惨劇を踏襲して


「貴様…アンドラゴラスの小せがれか…」

悍しいほどの殺気さえ篭ったようなその声に、思わず足が震えそうになるのを必死で堪えながら私は腰へ無造作に差してあった短剣に手をかける。せめて殿下をここから逃さなければ。
あの男はダリューンさんやナルサスさんが二人して挑んでもそれに耐え切って見せるほどの強さだ。私じゃきっと絶対に敵わない。…でも、それでも今やれるのは私だけなのだから。

「答えろ、貴様がアンドラゴラスの小せがれか⁉」
「…いかにも、アンドラゴラスの子、パルスの王太子アルスラーンだ。そちらも名乗れ」
「王太子だと?どの口がほざく!貴様は薄汚い簒奪者の産み落とした惨めな犬ころに過ぎぬではないか!!」

銀仮面の男が剣に手をかけるのが分かって私も短剣を引き抜いた。そのまま男を見据えたまま、殿下に向けて小声で話しかける。まずは殿下をこの場から離脱させなければいけない。私じゃ敵わないと分かっているからせめて、ダリューンさんたちを呼ばなきゃいけない。だから。

「殿下、このまま、元来た道を逃げてください」
「おぬしはどうする!」
「時間を稼ぎます。ダリューンさんたちを、呼んできてはくれないでしょうか」
「そんなこと…!」
「何をごちゃごちゃと喚いている」

私たちの会話に苛立ったような様子の男は、私へ向けて何の感慨深さも無いような顔で目を細める。

「邪魔だ、どけ。貴様ごときが俺に敵うと思うか」
「…どかない。殿下には、近づけさせない」
「そうか…ならばそこで惨めに己の主人が屠られる様を見ているが良いッ!!」

反撃する間もなく、強かに腹を蹴りつけられて私は後方へと吹き飛ぶ。動きが見えなかった。殿下が私を呼ぶ声がしたけれど、今の私にはそれに応える余裕が無い。蹴りつけられたことで息がつまり、口から内臓が飛び出るかと思った。思わず嘔吐した胃液が石畳の上で跳ねる。額がズキリと痛んだのを思わず抑えながら小さく呻いた。…痛い、これが、暴力の痛みか。
意識を飛ばさなかったのが不思議だった。けれど辛うじてそれも保っているだけで、今すぐ途切れたって可笑しくはない。

「で、んか」

向こうから一度、剣戟の音が聞こえた。その後すぐに聞こえた、身体が叩きつけられるような音に顔を上げれば、そこには私と同じように腹を蹴りつけられる殿下の姿がある。あぁ、駄目だ、早く助けないと。
そう思っているのに、身体が動いてくれない。竦んだ身が立ち上がることを拒んでいた。…私は、この感覚を知っている。一方的に甚振られる恐怖を、痛みを、絶望を。

『たすけて』

だってかつて私はそれに、殺されたのだから。
死にたくない。殺されたくない。きっとあの時、私は殺されてしまったのに違いないけれど、どうして私が死ななくちゃいけなかったのかなんてそれだけは未だに考えても分からなかった。
…でも、平穏な日々を過ごしていただけの私に、理不尽な悪意が向けられたことは何度考えても納得がいかない。だって私の命を奪った相手は、きっと今ものうのうと生きているのだ。
だからあの時私は、あのルシタニア兵を殺した。私だけが一方的に搾取されることが怖くて、嫌で、悍しくて。奪われるならば等しく奪えと、私の中に棲んでいたらしい悪魔が嗤った。

「でんか」

優しくない人間なんて嫌いだ。私は自分勝手で狭量だから、殿下のように全ての人を受け入れられないし許せない。何より今目の前にいるあいつは、ヴァフリーズさんを、あの優しかった人を殺した仇なのだ。憎んですらいる。そんな人にこれ以上好き勝手な真似なんてさせるものか。
たとえ敵わないとしても、せめて一矢報いることができたなら。

「ア゙ァ゙ッ!!」

這いつくばる殿下に向けて高く剣を振り上げた仮面の男に向けて、私は痛む体を気合いで起こし、手元の短剣を振りかざして思い切り投げた。どうやら私は土壇場に強い人間らしく、投擲なんてしたことは一度も無かったけれど、投げた短剣は仮面の男に向けて真っ直ぐ飛んだ。それを打ち捨て払う男の隙を突いて、殿下が近くの篝火を引き寄せて勢いよく引き倒す。

「う……ああっ!!!」

すると驚いたことに、銀仮面の男はその火を恐れるようにして後ずさった。…その目に浮かぶ感情の色を見て確信する。こいつは、火が怖いんだ。
火が燃える薪を手にして仮面の男を牽制する殿下の背中を見ながら何とか立ち上がろうとするものの、さっきの全力で力を使い切ったのか腹の痛みでろくに身体が動かなかった。…でも、もうきっと大丈夫なのだろう。

「殿下!!!」

だって薄ぼんやりとする意識の中、殿下の名前を呼ぶ声と足音が聞こえる。皆さんが駆けつけてくれたのだ。それなら殿下の命はもう危うくない。休んだってきっと許される。
そんなことを考えながら私は、幾つにも重なる剣戟の音を子守唄にして昏倒した。





