くちべた

COCO MEMO TEXT

迷い恋たゆたえば



『大人しく降参して』の派生



軋んだスプリングの鈍い音が耳に入って、わたしは自分がベッドに倒れたことを理解した。押し付けられた両肩がマットに沈む。わたしの体の上に跨ったモブくんの向こう側に彼の部屋の天井が見えるけれど、あまりに突然すぎて理解が全く追いつかない。頭上でこちらを見下ろす彼は普段の見慣れた表情をしているはずなのに、お互いの衣服が擦れる音や重力にしたがって滑る黒髪が、まるで知らない人を思わせた。真っ直ぐモブくんの顔を見ることができない。彼に視線を移せばこちらを見つめ続けている真剣な目とぶつかって、一瞬で全身が沸騰してしまう。すぐさま天井をみたり学ランのボタンをみたりと、目がせわしなく動き回って落ち着かない。状況を理解しはじめた心臓の鼓動ひとつひとつが大きくて、それがまた羞恥を誘う。じわりと胸の位置で固まる両手に汗が浮かんだ。

こんな、少女漫画みたいなシチュエーションが本当にあるなんて信じられなかった。モブくんと両思いになってから、中学生らしくとても清いお付き合いをしている自覚はあった。モブくんはとても優しくて、相手の嫌がることを無理やりするような人じゃない。手をつなぐときも寄り道をしてこっそり買い食いをしてみたときも、いつでもモブくんはわたしの意思を尊重してくれた。お互い積極的なタイプではなかったけれど、それでも彼と過ごす毎日はとてもどきどきしたし、わたしは彼のこちらを伺うような気遣いも、肯定した後の照れたような笑顔も、ひどくむず痒くて、けれどそういうところが好きでたまらなかった。

でも、今まさにモブくんが馬乗りになっているこの状況をいったいどう説明すれば良いのか、考えてみてもモブくんの襟首からのぞく肌に鎖骨を見てしまって、普段は見ることがないその角度のせいで意識しないようにしても難しく、この距離で香る彼の匂いに頭がくらくらしてしまう。大好きな人とこんなふうになることに憧れがなかったわけじゃない。少女漫画やドラマをみてクラスの女の子とときめきを共有したことだってある。だけど、モブくんとそういう風になることをわたしは想像できていなかった。わたしが笑えば控えめに微笑んで、指を絡めれば頬を染めて、愛しさを素直な気持ちで伝えれば大げさに慌てる、そんな彼しか知らなかったから。

なにより、自身の真っ赤な頬も熱い身体も、緊張に震える息も全部自覚したってどうにもできない状況なのに、この原因をつくった目の前の彼はどうしてこんなに冷静でいられるのだろう。こちらを見つめるモブくんの、真剣な表情にゆっくりと喉が上下する。決して強くはないのに、逃げることなんてできない力に抑えられていた肩から、モブくんの右手がゆっくりと離れていく。骨ばった指先がわたしの額に散らかった髪をどけて左右に落とした。「も、モブくん」そんな動作すら目をそらさないとどうにかなってしまいそうで、思わず彼の名前が衝いて出る。今から何が起こるのか、知識がないせいで雰囲気にやられて、考えても出ない答えに羞恥ばかり溢れてくる。わたしは必死になってこの状況をどうにかしないといけないと思った。とにかく、このまま流されちゃだめだ。名前を呼ばれて視線をよこしたモブくんが、髪を退けた指先でふっくらと色づく頬を撫でて、その逃げ出したくなる恥ずかしさを誤魔化すようにわたしは喉を震わせた。


「きょ、今日の英語は難しかったよね…!わ、わ、わたし当てられる日ってすっかり忘れてて本当焦っちゃって、あ、あと天気が良かったから授業中もついうとうとしちゃった。えと、そ、それから」


お昼休みに、と続くはずだったわたしの声は、モブくんの頬を撫でていた親指がわたしの下唇を抑えたせいで、外に出ることはなかった。ゆっくりと指をスライドさせて、自分の唇が勝手に形を変えていく。震えさえも自由を奪われて、まるで身体のすべてがモブくんに支配されているような気さえした。口の端まで移動したモブくんの指に少し力がこもって、手のひら全体がわたしの頬を包む。その絶妙な力加減がわたしの口を薄く開かせて、額に落ちてきた自分のものではない毛先を認識したとたん、ぐっと距離を縮めたモブくんの顔を理解して頭が真っ白になった。驚きで反射的に立ったわたしの片膝を、モブくんが太ももの付け根あたりを押さえつけることで止めさせた。そのままゆっくりと撫で付けられて、今まで経験したことのない知らない感覚に息が震えた。わたしの耳の近くに唇を寄せたモブくんが、何かを耐え忍ぶような表情で、言葉を紡ぐ。


