1-02:よもやそのとき-a
 小さな不満は数あれど、それを享受するのも贅沢のうちかもしれない。「配られたカードで勝負するしかない」と、かのビーグル犬も言っている。たとえばこう考える。誰もが人生の最期に直面することになるだろうその“問い”に答えるとき、言葉に詰まらないでいられるだろうか?迷える子羊こと人間の、最も普遍的な問い−−「これで満足か?」「“そこそこ良い人生だった”本当にそう思えるか?」
 猶予はほんの一瞬、きっと取り繕う間もない。たとえばこれが長い学生生活を終えたときだとか、あるいは社会に出て数年経ったときだとか、そういった数ある人生の節目、己を省みるその時々にどれだけ思い出を飾り立て、また言い訳できたとしても−−最期の一瞬だけはきっと真実が浮かび上がる。ごまかしようのない本音が。人生の価値は人それぞれ、どんな人生が至高かなんて決めようもない。しかし「ああ本当に最悪な人生だった」それだけが脳裏に浮かんでブラックアウトする人生が額面通り最悪であることにはまあ間違いないだろう。
 ともかく、人生の最期に誰もが直面するその問いに打ちのめされたり、あるいは決まり悪く口ごもっているうちにご臨終なんて、終わり良ければ全て良しの反対を地で行くような結末を避けるためには、やはり配られたカードで頑張っておくに越したことはない。なにも至高の人生を目指す必要はない。猶予はほんの一瞬、つまりは最期のその一瞬やり過ごせればいい。「最高じゃないけど、まあそこそこ良い人生だったかな」とっさにそう思えれば結構、実際の生き様がどうであれ終わり良ければ、後味良ければ全て良し、だ。人生の最期に誰もが直面する、誰しも避けられない人生の最期、最低限のハッピーエンドを迎えるためには、やはり配られたカードで勝負しておくしかない。
 
 そう、小さな不満は数あれど、だ。朝っぱらからちょっといい雰囲気になってきたかな?恋人未満くらいには言えるんじゃないかな?って女性とそれこそ喧嘩未満としか言いようがないもやもやした空気になったり、それをなんとか取り繕う前に仕事に出かけなくてはいけないタイムリミットを迎えてしまったり、そこでうやむやにしたまま出かけてきて本当に良かったのか?なんてあっさり家を出てきたわりにうじうじ思い悩んだり、そのくせ結局バスには乗り遅れたり、それでもなんとか始業時間には間に合ったのに庶務のオバチャンに「平池くんは朝はゆっくりなのね〜」とかプチ嫌味を言われたり、エクセルなんて升目の入ったワードくらいにしか思ってない機械オンチの上司が気を利かせたつもりでマクロをいじって台無しにしていたり、窓口を間違えたジイさんの発憤をなだめるのに小一時間かかったり、その他小事件を乗り越えやっと退勤時間だと一瞬テンションが盛り上がるものの朝のもやくさった事件を思い出してプチ憂鬱になっていたら喫煙所にポイ捨てされていた空き缶を踏んづけて盛大にすっころんだり、尻の痛みと地面のにおいと空の高さにノスタルジィを感じたり、しかし想像以上に激化する尻の痛みにそんなノスタルジィはすぐさまかき消え憤りとそれ以上の情けなさにうっすら涙目になったり。なったり。
 そう、小さな不満もといもやもやは数あれど、重要なのは人生の最後の瞬間にそれすら愛おしいと思えるかどうかだ。そう。人生の最後にね。最後の瞬間にだよ。

 よもや今がそのとき?

 古びた灰皿の脇、汚れたアスファルトの上にじかに横たわっている自分の身体を見下ろしながら、俺はそんなことを思った。待て。いったん待ってくれ、みんな落ち着いてくれ、いやみんなって誰だ。地面に力なく横たわっているもう一人の俺。意識があったら絶対しないようなひねりの利いた姿勢でぐったりと転がっている、俺。それはまごうことなき俺だが、しかし俺はその俺を見ているこの俺だ。我思う、ゆえに我あり、ゆえにややこしや。よくわからなくなってきた。なぜこんなことに、なぜこんなことに?
 今日も今日とて数々の小事件を乗り越えそろそろ退勤、と相成った俺は、帰る前に一服しようとこの喫煙所にやってきた。堅実薄給の地方公務員である俺が勤めるこの地方都市市役所は、もうずいぶん前から世相と世間体を反映して表向き全面禁煙だ。ファック。なので喫煙所とは言っても、市役所裏のちんまり鬱蒼とした小雑木林に半ば埋もれ忘れ去られた古びたポール型灰皿の、その半径約2メートル弱の喫煙可能区域を我々喫煙者がそう呼んでいるだけなのであった。そんなしょぼくれた様相とはいえ、我々喫煙者に残された最後のセーフティゾーン、サンクチュアリには違いない。まあサンクチュアリのそんな有様が祀られている偶像の弱体化をあらわしているとも言える。そんな息も絶え絶えなサンクチュアリに空き缶がポイ捨てされていたのだ。僕は荒ぶる絶望と憤怒です。世は全面禁煙の様相、この灰皿がどれほど日々を戦々恐々と凌ぎ生き延びているものか、イマイチ理解できていない輩がいるらしい。こんな有様が安全衛生課の連中に見つかりでもすれば『管理ができないのなら!』と、ハイエナのごとき迅速さでぐうの音もでない灰皿撤去の理由にされてしまうに違いない。俺はおおいに発憤し、勢いよく踏み出し空き缶を拾おうとした、そして踏んだ、転けた、思いの外盛大にひっくり返った、尻餅をついた。

