Patience does not work



とりあえず一通り残りの案内をしてもらったところで、私はワタルさんの執務室に通された。仕事に行かなくても良いのだろうかと不安になったものの、ワタルさん曰く「今日はこの空気に馴染んでくれれば良い」とのこと。わざわざ淹れてくださった紅茶を受け取りながらお礼を告げた。

「ありがとうございます」
「おれが好きでやったことだし、別に構わないさ。…そういえば、紅茶で良かったかい?コーヒーもあったけど」
「あっ、私実は苦いものが得意じゃないので、むしろ紅茶でありがたいです」

コーヒーはどうも苦くて飲めないのだ。ミルクや砂糖をたくさん入れれば飲めないことは無いけれど、そうなると最終的にはカフェオレになってしまっている。それじゃコーヒーとは呼べないだろう。淹れたてで少々熱い紅茶を少しずつ飲んでいれば、ふとそんな私をジッと見つめているワタルさんと目が合った。

「どうしましたか?」
「…いいや、熱いものは苦手かい?」
「猫舌気味でして…」

…子供っぽいと思われただろうか。でも本当のことだから仕方ない。料理は出来立てが美味しいと聞くけれど、私にとっては多少冷めた方が一番美味しいのだ。半ば照れ隠しのようにまたカップに口をつけると、それを微笑ましげに見ていたワタルさんが、そういえば、と話題を変える。

「前はホウエンの企業に勤めていたんだってね」
「はい」
「どこの企業に?」
「デボンコーポレーションです」
「…へえ」

何故か意味深な顔で微笑んだワタルさんに首を傾げる。今の言葉に何か引っかかることでもあったのだろうか。…いや、そういえば、ワタルさんとあの会社の重役には一つ共通点があったような無かったような。

「副社長とお知り合いですか?」
「ダイゴのことか。あぁ、彼はチャンピオン時代からの知り合いだよ」
「やっぱり」

副社長も数年前まではホウエン地方のチャンピオンとして二足の草鞋を履いていたと聞いている。副社長という仕事が多忙な中、チャンピオン業務まで熟していたのは尊敬に値した。たしか会社の業務に集中し始めたのは、私が入社してくる前の話だったはずだ。部下のことをよく見ていらっしゃる上司の鑑だった。…私も願わくば、あの人みたいな上司が良かったんだけどな…。

『可愛げの無い女だ。上司の言うことくらい聞けんのか』

…それが、私が辞める原因になったあの上司の悪態の言葉だった。まるで私を舐めるように見てきたあの人の視線でさえ私は耐え難かったというのに、それに加えて私に触れてきたときの悍ましさと言ったら、言葉にできないほどに恐ろしかった。勇気を振り絞って告げた拒絶の言葉も、私のわがままかのように取り扱われてしまって。仲の良い同寮だったはずのみんなは、上司から目をつけられることを恐れて私から顔を背けた。
そんな針の筵のような職場の中、私はどこに助けを求めれば良いのかも分からず、逃げるように辞表を出したのだ。

「…君が退職した理由はグリーンたちから聞いているよ」
「!」

ちょっぴりセンチメンタルになってしまった私に、向かいのソファに腰を下ろしたワタルさんが真剣な顔で私の目を見つめている。それを聞いて私は思わず息を飲んだ。…別に、グリーンくんたちが話したことを怒っているわけじゃない。あの子たちはきっと、私のことを心配してワタルさんに言ってくれたのだ。…でも、そんなことで辞めるなんて、と呆れられたらどうしよう。ワタルさんはそんな人じゃ無いとは分かっていても、軽蔑されるのは誰からだって怖かった。

「軽蔑なんてしないさ」
「…本当ですか」
「あぁ、むしろ君のような優秀な人材を手放してくれたことに礼を言いたい気分だよ」

少し茶目っ気を含んだ微笑みに、重かった心がスッと軽くなったのを感じた。恐れていたことが杞憂だったと理解しただけで、何とも現金なものだと自分でも思う。だけどそれでも、そうやって「お前は悪く無い」と真正面から言ってもらえることが、私にとっての救いだったから。

「ありがとうございます」

そんな風に優しく、温かな言葉で歓迎の意を示してくれるワタルさんの気持ちが嬉しくてたまらない。この人たちのために、セキエイの方々のために頑張ろうと思わせてくれる。
それだけであの時傷ついた心がこんなにも簡単に癒されて、今はとても穏やかに揺れていた。





そんな新しい職場のセキエイリーグ。仕事を教えてくれる先輩方も、私の上司であるカンナさんや四天王の方々も、実に私に親切にしてくださった。おかげさまで一ヶ月経つ頃には仕事も滞りなく覚え、少しずつ仕事を任されることも増えている。事務方に運ばれてくる仕事は、基本ポケモンリーグを通さなければならない案件の書類作成であったり、リーグ挑戦者の案内であったりいろいろと忙しかった。