「大人しく降参して」


燃えて消えてしまうのではないかと思った。モブくんのこんな声を、わたしは知らない。耳から顔を離したモブくんの瞳がわたしを射抜く。鼻の奥がじんじんと痛んで、焼けつくように胸が苦しい。こんなモブくんを見たことがないせいで、予測がつかないことが恐ろしくて、なのにその恐ろしさの中にほんの少しの期待があるのも確かで、それはわたしの女の子としての憧れの現れなのかもしれないと思った。「名前ちゃん」名前を呼ばれても、呼吸さえ難しい距離にモブくんの顔がある。胸の上の両手に力がこもってぎゅっと両目をつむった。見えない視界のすぐ近くにモブくんの気配を感じる。今まで、キスだって頬にしかされたことはないのに。ついさっきまで触れられていた唇に意識が集まる。

嫌じゃない。嫌じゃないのに、だって。こんなのだめだ。身体に乗る体重がお互いの触れる面積を確実に広げる。こんな、こんなきっとよくない。わたしたち、だって。握られた両手がさらに力を込めて汗を握る。自分の中の理性と覚悟がざわめきあって、頭の中を激しく揺さぶる。だってわたしたちはまだ、「中学生だよ…!」勢いづいた両手がおもいきり弾けて、何かが落ちて転がる音と共に自分の身体が勢いよくとび上がった。


「…………へ?」


惚けたまま荒い息に肩を揺らせばモブくんの姿はどこにもなく、あるのは背の低い座卓と、広げられた二人分の教科書とノートの上で力なく横たわる筆記具、床に投げ出されたわたしの足首にぶつかって止まった、空のコップ。飛び起きる直前に聞いた音はこれだったんだと頭が理解をするけれど、そんなことはこの際問題ではかった。「ゆ、ゆめ…」自分の呟きに頭を殴られた感覚を覚える。いつもはみてもすぐ忘れてしまうくせに、こういうものに限ってしっかり記憶に残っているのだから、人間はなんて上手くできた生き物なんだろう。そんな自虐も意味をなさないほどに恥ずかしい。とんでもない夢を見てしまった。唇を撫でた指先も、真剣な眼差しも、掠れた声も。すべてが身体中の火照りとなって残っている。両手で顔を覆って、名前は深く長いため息を吐いた。





二人分の勉強道具をながめて、名前は頬に集まる熱もそのまま、ノートの表面をなぞるようにそっと手のひらを添えた。立てた両膝を片手で抱き込んで膝小僧に頬を乗せる。ひんやりとした温度が徐々に気持ちを落ちつかせた。自分の呼吸と掛け時計の規則正しい秒針の音だけが聞こえるこの部屋は、名前のものではなくモブの部屋だ。部屋の主は用事があると行ったきりまだ戻ってこない。自分が眠ってしまう前の彼の姿は記憶に新しく、時計の針と比べても名前が寝てしまってからそれほど時間が経っていないことがわかった。

まだ片手で数えるほどしか入ったことのないこの部屋で、彼を意識しすぎてしまったのかもしれないと、膝小僧に乗せた頬をぐりぐりと擦り付ける。けれど、名前はあんな夢をみてしまった原因がそれだけにあるとは思っていなかった。なんとなく自分自身で理解しているからこそ、よけいに羞恥が身体中を駆け巡る。意識せずとも脳裏に浮かんだ人物に頭を抱えてしまう前に、突然ドアノブが回される独特の音が部屋に響いて名前は慌てて居住まいを正した。


「あ、起きたんだね」


部屋に足を踏み入れたモブは、小脇に抱えたブランケットを落とさないように気をつけながら、うっすらと湯気のたつマグを二つ持って小さく微笑んだ。背中と肘でドアを閉めて、そのまま名前の隣までやってきて腰を降ろす。差し出したマグをぎこちなく受け取った名前をモブは不思議に思いつつ見届けて、自分の分を卓上に置いてブランケットを広げた。


