この街の海は幾重にも入り組んだ湾を更に人工的に埋め立てられ、波は常にあれども大荒れに荒れるということがない。凪ぐことなく、常に海面をぎざぎざに尖らせているが、そのうねりが海際ぎりぎりまでせり出した市街地を脅かすことはない。潮騒の押し寄せる砂浜といったものはおよそこの街には存在しない。角張ったコンクリートがいきなり切り立って、いきなり深い潮溜まりがある。この街の海といったものはたいていそうだ。目と鼻の先に繁華街ひいては歓楽街があるから、酔っぱらって落っこちる馬鹿もそれなりにはいるだろう。俺も一人見たことがある。ずいぶん昔の話だけれど。
人工的な海岸、埋め立てられた元・海を、車でなぞるように移動する。あれだけうるさい繁華街のネオンも遠く離れ、人工海岸といえどもともとの湾と同じように入り組んでいるのであっという間に対岸となる。さらに離れる。離島へ向かうホバーや、何が楽しいのが湾を横切る橋や廃墟の島を巡る観覧船の出るこじゃれた港も対岸となる。市街地はすでに張り出した人工海岸に引きずられた山々の影となり、ネオンで淡く色づいた夜空だけがこちらまで町並みの繁栄を主張している。山と海とネオンが折り重なって共存する気の滅入るような景色もこの街特有のものだ。
その色の名残りも消え去ると、海岸は不意に荒涼としたものとなる。
どこで育った子供でも、たいていは校則か自治体の条例かそれに類したもので出入りを禁止されている場所があるだろう。ゲームセンターへ立ち入ってはダメ。カラオケもダメ。午後何時以降は子供だけで映画館へ立ち入ってはダメ。繁華街のあの地区は近寄ってはダメ。そしてこのあたりの海岸も、用もないのに近寄ってはダメ。夜なんかなおのこと。治安が良くないから…。
治安が悪いと言っても日本だ。安全神話は崩壊したのかもしれないが、然りとて世紀末都市のようなありさまということはない。どちらかというとこの街は、この国でもかなり治安が良い部類の都市だろう。
それでもそういう風評があるなら従うにこしたことはない。当然も当然だが、火のないところに煙は立たないのだ。そういう風評がきちんとした漠然さをもってまことしやかに囁かれて、それをもっともらしく守る人が大多数だからこの街の数字の上での治安が保たれている、というだけのことかもしれないし。
あたりはとうに寂れ果て荒涼とし、ひとけなど微塵もない。人間生活の気配も暖かみも明かりもなく、あるのは打ち捨てられ廃屋じみた漁小屋跡と、飲み込むように迫る黒々とした山林、劣化してぼろぼろになったコンクリートの海岸、そしてぎざぎざと表面を波立たせる暗い海だけだ。もうこれ以上は無理というぎりぎりのところまで車を進ませると、まるで待ちかまえるように立っている人影が一つ現れた。まるでというかまごうことなく俺を待っているのだ。彼自身が歓迎しているかは別として。仁王立ちのつま先から順番にこちらの照らすヘッドライトの輪の中に入り、闇に紛れて影法師のようだったその姿が鮮明になる。暗いグレーのスラックス、バックルのイヤに大きなベルト、スラックスと同じ色の上着の前は締めていないが、白いシャツの裾は折り目正しくスラックスの中にしまわれている。主張するような派手さはどこにもないのに、小市民的なまっとうさも微塵も感じられない。その体格と、立ち方ににじみ出るおよそ友好的とは言えない態度のせいかもしれない。一つだけボタンの外された喉元と顔がヘッドライトの射程内に入って、その印象は一気に加速する。ウェーブがかった髪を撫でつけた髪型はとてもカタギには見えないし、こちらをわけもなく睥睨しているその目つきもとてもカタギとは思えない。実際カタギではないわけだし。睨んでいるように見えるのは眩しいだけなのかもしれないけど。
睨まれていい気はしないので男の足下の本当にぎりぎりまで車を進ませ、それでも微動だにせずこちらを睨み続ける男のすねあたりにコチンとバンバーを当ててみた。ハイパーソフトな交通事故である、よい子も普通の子も真似しないように。じゃないとホラ、バンパーをおもっくそ蹴り返されてほら、すっごい揺れてる今、車体が揺れてる。抗議の意を訴えてヘッドライトを点滅させるも、容赦なく第二撃を加えられて俺は速やかにエンジンを切って車外へ降り立った。信じられないことに男は第三撃めをくわえようとしているところだった。
