1-01:夢その1・路面潜水艇
 思案橋を抜け、海際目指してひた走る。
 ごちゃごちゃ狭いこの町は、海まで一直線の斜面になにもかもが詰め込まれるように建ち並んでいる。家々も、綺麗なドブというほうがしっくり来るような細かな川も、幼稚園も学校も、どこか懐かしい異国の町並みを模した繁華街も。その隙間に身体をねじ込み、すぽんすぽんと転がり落ちるように海際目指して駆け下りる。なにぶん狭く道がのたくっているので、パチンコ台の中のパチンコ玉にでもなった気分だ。ころころころころ、町並みにひっかかりそうになりながらひた走る。
 どうしようも無く息が上がってくるのが自分でわかる。わき腹もさっきから不穏な痛みを訴える。もはや開きっぱなしの唇を、蒸気機関の蒸気のごとき激しい吐息がうるうると湿らす。うオオン俺は人間火力発電所だ、いや、なにも生み出してないけど、排気するだけの生き物ですよボクなんて、なんてね。ちょっとした小動物の悲鳴みたいな呼吸を繰り返し、俺はひたすら走る、駆け下りる、逃げる、この町を。
 熱帯夜だ。日もすっかり落ち、空には星々が燦ざめきまぎれもない夜の様相を呈しているのにこの暑さ、うだるような熱さ。おまけにこの人出が暑さに救いようのない拍車をかけている。今日は祭りだったか。もともと狭い路地に、やんややんやと老若男女がひしめき居並びうごめいているのだ。いただけない。実にいただけない。見ているだけでむんむんに蒸されてしまう。「見ているだけで」なんて涼しげな他人事を言ってみたが、実際進行方向はすべて黒山の人だかりなので自分も突入して老若男女有象無象のひとつになる他ないのだ。うううイヤだ、俺の身体はこんな人波に揉まれ耐えられるようにはできてない、しかし突入する他ない。目指すは海際、この町のもっとも淵を走る路面電車なのだ。
 ええーい南無三!と老若男女有象無象の群へ飛び込んだ。同時に溺れかける。あっぷあっぷしながらイチャイチャと楽しげなアベックや、膝下に海草のごとくまとわりつくがきんちょどもを掻き分け掻き分け進む、いや泳ぐ。時に足を手ひどく踏まれ、また踏み、時に露骨に舌打ちなどされる。なんだとこの野郎舌打ちしたいのはこっちのほうだ人がこうも急いでいるのにイチャクソイチャクソ道を塞ぎやがって。と心の中だけは強気だが、実際ゆるゆるしずしずと祭りの夜を楽しんでいる人々の中こうも汗だくになって疾走しているのは俺だけであり、となると迷惑千万な異分子は間違いなく俺のほうである。わかっているけど急がなきゃ。何も好きで疾走しているわけじゃない。逃げているのだ。俺は逃げているのだ。この町から、あの男から。
 急斜面に造られた町にはありがちなことで、海際のわずかな平地ほどいっそう華やいで都会じみるものである。勢い人口も砂糖に群がる蟻のごとく密集するというもので、それが祭りの夜となればそれはもう、もう、ホントのホントに大変なのである。足の踏み場もない。パーソナルスペースなんてものは存在しない。むしろ足が地面につくことがない。有象無象のあいだに身体がねじ込まれ、ずっと浮いているようなものである。ぎゅうぎゅうに蒸されふわふわ浮きながら、誰かの足を踏み踏まれ、罵倒され舌打ちされ、もうイヤだもう限界だもう蒸されてしまう、と根を上げかけたところでようやく地面が水平の兆しを見せた。人混みの汗と制汗剤と、祭りの熱気と火薬のにおいの向こうに、かすかな潮のにおいを嗅ぎ取る。精一杯あっぷあっぷと首を伸ばすと、海際のわずかな平地に鎮座する大通りの真ん中を、たらたらと這っていく路面電車が見えた。

 あれを目指していたのだ。
 あの寸足らずのバスのごとき小さな路面電車は、上りはまっすぐこの大通りを這い、国営の駅前通りへと向かうが、下りはいずれ大通りから這い出て海沿いに寄り添い、この町の外へと向かう。
 せいぜい原付自転車ほどの速度で、幾度も幾度も路面に浮かぶ浮島のようなちんまりした駅に停車しながら焦れったく、しかし確実にこの町の外へと向かう。
 