「名前ちゃん眠たそうだったから、少し休憩しようと思ったんだ」


名前のぎこちない動きの原因が自分の行動…マグとブランケットを持って部屋に戻ってきたことにあるのではと解釈したモブがそう説明すれば、名前はもごもごと口を動かしながら、モブの着ているパーカーの首元で視線を泳がせて、ありがとうと呟いた。その様子に小さな違和感を抱いたモブがマグに伸ばしかけていた手をとめて、なぜだかほんのり赤い頬をしている名前に目を瞬かせる。

名前は夢の中にみたモブよりも大人っぽく、少しの余裕を感じさせる目の前の男の子に、落ち着いたはずの熱がじわじわと上がっていくのを実感していた。視界の端にみえる数Uと書かれた教科書もノートに写された化学式も、そのすべてが自分たちが高校生であるという事実を示していた。当たり前であるはずなのに、ついさっきまで見ていた夢のせいで意味の無い動揺が名前をざわつかせる。これまでずっと年相応の付き合いをしてきたからか、はたまたモブの人柄がそうさせたのか、とにかく名前はモブに対して危機感というものを抱いたことがなかった。

名前は自分たちがもう高校生であることの意味を、理解しきていなかったことに今更気づく。無意識のうちに彼とそういうことを望んでいたのだろうかと、自身の潜在意識に潜む可能性を鑑みて、なんだか自分がとてもはしたない人間に思えて身を縮めた。自分たちのスキンシップは周りと比較して多いとはいえなかったけれど、それにもどかしさを感じていたわけではないと思っていたのに。

恋人の横でそんなことを考えてしまう邪な頭をどうにかしたくて、名前はマグに口をつけた。両の手のひらで持てるやさしい熱が、じんわりと心まで温める。口の中で溶けた温度にモブのみえない思いやりを感じて、少しだけ気恥ずかしい。けれどふんわりと漂う湯気は、額に当たって心地よかった。だんだんと落ち着いてきたこの気持ちに今はただ浸っていたくて、マグへ口をつけたまま暖かい味に意識を委ねた。





時間は少し遡る。モブは目の前でうとうとと頭を揺らす名前に気づいてペンを止めた。今日はお互い授業でだされた課題でもやろうと言ったすこし真面目な彼女の提案に、特別何も思い浮かばなかったモブが頷いたことで勉強会がひらかれたが、学校も公共の図書館もどこも人がいっぱいで、モブは少し悩みながらも名前を自分の部屋へ招き入れることにした。
うちでやろう、と言ったモブは「いいの?」と笑顔で受け入れる名前の様子にすこしだけ心配になった。彼女は何も思わないのだろうか。嬉々として鞄を手にする名前が黙ったままのモブを不思議そうに待っている。何が恐れでどこに心配するのかと、そういった様子だ。それだけ気を許されているのだと思えば聞こえは良いけれど、思わず口から衝いて出そうになる己の心境を、ほんの少しでも良いから察して欲しいと思ってしまう。多少頭の痛さに眉間を押さえそうになるが、今何を言っても無駄であるとモブは大人しく口を閉じた。
高校生になった今、これまでの長いような短いような年月に、恋人として色んなものに慣れていく喜びや虚しさが、積み重なっていくことを実感させられる。自然と差し出したモブの右手を当たり前のように握り返して歩き出す名前の背中に、真っ赤になったり手を汗ににじませた昔の自分を思い出した。たまに振り返っては手を引く彼女に知らずと眉尻が下がる想いになって、少しは成長できただろうかと緩やかな心臓の音をきくモブは、その喜びとは裏腹に余裕を持ち始めた自分の行動が名前の動揺を誘っている事に、気がつかない。

