すべての温度を青く染めて


水曜日が憂鬱だ。それは単に、週半ばに入ったせいで精神的にも体力的にも疲れ気味になりがちだからでもあるし、苦手な数学が一日に二時間もあったりするからでもある。数学は今すぐ速やかに滅びるべき。
何故将来使いもしない数式にたった数年の学生生活を費やさなければならないのか。そのことについて同じ気持ちを共にする友人と真剣に語り合ったのはつい最近の話だ。今も全く分からない問題説明に私の頭は匙を投げ、時間潰しに外の景色でも見ようかと窓の外に目を移す。…そこで。

「…あ」

体育中だったらしい隣の隣のクラスの、イケメンだと女子の間で話題な豪炎寺くんと何故か目が合った。ここからはかなり距離があるというのに、あからさまに合ってしまった目線に、逸らすこともできずとりあえず頭を下げておけば豪炎寺くんは目を見開いてフイと顔を逸らしてしまった。せめて頭を下げ返せこの野郎。
仕方無く前を向き直せば、先ほどまで苦戦していた問題はとっくの昔に黒板から姿を消しており、代わりに応用問題と名づけられた地獄が広がっていた。どうやら誰かを当てるらしい。どうか私に当たりませんように。

「じゃあこの問題を…苗字」
「……すみません、分かりません…」

ジーザス、神は死んだ。たしかニーチェだかフルーチェだか知らないが高名な人のセリフだった気がする。本当に死んでいる。
数学ではギリギリ赤点を免れている私は、数学の先生からよく目の敵にされていた。いや、ちゃんと宿題は提出してるから許してよ。たとえそれがだいたい全部間違っていたとしても。
そしてそんな情け無い私の代わりに呼ばれたのは、先生のお気に入りであの名門帝国学園からの転校生だという鬼道くん。私からすればちんぷんかんな数式を、一目見ただけでスラスラと解いて答えを導いてみせてしまった。いや、あれが答えかは先生しか知らないのだけども。

「正解だ、よく出来たな」
「いえ…」

ほう、どうやら正解だったらしい。鬼道くんは謙遜しているけど、あれはおそらくガチの謙遜なのだろう。いきなり校内のテスト順位を塗り替えてしまった鬼道くんのことだ、こんなの簡単なのに違いない。羨ましい限りだ。
…ふとそこで、そういえば鬼道くんはサッカー部だったなと思い至って、私はもう一度窓の外を見る。するとまた何故かこちらを見ていたらしい豪炎寺くんに、今度は間髪入れずに目を逸らされた。失礼にも程があると思うのだが。私のことが嫌いか?あとでサッカー部に訴えるぞ。

(でも、なんでこっち見てるんだろ)

最近こういうことがよく増えた。豪炎寺くんとなんて一度も話したことは無いくせに、何故かふと目を向けた先に彼は居て、何故かほとんど高い確率で目が合ってしまう。友達からは「あんたのことが好きなのでは?」とニヤニヤされたがそんな訳あるか。万が一そうであってみろ、豪炎寺くんのファンクラブにボッコボコにされること間違い無しだ。足の速さしか取り柄の無い私は逃げるしか無いでしょうよ。

「よそ見するな苗字!」
「すみません」

大声で何故叫ぶ。小声でだって聞こえるわ。おかげでクラスのみんなからはクスクス笑われたし、鬼道くんからはなぜか物言いたげな目で見られた。なんだ、足りない頭のくせに授業から目を逸らすなとでも言いたいのか。その通りだよ。
肩を竦めつつ、最後にチラリと見やった窓の外。けれどそこにはもう、豪炎寺くんは居なかった。

「…あー…苗字、少し良いか」
「どうしたの鬼道くん」

本日最後の授業が終わり、帰りの会が始まるまでの時間に帰りの準備を済ます。机から引っ張り出した教科書を整えてスクール鞄に詰め込んでいれば、そこに何故か先程の授業の立役者である鬼道くんがやってきた。珍しい、関わることなんてほぼ無い鬼道くんがわざわざ私に声をかけてくるとは。さては明日は天変地異か何かか?