「…ぁ」

次に目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。首だけを動かして見渡すと、どうやらそこは私たちに与えてもらった女性陣の部屋らしい。出払っているのか部屋にはファランギースさんもアルフリードも居なくて、私は全身痛む体に呻きながら身体を起こす。蹴りつけられて勢いよく吹き飛ばされたから、全身を打ちつけていたのだろう。頭にも包帯が巻かれているし、あの痛みはもしかしたら皮膚が切れていたからなのかもしれない。

「…どれくらい、眠ってたんだろ」

ベッドから起きて、ベッドサイドに畳んであった上着を羽織ってから部屋の外に出る。身体は痛いけど歩けないほどでは無いし、私はとりあえず殿下のお部屋に向かった。しかしそこはどうやら無人のようで、それならきっと軍議室の方に向かっているのだろう。うろ覚えで頭に叩き込んだ地図を必死に思い返しながら歩いていけば、やはり皆さんはそこに居るようだった。

「…!?あなたが何故ここに…!」
「殿下は?怪我をされてない?」

部屋の外に控えていたエラムくんとアルフリードが私の姿を見てギョッとしたように目を見開いていたのを窘めて、私はとりあえず聞きたかったことを尋ねる。ちなみに会話は小声だ。蹴りつけられたところまでは見ていたのだが、それ以外に怪我をされていたら一大事だ。

「…手首を僅かに斬りつけられていましたが、深手ではありません」
「…良かった」

ホッとする。いや、斬りつけられたということは守り切れていないのと同然なのだが、それよりもちゃんと命だけは守れたようで安心したのだ。でも怪我をさせてしまったことは謝らなければいけない。そう思って軍議が終わるのを待とうとエラムくんの隣に腰を下ろせば咎めるように声をかけられた。

「部屋にお戻りください。あなたは怪我人なんですよ」
「もう大丈夫だよ。怪我といっても打ち身だし…それよりこれは何の会議?」

いくら言っても私が引かないことを察知したらしいエラムくんは仕方なさそうにため息を吐いて、私が昏倒してからのことを話してくれた。何でもついさっき、お隣にあるシンドゥラ国という国の第二王子がここペシャワール城塞に向けて進軍してきているのが分かったらしい。明らかにパルスの敗戦を狙ったものだったから、私は思わず眉を潜めた。そんなずるいことあるのか。
そう思っていれば、中での会議は終わったらしい。真面目な顔つきで中から出てきた殿下が、エラムくんを見た拍子に隣の私を見て目を見開いた。

「!ユウ、おぬし怪我は大事ないのか…!?」
「ユウが目を覚ましたのですか!?」

ついでにダリューンさんも飛んできた。今にも膝をついて私を労りそうな殿下の雰囲気に私は慌てて立ち上がり、なんてことは無いとでも言うように手で制する。主君にこんな顔をさせてどうするんだ、私は。

「大丈夫です殿下。…それよりも腕の怪我のこと、申し訳ありませんでした。もっとちゃんと、お守りできたら良かったのに…」
「そんなことは無い。おぬしのおかげで救われた場面もあったのだからな」

殿下はとりあえず怒っていなさそうだったので安堵した。周りの方々も私を見る目は心配そうなものばかりだったので、この件で咎められることは無いらしい。少し申し訳ないがやっぱりホッとした。
そしてどうやら皆さんは今からシンドゥラ国の王子を捕まえに行くらしく、それを聞いて私も何か出来ないかとナルサスさんに尋ねた。するとナルサスさんは呆れたように笑って言う。

「おぬしの仕事はまず休むことだ」
「十分休みました」
「熱があるのにか?」
「熱だと?」

…熱?首を傾げていれば、無自覚かとナルサスさんが苦笑する傍らでダリューンさんが私の額に手を伸ばす。いつも体温は高めらしいダリューンさんの手だったけれど、何故だかいつもより温く感じるような気がした。それと比例してダリューンさんの顔が険しくなる。するとそれを見て、ナルサスさんが軽い口ぶりでダリューンさんに指示を出した。

「ダリューン、今回の立役者を部屋まで送って差し上げろ」
「あぁ」

いきなり横抱きに持ち上げられて、思わず軽い悲鳴を上げながらダリューンさんの胸元の服を掴んでしまう。そしてそのまま歩き出したのだが、どうやらこのまま部屋まで連れて行くつもりらしい。見送るように手を振るナルサスさんたちを見遣りながら、私はダリューンさんに抗議した。

「だ、大丈夫ですから。熱なんてそんなのすぐ下がりますし」
「良いから休め。今のおぬしに必要なのは休息だ。…それに無茶をすれば、殿下がお心を痛めるぞ」

…そう言われると何も言えず、私は大人しく連行されることにした。私の意地で殿下に負担を掛けるのは嫌だったから。
私が大人しくしたことで満足したらしいダリューンさんに運ばれて戻った部屋の中、丁寧にもベッドに横たえさせてくれたダリューンさんが最後に毛布を掛けてくれるのに、呟くようにしてお礼を言う。大人しくしたからだろう、自分でも「熱がある」と自覚するくらい頭が熱に浮かされていた。恐らく微熱だろうけど、これはたしかに休んだ方が良いかもしれない。

「ゆっくりと休め」
「…気をつけて、くださいね」
「あぁ」

最後に頭を撫でられて、その心地良さのままに目を閉じる。今はただ休もう。ちゃんと回復して殿下や他の皆さんの役に立てるようにしなきゃ。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと手放すようにして眠りについた。