「おい、修理代払うんだろうな」
「もとからべこべこだろうが、こんなおんぼろ」
男が情け容赦ない三撃めを加えて、夜のしじまにどこかまぬけな破壊音が響いた。幸い、男の言うとおり元からおんぼろでべこべこの我が愛車は比例して頑丈なのだけが取り柄で、容赦ない三撃にも特に変わった様子もない。もとから凹みすぎてわかんないだけかもしれないが。
「アンタに蹴られる前は新車同然だったってアンタの大将に訴えるよ」
「じゃあ治療費で相殺だ。今おたくにひかれて脚が折れた」
「これでもつけてろ。愛しの大将とお揃いだ」
後部座席から下ろした手提げつきのハードケースを掲げて見せると、男はすっと表情をなくした。コイツの表情が動くのを見るたびいつも思うのだが、コイツはなんとなくライオンに似ていると思う。本物のライオンではなく、海外アニメに出てくるようなデフォルメされた悪いライオンに。彫り深で底意地の悪そうな派手な顔つきがそう思わせるんだろう。髪型もなんとなくたてがみっぽいし。
ライオン顔の男は大股で回り込んできて俺の鼻先に立った。俺も鴨居に額をぶつけるタイプの人間だが、この男はそんな俺より視線が高い。鴨居に鼻頭をぶつけるタイプかもしれない。俺とは違ってY軸方向だけではなく、X軸方向にもZ軸方向にも均整がとれて厚いので、それこそ小動物なら対峙しただけで昇天しそうな威圧感がある。その鼻頭は今にもこちらの眉間に触れそうだった。人との距離感が近いのは彼の職業特有の職業病なのだ。ガン垂れるとも言う。
「渕屋、長生きしたいなら言葉には気をつけろ。俺はおたくのことを考えるだけで胸糞悪くて仕方がない。それで会って話すとなったらどうだか、想像できないほどバカじゃないだろ」
「ああそう。でも良かった、考えるだけでときめきが止まらないとか言われなくて」
あまりにも古典的な「みんな聞いたか今の〜!」と叫び出したくなるような脅し文句を言われたもんだから、つい思いついたままの軽口を叩いてしまった。まいったな、呉のバカがうつったかな。ヤクザをおちょくっていいことなんか何もない。不本意ながら至近距離にある男の瞳孔が、光もないのに激しく収縮する。肉食獣さながらの生体反応からちょこっと目をそらすと、固く握った拳が腰のあたりでぶるぶるしているのが見えた。
なるほど「我慢」だ、あるいは「おあずけ」「待て」だ。
「お利口。さっすが千ヶ谷くん、『待て』もできる」
またもや口を滑らせながら、さすがに軽口が過ぎたかも、とは思った。呉のバカなら殴られたって問題ないだろうが俺は違う。この他人を威圧するために生まれてきたような肉体を持つライオン顔のヤクザこと千ヶ谷くんに殴られたら、到底痛いだけじゃすみそうにない。でも俺はわかっている。コイツは殴らない。顔がネコ科ライオンでも中身は違う、ネコ科は基本的に人間の言うことなんか聞かない、『待て』なんかしやしない。
「…地獄に堕ちろ」
マフィア映画みたいな台詞を現実という最高の調味料を加えた恐ろしさで吐き捨て、千ヶ谷はいやにねっとり俺を突き放した。『待て』大成功、さっすが忠犬千ヶ谷くんワンちゃんの風上に置ける、とまたも頭に浮かんだ軽口はさすがに封殺する。ちょっとテンションおかしいな俺、やっぱり呉のバカがうつってんのかな。おもしろ半分におちょくって、いくら忠犬でも野性の本能とかってバカにならないのに、ね。
怒りのままにさっさと歩きだそうとする千ヶ谷にハードケースを突き出す。俺が持ってやるいわれもない、重いし。乱雑にひったくられるかと思ったが、千ヶ谷は存外丁寧に受け取り、持ち手ではなくケース自体を小脇に抱え込むようにして持った。壊れ物を扱うような、というよりは、危険物を取り扱うような奇妙な慎重さだった。どうやってもケースが手の内から滑り落ちたりしないとわかると、千ヶ谷はようやく元の粗暴な足取りで歩き出す。
悲しいくらい忠犬だなコイツ。なんというか、馬鹿。
