遠雷は遠く向こうへ



昼休みの廊下、他愛も無い話を交わして騒ぐ生徒たちの蠢くそこを私は真っ直ぐに歩む。私を見た途端にまるでかのモーゼのように道を開けてゆく彼らの瞳に映っているのは、恐怖、畏怖、憧憬の色。しかしそこに在るどんな色でさえ私の心を動かすことは無いことを、他でも無い私自身が一番よく知っていた。
たどり着いた目的地の教室のドアの前に立ち、ゆっくりと横にスライドさせて開いていく。一応名ばかりではあるが私の所属先でもあるそのクラスは、この学園の中でもトップクラスの成績を誇る人間だけが選ばれるエリートたちの巣窟でもあった。

「失礼致します。鬼道様はこちらにいらっしゃいますでしょうか」
「…ここだ」

本校舎には滅多に姿を現さない私を見てざわりと揺れた空気を黙殺し、淡々と用件だけを告げれば目的の人物である彼が席から立ち上がってこちらへ歩み寄ってくる。どうやら他校の資料をご覧になっていたらしい。そんな彼が目の前に立ったことを視界の端で確認してから、私は手にしていたファイルを丁寧に差し出してみせ、総帥から言付けられていた伝言を相手に伝えた。

「こちらがこの前依頼されていた各校の大まかな資料です。…それと、総帥からのお言葉があります」
「なんだ」
「昨年の夏から姿を消していた木戸川清修の豪炎寺修也が雷門中へ転校したことを確認しました。よって練習試合という形で彼の現在の力を測るとのことです。なお、豪炎寺修也が雷門中に在籍していることは他の部員には内密にしておくようにとも」
「…了解した」

失礼致しますと一礼して、用件を終えたからと教室を出ようと踵を返せば、何故かそこで鬼道様に引き止められてしまった。振り返ればそこには何やら言いにくそうに顔を顰めた鬼道様がいらっしゃる。何か言いたいことでもあるのだろうか。私はそれを急かすことなく待つことにした。そうすればやがて、一つ息を吐いた彼が恐る恐る口を開く。

「…やはり、お前は授業には出ないのか」
「無礼を承知して申し上げますが、私は総帥の計らいにより学園生活のほとんどを免除される形でここに在籍しております。講義を受ける無駄な時間を、総帥のお力になれることに使う方が私としても効率的で最適解ですので」

…何を今更、そんな分かり切った答えしか返せない問いを向けてくるのだろう。そんなこと、他でもない彼自身が一番知っているはずなのに。不思議に思って思わず内心首を傾げれば、鬼道様はまだ何か言いたげだった言葉を飲み込んでしまわれた。

「他に、何か」
「…いや、何でも無い。引き止めて悪かったな」
「いいえ、こちらこそ。…失礼します」

時間的には間も無く授業が始まるおかげで、ちらほらと人影を見なくなった廊下を一人歩く。やがて完全に人気が途絶えてしまった道を突き当たりまで行けば、そこには総帥の居られる部屋があった。伺いを立てずとも好きに出入りをしろ、と言われていたため、私は部屋の向こうの総帥に聞こえるかどうかは構わず「失礼します」と一言かけて中に足を踏み入れる。

「ただいま戻りました」
「…鬼道は何か言っていたか」
「特には何も。…それと雷門中との練習試合の件ですが、いつごろに予定を入れましょうか」
「早いうちが良い。お前に一任する」
「かしこまりました」

総帥はそれだけを告げると、ご自分の仕事に戻られてしまった。私もこれ以上ここにいれば、総帥の邪魔をすることになる。私のやるべきことは指示を得られたのだし、黙って一礼した後で私は自分に与えられている執務室へと戻ることにした。





どうやら雷門中は現在、理事長代理として雷門理事長の娘を据えているらしい。私のかけた電話の先に出た声が若いものだったことに一瞬虚を突かれてしまった。あちらも私が同世代であったことに少し驚いていたようだからおあいこなのだろうけれど。
練習試合の申し込みはスムーズに済んだ。そして改めてこちらから挨拶に伺う約束を翌日の昼に取りつけておいた為、今は初めて足を踏み入れる雷門中の校門前にいる。物珍しそうな目で見られていた。私の今の姿は帝国学園の制服だからどうしても見慣れないのだろう。

「この度は練習試合の申し込みを受けていただきありがとうございます。帝国学園総帥代理として挨拶に参りました、影山一香と申します」
「これはこれはご丁寧に。私は雷門中校長の火来です。こちらはサッカー部顧問の冬海先生」
「初めまして、冬海卓と申します」