 この町から無事に出ればそれは逃げ切ったも同然だ。

 最後の気力を振り絞り、やんやと騒ぐ人混みを振り切りえいやすっぽんと抜け出ると、大通りの半分、車線にして実に4車線ぶんを一息に駆け抜けた。途中いくつかの癇癪玉を踏みつけ、クラクションを鳴らされた気がしたが、人混みで思いの外時間を食ってしまった、もうなりふり構ってはいられない。大通りのど真ん中、浮島のようなちんまりした駅にちょうど滑り込んできた路面電車へ、俺は奇跡のようなタイミングで乗り込んだ。
 背中でぷしゅうと、間抜けなため息のような音を立ててドアが閉まった。市営バスよりも短い寸足らずの車内には、見渡す限り乗客は一人もいない。当然だ。祭りの夜は祭りへ行くものだ。わざわざ町の外に出ようと思う者などいないに決まっている。無事乗り込めたと思うとどっと、町を駆け抜け人混みに揉まれたぶんの疲労がやってきた。俺は存分に乱れた呼吸を垂れ流したまま、銀色に車内を反射する手すりにすがる。ちょうど電車が動き出し、俺は車内を背にし、じりじりと離れていく窓の向こうの喧噪を眺めた。

「精霊流しは見に行ったかね」

 ひっ。と、喉が情けない音を立てた。まるで潜めるように、とっさに呼吸を止めてしまう。心臓が喉元と耳元で、痛いほど激しく脈打つ。確かに誰も乗っていないと思ったのに。確かに誰も乗っていなかったのに。耳に覚えがありすぎるほどの、低い、ぬたりと響くその声は、当たり前のようになおも語りかけてくる。

「毎年毎年、よくもまあ飽きないものだ。二、三年ぐらい忘れてすっ飛ばしたって誰も文句は言うまい。そう思わんかね」

 いやいや、祭りごとに命を懸けているような町内会の連中なら、確実に暴動くらいは起こすだろう。そもそもこれは、精霊流しは死者のための催しであって、なんて説明したらそれはそれでひどく冒涜的なことを返されそう。それよりもだ。確かに車内には俺一人だと思ったのに。いやそうだ、それで間違いない、確かに俺一人きりだったのだ、見てみろ運転席を。誰もいやしない。アナログを地で行くこの路面電車に自動運転のシステムなんかもちろんついちゃいない。運転席で運転手が四六時中世話していないと一ミリだって進めないような、そんな電車なのだ。もしもこれが現実であればの話だが。
 
 なんだ、そういうことか、あーあ、こりゃあお手上げ。
 
 俺は観念して声のするほう、車内へと振り返る。思いの外すぐ近く、振り返った俺の真正面に想像通りの男が座っていて、そのもはやお約束感に思わず乾いた笑いが漏れた。夏下駄夏足袋夏着物、帯には扇子が挟まっている。ひどい日本かぶれなのだ、この男は。忍者の存在だってまだ信じている。撫でつけた髪の上にはご丁寧にもカンカン帽まで乗っけていて、いや夜なんだから帽子なんかいらねーだろ、とは内心に留めた。この蒸し暑いのに、汗一つくっつけていない、汗の噴き出すところなど想像もつかないような蒼白な頬が神経質にひくつくのを見て、不思議と親しみすら感じる俺は少々おかしいかもしれない。まあ、嫌いではないし、むしろ好きなのだ、この男のことは。

「呉、どうかね」
「見に行くわけないよ、人が多いばかりでさ。アンタの言うとおり三年おきくらいでいいと思うね。そういうアンタは見に行ったわけ?」
「まさか!考えただけで蒸されてしまう」
「ホントだよ。実際茹だったね、俺はちょこっと通っただけだけどさ」

 あの蒸し蒸しの人混みを思い出して自然と唇がひん曲がる。しかし俺の名前を呼んで見せた彼はもっと唇をひん曲げていた。こんななりでわりかし想像力豊かだから面白い。想像だけでそこまでイヤな気持ちになれるなら世話無いと思う。

「今宵は町は人、人、人で身動きもできない。息が詰まる。私は繊細なタチだから、あまり人混みに揉まれると具合が悪くなってしまう」
「だぁれが繊細だって?それ面白いと思ってる?」
「深海生まれの深海育ちだ。ご近所さんだって居たことなんかない。町内会もない。つまりデリケートでナイーブで大気圧に弱いのだ、わかったら精々優しくしてくれたまえ」

