世間を賑わす一大ニュースが誌面に載ったのは、また数週間経った頃。
その朝、ソファで横になるおれの腹の上に放り投げられたのは、“麦わらの一味完全復活”と大きな見出しのある新聞だった。
「……! これ」
「また世界が変わりだすぞ」
面白がるように言ったローは帽子を脱いでソファに深く腰掛けた。その太ももに頭を乗せ、素早く一面に目を走らせる。
ああそうか。もうそんなに経ったのか。誌面に大きく載った数ヶ月ぶりに見るサンジの顔は、別れた時よりも少し逞しくなったように見えた。おれが一足先に出発した後、カマバッカに一人残ってそりゃあ色々鍛えられたことだろう。
「あーやっぱ面白ェこいつら…見て、偽物の麦わらの一味とかいたらしい」
「はっ、二年も行方不明じゃそういう輩も現れるか」
「おれ、あんたの偽物とかいたらぜってー殴る」
「そんなアホに無駄な体力使うな」
「でも腹立つだろ」
ああ、でも、サンジが無事に仲間と合流できて良かった。心からそう思う自分がいてなんだかほっとした。本当に、良いダチが持てたな。
新聞を胸に置いて見上げれば、ローは背もたれに肘をついて静かにおれを見つめていた。相変わらず隈の目立つ薄灰色の瞳と暫し見つめ合い、ふと気付く。
「……ロー、痩せてたのマシになった?」
「お前の料理毎日食ってるからな」
「あー…これ引かれると思って言ってなかったけどさ、おれが作ったもんがあんたの肉になんの、すげー良い。ぞくぞくする」
「……たまに怖ェこと言うなお前は」
「引いた?」
「面白ェからまあ良い」
また、受け入れてくれた。起き上がってデニムに手を置き、喜びの気持ちを込めて冷たい頬に唇を押し当てた。そのまま硬い胸板にもたれかかれば腰に手が回される。
「…キスしていい?」
「もうしただろ」
「違う、口に」
答えは無かったけど長い睫毛が伏せられたので、ありがたく。肩に腕を回して鼻から息を吐き出して、湯船につかるようにその感触を噛み締めた。
「…毎日して飽きねェのか」
「全っ然。おれやべえかな……」
「っは、やべえのは今更だろ」
「…それは違いねェな」
再会してから会えなかった分を埋めるように主におれから殆どベッタリくっついていたし、自分でも引くほどこの男の唇を奪いまくってると思う。朝はベッドで寝ぼけてるローにどさくさ紛れで、夜は寝落ち寸前のローにどさくさ紛れで。
これは希望的観測だが、この海で最もトラファルガー・ローとキスをした人間はおれだと思う。ここ数週間で記録が塗り替えられたはずだ。本当のとこは分かんねえけど、あくまで希望。ちなみにチェンバーズ・リバーと最もキスをしてるのは圧倒的にトラファルガー・ロー。これは確実。
だって、「やだ?」って聞いても「別に」って返ってくんだもん。許されてるって思っちゃうだろ。じっと見つめれば、長い指が殆ど顔を覆うようにして頬を包んだ。
「……ちいせェ顔」
優しく笑った顔に、胸が詰まるように熱くなった。照れを誤魔化すように目を閉じてその手のひらに顔を預ければ、指が睫毛をくすぐる感触がする。
…ずっと、おれにだけ触れていればいいのに。
この美しい男の手が、どんな風に女を抱くのだろうなんて考えてしまうのは最近の悪い癖だ。嫌だ、と思う資格も権利も無いのに。…でも、今だけは。今だけは、おれだけのローだ。
そんな、浅ましいことを思ってしまう。
この穏やかな瞬間が束の間のものだとは分かってる。目の前の男の心臓を、いつまでも空洞のままにしておける訳ないことも。
「何考えてる」
「いや…なにも」