二人が部屋で勉強を始めてからしばらくして冒頭に戻るのだが、起きたり船を漕いだりと忙しそうにする彼女を黙ったまま見つめていたモブは、ついにみみず文字をつくりだした名前に気づいて声をかけた。うん、うん、とまどろみに頷く恋人がとてもかわいい。揺れて所在を失いそうになっていたシャープペンシルをそっと抜きながら無意識に喉がなって、慌てて戻した意識とかぶりを振った。腰を上げて名前のそばによる。膝の上のクッションを手にとって床に置き、そっと彼女の腕をひいて話しかける。「ここに頭おけるよ」そう言ったモブが名前と視線をあわせたとき、ゆっくりと倒れ込む彼女の両手とふんわりとした優しい匂いが鼻を掠めて、瞬間驚く暇もなく自分も一緒に倒れていた。名前の頭がクッションへ乗るように、咄嗟とは言え肩を押したのがいけなかった。何が起きたのか理解する前に、モブの目と鼻の先に恋人の顔がうつる。倒れた拍子に覆いかぶさってしまったモブの両手が名前の耳横で汗をかいた。倒れ込む際にモブの首の裏にまわされた名前の両腕が余計に二人の距離を近づけさせて、きっとモブがそばにやってきた時に無意識に抱き上げてもらえると思ったのだろうと、普段ならば手放しで喜ぶべき状況にモブは焦りしか出てこない。だんだんと理解が追いついてきたモブの頭によぎるのは、こんなときにかぎって家が留守であるというあまりにも非情な情報だった。

これは、思った以上にまずい。名前の半分閉じられた瞼と眠さによる体温のあたたかさが彼女の頬を染めて、意識しないようにも思わず邪な考えがちらついてしまう。事故とは言え今までにない距離に好きな人の存在を感じて、さらにこの空間には自分達だけしかいないのだという事実が、モブの揺れる自制心をこれでもかとぐらつかせた。「…名前ちゃん」つぶやくモブの声が、静まり返った部屋に落とされる。心臓がひとつひとつ大きく響く。ゆっくりと腕の力を抜いた名前を追うように、彼女の額に広がる前髪を丁寧に払う。首に回っていた両腕が床に横たわったのと、モブが名前の表情をしっかりと見据えたのは同じだった。


「…………」


気持ちよさそうに伏せられた瞼と、薄く開いた口から抜ける穏やかな寝息。もはや百点満点だと言いたくなるような愛しさにモブはひとり涙を流した。上りきった頭と身体の熱を冷やすべく、静かに立ち上がり部屋を出る。これでいいのだと自身に言い聞かせて、身体中から力が抜けた。そして何とも言えないため息を吐き出せば、ひんやりと寒い廊下の温度に外の季節を思い出す。時間的にそろそろ気温が下がる頃だ。部屋で横たわる名前に何かあったほうがいいと台所へ向かったモブは、先ほどまでの熱をすっかり落ち着かせて、お湯を沸かしつつ家のどこかにしまわれたブランケットに頭を巡らせたのだった。





大事そうに両手でマグを持つ名前を、モブがしみじみと眺めている。部屋に戻るとすでに起きていた名前がいて、残念なような気持ちになるもそれより何だか様子がおかしい彼女に気をとられた。どもったかと思えばぎこちなさそうにはにかんだり、普段なら愛おしくて堪らないような仕草だけれど、それより起きがけの彼女がこんなにも動揺している原因が何かわからず考え込んでしまう。一応寝ぼけているのかと思いマグとブランケットを持ってきた理由を話してみるも、あまり関係はないようだった。
それじゃあと頭に浮かぶことは一つしかなく、モブはマグを持つ手に冷や汗を浮かべる。しかし動揺で視線を巡らしている間に、マグに口をつけた名前があんまりにも安心したようにほっと息をつくから、それも杞憂だったのかとモブは楽観的にその可能性に蓋をした。なにより彼女の幸せそうな顔をみていたいという気持ちが勝ったということもあるけれど、自分の行いが名前にとって嬉しいことだったのなら、それほど幸福なこともないと思った。あの時彼女は寝落ちかけていたのだから、覚えていなくても当然かもしれないと自分もマグに口をつけようとして、何かに気づいたモブがその動きを止める。

二人の膝に広げられたブランケットも両手に収まる暖かなマグも、名前の冷えた身体をあたためるには十分だった。夢の中の彼はあくまで夢の中だけのもので、モブくんはやっぱり紳士的でやさしいなと名前は素直に感謝の気持ちを抱く。すると、マグが机に置かれた小さな音とそれと同じくらいの音量でつぶやかれた自分の名前を耳にして、にこにこと隠すことなくご機嫌に頬を緩ませていた名前は、ようやく気がついた。ついさっきまで隣に座っていたモブが、その身を乗り出すようにこちらへ近づいていることに。まばたく間にも着実にその距離は縮まっていき、さらにモブが片手を持ち上げたことでリフレインされた記憶が、一気に熱を上げて咄嗟に瞼を閉じらせた。蘇るのはやっぱり夢の内容で、何がどうして彼がこんなことをするのか見当すらつかず、名前はマグを握る手に力をこめる。衣服の擦れる音もモブの息遣いも、すべてが夢の中とないまぜになって脳裏をかすめて、落ち着かせたはずの心臓が心の叫びを代わるように煩く波打った。