「すみません、資料室に行ってきます」
「あ、ナズナちゃん、それならこの資料ついでに片付けててくれない?」
「分かりました!」

今度トレーナースクールで行われる特別授業に使う資料を作成していた私がそう言って立ち上がれば、ちょうどそんな声がかけられた。別に大した量でもなかったので快く引き受ける。資料と言っても数冊だし、重さもあって無いようなものだ。もうすぐ資料も作成できるし、早いところ先生役のカンナさんにお渡ししたい。

「…って、思ってたのにな…」

悲しいかな低身長。まさかの踏み台を使用しても片付けられないという事実。何度懸命に手を伸ばしても、本は永遠に元の位置に戻ってはくれなかった。仕方ないので、またさらに何か踏み台を用意しようかと息を吐いていれば、ふと後ろから誰かに声をかけられた。

「ワタルさん」
「資料の片付けかい?」
「はい!」

ワタルさんだった。その手にあるのはやはりここの資料で、どうやらワタルさんもこの部屋に用事があって来たらしい。にこにこと微笑みながらこちらへ歩み寄って来た彼は、しかしふと私の手の中にある資料と本棚の上の方にある空白を見比べて「なるほど」といったように頷いた。

「貸してごらん、おれが片付けよう」
「…なんかすみません…ワタルさんをこき使ったみたいに…」
「これくらいなら全く構わないよ」

上司であるワタルさんに頼むのもどうかと気が引けたけれど、私の身長じゃ届かないのはどう見ても明白だし、せっかくの親切だから受け取っておいた方が良いかもしれない。そう思い、資料を手渡してその場からズレようとしたのだけれど。

「よ…っと」
「…へ」

とん、と軽く棚についたワタルさんの手が私の退路を阻み、その場に私を押し留めた。戸惑いを隠せないままワタルさんを見上げれば、私から離れた場所にある灰色の瞳が私を見下ろしている。微笑みと共にゆっくりと細められたそれに、私は思わずたじろいだ。…何故だろう、何か、背中がぞわぞわする。そう思って一歩後ずさったものの、そこは当然本棚があるせいで逃げ場は無い。何故かほんの少しの絶望を感じながらワタルさんを見上げた。彼はそんな私に何も言わないまま、ゆっくりと手を伸ばす。

「わ、たる、さ」

ワタルさんの指の背が、触れるか触れないかのギリギリで頬を掠めて、またぞわりと粟立った背中に反射で目をギュッと閉じた。残された聴覚が、ワタルさんの小さく微かな笑い声を拾って、それがやっぱりくすぐったくて、ふわふわして、恐ろしくて。
まるで、これからひとくちでぱっくりと、飲み込まれてしまうかのような、恐ろしさで。
…そのときだった。

「ッい」
「!?」

…どうやら上の方に並べてあった本がバランスを崩し、ワタルさんの後頭部に直撃したらしい。本は薄いものといえど、あの高さから落ちて来たら相当の衝撃だったはずだ。そんな私の目の前で後頭部を押さえて少し顔を顰めていたワタルさんだったが、私がぽかんとしている姿を目にした途端にその顔はやや居心地悪そうなものになる。そして少しだけ恥ずかしそうな、照れたような様子でゆるりとはにかんで。…そこに、先ほどまで感じていたはずの恐怖を煽るようなワタルさんの目は無かった。

「…はは、格好がつかないな」

そう呟いて片手で口元を覆ったワタルさんに、私は思わず胸が高鳴った。可愛い。いつもは穏やかながら大人の雰囲気でいらっしゃるワタルさんが、今だけはフェアリータイプのポケモンのように可愛く見える。…しかし今のは何だったのだろうか。こんなにくっついたりなんかして。こんなところを見られたら、ワタルさんのファンからボッコボコにされてしまうではないか。
そんな私の疑問を不信感を読み取ったらしいワタルさんは苦笑いして、私の目の前に指をかざす。親指と人差し指で摘まれたそれは、ふわふわとした埃だった。

「すまない、君の髪に埃がついていたから」
「えっ」
「もう付いてないから大丈夫だよ」

…なるほど、どうやらワタルさんは私の頭についた埃を取ってくれただけなのらしい。それを聞いて思わずホッとする。なんだ、ワタルさんは親切をしてくれただけなのか。何か猛獣に食べられそうな危機感を感じたけれど、それは気のせいだったのかもしれない。そう思いながら、改めて資料を片付けてくださったことと埃を取ってくださったことへのお礼を告げれば何でもないような顔で笑ってくれたワタルさん。そんな彼にもう一度頭を下げてから、私は仕事場に戻るために歩き出す。ワタルさんは今日もいつも通りの、私の尊敬する頼れる上司だ。













「…本当に、格好がつかないな」

軽やかな足取りで部屋を出て行く私の、背中をジッと見つめていた瞳をキュウと細めて、先ほど私の頬を撫でた指の背に唇を落としたワタルさんが、そう言って微笑んでいたことにも、私は気づかないままで。




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