はろー異邦人


変わり映えのしない一日が突然ぐるりと非日常へ変わってしまうことを私は知っている。それは交通事故であったり、火事であったり、犯罪であったり。テレビの向こう側で真面目腐ったニュースキャスターが読み上げるそれらは正しく、日常から逸脱してしまった誰かの悲劇だった。
もちろん私だって他人事ながらそれを「可哀想に」と思うくらいの倫理観はあるし、事故現場に居合わせても携帯のカメラは向けないくらいの良識も兼ね備えている。所詮、非日常をエンターテインメントに落とし込んではいけないのだ。

(だけど、まぁ、これはどうだろう)

先程からだくだくと流れる赤いそれは、腹部を中心にまるで花開くようにゆっくりと私のシャツを染めて惨劇の終わりを彩っていく。ニヤニヤと悍ましい顔で嗤った目の前の青年が手に持つ包丁。その先にべたりと張り付いた赤は、私の腹部を強かに刺し貫いたおかげで私と同じ遺伝子を孕んでいるはずだった。

(運が無いなぁ)

意識が遠くなる。今日は少し帰りが遅くなってしまった分、いつもよりのんびり過ごそうなんて予定を考えていたのはついさっきの話だった。コンビニで買った安い缶のお酒がアスファルトでゴロリと揺れる。それは、少しだけ、高いやつなんだぞ。

『ユウは少しだけずれてるよね』

友達に何度も言われ続けた呆れ混じりのその言葉。確かにそうかもしれない。ゆっくりと命が零れ落ちている傍ら、考えていることがお酒の恨みだなんて普通じゃない。でも仕方ないだろう。こんな下らないことでも考えていなきゃ、今にも目を閉じてしまいそうなほどに眠たいのだ。

(ああ、でも、駄目かもしれない)

死への恐怖を、傷の痛みを。何とか紛らわせやしないかなんて考えたけれど、きっとそのどれもがもう無駄だ。何せ、再び私に馬乗りになって、高く高く包丁を振りかざした男が目の前に居るのだから。…人を貫く感触と、浴びた血の匂いなど。そんなものを知ってこの男はこれから先どうするつもりだったのだろう。
まぁ、そんなこと、もうすぐ死んでしまうであろう私には関係無いけれど。



そして、意識が途絶えた。





たしかにあの時私は死んだのだろう。何せ悲鳴を上げる間も無く腹部を刺された上、誰も助けに来てはくれない路地裏での出来事だった。近道だからとわざわざ人通りの無い路地裏を選んでしまった私も阿呆だと今更のように思う。無論、現実逃避だ。
現在私は、見たこともない異国情緒の雰囲気をした街の路地裏で途方にくれている。肌寒くて目を覚ませば、私は何故か地面に転がって眠っていた。それに加えて着替えた覚えのない服まで何故か身に纏っている。状況と何もかもが分からないというザマだった。しかも。

「お嬢さん、そこで何してんの」
「俺たちと飲みに行かねぇか」

明らかに怪しい男の人たちとこんにちは。ナンパなんて生まれて初めてだけどちょっと遠慮しておきたい所存。さっきからチョロチョロと街の中を見て回っている限り、この街は何やら異国どころかだいぶ大昔のようにも見える。奴隷らしき人たちも見えることから、少なくとも私の知っている国ではないことが分かった。令和の世が訪れている現在、奴隷制度なんてとっくに大昔の物語の話なのだ。
とりあえず私は首を横に振って拒絶の意思を示しておいた。この人たちにのこのこ着いていってもロクなことにはならないことは馬鹿でもよく分かるし、身寄りの無い怪しい女なんてあの彼らのように奴隷にされて売り飛ばされるのがオチだろう。それともこの身体を好きにされるのが先かもしれない。それも嫌だ。

「おい、逃げたぞ!」
「追え!!」

だがしかし、あちらもせっかくの獲物を易々と逃す気は無いらしい。怒号を上げて追いかけてくる彼らとの鬼ごっこ。普通の遊びだったなら鬼の方が少ないはずなのだが、追われる方が不利なのは不公平なのではないかしら。それに私は走ることは別に得意じゃない。運動は出来た方だとは思うけれど、大学に入学してから運動の機会なんかはめっきり減ってしまっていたのだ。だからつまり、何が言いたいかというと。