じっと息をひそめる名前の真っ暗な世界にモブの指先が触れる。彼女の耳の少し上辺りの髪を掬った感覚が伝わって、驚いた拍子に思わず目を開けた。すると、そこには指先に何かをつまんだまま自分から離れてくモブがいて、さらに「消しカスついてたよ」とまで付け加えていくのだから、こんなの脱力しないほうがおかしいと、名前は知らないうちに忘れていた呼吸を思い出しつつ肩を落とす。すぐにはっとした。もしかして自分は、今の出来事に落胆したのだろうか。そんなまさか。手を払いながら不思議そうに「どうしたの」とこちらに向き直るモブに、名前は心臓をばくばくとさせながら上ずった声でどうにかありがとうと口にし、誤魔化すようにマグへ口をつけた。ひとりで慌てて真っ赤になってしまうのも釈然としない気がしたけれど、気づけばふとした動作にも余裕を滲ませるモブに、羞恥で目線を合わせられないようなことが増えたのも事実だ。中学生の頃と、まるで立場が違う。そんな名前の思いは、モブの突飛な行動によって確信に変わった。モブは名前の両手からマグを抜き取って机に並べ、空いたその手に自身を重ねる。膝から落ちたブランケットの存在なんてまるで初めからなかったかのように、お互いの膝頭が向き合って自然と距離が縮まった。合わせられない視線を恐る恐る上げれば、厚い前髪の隙間から彼の少し困ったような眉が見えて、有無を言わせない手のひらの力が名前を逃すまいと訴えかける。

ほら、と名前は切なげに、けれど愛おしいような複雑な感情に喉を詰まらせながら心の中でひとりごちる。相手の抱えているものを知りたいと思うモブが、こんな風に意志をぶつけようとすることは、少し前までの彼を知る者からすれば驚くべき行動だった。そして、名前は知っていた。モブがここまでの積極性を見せるのは、ほとんど自分が原因であること。それが尚更心臓に悪い。モブは黙ったまま名前を見つめ、もどかしそうに口の端に力を込めている。空気を読むことが苦手で、どちらかといえば思ったことはそのまま話してしまうような人なのにと、そんな珍しいようすだって自分が引き起こしてしまったことと思えば、どうしようもなく胸が軋んだ。

名前は喉の渇きを慎重に潤して、小さな小さな決意を抱いた。簡潔に言えば不自然な振る舞いでモブを困惑させてしまった自分がいけないのだから、その根本的な原因が彼にあるとはいえ、きちんと説明をするべきだと思った。「あ、あのね…」小さく声を絞り出した名前に、モブは勢いよく顔を上げた。口ごもりつつもなんとか声に出そうと懸命になって、やっと名前は絞り出す。「モブくんが、き…キスするんじゃないかと思ったら、その…」しぼんでいく語尾とともに耳まで真っ赤になった名前がこうべを垂れた。さすがに大元の原因である夢の内容は言えるはずもなく、しかし先ほどの衝撃はそれと匹敵するくらいのものだったのだから、嘘ではない。言ってしまってからシンと静まった二人だけの部屋に、名前はすこし怖くなって顔を上げる。そして思わず目を見開いた。顔を真っ赤に染めあげたモブが、はくはくと口を曖昧に開閉させながら全身を硬直させていて、先ほどまでの勢いは何処へやら湯気すら立ちそうな面持ちでそこにいた。

自分より焦ったり驚いたりする人を見ると冷静になるというのは本当なのだと、名前はどこかで聞いた知識を思い出しながら大変な様子のモブに声をかけようと身をよじる。するとその些細な動きに敏感に反応したモブがはっとしたように両手を離して、まるで降参をするような格好のまま吃りつつも謝罪をこぼした。ゆっくりと真っ赤な顔を隠すように片手で口元を覆って、外された視線が床に向けられる。