 そして涙目になりながら起き上がり、立ち上がると、身体が付いて来ていなかった。

 摩訶不思議、茫然自失、そして暗澹冥濛。力なくぐったりと、もっと言えばぐにゃりと横たわっているもう一人の俺を、デカルトこと俺は見下ろしている。言うまでもないが良い気分ではもちろんない。そう変哲はなくとも、『自分そのものの自分ではない何か』がそこに死体然として転がっているのだ、首筋のあたりが速やかにゾクゾクしてくる。なるほど、ドッペルゲンガーの類の都市伝説はきっとこの生理的本能的恐怖に訴えかけようという怪談なのか、と半ば現実逃避気味にどうでもいい真理へと至った。ともかく俺には一卵性双生児は向いてないようだ。いや、そこじゃない、そこじゃなくて。
 これはやはりそういうことなのか。打ち付けた尾てい骨から衝撃が正しく背骨を伝播すれば、尻が受けた衝撃が緩和されることなくダイレクトに脳髄を叩きのめし死に至る、場合もある。これはやはりそういうことなのか。つまり尻餅でだって人は死ぬ。これはやはりそういうことなのか?人の生き死にに貴賤なんてない。まあそう語り継がれたくない死に様なのは確かだけど。

 つまり今がそのとき?

 よもや死んだ。どうやら死んだ。力なく地面にぐにゃっているまるで死体の俺。そしてそれを見下ろしている俺はデカルト、我思うゆえに我あり。自我の存在する場所はどうも脳細胞ではないらしい。いやもしかするとまだ死の間際かも。あるいはその瞬間かも。死んで、身体から魂がーーそんなものが本当に存在するなんて想像もしていなかったが、でなければ今この俺の存在をどう説明するのかーー脱出したその瞬間なのかも。ならば冒頭へ戻って、今がそのときじゃないか?その問いに答える瞬間だ。誰もが人生の最期に直面することになるだろうその“問い”、迷える子羊こと人間の、最も普遍的な問い−−「これで満足か?」「“そこそこ良い人生だった”本当にそう思えるか?」

 答えはイエスでもノーでもない。
『いやいや、今はそのときではない』だ。

 冒頭でたいそうなご高説ご持論を垂れておきながら潔くないと思われるかもしれないが、そのへんの繊細な心情の機微はよい子のみんなもふいに身体から放り出される経験をしてみれば共感できるものだと思う、もしそういった機会があれば是非俺のことを思い出してくれ。冗談はさておき、死の瞬間というのはもっと、それこそ一瞬のものだと想定していた。だからこそ取り返しのつかないその一瞬を、すべてをあきらめて人生を総括しなければならないその一瞬をなんとかやり過ごさなければと思っていたのであって、こんなに猶予があるならそれは悪足掻きをしなけりゃ人間様が廃るというものだ。つまり話が違う。つまり今はそのときではない。つまり死にたくない。普通に死にたくない、冗談じゃない、断固認めるものか!
 とはいえこのままではオロオロくらいしかすることがない。仮に今こうして仕方なくオロオロしている俺が死の間際、魂が身体から脱出したその瞬間にいるならまだワンチャンありそうなものだがその生かし方もわからない。考えろ俺、そして行動せよ。あるのかどうかも定かではないがこのままオロオロしているうちにタイムリミットを迎えることになってしまえばせっかくの予想以上の猶予がパアである。それこそ惨めで未練たらしい最期になってしまう。とりあえずあんまり見ていると現実に負けてしまいそうなのでぐにゃっている自分の身体からはできるだけ目を反らしておく。考えろ俺、そしてどうにかしろ。死の瞬間に後悔しないための努力を魂が身体から抜けてからするのはどうも順序が入れ替わっている感が否めないが、頑張れ、うなれ俺の脳細胞!!(※ただし霊体)

「ひっ…ネエネエネエ!ミテミテミテ!」
「うーん?おやおやおやこれはこれはこれは」

 不意に聞こえた複数人の声に、俺は思わず息を潜めてしまう。いや悪いことしてるわけじゃなし。息を潜める必要なんかないというに。視界から追い出していた自分の身体のほうを見やると、そのわきに立つ男が二人、いや三人。俺(霊体のほう)の存在はどうやら気付かれていないようである。やはり人間霊体になってしまうと誰の目にも映らないものなのか。ならば余計息を潜める必要なんかない。

「エッ?マネキン?」
「酔っぱらい?」
「いやいやこれはヤバそう、結構ヤバそう、もしもーし大丈夫ですかあ!」

 三人はうぞうぞと俺(身体のほう)を取り囲み、脈をはかってみたりオロオロしてみたりしている。良かった助かった。どうやら事態は迅速に解決へ向かっている。物語的には物足りないかもしれないが、当事者としては一刻もはやく解決するに越したことはない。どうか救急車でも呼んでくれないか、運が良ければ蘇生できて、今回のことは良い臨死体験の思い出となるかもしれない。とはいえ、自分の身体の明暗も他人に託すしかないとは甚だ不便なものである。
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GFD