「へっへっへ…追い詰めたぜぇ…」
「ちょこまかと逃げやがって…」

だいぶピンチ。土地勘の無い中をぐるぐる走り回っていればそりゃ迷うし追い詰められる。行き止まりの壁に背をつけて、こちらへ歩み寄ってくる追手を最後の気合で何とか睨みつけてみたものの、泣きそうなのも堪えているからきっと今の私の顔は情けないものになっているのに違いない。案の定、私の精一杯の睨みなどコアリクイの威嚇だとでも言いたげに笑い飛ばして歩む足を止めなかった。万事休す。目前まで伸ばされた手に、私は硬く目を閉じて。



「そこで何をしている」

追手の男たちの悲鳴と共に、淡々とした怒りを孕んだ声が聞こえて思わず顔を上げた。そこには男たちの手首を掴みながら、軽蔑を込めた視線で奴らを睨みつける男の人が居る。彼は骨が軋むほどに男の手首を握り締めてぞんざいに地面へと放り投げた。なんて力持ち。思わず拍手しそうになるのを何とか堪えた。

「少女が追われているという通報があって来てみればこれだ。恥を知れ!」
「グアッ」

こっちまで怖くなるような怒号を上げて男たちを殴りつけた男の人は、たった一度で気絶してしまったのをそのままに私の元へ歩み寄る。怪我は無いか、と一つ尋ねて目の前に蹲み込んだ男の人。凛々しく精悍な顔つきとは裏腹に、その目に宿した心配そうな色を見て、私は思わず安堵で涙をこぼした。今までの恐怖が一気に押し寄せて、耐えていた涙腺がふつりと切れる。

「だ、大丈夫なのか?どこか痛めでもしたのか」

そんな私の様子を見てオロオロし出した男の人が狼狽えながらも、取り出した布で私の目元を押さえてくれた。その優しさにもっと安堵して、涙の量は増えていく。しかしとりあえずお礼をしなくては、と頭を下げておいた。すると私がずっと黙ったままだったことに気がついたらしい男の人は、神妙な顔で私に尋ねる。

「…おぬし、もしや声が出ないのか」

一つ頷いた。恐らく、あの通り魔に刺されたことで死への恐怖が天元突破したのだろう。目を覚ましたときには既に声は出なくなっていた。精神的ストレスなものと思われる。そしてそんな私に少しだけ険しい顔をした男の人は、私の頭を撫でて口を開いた。

「ならことさら俺が間に合って良かった。一歩遅ければ、助けも呼べぬ場所に連れ去られていたところだったのだぞ」

たしかにその通り。まあそれが怖くて逃げてたんですけど。そんな男の人は、このまま私を帰すのも忍びないと思ったらしい。見回り中の兵隊らしき人にさっきの男たちを引き渡してから「家まで送ろう」と言って背中を押してくれた。だがしかし。

「…送る必要は無いのか?」
(そういう訳ではなく)
「…まさかとは思うが、家が無い、などという訳では無いな」

大正解。大きく頷けば頭を抱えられた。こんな面倒そうな人間と関わらせてしまって申し訳ない。何せ恐らく推測の域を出ないのだが、ここは私の住んでいる国でも時代でも無いらしいのだ。つまり戸籍も無いし自宅も無い。まだ花の十九歳であるというのに、根無草とは哀れが過ぎた。
しかしここでこの男の人にこれ以上面倒をかけるわけにはいかない。本当は嫌だし怖いけど、今晩はひとまず何処かで野宿でもしよう。お金も無いのだから、働き口だって探さなくてはいけない。それを何とか身振り手振りで伝えれば、男の人は少し悩むように唸ったかと思うと、やがて何か覚悟を決めたようにして頷いた。

「…ここまで関わっておきながら見捨てるのも忍びない。行く当てが無いのなら、しばらく俺の家に来ると良い」

良いのだろうか。私としてはありがた過ぎる申し出ではあるのだが、初対面の怪し過ぎる女にそんな施しをしてくれるなんて。すると、そんな私の疑問が分かったらしい男の人は、仕方ないようにため息をつく。

「声の出ぬ女を一人放り出すなど出来るものか。幸い俺の屋敷は使用人も少ない。せめて行く当てが出来るまで、働いてはどうだ」

どうやら私の境遇に思うところがあったらしく、遠慮はしなくても良いとのことなので甘えさせてもらう。薄着は寒いだろうと、自分の着ていた上着を羽織らせてくれるいう紳士さを発揮した男の人、どうやらこれからお世話になるそうなので、私は身振り手振りで名前を尋ねる。すると彼は改めて私に手を差し出し、その大きな手よりも一回り小さな私の手を取って引いてくれながら、その名前を教えてくれたのだ。


「俺の名はダリューンという」


それが、始まり。