やわらかい手つきで奪ってくれ

雨の日が好きだ。
朝起きて窓の外、雨が降っているのを見ると心が複雑に騒めき出す。
サッカー部のマネージャーであるからには聞かなければならない本日の練習の有無をキャプテンである円堂くんに問えば、案の定今日はグラウンドも河川敷もぐちゃぐちゃになって使えないからお休みだという。その返信に一言お礼のメールを返してから、ようやく私は自分の部屋を出た。

「あら名前、今日は早いのね」
「うん、雨だから、早く行きたくて」

これは本当。大通りを通学路として使っている以上、なるべく車の少ないうちに学校へ向かわなければ泥水を撥ねられてしまう。それだけは勘弁だったから。
トーストと目玉焼きを半分ずつ。コーンスープは二口だけ飲んで今日は残した。「雨の日にはいつも食欲が無いわね」とお母さんが心配そうに尋ねる。その鋭い意見に少しだけドキリとしながら何でもないように洗面所へ向かった。
歯を磨いて、そっと制服のスカートのポケットから取り出したのはピンク色のリップ。色付きは校則違反だから取られてしまうけれど、無色無香料ならばそんなことは無い。少し前にお洒落なお店で背伸びして買った高いお値段のそれを、そっと唇に滑らせる。

「…ん」

モゴモゴと動かしながら馴染ませれば、さすがはちょっと高いお値段のリップ。潤いを重視したそれのおかげで、口元は少しだけ大人に見えなくも無い。
…別に、私はいつもこれを付けている訳では無い。ただでさえ高いのだ。いつもは安い薬局のリップで済ませている。
けれど、雨の降る日だけは、付ける。
どうしても付けなきゃいけない理由ができたのは、今では遠い昔のように思えるけれど、実際はほんの一ヶ月前の話だったりした。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

そんな娘の少しだけひっそりとした決まりごとに気づいているのかは知らないけれど、きっといつかは気づくであろうお母さんに一言告げて家を出る。いつも使っている傘を広げて通学路へと飛び出せば、途端に雨垂れが傘の布地を叩き出した。
弾けるような音は心地良くて、しかしやはり胸を騒つかせてしまう。
そんな自分の早鳴り出した心臓の音を聞かないフリで、私は目の前の小さな水溜りを飛び越えた。





教室に入れば室内競技の朝練組の荷物が机の上に置かれているのが見えるが、人間は私の他には誰も居ない。一番乗りではないくせに何となく勝ったような気持ちになって自分の席に腰を下ろして外を眺めてみる。
強くは無いが決して弱くも無い雨垂れの音が時折窓を叩くのをBGMにしながら、昨夜とうとう睡魔に負けて取り残してしまった予習の残りに取り掛かる。中学三年生に上がってからまだ少しだけれど、授業は少しずつ難しくなっていく。成績の芳しく無いサッカー部の一部の面々を見て、鬼道くんが頭を抱えていたのはつい最近の話だ。
私は別に、可もなく不可も無い。高校もこのまま近くの普通科のある公立高校に進学する予定だ。受かればの話だが。

「…今日の予習か」
「わ」

英語の最後の本文を辞書と睨めっこしながら和訳していれば、後ろから耳元へかけられた声に思わず身を跳ねさせる。二重の意味でバクバクと鳴り出す胸を思わず手で撫でて振り向けば、そこには驚かせてしまったことに対して決まり悪そうな顔をして立つ豪炎寺くんが居た。彼とは少し離れた席のはずだけれど、私を見かけたことと周囲に人がいないことからわざわざ話しかけてくれたのだろう。

「悪い、驚かせたな」
「ううん、気づかなくてごめん。…おはよう」
「おはよう」

挨拶を交わしたものの、何となくお互い言葉が続かなくて、私は視線を豪炎寺くんの顔から外す。下げた視線の先にあった彼の喉仏を何となく見つめていれば、女の私には存在しないそこが、一度だけ何かを飲み込むように動いた。視界の端に見えた豪炎寺くんの唇が僅かに開く。
それを聞きたいような、しかしある意味聞きたく無いような複雑な気持ちで、そわそわとし出す心を抑えた。

「…放課後、」
「あれ、豪炎寺と苗字?今日は早かったんだな!」
「おはよう円堂くん!!」
「…おはよう」

走り込んできた円堂くんがいつものように明るく私たちへ向けて挨拶してきたのに対して、私は努めて大袈裟なほどに明るい声で挨拶を返す。危ない、あれ以上聞いてたらきっと私の顔は真っ赤になってしまっていた。
今からクラスのみんが来るというのにそれは不味い。体調不良か何かしらの異変を疑われてしまう。勘の良い人には気づかれてしまうだろう。
そしてそんな円堂くんをきっかけにぞろぞろと集まり出したクラスメイトにどこかホッとしていれば、豪炎寺くんがボソリと私の名前を読んだ。
そして、私だけに聞こえる、ほんの小さな囁き声で。

「…放課後、部室で」

…結局私は顔を真っ赤にしたし、後から来た秋ちゃんには保健室に連れて行かれかけた。知らんぷりでいけしゃあしゃあと「大丈夫か」なんて聞いてきた真犯人の背中を、私は後でこっそりと睨みつけておいたのだけれど。





