アンタレスを射抜く



あれから少しだけぼんやりとすることが増えた。鬼道様に訝しげな顔で見られてしまうほどに思い返すのは、あの日の試合の最後の光景。辛うじて勝利という名前を掴んだだけで、惨敗だと言っても過言では無かったというのに彼らは笑っていた。それが不思議で、理解できなくて。
そしてそれは帝国学園のサッカー部の皆様には見られない光景だとも思う。皆様にとって勝利とは当たり前のもので、四十年の連勝を重ねるこの歴史の中で敗北は許されない。帝国学園サッカー部の一軍レギュラーとしての誇りを掲げて、彼らは戦っていらっしゃる。

「私が、可笑しいんでしょうか」

帝国のサッカーは好きだ。皆様が総帥の手掛けた最高のチームであることも知っている。日本一の名に相応しい選手であるために血の滲むような練習を課されてもなお、挫けず負けずにここまでボールを蹴り続けてきたのが皆様だ。最強に至るまでの影の努力を知っているからこそ、私は皆様のサッカーを支えられることに誇りを持っている。
…けれどその反面、そんな帝国よりも弱者であるはずの雷門中のサッカーも眩しいと思えた。どんな苦境にも抗う円堂守の目が頭から離れない。これまでどんな敗北者たちのチームを見ても、心は一ミリだって動いたことは無かったというのに。…そんな帝国への裏切りにも等しい感情を、私はいったいどうしたいのだろうかと悩む日々。

「あっ!君、帝国のマネージャーの!!」
「…円堂様」

そんな中、総帥が買収なされた中学校への話し合いに赴いた日の帰り道。迎えの車が渋滞に捕まってしまったらしく仕方ないので駅まで歩いていたときのことだった。川沿いを歩いていれば下の方から名前を呼ばれて、見下ろせばそこには円堂守が居た。…直接顔を合わせるのはあの練習試合ぶりだろうか。尾刈斗中との練習試合は鬼道様と佐久間様のお供としてついて行ったのだが、結局は途中で引き上げてしまったので顔を合わせてはいない。
そして何故かこちらへ猛然と駆けてくる円堂守に思わず戸惑っていれば、彼は人懐っこい笑みで私に話しかけてきた。

「こんなところで会うなんて偶然だな!」
「…この近辺で用事がありまして」
「そうなのか?あ、帝国の練習試合とか?」
「いえ、総帥からの使いです」

…あくまで私に友好的に話しかけてくる円堂守の意図が分からない。この前の練習試合で帝国からあれほどの仕打ちを受けたというのに、何故彼は何も無かったような顔で私に話しかけてくるのだろう。腹芸ができる性格では無いことは把握している。これが本当に円堂守の本心であることが理解できるからこそ、私は彼のことが分からないのだ。

「…円堂様は個人練習でしょうか」
「…なぁ、その円堂様ってやめない?スッゲーくすぐったいんだけど…」
「いえ、でも…」
「せめて様は無しでさ!な!」

…押しが強い。本当に様付けが嫌なのだろう。眉を下げて頼み込まれてしまえば、私もそれを無碍にすることは憚られた。何より彼は帝国の選手では無いのだし人前で無いのなら別の呼び方でも構わないのかもしれない。

「…それでは、円堂さんと」
「おう!あ、俺も一香って呼んでも良い?」
「…構いませんが」

知人程度の男性からの呼び捨ては少し身構えたのだが、総帥のお名前でもある「影山」の姓をみだりに連呼されるのもいただけない。私の名前くらいならばいくらでも呼ばれたって構わないのだからと思い直して、私は仕方なく許可を出した。
そこで話は終わりだろう。そう思って形式ばかりの別れを挨拶を告げようとすれば、円堂守は何故か私の腕を掴んだ。その顔はあくまで楽しそうな純粋な笑みを浮かべている。