「…好みのタイプを教えてくれないか」
「直球かな?」

聞き耳立てていたらしい教室が騒めく。なんでただのクラスメイトの鬼道くんに私の個人情報を喋らないといけないのだ。青春を部活動に捧げる者として七割女を捨てているとはいえ、これでも三割は年頃の乙女だぞ。それとも弱みを握るつもりか?…いや、私の弱みなんて握らなくても私はこのスーパー完璧超人には勝てないな…。この世はせちがらい。

「知りたいのは俺じゃない」
「本人に直接来いって言ってて」
「言って聞くような奴じゃないから俺たちが世話を焼いているんだ…」

俺たちって言ったね今。なんだ、さてはグループ支援か?それにいったいどなたが何を考えて私の好みなんて知りたがる。それじゃまるで、そのどなた様かが、私のことを好きみたいじゃないか。まさか私にも春が来たりして。

「…そんな訳ないか…」
「苗字…?」

思わず遠い目になりながらも、まぁ別に答えられないことじゃないからと正直に答えておく。本当にこんなこと知って誰が楽しいんだか。

「何事にも一途な人かな」
「…すまない、助かった」

何で鬼道くんが助かるというんだ。変なの。





まぁ水曜日が憂鬱な話はさておき。どんなに嫌な授業があっても、放課後になれば楽しい楽しい部活が始まる。私の所属する陸上部は、雨の日では無い限り外で活動することになっていたため、今日もユニフォームに着替えて外へと行く。そしてウォーミングアップ代わりのランニングをしていれば、サッカー部の部室あたりに差し掛かったところで中から風丸が出てきた。せっかくなので話しかける。

「あれ、風丸だ。サッカー部今から?」
「あぁ、お前も相変わらずよく走るな…」
「走るの好きだしね。風丸もたまには宮坂のこと構ってあげなよ。あいつ拗ねると面倒くさいんだよ」
「分かった分かった」

風丸は前まで陸上部だったのだが、二年の春からサッカー部に転部したのだ。私としては、陸上部エースの風丸に抜けられるのは痛かったけど、風丸が本当に居たい場所が出来たのならそれもまた良いんじゃないかと思っている。まぁ宮坂がすっごくうるさかったけどな。
そんなことを二人して井戸端会議のように話していれば、部室のドアが再びガラリと開いてまた誰かが出てきた。豪炎寺くんだった。

「!」
「お、豪炎寺早いな」
「…お疲れ様?」
「…先に行ってるぞ」
「あぁ」

音が鳴るかのようにバチリとまた目が合ったのでやはり一応礼儀として軽く手をあげながら挨拶したというのに、豪炎寺くんはやはり応えないまま大袈裟なほどに目を逸らしてグラウンドの方に走って行ってしまった。あまりにも失礼では?やっぱり訴えるぞ。

「ちょっと風丸、サッカー部の教育はどうなってるんだ」
「…あの馬鹿…」
「風丸さん?」

冗談じみた口調で豪炎寺くんの態度について訴えてみれば、何故か頭を抱えて唸る風丸。そんなに豪炎寺くんのことで頭を抱えていたのか。ちょっと申し訳なさが出てきたので飴玉を差し出しておく。これでも食べて元気をお出し。
風丸くんは私の手から微妙そうな顔で季節限定イカスミ味を受け取った。まだ食べたことないけどきっと美味しいと思う。たぶん。

「…豪炎寺くんに嫌われてるのかな、私」
「えっ」
「あからさまに目を逸らされるし」

関わったことも、話したことも一度だって無いのに、ここまでして徹底的に避けられると妙に悲しい。あと腹立つ。クラスの女子たちは彼をイケメンだの何だのって騒ぐけれど、自分を嫌っているような人間を、私は好きになれないしね。
愚痴がてらそう風丸にこぼせば、何故か風丸はまた頭を抱えていた。偏頭痛か?今日は晴れだぞ。

「…あいつも馬鹿だなって思っただけだよ」
「誰だよあいつって」

教えてくれないらしい。まぁ大して気になることでもなかったから、私は敢えて気にしないことにした。それよりも、と話題を変える。風丸たちはこの前まで日本代表として世界を相手に戦っていた。その結果、世界一という輝かしい威光を手に入れた風丸たちイナズマジャパンだったのだが、私はまだ風丸に労うことができていない。
優勝おめでとう、と告げれば風丸は少しだけ照れ臭そうに笑っていた。大活躍だったもんな風丸。

「陸上部のみんなで試合見てたよ。宮坂がずっとうるさいから最終的にガムテ貼ったもん」
「何してるんだ宮坂…」

風丸さん゙ん゙ん゙!!!!!!って泣きながら叫ぶもんだからみんな耳塞いだよね。いつもは可愛い後輩だけどその時ばかりはドン引きした。どんだけ風丸のことが大好きなんだと。まぁ言うて陸上部もみんな揃ってかなりの風丸担だからうちわもある。宮坂が率先して作っててやっぱりドン引きした。なんだその「風神の舞で吹き飛ばして♡」って。お前の頭を吹き飛ばしてやろうか。