ぱ、と目を開ければローが顔を近づけてこちらを覗き込んでいた。ちょっと前髪のかかった、整ったその瞳に心まで覗かれるような心地がする。くだらない感傷で余計な面倒をかけては世話ないと目を逸らした。
ずっと二人きりの空間で過ごしているせいで、自惚れていたのかもしれない。ローが何にも縛られないなんて、よく分かってるつもりだったのに。
「……でも最近確かにくっつきすぎだったかも…うん…悪ィ」
本能に抗って、肩に回していた腕を離す。途端に寒くなった身体がいっそ笑える。
いつローが目的の為に動き出すとも分からないのに、あんまり頭を甘ったるいはちみつ漬けみたいにしている訳にはいかない。
くっついていた身体を離して立ち上がろうとすると、伸ばされた手が追いかけるようにして服の端を掴んできた。
「何言ってる、今更だろ」
「いや、あんた断ちしといた方が良い気がする」
「…ああ?」
「ずっと甘えてる訳にもいかねーっつーか…」
至って真面目に返せば、ローも真剣な表情をして顔を覗き込んできた。
おれの服を掴む指に力が籠る。クールな男の滅多にない仕草に妙な汗をかいてきたが、それも無視だ。
「正気か?」
「しょ、正気」
「…おれが良いっつってもか」
「う、え、いやでも中毒になる前に対処しとかねェと」
中毒って何。自分でも何言ってんのか分かんなくなってきたけど。
こっから先、ローの悲願を叶えるためにより険しい道を進まなきゃなんねえんだから。確固たる決意をして、胸に置いた新聞を手に立ち上がった。
じきに、サンジも新世界に来る。頭の切り替えってやつを身につけて、もっとちゃんとローを支えられるようになる。できるはず、きっと、多分……えーっと、出来たら良い。
「……へぇ?」
固い声色が背後からして、持っていた新聞が引き抜かれ呆気なくテーブルに放り投げられる。そして、冷えた手がするりと手首を掴んだ。
嫌な予感がして振り向けば、膝に頬杖をついたローが上目遣いにこちらを見上げていた。跳ねた黒髪越しに薄灰の瞳と目が合って、ぎゅっと息が詰まる。なにその顔?ずるすぎだろ。
必死に理性を総動員して睨み返したが、情けないことに正直勝ち筋が見えない。
「……なんだよ」
「中毒になる前にって?」
「だ、だから、あんたに依存しすぎる前にちょっとくっつきすぎねー練習を……」
「おいおい、頭は良いはずだろ…手遅れだとは思わねェか?」
切れ長の瞳が、獲物を捉えた肉食獣のように細められた。
「そ……んなことは」
「おれが触ってやらないと、いけねェくせに?」
「ぐう、そっれはァ……!」
手首を掴んでいた手が、誘うように指に絡まる。それだけで指の先から頭にまで一瞬で熱が登るのが分かった。必死に振り払おうとするけど、自分の手だってのにビクとも動かない。……出来るはずもない。
ああ、知ってる、知ってるよ。とっくの昔に中毒になってる、完全依存症だ。会えなかった期間に、この深刻な症状は見事に決定的なものになった。
あんたに会いたくて枕を濡らしてたなんて、絶対口にはしないが見透かされてそうで怖い。
「どうなんだ?本当におれを断てるか?」
「なんでんな事言うんだよ……これはこの先の事を考えて、」
「お前にくっつかれんのは嫌いじゃねェ」
え、と漏らせば悪名名高い王下七武海の男はトドメを刺すように此方を覗き込み、悪党さながらの笑みを浮かべた。
「寂しくなるなァ?お前が傍にいねェと…」
瞬間、何やら叫ぼうとしたが言葉にならず、ただフルスピードでソファに舞い戻りこの世で一番ずるいキャプテンに抱きついた。受け止めた男は珍しく笑い声を上げて、包み込むように抱き返してきた。
たまんねー、これだからトラファルガー・ローに引きずり込まれんだよ。この確信犯!