「…あの、円堂さん」
「俺とサッカーしようぜ!」

それならばチームメイトのどなたかを呼べば良いのでは、という嫌味まがいの返事はギリギリで飲み込んだ。今この時間帯に呼び出しても応じる人間は居ないだろう。それに呼び出してからここに到着する時間を考えれば私を巻き込む方が早い。そういうことだろうか。

「…申し訳ありません。私はサッカーをしたことがありませんので、円堂さんのご迷惑に…」
「良いって良いって!俺が教えるからさ!」

遠回しのお断りは察せられることなく跳ね除けられた。まさかそう返されるとは想定していなかったおかげで二の句が告げず、私は引っ張られるがままにグラウンドの中へ連れ込まれる。
…どうしてこうなってしまったのだろう。大人との巧妙な駆け引きや契約は得意分野だというのに、何の思惑も無い純粋な好意への対応の仕方が分からなかった。手を引かれるがままに立たされたのはペナルティマークの手前。とりあえず蹴ってみろ!と叫んだ円堂守は意気揚々とゴール前に陣取って構えている。…私のような素人のボールなんてきっと簡単にセーブしてしまえるくせに。

「…やっ」

とりあえず助走をつけて蹴れば良いことは分かっている。皆様だっていつもそうしていた。だから私は五メートルほど後ろに下がってから走り出し、小さな掛け声と共に足を振り抜いた。…のだが、ボールは爪先が変なところに当たってしまったのかゴールから大きく逸れて力無くコロコロと転がっていくばかり。円堂守はそれを追いかけると爪先で器用に上へと蹴り上げ、手の中にボールを収めて笑った。

「惜しい!あと少しだったのになー」

こちらへ寄ってくる円堂守の足をジッと見つめる。今のはどのようにしてボールを持ち上げてみせたのだろう。私なんてボールを真っ直ぐに蹴ることすらできないというのに、随分と器用なことだ。すると私が黙って足を凝視していたからだろうか。円堂守は少し不安げに私の顔色を窺ってくる。

「…お、俺なんか変なこと言った?」
「…いえ、ただ皆さん、いつもあんなに簡単そうにボールを蹴っていたのに、と思いまして。実際はこんなにも難しいものなんですね…」

何故こんな丸いものを皆様はあんなに簡単に蹴ることができるのだろう。そう考えると不思議に思えて仕方が無い。当たりどころが悪ければあらぬ方向に飛んでしまう上に、そもそもタイミングさえ掴めなければ足に当たることすらない。…サッカーとは、こんなに難しいスポーツだったのか。いつも何も考えずに総帥からの指示やデータ、私自身の視覚だけで皆様に注意を促してきたが、たしかにこんなボールひとつ蹴ることもままならない素人にとやかく言われれば腹も立つのかもしれない。

「そりゃ最初は誰だって難しいさ。俺だって最初は全然だったんだぜ?」
「…」
「でも俺、サッカー好きなんだ。だから上手くなりたいって思いながら練習するうちに、だんだんボールに慣れてきたんだよ」

好きだから、上手くなる。そんな単純過ぎる理由で人は上手くなるのだろうか。…いや、この場合感情は行動の起爆剤に過ぎないのだろう。あくまで当人がやる気を起こし、練習に真摯に向き合わなければ上達はしない。円堂守はそれこそサッカーを生き甲斐にしたような人物であると聞き及んでいるし、彼も相当練習したのだろう。そこは素直に尊敬に値すると思った。

「一香も練習すれば上手くなるよ!」
「…そう、でしょうか」
「おう、俺が教えてやるぜ!」

…本当はここで断れば良かったのかもしれない。あまり敵チームと馴れ合うのは私の立場的に良くは無いだろう。けれどその代わりに打算があったのだ。もしもこの練習に付き合えば、円堂守の弱点を見抜き、なおかつサッカーの基礎を知ることでチームや総帥のためにさらに力を尽くせるのではないかと。

「…分かりました。それではドリブルの基礎だけ教えていただいても?」
「任せとけ!」

…しかし私には残念ながらサッカーの才能は無いのだろう。地面の上に静止させたボールを走って蹴って真っ直ぐ飛ばす、という動作でさえ成功率が三割程度なのだからそれは相当らしい。あのポジティブの権化であるような円堂守にでさえ少し引きつった顔で「頑張れ」と言われてしまった。