「女子にもモテるようになったんじゃない?みんなイナズマジャパンのブロマイドだの何だの持ってるよ。絶対ファン増えたでしょ」
「まあな…」
「女子たちの気持ちは分かるよ。私も推しができた」
「推し?」
「えーと、どこだっけ。たしかフォワードでストライカーの…」
「!」

何故か風丸が固唾を飲んで私の返答を待つ。いやなんでそんな決死な表情で挑んでるの。みんなもカッコいいカッコいいって言ってたから私の意見はあくまで一般論だよ。ほら、世界大会でもバッシバシゴール決めて大活躍してたじゃないか。

「染岡くん」

…面白いコントばりに崩れ落ちたな風丸。そんなにビックリした?男は顔じゃなくて気迫と根性なんだぞ。染岡くんのドラゴンスレイヤーとか気迫満点で私は思わず拍手喝采の雨嵐。お前もうるさいと叩かれたのがハイライト。女子はこぞって豪炎寺くんだの基山ヒロトだのと騒いでいたが、まだまだ分かってないよね。

「不憫だ…!」
「誰がやねん」

エセ大阪弁が思わず飛び出したが許してほしい。いきなりこんな哀れむような悲惨な表情でそんなこと言われたら誰だって思わず突っ込むわ。あと、そうだ、せっかくだからその染岡くんからサイン貰っておくれよ風丸さんや。





何でこうなってるんだ?
薄暗い体育館倉庫の中で遠い目をしながら、相変わらずそっぽ向いてタイヤの上に座っている豪炎寺くんを横目に、そんなことを考える。さっきからチラリともこっち見ないんだよな。そんなに私のことが嫌いか。そうか。
…そもそもこの事態が巻き起こったのは三十分前。午前練習が終わった後、ハードルの片づけを頼まれた私がエッサッサと体育館倉庫まで駆けていったところ、中には先客がいらっしゃった。練習で使ったらしい三角コーンを元の位置に戻していた豪炎寺くんだ。

『お疲れ様デース…』
『!?』

とりあえず黙って片づけて出て行くのも感じが悪いかと思い声をかけたのだが、まるで背後のキュウリに気付いた猫が如く飛び跳ねるようにしてビビられた。そんなに驚かせたのか今。
サッカー部もどうやら午前練習だったらしく、コーンの片づけを頼まれたようだ。

『サ、サッカー部も練習終わったんだ。世界大会終わったばっかりなのにハードだよね』
『…あぁ』
『うちも今度大会があるからさ、みんな気合いがすごくて!』
『…あぁ』

気まずいことこの上なさすぎるんだが?どうしたんだ豪炎寺くん。君はまさか「あぁ」以外の言語を忘れてしまったとでもいうのか。しかも目線は斜め下に向けたまま。人と話すときくらいせめて真っ直ぐ顔向けろ。
しかしそんな文句を口から馬鹿正直に出せるはずもなく、引きつった愛想笑いで何とか誤魔化した。…そろそろここから離脱しよう。豪炎寺くんも嫌いな女とこんな狭い空間に一人きりとか嫌に決まってる。そう思って踵を返そうかと考えていた。…その次の瞬間だった。

『!?』
『えっ』

突然背後の扉が物凄い勢いで閉まり、ただでさえ薄暗かった倉庫からほぼ完全に光を奪い去ってしまったのである。慌てて扉に駆け寄って開けようとしたものの、まるで外からつっかえ棒でもされているかのように扉はガタガタと揺れるばかりで開かない。豪炎寺くんも無言でこちらに歩み寄り、何とか開けようと試みたものの男の子の力でも駄目らしかった。

『どうしよう…』
『…』

いや、今日は陸上部で昼ごはんを食べに行くことになっていたし、私の荷物はまだ部室に残っているから私がいないことにはきっとすぐ気がつくだろう。そうなったらみんなは私を探してくれるに違いない。多分。絶対とは言えないこの悲しみよな。ときどきシビアだもんなうちの陸上部。
それよりも問題はこの状況。恐る恐る隣を見遣れば、そこには厳しい顔で扉を睨みつける豪炎寺くんがいる。今にも舌打ちしそうな勢いだ。シンプルに怖い。話しかけるべきか否かと私が悩んでいる間に、彼はさっさと踵を返してタイヤの上に腰を下ろす。どうやら彼も仲間の救助を待つらしい。私もそこに突っ立っている訳にはいかないと豪炎寺くんから少し離れた場所に腰を下ろした。そして沈黙。それが今の状況である。

