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交際0日婚、という言葉は知っていたがまさか自分がそれになるとはつい先程まで思いもしなかっただろう。目の前で受理された書類と引き換えに渡された"ご結婚おめでとうございます"と書かれたポストカードを受け取り車へ戻ってから、私はただそれをぼーっと眺めた。
婚姻届はものの数分で受理され、思いのほかあっさりとしていることにも、自分がそれに何も思わないことにも驚きだが一番驚くべきはたった今、私は名字名前から降谷名前となったのだ。しかもあら不思議出会って2、3時間の彼との入籍ときた。
出会いはいつどこであるか分からないとよく聞くが本当にそうだな、と重く実感した。ただ仕事が早く終わりたまたま通りかかったの喫茶店へと足を踏み入れ、珈琲を嗜んだ跡の会計時に店員さんから小さな声で話しかけられ、少しいいですか、と外に連れ出され言われたのだ。

「僕と結婚していただけませんか」と。

その問いにイケメンに弱い私は笑いながら「いいですよ」なんて言ってしまったのだ。冗談かと思いきや彼は私に婚姻届と書かれた紙を渡してきて、貴方の欄記入した後提出しておいて下さい、ととても素敵な笑顔で言った後直ぐに店へと戻ってしまったのだ。
………流石の私も少し戸惑ったのだけれど、親も亡くして1人で居た私は1時間程悩んだ末に役所へと提出したのだ。そして今、婚姻届と共に入っていたメモの指示通りにこれから動くのだが─────


「荷物を纏めておけ、とな」


イケメンってだけで結婚してしまったわけだけど大丈夫なのかな、と今更思いながら私は自分の自宅へ荷物を纏めるために車を走らせた。





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一通り荷物を纏めた頃には日は傾き外は薄暗くなっていた。
とりあえず下着類と衣類だけは段ボールへと詰め込みあとは数日に分けてやればいいか、とサッパリとしたクローゼットの扉を閉めて部屋を見渡しながらひと息ついた時にピンポーン、とインターホンが鳴った。本当に来たのか、と思いつつ「はーい」と応えて鍵を開けるとそこにはつい数時間前に出会った彼が佇んでいた。


「入っても?」

「どうぞ、今散らかってますけど」


来客用のスリッパを出すと彼はそれを履いて私の前を通り過ぎて中へと入っていく。随分とどうどうとしてるな、と苦笑いをしつつ私もあとを付いていく。


「適当に座っててください」

「ああ、ありがとう」


冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して机へと置くと彼はペットボトルを少し観察してから蓋を開けた。なんだかさっき会った時とは違う様な気がして頭に疑問符が浮かぶが、如何せんほぼ初めましての人に聞く勇気はない。じっと彼が口を開くのを待ちつつ私もペットボトルへと手をかけた時に、待っていたことを知ってか彼の形が良い唇が開いた。


「改めて……君の夫となる降谷零だ、よろしく」

「零さん、ですね。貴方の嫁になりました降谷名前です」


よろしくお願いします、と小さく頭を下げると彼はくつくつと笑っていた。その笑いに少しだけ安堵して私も笑い返すと「じゃあ本題へ」と話が始まった。


「恋愛感情を持ってもいいが、俺に期待はしないでくれ」
「それとお互い干渉はしないこと」
「家事は基本的に君に任せたい」
「俺の部屋以外は君の好きにしていい」


この約束事に私の回答は「はあ」と答えるしか無く、零さんは最後に「いいか?」と真顔で聞いてきた。頷いた私に作った様な笑顔を向けてくる。私といえばただその条件を頭に入れてこれからどう接するべきかを考えた。お互いに干渉しないこと、と言われたのだからもうあの喫茶店へと足を運ぶことは無いだろう。1度しか行けなかったが珈琲がとても美味しかったな、と思い出していると零さんが「あ」と声を出した。


「外で俺を見かけても絶対に知らないふりをしてくれ」

「……家でだけですね、分かりました」

「俺は随分と物分りのいい妻に出会えた様だ、感謝するよ」


"物分りのいい妻"にならねばならないのだ。戸籍上この人の妻となったのだから、私はあくまでこの人の都合のいい妻で居なければならない。小さい頃に夢見たお嫁さんにも、憧れていた夫婦という物にもなれないのだと思うと少しだけ悲しくなるが、これも致し方なし。自業自得というやつだ。それに私なんかを選んでもらったのだからしっかりとお務めせねばな、と決意を固める。


「早速家へと帰るわけだが荷物はとりあえずこの段ボールだけか?」

「あ、はい…あとは後日片付けに来ます」

「分かった、君も帰ろうか降谷家に」


すっと立ち上がって纏めた段ボールを軽く持ち上げる零さんに心の中でかっこいいなあと呟いて「ありがとうございます」とお礼をして私も立ち上がりカバンを肩にかけると零さんの手が目の前へと差し出された。素直にその手へ自分の手を乗せると浅黒い肌で大きな手が私の手をギュッと握られる。初めてのスキンシップだというのに、何故かドキドキとはしないが少しだけ触れられることに嬉しくなった。ギュッと握り返すと「行こうか」とそのまま手を引かれる。


「あ、待ってください」


靴を履く手前で忘れ物に気付き降谷さんに声をかけると笑顔でもなんでもない顔のまま「大事なものなんだろ、取っておいで」と言われた。この人あんな短時間で私の部屋を見ていたのか?と聞きたくなるほど驚き、「あ、はい」と答えるので精一杯のまま荷物をもう一度部屋へ取りに戻る。


「危ない危ない」


もう少しで置いていくところだった、と本棚の上に置いた花瓶の横に置いておいた手のひらサイズの小さなうさぎの人形を手にしてほっと息をつく。
父と母の写真は既にしまって今では彼の持つダンボールにあるがこの子を連れて行くのを忘れるとは。
最後に家族で旅行をした土地で買ったうさぎの人形を撫でてカバンの中へと仕舞い玄関で待っていてくれている彼の元へと歩みを進めた。
お気に入りのパンプスを履いて最後に出てから扉の鍵を回すとかちゃん、と静かに締まりその音を確認すると彼はスタスタと歩いていく。無言のまま私もその後ろについて歩いていくとふわりとシトラスが香った。


「香水、付けてるんですね」

「ああ、と言ってもうなじにだけだが」

「この香り、好きです」