雷門中の理事長はなかなかのキレ者だと総帥から伺っていたのだが、どうやら校長は大してそうでもないらしい。たった十四歳の娘に学校の決定権を委ねるくらいだ、つまりはその程度の楽観的な人物なのだろう。加えてこの手揉みしながら私を窺っている顧問。媚びを売るような目に思わずうんざりした。私と相対する大人たちはこうしてよく私に良い印象を与えようと躍起になる。所詮は小娘と侮っているのだろう。しかし誰を重用するかは総帥次第だ。私の一存であの人は動かない。

「影山さん…というと、影山総帥の縁者の方ですかな?」
「…書類上のものであり血は繋がっていませんが、影山総帥の養女として側に置かせていただいています」

私と総帥は書類上親子という関係性にあるが、実際は血は繋がっていない。私が五つの時に母を失った際、総帥が私の将来を見込んで引き取ってくださったのだ。今日という日まで、総帥の側に控えるのに相応しい人間になるために様々な教育を施されてきた。私はそんな総帥を尊敬し崇拝しているし、いつかはこの恩に報いたいと考えている。

「失礼します。すみません、少し遅れてしまいました」
「おぉ、夏未お嬢様!ちょうど良いところに」
「…初めまして、雷門夏未様。先日は練習試合のご快諾、感謝いたします」
「固くならなくて結構よ。同じ歳なのだし」
「いえ、これも私の仕事の一環ですので」

あくまでこれが仕事であることを示唆して目礼すれば、彼女もそれを受け入れてくれるらしい。大して気にした様子もなく肩を竦めた。こういう切り替えの早い人は話が早く進むのでありがたい。私のこの後は暇じゃないのだ。学園に帰還したらすぐに部活のマネージャーとしての役割も果たさなくてはいけない。
勧められたソファに座り、私は普段から持ち歩いているバインダーを開く。メモ代わりだ。一言一句覚えていられる自信はあるが、間違いが無いよう念のためメモも取るようにしていた。

「詳しい日時の話ですが、総帥はなるべく早い日程をご所望です。つきましては今週末か来週の始め、その辺りでスケジュールを組んでいただけたら幸いです」
「…分かりました。お恥ずかしながらうちのサッカー部は今、まともに試合も出来ないような状態なのよ。その準備のために、一週間ほど時間をいただけるかしら」
「承知しました。それでは来週の火曜日、時間の方は…」
「四時でお願いするわ」

淡々と余計な世間話もしないまま話し合いは進む。日程や選手の待機場所などについて具体的にまとまったところで私はバインダーを閉じた。これで今日の用事は済んだ。あとは帰還して報告書を作成し総帥と鬼道様にお渡しすれば良いだけ。
そんな腰を上げかけた私に、ふと雷門夏未が名前を呼んで引き止めた。

「少しだけ時間をいただいても良いかしら。サッカー部のキャプテンを呼んでるのよ」
「…こちらとしても事前に挨拶させていただけるならありがたいですが」

タイミングが良かったのだろう。私がそう返事を返すや否や、失礼しますという緊張に強張った声が部屋の外から聞こえた。火来校長が入室の許可を出せば、まるで中を窺うようにして一人の少年が入ってくる。オレンジ色のバンダナをつけた、私と同年代の少年。彼がこの雷門中サッカー部のキャプテン、円堂守だろう。彼は何を考えているのかは知らないが、少なくとも良い予感はしていないらしい強張った表情で恐る恐る口を開く。

「…あ、あの、話ってなんですか」
「突然ですが、一週間後に久しぶりの練習試合をすることになりました」

その話を聞いた途端、彼は拍子抜けしたようにホッと息を吐く。しかし次の瞬間には「練習試合」というワードに目を輝かせて食いついた。部員が十一人にすら達していないサッカー部、たしかに練習試合など到底出来ないのだろう。

「…試合!?やれるんですか!?」
「相手は、帝国学園です」
「て、帝国…!?」
「…冬海先生、申し訳ありませんが時間が押していますので先にご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「あぁ、はい!ぜひとも!」

帝国学園の名を聞いて顔を青ざめさせた円堂守に、私は冬海教諭の話を遮って会話に入る。いちいちへりくだる必要は無いのだが、それを言ったところでこの男は止めないのだろう。それなら放っておく方が楽だということを、私は経験上で知っていた。そんなことを考えつつ円堂守に向き直れば、彼の顔には明らかに私に対する疑問符が浮かんでいる。

「…貴方が円堂様ですね」
「え、あ…うん。君は?」
「私は僭越ながら帝国学園影山総帥の秘書を務めさせていただいています、影山一香です。帝国サッカー部のマネージャーも兼任しております」
「そうなのか!」

