あゝ、世界はなんて素晴らしい



雷門中サッカー部が強化委員として派遣されることが決まったと聞かされたとき、まるでこの世の終わりを宣告されたような錯覚に陥ったことを今でも覚えている。
あれを人は「絶望」と呼び、死んだ方がマシかもしれないとさえ思ってしまうものなのだと知ったのも、あの時が初めてだった。

たしかに私たちは、日本一の称号を手にしていながら世界相手に歯も立たず負けた。いっそ無様だと笑えてしまうくらい、私たちと世界の差は遥か遠くて。…けれど、そんなの私たちにとっては当たり前だった。
いつだって私たちは弱さを重ねて、羽ばたくための強さを手に入れてきた。だからたとえ世界に一度敗北してしまったとしても、次こそは。
次こそは勝利を掴むのだと信じて、疑っていなかったのに。

「…今、なんて」

強くならなければいけないと、誰かが言った。
日本一になった伝説と謳われる私たち雷門中でさえ歯が立たなかった世界の頂点を目指すためには、この国の実力の底上げをしなければならないと。
そしてそんな大多数の賛同に引きずられ、栄えある先導者に選ばれたのは私たち雷門中サッカー部だったという。
迅速に振り分けられたらしい派遣先を告げる監督の声も、それに返事を返すみんなの声も聞こえないまま静かに手を上げた。

「…すみません、監督」
「…どうした」
「体調が悪いので、先に帰らせてください」

みんなの怪訝そうで心配そうな顔は、もう目には入らない。吐き気と目眩でどうにかなりそうなのを我慢して、私はその地獄から一目散に逃げた。…あそこに居て、あのまま正気で居られるとは思わなかったから。

「…ッゔ、え」

飛び込んだ女子トイレで、私は思わず嘔吐した。気持ちの悪さから生理的な涙が溢れて、それをきっかけに次々溢れ出す涙はきっと、私の心が流す血の代わりをしていたに違いない。
その日は具合が悪いからと部屋に閉じこもり守にすら会わないで一人嗚咽を殺して泣いていた。知恵熱が出たから、相当参っていたのだと思う。
なかなか下がらない高熱の最中、苦しんで、悩んで、呻いて。三日程度熱に浮かされながらぼんやりと悩み抜いた私の答えは、案外あっさりと決まってしまった。

「サッカー部を、辞めます」

勉強に集中したいだとか、そんなつまらない理由をつけて私はサッカー部から背を向けた。誰にも相談することなく、守にさえ、詳しいことは何も言わずに。退部届を何か言いたげな夏未ちゃんに押しつけて、私はサッカー部に関わることを辞めた。
…みんな、何か言いたそうだった。けれど、私はそのどれをも黙殺して、言い訳を正当化するように勉強にのめり込んで。

「なんで辞めたんだよ薫!」
「…だから、勉強に集中したくて」
「そんな訳ねぇだろ!!薫の成績は悪くねぇって、夏未も言ってた!なのになんで!!」
「守」

その日生まれて初めて守に、嘘をついた。私の自分勝手な絶望を覆い隠して、守が何の心置きも無く自分の夢に向かって突き進んでいけるように。
引き裂くような心の痛みも、慟哭も、泣き声も、恨み言も。
守は知らなくていい。誰も聞かなくて良い。
みんなの希望が、私にとっては絶望でしか無かっただけだ。だからどうかいつか、こんなちっぽけな人間のことなんて忘れて。

「もう、サッカーに振り回されるのはうんざりなの」

…あの時、守にあんな顔をさせたのは他でも無い私の罪だ。
傷つけた。笑顔で何でもないように吐いた言葉は、半分嘘で半分本当のことで、私はそれを間違っても口にするべきじゃ無かったと知っていたくせに。

「…話がしたい、俺も、みんなも」

一度、豪炎寺くんが部屋の前まで来たことがある。守とはあの日以来家の中でさえ話すことも無くなってしまったから、きっと愛想を尽かされたのだろう。胸は痛いけど、自業自得で当たり前の結末だ。仕方が無かった。
そしてそんなある日。それは、サッカー部が強化委員として派遣される前日のこと。
席替えもあって遠く離れてしまった豪炎寺くんと話すのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。

「私には何も話すことは無いよ」
「逃げるのか」
「…逃げてないよ」
「違う、お前は逃げてるんだ。俺たちから、サッカーから目を背けているだけだ。何か悩みがあるのなら…!」
「君に私の何が分かるのッ!!!」

ドア目掛けて参考書を投げつける。当然、豪炎寺くんとはドア越しの会話だったのだから当たるはずはない。けれど、ドアの向こう側で豪炎寺くんが絶句しているのは分かった。…もう、放っておいて欲しい。私がみんなの旅立ちを引き止めないように、ついていけなくなった私の背中を押そうとしないで。
苛立ちと癇癪のまま乱暴にドアを開け放てばそこには、呆然としている豪炎寺くんが居た。その胸倉を掴んで壁に押しつけて叫ぶ。

「こうやってバラバラになるために私はサッカー部に入った訳じゃ無い!!強化委員だの何だの!!赤の他人のことなんて私はどうでも良いの!!
なのに君たちみんなはどんどん前に行く!バラバラになるって理解してたくせに誰も拒もうとはしなかった!君たちにとって雷門中サッカー部は!!どうせその程度の思い入れしか無いんでしょ!?」
「違う」
「違わない!言い訳なんて聞きたく無い!!
私はただ!!雷門中でみんなとずっとサッカーがしていたいだけだった!!!」
「薫」

泣きそうな顔をしている豪炎寺くんを見ていて、急速に頭が冷えていくのが分かる。…それでも、私は今の言葉を否定する気は無かった。
みんな、みんなみんなみんな裏切り者だ。寂しそうだったのは一瞬で、強化委員の使命を誇らしく受け取って雷門から出て行こうとするみんなは、誰一人だって私の気持ちを理解なんて出来ない。
守でさえ、私の気持ちは分からない。
そしてそれは、目の前の豪炎寺くんだって。

「…どうせ豪炎寺くんだって、私を置いていくくせに」
「薫」
「出て行って。もう、私に構わないで」
「待て、話をしてくれ」
「聞く話もする話ももう無いよ。…さよなら、どうぞ他所でも頑張って」

部屋に引き返そうとする私の手首を掴もうとした、どこか焦ったような豪炎寺くんの手を振り払う。…引き止めないでって、言ったでしょ。私の前から消える予定の人間の同情なんて、私は欲しくない。

「…サッカーなんて、好きにならなきゃ良かった」

それだけを吐き捨てて、私は今度こそ振り返らないまま部屋の鍵を閉めた。…もう、誰も私の心に触れないで。置いていくのなら、二度と私の名前を呼ばないで。
…そして次の日、みんなが各地へ旅立っていくのを見送りもせず。
私は一人、閉じ籠った部屋の中で泣いていた。