それを口に出すと軽口では済まなくなりそうなので、興味もねえし、俺は黙って千ヶ谷のあとに続いた。夜のしじまに、砂利のようなコンクリートを踏む二人分の足音と、潮騒にはほど遠い海波のじゃぶじゃぶいう音が混ざる。それらを掻き分け、かすかな機械の駆動音と金属の軋む音、控えめな喧噪が近づき始めていた。
車の通れない、廃屋で入り組みボコボコに劣化した海岸をしばらく行くと、わずかに拓けた場所に出た。いずれも特有の風貌をした男が数人がうろついていて、よからぬ企み事の気配がぷんぷんする。そろいもそろって暗い色の服を着ているので、彼らが蠢く様は影法師がのっそり蠢いているようでぞっとしない。ほとんど朽ちかけたコンクリートの海岸の縁には、ミニチュアの模型なんじゃないかと思うほどごく小さなカンチレバー式クレーンが生えていて、梁の先を暗い海に向かって伸ばしていた。根元には影法師のうちの何人かが取り付いて操作している。化学反応の限りを尽くし朽ち果てているように見えるのに、それはまだ動かすことができるらしい。クレーンの先からは太いワイヤーのようなロープのような(暗くて判然としない)ものが柔性をまったく感じさせない直線を描いて垂れ伸び、ぎざぎざに尖った波間に突き刺さっていた。
注目されるのもうっとうしいので、蠢く人々に気付かれないぎりぎりまで進んで立ち止まった。千ヶ谷はそんな俺を歯牙にもかけず、ハードケースを抱えてクレーンのほうへ歩いていく。クレーンに取り付く集団からほんの少し間をあけて、男が一人で佇んでいるのが見えた。それなりに働き動き回る影法師たちと違い、彼は特に何かをしている様子がない。海を眺めているのかクレーンを眺めているのか、曖昧な角度でこちらに背を向けている。千ヶ谷は彼に向かってまっすぐに歩いていく。まだ幾らも距離があるうちから、男は千ヶ谷の接近に気がついて振り向く。表情までは見えない。千ヶ谷が何か言ったのかしれないが、男がこちらを見るのがわかった。男はスーツ用の薄手のコートの裾を翻し、テンプレのようなオーバーリアクションで両腕を広げ、そしてこちらへ向かって歩き出す。
男が歩くだけで独特の威圧感がある。
彼は千ヶ谷のように大柄でも威圧感あふれる顔つきでもない。むしろ身長なんかは日本人の標準にぎりぎり足りるか少し小柄かというくらいだ。頭も肩幅も手も標準より一回りずつ小さいので、結果バランスが取れて一人で立っているぶんにはむしろ標準より背が高そうに見えるが、千ヶ谷のような三次元方向に遠慮のない大男と並んでしまうと小柄さが実際以上に浮き彫りになってしまう。顔なんか千ヶ谷が本気を出せば握りつぶせるんじゃないか。
それでも男が歩くと、通ったあとの空間がモーゼが大海を割ったように引き裂かれてしまうような、そんな威圧感がある。
ようやく表情がわかる程度まで近づいてきた彼は顔面いっぱいに人懐こい笑みを浮かべていた。平常運転だ。よほど注意深く見なければわからないが、踏み出すたびに彼の身体はわずかに左へ傾く。左足を踏み出している時間のほうが、右足を踏み出している時間よりもほんのわずかに長い。その差異はよほど注意して観察しなければ気がつかない程度だ。しかしその歩くテンポの不均衡さが、サブリミナルのように彼が歩く姿に独特の空気を与えている。そして彼が右足を踏み出すたびに、わざとらしい金属音が小さく小さく鳴る。小さく小さく。そんな彼の後を千ヶ谷が威圧感丸出しで歩く。これでビビらないなら貴方は幸いな人、有り体に言えばド鈍感だ。
そうして俺のもとまでたどり着いた男は、必要以上に朗らかな笑みを浮かべて親しげに両腕を広げ、背後の千ヶ谷の仏頂面を浮き彫りにした。
「渕屋、遅かったなあどこかで事故でも起こしたのかと思い始めた頃だった!」
「道が混んでて。街のほうが」
「そうかそうか今日は木曜日だからな」
なにがどうして「木曜日だからな」になるのかさっぱりわからない。たぶん千ヶ谷もわかっていない。そして言った本人もきっとわかっていない。テキトーで良い部分はとことんテキトーなのだ、この見島という男は。これでも大きな組織のそれなりの組の異例の若さの若頭だと言うのだから世の中わからない。その奇妙な貫禄と千ヶ谷のかしづきっぷりを見てるとまあそんなものなのかなとは思う。あんまりそういう事情って突っ込んで知りたくないけど。世の中わからなくていいこともある。向こうで化石のようなカンチレバークレーンが動いて悲鳴のような音を立てた。実際に悲鳴かもしれない、と思った。