私がサッカー部関係者と知ったからか、途端に嬉しそうな顔をし出した円堂守。…人を疑うということを知らないような無垢で阿呆な人間。そんな第一印象を彼に抱いたものの、それは心に秘めておく。

「今回はご挨拶に参りました。互いに良き戦いに出来るよう健闘いたしましょう」
「おう!俺たちの方こそ試合申し込んでくれてありがとな!」

…帝国に負ければサッカー部は廃部らしいが、その辺りは大丈夫なのだろうか。帝国には関係無いし、むしろサッカー部を片づけるための良い理由にされている気もしなくは無いが、他所の揉め事に首を突っ込む趣味は無い。私は無言で頭を下げ、他の方々にも頭を下げてからその場を退出した。





「練習終了です。クールダウン後、本日はミーティングを行いますので六時半には第二会議室へお越しください」

高らかに笛を鳴らせば、ミニゲームを行なっていた選手たちが途端に足を止めて息を吐く。用意しておいたドリンクとタオル、アイシングをベンチ前に置いておけば皆様は我先にと手を伸ばして休憩を取られた。それを横目に見ながら私は今日の練習における一軍全員のデータをまとめる。約十五分程度、休憩終了にちょうど良いタイミングを見計って私は鬼道様に声をかけた。鬼道様はまるでそれを見越していたかのように、今まで話しておられた辺見様と寺門様に断って私の方へ歩いてくる。

「ミーティング内容は例のアレか」
「はい。詳しい日程が決定いたしましたので、そのことについての説明と補足をさせていただきます」

総帥もこの日程に不満は無かったのか特に難色は示されなかった。一応あちら側の言い分というか言い訳を伝えたところ、鼻で笑われていたが。
総帥は豪炎寺修也の力を買っておられるようで、昨年も特に彼へ注目していたように思えた。私としても、帝国と決勝で当たることになっていた木戸川清修との戦いは厳しいものになるのだろうと一種の覚悟を決めていたのだが、何故か豪炎寺修也は決勝当日に姿を現さなかった。後で総帥に聞いた話によれば妹が事故に遭ってそちらに向かったらしい。総帥が楽しそうに笑っておられたのが少し引っ掛かったが…まあ何とも不運な人だ。

「本日、念のため雷門中サッカー部の名簿も確認しましたが、どうやら豪炎寺修也はまだ入部はしていないようです」
「総帥は何と」
「引き摺り出せ、との仰せでした」

たとえサッカー部には入らずとも、総帥は豪炎寺修也の力を測っておきたいのだろう。再びコートの上で相見えたとき、徹底的な対策が行えるように。そしてそれを告げれば、鬼道様はとても愉快そうな顔で口角を上げた。実際楽しみなのだろう。何せ最近は歯応えのあるチームも滅多には居ない。加えて総帥が注目するほどの実力となれば試合にも張り合いが出る。

「当日は私もマネージャーとしてベンチに控えますが、基本的な作戦指示は鬼道様に一任するとのことです」
「分かった」

…そのまま日はあっという間に過ぎ、とうとう練習試合当日の日がやってきた。何とか揃ったらしい人数で出迎えられて、皆様はどこかそれを馬鹿にしたように笑う。円堂守は皆様の一番後ろに控える私を目にして屈託のない笑みを向けてきた。頭を下げておいたけれど、皆様からの怪訝そうな視線が刺さって痛い。
そしてそんな試合は帝国が圧倒していた。試合の開始直後、鬼道様が戯れのように与えられた雷門中にとって一度きりの最初で最後のチャンス。雷門中のエースストライカーらしき十一番のノーマルシュートを難なく抑えられた源田様から鬼道様へのパス。そこからはいつも通り見慣れた帝国学園の戦い。
必死に駆け回るあちらの様を嘲笑うようにしてボールを回し、ゴールを奪い、ときに態とらしく選手目掛けてぶつけてみせる。前半を終えた頃には十対〇の大差。こちらが息一つ乱さぬのに対し、あちらはもう既に息も絶え絶えという状態だった。

「手応えのねぇ奴らだな」
「あぁ…本当に総帥の言う選手は出てくるのか?」

皆様があちらの選手に対してもはや呆れたような顔さえ浮かべている中、私は今し方まとめ終わったデータを片手に立ち上がり、目的の人物に向けて歩み寄る。ドリンクを飲みながら洞面様と会話をしておられた佐久間様は、私の姿を視界に入れて嫌そうな顔を浮かべる。それに対して私は無関心のフリを貫き通し、彼に向けて口を開いた。