 鳥肌が立つようなセリフとともに、突如室内灯が消え失せた。自分さえ見えないような暗闇に沈み込んだのは一瞬で、すぐさま背後の窓から青黒い光が射し込んだ。無数に踏みつけられ年季の入った電車の床の汚れさえ青黒く照らされ、窓枠や俺の影を一際暗く切り取っていく。そのもっと後ろに、そぞろ得体の知れない影が蠢いている。うんざりしながら振り返ると、そこは海の中だった。もはや遙か頭上に海面があるのが辛うじてわかる。それもじきにわからなくなると予想がつくほど、潜水艇よりもスムーズに、むしろ地上をえっちらおっちら這うよりスムーズに、路面電車は塩辛い水底へぐんぐん急速に潜っていく。
 カンブリア期の生き物のような様相をした水棲生物が群をなして窓の外を泳いでいく。巨大な、わき腹に幾つもの目玉を備えたイヤに長い生き物が悠々と併走してくる。その巨大さと言ったら、目玉一つぶんの大きさにもこの路面電車のほうが負けている。その目玉のひとつひとつがぎょろりごろりと好き勝手蠢いて、青黒い光でこちらを照らしているのだった。間違っても水族館にはいない生き物だ。願わくばこの地球上のどこにもいて欲しくはない。そのバカデカいヤツメウナギの際には、死と再生を繰り返すクラゲのような生き物が小判鮫のように侍りながらネオンよりもどぎつい光を発している。分裂し、死んで萎びたり膨らんで生き返るたびにそれぞれが思い思いのネオン光を発しているのだ。光がうるさくてかなわない。窓の外、水底のほうを覗き込めば、水草とも生き物ともつかない中途半端な何かが淡い燐光を放ちながら海面に向かって必死に身体を伸ばしている。伸びすぎた身体は折れることも叶わず、ぎしぎしと苦悶に身体を軋ませるたびに淡い燐光を発しているのだ。水面が恋しいのにどうして水底に生まれついてしまったのか。しかしそのおかげで、いよいよ深海と言える域に潜っているのにも関わらず車内は趣味の悪い光で休み無く満ちている。この暗黒の世界を照らすのは、生命の終わりの神秘の光だ。

「これ、どこ行くの。って決まってるけどさ」
「お前こそ、どこへ行こうとしていた?あんなに走って、あんなに汗だくになって。意地らしいのう」

 芝居がかった仕草で扇子を打ち開き、口元を隠して目だけで笑う。見てたのかよ、相変わらずイイ趣味してんなこんちくしょうめ。心の中だけで毒づいて追及するのはやめておく。追及され返して墓穴を掘るのがオチだ。そこまでコイツの趣味に合わせてやる必要はない。
 窓の外の海水の色は急激に濃さを増し、限りなく漆黒へと近づいていく。すでに(意味不明な)生き物群の生息域は過ぎ、今や光も通さず静謐なばかりの海水のみが圧倒的な質量をもってこちらへ押し寄せている。それでもまだ潜る。この世の底、それよりももっと底を目指して。もっともこの海に底なんてあるのか定かではないけれど。電車が海に潜り水棲生物が残らずぎらぎら光っている世界だ、海が底なしでも何らおかしくはない。
 しかしそんな妄想をすぐさま見透かしたかのように、足に着地の振動が伝わり、とうとう底についたことを知る。もっとも外は漆黒という他無い暗闇であり、ドアの上の非常灯だけが心許なく車内を照らしているのだ。

「やれ、やっと静かになった」

 すぐ背後で、イマイチちぐはぐな男の台詞が聞こえる。音もなくドアが開き、しかしその瞬間凄まじいほどの海水がなだれ込んでくるなんてことはもちろん無い。ただ漆黒の闇がドアの形にぽっかり口を開けて待ちかまえている。暑さで全身を薄い膜のように覆っていた汗が、急に冷えてイヤな余韻を残して引いた。彼が俺の肩を抱く、降りるのを促すように、逃げられやしないとでも言うように。いやいやいったいどこへ逃げようというのか。降りたくないというわけでもなし、しかしそんなことをされると反抗心がむずむずするというもので。ちょっとばかしその場で踏ん張ってもよかったが、そんなものはこの男相手になんの抵抗にもならない。だから代わりに軽口だけは叩いてみる。

「俺はアンタが恐くてたまらないときが、ほんのたまにあるんだよ」

 本当に言ってみたいことを、ふざけたふりを免罪符に言ってみるのが軽口だ。後になって目覚めてから気がついて、しくったなとは思った。あの野郎はもちろんそういうものだと心得ていたに違いない。だからあんなに愉快そうに笑っていたのだ。

「ほーん、お利口だな、撫でてやろうか」
「なに言ってんだよ気持ち悪いなホントふざけんなよなあ!」

 唇をひん曲げて満足げに笑う彼のわき腹をつつき倒して、逃げるようにドアから飛び降りた。ふわりと着地した足を飲み込む砂の感触が、やはりほんの少しだけ恐ろしかった。
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