「それからちょっと千ヶ谷と遊んでたから遅くなった」
「ハハハー!あんまり渕屋をからかってやるなよ千ヶ谷」
見島は背後を一瞬だけ仰ぎ、その隙に俺は千ヶ谷に満面の笑みを見せる。千ヶ谷は何も言わず、見島がこちらに視線を戻した瞬間に焼き殺すかのごとき目で俺を見据えた。今更言及しなくてもいいことかもしれないが、俺は千ヶ谷に死ぬほど嫌われている。
「まあ遅くたって文句があるわけじゃないさ。こっちもね、まだお前に渡すものの準備が済んでないんだ、すまんね。どのみち待ってもらわなきゃならない。やあやあ!そうだった!これ!どうもありがとう!」
自分のほうの落ち度はあっさり流し、見島は身を翻して千ヶ谷からハードケースを受け取った。あんまり勢いよく振り返るので撫でつけた前髪が幾筋かほつれる。それを片手でかきあげ、そのままその手でバチバチと留め金をはずしていく。爆弾を扱うような千ヶ谷の手つきに比べると、見島のハードケースの扱いはあまりにぞんざいだ。千ヶ谷は何も言わない。さっきまでは「地獄に堕ちろ」とかワンワン元気だったくせに。
「すっかり直ったか?」
「直したけどさ」
見島はハードケースを開き、またもぞんざいに中身を掴み出す。流れるように千ヶ谷が空のケースを受け取る。見島が手にしたものを芝居がかった仕草で掲げると、それは微弱な月明かりを敏感に拾ってギラついた。
義足だ。膝関節より下を補う金属質の右脚だ。黒いソケットから伸びるバーと同じ色の足部が月明かりを拾い、尖った爪先から放出するように輝いている。似たようなものが、見島の右脚には装着されている。
見島には右脚がない。俺が義足を作った。壊れたり合わなくなれば俺が作り直す。忠犬千ヶ谷くんが俺を殴りたくても殴れない理由の一つだ。
見島は義足の足関節を指先でつつき、満足そうに笑った。千ヶ谷は何も言わない。基本的に、見島といるときに千ヶ谷は喋らない。喋っても短い相づちかイエスノーを多少丁寧にしたような受け答えばかりだ。見事なまでのかしづきっぷりではないか。どこまで忠犬なのか。例え腹の底に何か抱えていたとしてもだ。
「そうそう、ここがうまく動かなくなって困ってたんだ。すっかり直って安心した。やっぱりこれが一番かっこいいからな。こっちは、ちょっと、グッと来ない」
「悪かったな」
見島はわずかに身を屈めて右脚を軽く叩いた。糊のきいたスラックスの裾が拳を受けてぎょっとするほど沈み込み、コンコンと硬質な音を立てた。答えるように向こうでクレーンがまた鳴く。カンチレバーの梁部分が傾き、ワイヤーがギザギザした海に突き刺さっていくのが見えた。
「直したけどさ、おい、それ、投げたろ」
「なにが」
「なにがじゃねえ、投げなきゃそんな壊れ方しねえだろが」
義足が壊れたので直して欲しいと持ってこられて、直してやった。そもそもその一週間前に点検整備したばかりで、見島の使用範囲なら滅多なことでは壊れないはずだった。フツーに歩いていればあり得ないような場所に傷も付いていた。まあヤクザさんだから、いろいろあるのかもしれないけど。
「投げるなんてことしないよ」
「投げなきゃなんないなら投げても大丈夫なように作ってやるから言ってくれ」
「そんなそんな、渕屋くんが一生懸命作ったもの投げるわけないよ」
「…」
「投げてないよ。な?千ヶ谷」
「ハア」
「嘘つけよ絶対投げただろ!!」
「…」
だんまり。千ヶ谷はなんとしても二言以上はしゃべりたくないらしい。ふと、千ヶ谷の額にてらついた傷の跡があるのに気付いた。何が楽しいのか見島はくつくつと笑っている。埒があかない。まあいい。直した分だけ金は取るし。
「あー。そろそろいいかな、行こう、渕屋」
義足を千ヶ谷に片づけさせ、見島は俺の肩を叩いて歩き出す。動くたびに悲鳴をあげるカンチレバー式ミニマムクレーンのほうへ。なんとなく話を逸らされた気がしないでもないが、続けたって埒があかないのでまあ仕方ない。
「なるだけ傷を付けるなってお前が言うからな。そうなるともうこの手しかないわけだ。まったくねえ、ただやりゃいいってもんじゃないんだ、落とし前だから」