「佐久間様、先ほどのシュートフォームが崩れておりました。練習試合といえど気を抜かないようにお願いします」
「…分かってる」

苦々しい顔でそう返されて、私は軽く頭を下げて踵を返す。…私はマネージャーでありながらこのチームには一切馴染んでいない。それは私がこうして表情を一切動かさない、愛想の欠片も無いようなつまらない女だからでもあるし、単に私が人との関わり方を知らないからでもある。
私の世界は単純でシンプルだ。養父であり敬愛する総帥と、幼い頃からの馴染みである鬼道様。その二人だけが私の世界の真ん中に居て、そんなお二人のために私は存在していた。特に鬼道様に関しては総帥からもサポートを厳命されているため、こうしてマネージャーをしているところもある。…佐久間様は、そんな私が気に入らないのだろう。別にそれは今に始まったことじゃない。他の皆様も同じようなものだ。

「…行くぞ、後半だ」

鬼道様の声に従ってグラウンドに戻られる皆様を見送りながら、私はそっと俯いて唇を噛む。…きっと皆様はいつも通り、帝国の名に恥じない戦いをして戻ってこられるのだろう。けれど私はそのときもきっとやはりいつも通り上辺だけにしか見えない労いだけしか言えなくて。その嘘臭い言葉は鼻で笑われて、また私は一歩皆様から離れていく。…それを虚しいと感じるのは無駄なことなのだと、私は他でもない総帥から教えていただいたのに。

「…健闘を」

祈ります、という言葉は今日もあの方たちの背中には届かない。





かくして、総帥のお目当てである豪炎寺修也は姿を表した。十番を背負っていた名ばかりのエースが逃げ出したかと思った矢先のことだ。そのとき既に二十対〇の絶望的な点差を負っていた雷門中。しかしそんな中でも豪炎寺修也の姿を見て目を輝かせた円堂守に私は思わず瞠目した。…何故、笑っていられるのだろう。
点差は圧倒的で、チームメイトは倒れていて。
たとえそこに豪炎寺修也が助太刀に現れようと、残り時間なんてほとんど無いようなこの状況で逆転はあり得ない。まず、それを鬼道様が許すわけが無かった。…それなのに。

「ゴッドハンド!!」

眩い光と共に展開された大きな手が、帝国の繰り出したデスゾーンを完璧に捉えて止めてみせる。必殺技。データには無かったはずのそれだけでも驚いたというのに、円堂守はそのまま最前線へと駆け上がる豪炎寺修也にボールを渡した。
そしてそのまま、彼の十八番であるファイアトルネードでの得点。あの源田様を一撃で吹き飛ばしてしまえるほどの威力に思わず息を呑んだ。…これが豪炎寺修也。総帥が警戒する、中学界のエースストライカーなのか。

「引き上げるぞ」
「…よろしいのですか」
「総帥の目的は果たした。ここにもう用は無い」
「ですが…」
「…何かあるのか?」

思わずベンチで呆然としていれば、棄権を告げて撤収してくる鬼道様たちの姿が目に入って慌てて立ち上がる。自ら負けを認めてしまうらしい鬼道様に私はしどろもどろになりながらも食い下がると、鬼道様は珍しそうな顔で私を見据えた。その問いかけに思わずギクリと体が震えるものの、私は即座に頭を下げる。

「申し訳ありません、出過ぎた真似をしました」
「…謝らなくても良い。行くぞ」

あっという間に皆様が乗り込んでいくその最後尾、私は最後に一度だけ後ろを振り向いて雷門中サッカー部の様子を窺う。
…この試合、彼らが負ければ雷門中サッカー部は廃部だった。特に気にすることは無いと総帥にも鬼道様にもお伝えしてはいなかったが、まさか彼らが結果的に勝利を掴むとは思わなかった。…それに。

「…どうして」

自分の心の変化に自分で戸惑う。何故あのとき、鬼道様から棄権を告げられて、私はそれに対して嫌悪感を抱いたのだろう。もっと試合を見てみたいなどと感じてしまったのは何故。
あの窮地の場面で奇跡を掴み取ってみせたこと。
圧倒的な差を目の前にしても決して膝をつかなかったこと。
そして勝利に輝かせた彼らの無垢で純粋な目。
…そのどれもが何故か頭から離れてくれなくて、眩しくて、綺麗で。私の持つものは何一つ持たないくせに、彼らが私の持たないもの全てを持っているかのような気がして羨ましくなったのは、いったい何故だったのだろう。

(…円堂守)

そして何よりも神の名を冠したあの技に、私が一瞬でも心を奪われてしまったのは、どうして。




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