私と豪炎寺くんは、いわゆる恋人関係にある。

『すきだ』

一ヶ月程前のホワイトデー。殺すつもりでこっそりと埋めたはずの恋心を掘り起こして丁寧に生き返らせてくれた豪炎寺くんは、そう言って私の手を取った。
マネージャーとして相応しく無い想いを抱き続けること一年弱、これ以上彼を密かに思い続けるのも辛くて、でも告白して振られたりなんてすればきっと地獄だから。
だから、良いきっかけだったバレンタインの日、私は密かな告白のつもりで豪炎寺くんの分のクッキーにだけハートマークを入れて渡した。気持ちなんて言葉にも手紙にすらもしなかったのは、当然自分の振られる結末を信じていたからだった。

『…あのクッキー、ハートを入れたの、俺だけだろ』

そしてそんな私の単純な企みが、豪炎寺くんにバレていない訳がなく。円堂たちの分を見た、と彼はむず痒そうに呟いた。
何を言われたかもまだ理解できていない私の手に指を絡めながら、豪炎寺くんはどこか緊張した面持ちで私の目を覗き込んで。

『期待しても良いか』

頷くしか無かった。だって、誰にも言えない想いだった。秋ちゃんも夏未ちゃんも冬花ちゃんも、円堂くんのことが好きだって傍目から見ていて分かっていたけど、三人ともそれを誰かに言うことなく自分の中に抱え込んでいたから。
伝えないことが、マネージャーとしての大事な役目なのなら、諦めてしまおうと思ったのだ。
それが、奇跡のように叶った。夢じゃないかとさえ思った。


「…名前」


朝の伝言通り、放課後になってまず飛び込んだのは女子トイレ。そして小まめに塗り直していたリップをまた塗り直して、可笑しくないかどうか、いつもと変わらない鏡の向こうの私を睨みつけてから部室へ向かう。マネージャーは部室の鍵の携帯をしているから、易々と空いた部室に身体を滑り込ませ、誰もいない部室で一人待っていれば、豪炎寺くんが遅れて姿を表す。約束通りそこに居た私に目元を緩めながら、後ろ手に鍵を閉めた豪炎寺くんの側にそろりと寄れば、伸ばされた腕が柔らかく私の身体を閉じ込めた。

豪炎寺くんは、ここ半年で急激に背が伸びた。前は少しだけ目線が高いくらいだったのに、いつのまにか楽々と私を見下ろせるまでになってしまったせいで、彼の整った顔立ちが少しだけ遠くなってしまったのは、少しだけ寂しい。本人は私との身長の近さを多少気にしていたようで喜んでいたらしいけど。

「…名前で、呼んでくれないか」

ふたりだから、と。まるで甘えるような声音でそう言う豪炎寺くんの胸元に顔を埋めながら、ぶわりと私を囲うように襲ってくる豪炎寺くんの匂いにクラクラする頭を必死に働かせて、しどろもどろになりながら口を開いた。

「…しゅうやくん」

その呼びかけに答えは無い。その代わりに一度強く抱き締められて、そろりと身体に隙間が出来た。そして、回されていたはずの手の指の背が私の頬に触れたら、それが合図だ。
両頬を掌が包んで、指が耳を覆うように触れる。私は少しだけ顔を上げて、完全には閉じてしまうのが怖い視界の先で、修也くんの顔が近づいてくるのを見ている。
けれど、そんなことに意味は無いのだ。
目を閉じようと、閉じまいと。私の世界は一瞬で修也くんだけでいっぱいになってしまうのだから。

一度目は、微かに触れた。
二度目は、角度を変えてじっくりと押し付けるように。
三度目は、まるで私の唇の柔さを確かめるかのように食んで。
四度目は、五度目は、六度目は。

この時間が好きだ。喧騒も何もかもから遠く離れた二人きりの空間で、お互いだけを見つめていられる密かな逢瀬が、愛おしくてたまらない。
屋根を打つ柔らかな雨垂れの音も。
暗い部室に差し込む僅かな光ですらも。
小さく吐き出した吐息でさえ。
私の世界を彩る全てを奪うように、君が口づけて。
そしてそんなほんの数秒の間、私の全ては君のものになる。

「…帰るぞ」

唇を離して、彼は満足そうに私の頬を撫でてから照れ臭そうにそっぽを向いてそう呟く。
誰も知らない、知られてなんて欲しくは無い私たちだけの密かな逢瀬。普段はあれだけ騒がしいこの場所で、幾度となく唇を重ねたことがあるのだなんて知れたら、みんなはどう思うのだろう。
そんな背徳的な思いを彼に言ったことはない。この関係は秘密にしようと言い出した彼には、そんな下らないことなんて言い出せない。…だから。

「もうすこし」
「!」
「…だめ、かな」
「いや…良い」

______雨の日が、好きだ。
練習の無くなるその日には、彼が私の全てを奪ってくれるから。
雨の音を聞くたびに、唇が気になる。
彼の背中を目で追うたびに、放課後までの残り時間がもどかしい。
彼のことだけを考えて、彼の全てが欲しくて、奪ってほしくて。そんな浅ましい想いを抱いてしまっている自分がひどく恥ずかしかった。

…けれど、今日は雨だから、良いでしょう。
少しくらい、正直になったって、許してくれるでしょう。

…そして珍しくも、私からこの時間の続きを強請られたことがよほど嬉しかったらしい彼はまん丸に見開いていた目をとろりと蕩かせながら、持ち上げかけていた荷物を再び床に放り置いて、私を再びその腕の檻に閉じ込めた。