嬉しそうに微笑むと、声にすることは無いままパクパクと口を動かして何事かを告げる。それを見て豪炎寺は思わず目を見開いた。…そして、微笑む。
「…どうしたんだ豪炎寺」
「いや…何でも無い」
それを見たらしい風丸の訝しげな声が豪炎寺に向けられたが、彼はそれを苦笑いで誤魔化した。
…そして、吹雪はそのまま名残惜しげに手を振って飛行ゲートへと消えていく。見送ろう、という円堂の声で屋上に向かいながらジッと見つめた先にある薫の背中はやはり寂しげだった。その背中を、軽く叩く。
「…そんな顔をするな」
「…豪炎寺くん…」
「また、きっとすぐに会える」
「…うん、そうだね」
そうだよ、と眉を下げて笑う薫を見てホッと息をついた。先ほどよりも元気を取り戻したらしい彼女がフェンス間際にいる円堂たちの元に駆け出していくのを見送りながら、豪炎寺の脳裏を過ったのは先ほど吹雪から託されたばかりの言葉だった。
『薫さんを、よろしくね』
お前に言われなくとも、という悪態は引っ込めて代わりに微笑んでみせる。そのまま空を仰いだ豪炎寺は、白く細い雲をたなびかせて飛んでいく飛行機を眺めて、小さく一つ、笑みをこぼした。