「…」

豪炎寺くんは先ほどからだんまり続行中。私も何か話を切り出すこともできなくてだんまり中。ここが地獄か?…しかしこうしている訳にはいかない。時間はもう既に三十分は経っている。さっき正午の鐘が聞こえたから間違いない。だというのに助けが一向に来ないとはどういうこと。

「…うーん、このままじゃ拉致開かないし、最終手段を使おう」
「…は?」

豪炎寺くんが初めて反応したな。嬉しいような悲しいような。しかしそんな彼のことはとりあえず置いておいて、私は倉庫の一番後ろにある小窓の方へと近づいていく。私が横の棚伝いに小窓へ手を伸ばそうとしているのを見て、豪炎寺くんはどうやら私のやりたいことが分かったらしい。後ろから咎めるような声が聞こえた。

「…おい、危ないだろ」
「大丈夫大丈夫、私くらいの体格なら窓も潜れるし、まぁ見ててよ」

まぁたしかに嫌いとはいえ一緒にいた女子が怪我なんかしたら君も外聞悪いもんね。でもこのまま居心地の悪い空間で助けを待つほど私だって心が強い訳じゃない。そもそも私は割と君に関しては既に心折れていたりするのだ。嫌われてもなおそれで良いんだと言えるほど、私は強くなんて無いんだよ。
何とか指が引っかかって空いた窓の鍵に安堵の息を吐く。今度は窓を開けようとするものの、長年開けられていないせいなのか窓淵が固くてなかなか開かない。精一杯手を伸ばして開けようと躍起になり、爪先ギリギリまで足を伸ばして力を込めた。…それがいけなかったのだろう。

「おい、いい加減に…!」
「あ」

とうとう足がずるりと滑り、私の体は宙へと投げ出された。落ちるのかと他人事のように考えて、私は次に来るであろう痛みに耐えるために目を閉じた。…けれどそんな予想していた痛みは来ることなく、代わりに訪れたのはほんの僅かな衝撃と誰かの温もり。
恐る恐る目を開ければ、そこには焦ったような顔で私の下敷きになっている豪炎寺くんがいた。どうやらわざわざ障害物を乗り越えて私に近づいていたらしい。そのおかげでギリギリ間に合ったようだ。

「…か、間一髪…はは…」
「笑い事じゃないだろ!!怪我でもしたらどうする!?」

物凄い勢いで一喝されて思わず身を竦めていれば、豪炎寺くんは険しい顔をしたまま再びそっぽを向いた。…何なのだ、その視界にも入れたくないとでも言いたげな仕草は。私は君に何かしたのだろうか。知らないうちに不快な思いでもさせてしまったのだろうか。…分からない。
そんなモヤモヤとした気持ちが胸の中に湧き起こってきて、私は思わず本音をポロリとこぼした。

「…豪炎寺くんさぁ、嫌いなら嫌いってはっきり言いなよ」
「…は」
「嫌いなんでしょ、私のこと」
「!」

俯いたまま吐き出した私の言葉に豪炎寺くんが息を飲む気配がした。それを察して心の中で自嘲する。ほらやっぱり。そんなことだろうとは思っていたのだ。

「豪炎寺くんとは仲良くないし、話したことすらないけどさ」

泣くな。これ以上私のことを嫌いな人なんかに弱みを見せるな。だから私は顔を上げて、何とか豪炎寺くんに微笑んで見せる。きっと歪んでいるであろう、私の精一杯の弱々しい笑みを見て、君は何を思うのだろうか。
助けてくれたのは嬉しいけれど、それとこれとは話が別だ。たとえ君とは友達でも何でも無かったとしても、理由も無しに目を背けられ無視をされるのは本当に辛いから。

「私だって人に嫌われたら少しは傷つくんだよ」

軽く鼻を啜って豪炎寺くんの胸板を押す。それだけであれほど近かった距離は呆気なく離れてしまった。私は立ち上がり、「助けてくれてありがとう」と一言だけお礼を絞り出して倉庫の入り口に向かう。…こうなったら大声でも何でも出して助けてもらおうと思った。ここに彼と二人きりでいることがキツいし、これ以上醜態を晒したくは無かった。
…けれどそこで、後ろから腕を引かれて思わず立ち止まる。まさかと思って振り向けばそこには何故か私よりも泣きそうな顔で私の腕を掴む豪炎寺くんがいた。何、どうして君がそんな顔をしてるの。私が少しだけ眉を顰めて豪炎寺くんを見据えると彼はほんの僅かに狼狽えたけれど、今度は私から視線を逸さなかった。