「フォームは綺麗なのになぁ」
「…運動は、不得手、ですから…」

しかもいつのまにか辺りは暗くなってきていて、私は咄嗟にポケットの携帯を確認する。…総帥からは特に連絡は来ていない。一応形ばかりの親子として帰る家は同じであるのだが、総帥はあまりあの家に帰っては来られない。時折家政婦を呼ぶばかりのあそこは、もはや私だけの家と言っても過言では無かった。

「時間も遅いしここまでにするか!」
「…すみません、ありがとうございました」
「連絡先交換しようぜ!」
「は…は?」

反射で返事しそうになったものの、よく考えればいきなり突拍子の無い提案をされていたことに気がついて疑問符が飛び出る。円堂守はそんな私の戸惑いを知らない様子で携帯を取り出して笑っていた。

「…何故、連絡先を」
「今日は楽しかったし、またこうやって練習しようぜ!一香も目指せ必殺シュートだ!」

撃てるわけがない、という言葉は辛うじて言わないでおいた。完全な善意での言葉に辛辣な言葉を返すほど私も性格は悪く無かった。しかしどう見ても円堂守が引く様子は無く、私としても別に連絡先が一つ増えたくらいで困るようなことは無い。それに彼にはたしかに今世話になったのだからどこかでお礼はするべきだ。

「…分かりました」
「よし!」

何がよしなのかは分からないが、とりあえず円堂守が満足するのなら良いかと思い直して連絡先を交換する。…個人名が総帥と鬼道様だけだったはずの連絡先に登録された新しい三文字が何だか擽ったくて仕方なかった。





その翌日の練習後、部室へと向かって行ったレギュラーの皆様を見送ってから珍しくベンチでぼんやりとしつつ、昨日の反省点を自分の中で振り返ってみる。

「…角度が悪かったのでしょうか」

あの時も円堂守のフォームを見様見真似でやってみたのだが、そもそもボールを足で捉えるタイミングすら掴めていなかった。それが一番の敗因だろう。何となく側にあったボールのカゴから一つボールを持ち上げて、グラウンドのペナルティマークの前に置いてみる。

「…歩幅は、たしか、これくらい…」

昨日一緒に計って確かめた歩幅分ボールから距離を取り、ボールと向き合う。この後は走って、右足の甲をボールの真ん中に当てるだけだ。後は簡単なはず。だって円堂守や他の皆様も簡単そうにボスボスと蹴っていたのだから、当てて前に転がすくらいは私にだって。

「…やっ!?」

…しかし足は何故か空振りして、バランスを崩した私は尻餅をついてしまう。ボールはペナルティマークから一歩も動かないままの状態で。あぁ、情けない。こんな無様な姿なんて今が一人だったから良かったものの、もしも見られていたら恥ずかしくて顔向けが…。

「…」
「…」
「…お、惜しかったと思うぞ!」
「すみません死にます」
「いやいや待て!」

振り返ればグラウンドの入り口には、何故か源田様がいらっしゃった。急速な絶望感に心が支配されていくのを感じて顔を青ざめさせていれば慌てて止められてしまった。このまま生恥を晒せというのか。
そんな源田様はどうやら忘れ物のタオルを取りに引き返してきただけらしく、そこでたまたまボールを蹴ろうとする私を目撃してしまったらしい。怪我は無いか、と手を差し伸べて尋ねてくるその様子はあくまで善意に満ちていた。その気遣いに少しむず痒い思いをしながらも黙って頷きながら手を取れば、源田様はそれなら良かったと微笑まれて、何故か私の目の前にボールを置いた。