そんなモブの一連の動きを、名前は何故だか新鮮な面持ちで見つめていた。なんだか中学生の頃を思い出すようだった。ずっと胸にたむろっていた羞恥が一気に愛おしさとなって返ってくる。自分の与り知らないところで、もしかすると寂しさを覚えていたのかもしれないと、名前は湧き上がる理解に頭のモヤが晴れていく感覚を覚えた。体も心も成長していくモブを見て、きっと自分は置いて行かれたような気持ちになっていたのだ。実際感情を乱す彼をみる回数はすっかり減っていたし、むしろ乱されてばかりなのは自分だったから。けれどそうではなかった。モブの本質はモブのまま、彼は人の気持ちをきちんと考えられる、やさしくてちょっと控えめな男の子だ。机の上に並ぶ二人分のマグや、広がったままのブランケットが何よりの証拠だった。それは当たり前のことなのに、自分ばかり余裕をなくしてモブだけが大人になっていくような錯覚が不安を増長させて、彼にも余計な心配をかけることになってしまった。

それも、今日で終わりだ。名前の心を乱す彼も真っ赤に慌てふためく彼も、同じだと思えば全てを抱き込んで離したくないとさえ思う。片手で口元を覆って羞恥と自責の念に苛まれていたモブが、姿勢を崩した名前に気づくことはない。だから突然自分を襲った衝撃が、飛びつくように抱きついた彼女によって引き起こされたものだと理解するのに時間がかかった。それでもバランスを崩して倒れてしまわないよう、咄嗟に支えをつくったモブは流石と言える。ほっとしたように息を漏らせば、肩口に押し付けられた名前の額と首に回された両腕が、しきりに距離を縮めようとして目を白黒させる。けれど、身体中を喜びでいっぱいにする名前は何故だかモブの不用意な行いを許し、さらには彼女自身の迷いも解消されたようで、もうぎこちない様子に不安なることはないのだという事実がモブの頬を緩ませた。ぎゅうぎゅうと引き寄せる名前の背中に、モブは緩む頬はそのまま、やさしく自身の手を添えた。

しかし、控えめに抱き寄せた彼女の髪からふんわりと優しい香りが鼻を掠めて、モブは名前を押し倒してしまったことを思い出す。もしかするともしかしなくとも、この状況はかなりまずいのでは。あまりにも遅すぎるその予感に身を強張らせたモブの心境など微塵も知らず、名前が顔を上げて心底幸せだというように笑いかける。その頭を殴られるような眩しさに、モブは愛しさも過ぎれば考えものだとその身を戦慄かせた。

愛をもらうこと、あたえること。それは安心もするし、心をざわつかせることもある。そして双方の関係は、きっとバランスを保って想いを膨らませていくのだと、モブは危機感のかけらもなく朗らかに笑う名前を見て思う。自分がもう男の”子”ではないことを、彼女も本当の意味で理解しなければならない。モブを見上げる名前の、ふっくらとした頬にそっと指の背を沿わせて、そのまま目尻まで撫で上げた。あれ、と目を小さく瞠ったその愛しい表情に顔を寄せる。鼻先の擦れも一瞬で、合わさった互いの唇に腕の中の身体が震えたのがわかった。薄く開いたまぶたの向こう側にぎゅうっと目をつむる名前をみて、モブはどうにかなりそうな自分を叱咤し身を離す。今のままでは、昔と何も変わらない。人柄や想いはそれでいいかもしれないけれど、成長してしまった心と体はそれではダメだと本能が悟る。年相応に見合った関係を築くべきなんだ。

ほんの少し。少しで良い。「僕も、男だから」熱い吐息に混ぜた想いを、彼女が理解してくれればそれで。相手の額に自分の額をくっつける。モブはこの部屋でやるべき本来の目的を視界にうつし、耳の先まで真っ赤な名前が口元を指先で隠しながら、何度も小さく頷くその身振りに名残惜しさを隠せず、それでもなんとかけじめをつけようと、時間をかけて恋人を腕に閉じ込めた。

だいすきな香りに包まれて、まるで幸福が溶けて馴染むようだと、名前は心地よい心臓の鼓動に額を寄せた。腕の隙間から微かにのぞく部屋の床が、季節の色に染まることで外の気温を教えてくれる。耳に残る枯葉の音も、足元にしのぶ風の冷たさも、熱に浮かされてしまいそうな吐息がすべてを攫って、口元の痺れを拭うことはなかった。

机に置かれたマグから、湯気はもうたっていない。中途半端に広げられたノートをみて、この熱がせめて集中力へ変わりますようにと、名前はモブの腕の中で心底願った。



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