「…じゃない」
「?」
「嫌いじゃ、ない」
「!」
「…どう話せば良いか、分からなかっただけで」

下手な慰めなのかと思った。本音を見透かされたことへの取り繕いなのかと思った。けれど私が今の言葉をそうやって切り捨てることが出来なかったのは、私を見る豪炎寺くんの目が何処か必死だったから。…泣きそうに見えたから。
思わず目を白黒させていれば、豪炎寺くんはそれでも足りないと思ったのかさらに言葉を重ねてくる。さっきよりも一歩前に踏み込んだ豪炎寺くんの目が、私の視線を縫いとめた。

「悪かった。風丸たちにも何してるんだと叱られた。…もうお前は俺のことなんか嫌いかもしれないが、俺はそうじゃない」

目を逸らせない。その瞳の奥でごうごうと燃えている何かが私に、決して否定してくれるなとでも言いたげに吠えて私の心を熱で焦がした。…頭がくらくらする。
この蒸し暑い夏の気温のせいだろうか。
さっき落ちてしまいかけたからだろうか。
…違う、そのどれでもない。私の心臓が痛いほどに高鳴って苦しい程に締めつけられているのは。他でもない目の前の、豪炎寺くんの、せいで。


「俺は、お前が」


逆光のせいでよく見えない顔色でも、豪炎寺くんの頬が赤いのが分かった。そんな彼が、意を決したように口を開いて。唇が、次に続くべき言葉を形取って、そして。

「苗字さんから離れろこのケダモノォ!!!」
「おい宮坂!」
「バカかお前!」

…しかしその時ものすごい勢いで倉庫の扉が開き、般若の形相で入り口に仁王立ちする宮坂がそこにいた。その後ろからは風丸と陸上部のキャプテンが焦ったように宮坂を止めている。…どういうことだ?思わず呆然としたものの、宮坂に立ち塞がれる形で豪炎寺くんとの距離が開く。

「どういうことですか風丸さんッ!苗字さんをこんな狭いところに閉じ込めて!!しかもこんな人と二人きりで!!」
「いや…はは…あわよくば豪炎寺たちが仲良くなればなぁ、なんて思ったりしてだな…」
「苗字さんまでサッカー部には奪わせませんからね!?」

宮坂が荒ぶっているせいか、妙にさっきまでの動揺やら何やらが一気に冷静になってしまった。そしてそこで、先ほどから私の同じく放置されている豪炎寺くんにに目をやれば、豪炎寺くんは私をずっと見ていたらしい。はっきりと目が合った。
そして豪炎寺くんは、いつもはすぐ逸らす、その瞳を。
今回ばかりは逸らすことなく、あの熱量を秘めたまま、私を射抜くように見つめていて。
だから今度は、私が思わず逸らしてしまう番だった。宮坂と風丸のやり取りを苦笑いで見ている部長に、私は俯いたまま小さくぼやく。

「…今日は、帰る」
「え、あ、そう?」

ここから逃げ出したい一心で、引き止めるような宮坂の声や、風丸の私の名前を呼ぶ声も無視して早足に歩き出した。しかしそんな私を引き止めんと腕を伸ばしたのは、今一番顔を合わせたくなかった、豪炎寺くん本人で。

「苗字」

思わずといった様子で腕を掴まれて、反射的に振り向いた先に居た豪炎寺くんと目が合った。そして私の顔を見て、何故か驚いたような、呆然としたような顔をする豪炎寺くんに、私は慌てて手を引き剥がしてその場を駆け去っていく。自慢の脚力で全力疾走してたどり着いた女子更衣室。とっくにみんな帰って私一人のその中で、私は頬を覆いながらずるずるとその場に蹲み込んだ。

「…しぬかとおもったぁ…」

見られて、しまっただろうか。いや、きっと見られたのだろう。倉庫の中とは違い、あれだけ明るくて至近距離だったのだ。私の赤く染まった頬も、狼狽えるような瞳も何もかも、豪炎寺くんの目にはハッキリと映っていたのに違いなかった。

「…明日から、どうしよう…」

陽炎さえも揺らめきそうな瞳の熱にあてられて、まるで心までも沸騰しそうだったあの瞬間を思い出して、また胸元を握り締める。…もしもあのまま、宮坂の邪魔が入らず、最後まで彼の言葉を聞いてしまっていたのならば、私の心はどうなっていたのだろう。


『俺は、お前が』


あの瞳の熱の意味に、あの言葉の続きに、私らしくない、ある種のロマンスを期待してしまったのは、いったいどうして。