「…あの、これは」
「助走をつけてのシュートは難しいんだろう?それならまずは止まったまま、その場で蹴ってみれば良いじゃないか」

そのままゴール前に立たれる。…どうやらそこに向かって蹴ってみろ、ということらしい。正直言って本当は今すぐ帰りたいのだが、源田様には既にあの醜態を見られている。ここで意地を張っても今さらか、と思い直して私は改めてゴールに向き直った。「ボールから目を離さない方が良い」とも言われたので、私は半ば睨みつけるようにしてボール目掛けて足を慎重に、しかし強めに当ててみる。軽く飛んだ後に地面を跳ねたそれは、源田様の目の前まで転がった。それを両手でしっかり掴んで持ち上げた源田様が私に向かって笑いかける。

「真っ直ぐ飛んだな!」
「…はい」

…笑顔が眩しい。心の底からの賛辞には慣れないため、ただただ居心地が悪い。こちらに歩み寄られた源田様は微笑みつつ私にボールを手渡しながら「それにしても」と不思議そうな顔で首を傾げられた。

「急にサッカーなんてどうしたんだ?」
「…とある方に誘われて、ボールを蹴る機会がありまして。それで皆様があんなに簡単に蹴ることが出来ているのが、その。…すごいと、思ってしまいました」

分かっている。皆様も最初はきっと私のように下手くそで、長い時間をかけて努力してきたからこそ今の実力があるのだということを。鬼道様がそうだ。幼い頃から共に居たあの方でさえも、血の滲むような努力を重ねてあの実力を手にしていらっしゃる。けれどボールを蹴ってみて、少しだけ羨ましいと思ってしまったのだ。あの丸っこいだけのボールを自分の思い通りに動かす皆様の生き生きとした表情を見て、私もあんな風に出来たならもっと総帥のお役に立てたのだろうかと。

「…何故笑われているのですか」
「ん?あぁ…嬉しいんだ」

ふと、何故か源田様がにこにこしていらっしゃるのを目にして私は思わず訝しげな顔になる。すると源田様は慌てて手を振りながら少しだけ照れたように頬をかいてその訳を話した。

「マネージャーは俺たちに興味が無いんだと思っていたからな。…凄いと言われるのは純粋に嬉しいんだ」

…別に興味が無い訳じゃない。総帥にマネージャーを命じられたときから、そのパフォーマンスがいつでも最大限に発揮できるようマネージメントの勉強を重ねてきた。声にも顔にも出さないだけで試合中は勝利を願って応援しているし、勝てば思わず拳を握り締めるほどに嬉しい。…そしてそれは、総帥の役に立てるとかそんな使命を差し置いた私の心からの本音だ。

「…申し訳ありません。私は、他人との距離の取り方が不得手でして」
「いや、別に責めているわけじゃ無いんだ。気にしないでくれ」
「…私は、帝国のゴールキーパーは源田様しか居ないと考えております」

そうこぼせば、源田様は虚を突かれたように目を見開いた。…少しだけなら、溢しても良いだろうか。総帥は「あまり馴れ合うな」と仰られた。その意図はいくら考えても分からないが、本来ならこんな総帥のお言葉に背くようなことを言ってはいけない。…それを分かってはいるけれど。

「いつも何も言えず申し訳ありません。ですが、私がこれでも一応皆様方のことを考えていない訳では無いことを知っていただけたら幸いです」
「…ありがとう。それで十分だ」

…あぁ、気恥ずかしい。今日は随分と私らしく無いことばかりを口にした。背後を見なくても分かってしまう。源田様は今きっと先ほどよりもさらに輝きの増した笑顔でこちらを見ているのだろう。
それが何だかしてやられたようで悔しくて、私はバインダーと空のボトルの入ったカゴを手にしながらスタスタと歩き始める。急に早足で歩き出した私に不思議そうな顔をしている源田様に、私は振り向きざまにジト目でぼそりと呟く。

「…早くしなければグラウンドに鍵をかけますが」
「えっ!?す、少しだけ待ってくれ!!」

鍵を締めるのはいつだって私の役目で、そんな源田様に向けて鍵をチラつかせてみせた。すると彼は分かりやすいほどに慌てだす。私はその姿を見てほんの少しだけ溜飲を下げて差し上げることにした。




TOP