「はー、なァあんた今寂しいっつったの?信じらんねェ!嘘でもなんでも、二度とそんなん言わせない」
「馬鹿、寂しくなるって言ったんだ」
「おれが傍にいたら寂しくなんねェの?」
「あァ」
「~~~っ絶対寂しくさせねー!」
寂しい、なんて悲しい感情、できればあんたから一つ残らず消し去ってやりたい。おれにそれが出来るなんて、思っても無かったけど。他ならぬあんたがそう言ってくれるなら。
ローはまた笑いながら目を伏せて、肩に頭を預けてきた。夢でも見てんのか、こんな体勢。目の前でふわふわと揺れる黒髪を凝視しながら必死に息を整える。
うまいこと乗せられてる気がするけど、そもそもローがくっつきたいって思ってないと、おれを乗せる意味すら無いわけで。ああ、少しは自惚れていいかな。多少なりとも…おれの10分の1くらいはあんたもおれと触れ合ってたいって思ってるかも、とか。自惚れすぎ?100分の1くらい?
「…じゃあ、くっついてていい?」
「そう言ってるだろ」
「キスしていい?」
「お前ならな」
嬉しくて嬉しくて、同時にふと、うざったすぎる言葉が浮かんですぐ喉の奥でつっかえた。言っちゃ駄目だ。そんなこと言う奴がおれは嫌いだから。……ああでも、ローに言われたら泣いて喜んじまうな。
おれ以外の奴に絶対そんな事言わないで……なんて。
感じたこともない程胸がきしむ。瞳を閉じて、少し冷えた唇に自分のを柔らかく触れ合わせた。応えるように肩に手が回されて、ローの腕の中に囲われる。この海で一番、安心できる場所。
震えながら瞼を開ければ、薄灰色の瞳は優しい色を湛えておれを見ていた。もう隙間もない程くっついてるのに、それでもまだ足りないのが恐ろしいと思った。
「ロー…」
「ん?」
胸がいたい。理由もなく目が熱くなる。いや、理由はあるか。ローのことが何よりも大事すぎるから、切なくなるんだ。傍にいられなくなるのが怖い。この海の、何よりも怖い。
「……おれさ…言ったことあったっけ。あんたのこと好きだって」
雪が冷たいように、太陽が眩しいように、海が青いように。それはあまりにも当たり前のことだったから、こうして面と向かって言うことも無かった。
…でも、なんでか伝えたくなったんだ。口に、出したいと思った。
ローはひとつ瞬きをして、両手でおれの頬を包み込んだ。
「…また今更だ。言わなくたって伝わってる、そんなこと」
「そう?でもたまには言わねーと爆発しちまいそうだから、これからはいっぱい言っちまおうかな…許してくれんなら」
「──…おれが許さねェと思うか?」
「思わない……けど自信ねぇ」
「お前はもっと自信を持て。おれがここまでしてやってんだろうが」
確かに、トラファルガー・ローの膝の上に座って抱きしめられてるなんて、結構とんでもない状況だ。やっぱりちょっとは、自惚れても良いのかもしれない。
「…あんた、これ以上おれを引きずりこんでどうすんの?正直さァ、好きとか生ぬるい言葉じゃ収まんねェんだけど」
「無理に収めなくていいだろ」
「はは、いっつもそう言う…どんだけ縛られたくねーんだよ」
「何にも、だ」
偉そうにそう言って、ローはにやりと微笑んだ。ああちくしょう、写真に収めてェなその顔。
赤くなった頬を誤魔化すようにもう一度抱きつけば、大きな手のひらが柔らかく頭を撫でる。
「全部受け止めてやるから、そのままでいろ。リバー」
「……だから、これ以上引きずりこむなって…」
「今更だろ?」
「ずりー……」
回り始めた世界。その片隅の、このあたたかい腕の中。この場所を守るために、おれには何ができるだろう。
いや、何ができるかじゃない。なんだってやってやる。固い決心がまた一際強固になったのを、目を閉じながら感じていた。