「いろいろ面倒だね」
「ホントだよ、面倒だ、ホントに」
気のない相づちをうつとそれ以上に気のない返事が返ってくる。歩くたびにほっそりした身体が左へ傾く、ほんのわずかに。歩幅が不均衡なリズムを刻む。落とし前だから。本当に面倒な世界だなとぼんやり思う。
「我々はお前にずいぶん助けられて、感謝してる。だからなるだけお前の言うことも聞いてやりたいわけ」
「今後とも是非ご贔屓に」
「それはこっちの台詞だね。今後とも、ま、仲良くしようや」
「ヤクザみたいな台詞」
「ホントにねえ、困っちゃうよ」
何が困るのか。たぶん例のテキトー発言だろう。「ていうかヤクザだし」ってツッコミ待ちだったんだけど。見島は人の話を基本的に聞かない。
『我々はお前にずいぶん助けられて』。見島の台詞が脳内で反芻される。その瞬間、背後で刺々しさを増した千ヶ谷の気配も反芻する。見島が歩くたびにかすかな金属音が鳴る。小さく小さく。今後とも是非ご贔屓に。してくんなきゃ、困るからな。ふと先日の件の男が脳裏をよぎる。“幽体離脱”をしたとのたまう男。そして呉のことも。ご贔屓にしてくれなきゃ困る。踏み込まれ嗅ぎつけられても、面倒だが。
クレーンの根元にはまだ若いような男たちが数人いて操作していたが、見島と千ヶ谷に気付くと居住まいを正して会釈した。見島がひらひらと手を振ってそれをかわすと、またクレーンのほうへ集中を戻していく。時折笑い声が上がる。どいつもこいつもどこか下卑びていてぞっとしない笑い声だ。
クレーンがまた軋んで悲鳴を上げて、梁が傾いてワイヤーが繰り上がっていく。濡れそぼったワイヤーがどんどん海から引き上げられ、やがて海面に影が揺らめく。まずワイヤーの結び目が連なって海面に顔を出し、次に濡れそぼった金髪の貼り付いた人の頭が波間に現れ、肩まで引き上げられると浮力の支えを失った頭がのけぞるように折れ、腕と胸をまとめて縛られワイヤーに結びつけられているのがわかる頃には腰までじゃばじゃば水音をさせながら引き上げられるところで、最後に重りのブロック片をくくりつけぴったり揃えられた足が現れて、そのつま先が海面から15センチほど浮いたところでワイヤーの巻き上げが止まった。たった今まで暗い海に浸けられていた男は、折れてるんじゃないかというほど首をのけぞらせたままぴくりともしない。じゃばじゃばと全身から海水を滴らせながら、クレーンに吊り下げられてくるくると回っている。腕も脚もぴったりと括られて、ワイヤーと同じように身体を一直線にしたままくるくる回っている。ギャラリーからまた下卑びた笑い声があがった。千ヶ谷はだんまりだ。見島は大して面白くもなさそうに、毎朝同じように茹でる卵の茹で加減を気にするような口調で声を上げる。
「何回浸けた」
「4回です」
クレーンを操作している一人が答える。
「今のは何分浸けたんだ」
「もういいかと思いまして、5分ほど」
「もう一回浸けとくか。念のためだ」
見島の声で、またクレーンが悲鳴をあげる。ぴっちりと気をつけをし、首だけ折れたように仰け反らせた若い男はまた重りのついた脚の先から暗い海へ吸い込まれていく。
「僕はね、あんまりこんなことしたくないんだ」
俺の隣に立った見島がホントか嘘かわからないような口調でのたまった。大げさに眉を上げ、オーバーリアクションの鑑といった様子で肩を竦める。
「だってすごく悪いヤツみたいだろ?こんな夜更けに、こんな打ち捨てられたいかにもな海辺で、こんな廃クレーンの有効活用をーー」
「あんまり水飲まれてんのもヤなんだけど、水抜きがめんどくさい」
「んんもう!わがままだな!じゃ、次は窒息にするか?でもなあ、血も出ないし見てるほうにイマイチ苦しさが伝わらないというか絵的に地味というか、グッとこないっていうか。実際他に比べると苦しくないようだし、ちょっとなあ…どう思う、千ヶ谷」
「これが妥協ラインでしょ」
「だって!」
「チッ」
舌打ちして千ヶ谷を見やると、彼はその底意地の悪い顔つきにたいそう似合う冷笑を返してきた。見島はあのくつくつ押さえ込んだような笑い声を立て、腕を組んで海面を見ている。左脚に重心を置いて立ちながら。ちょうど、縛られた男が再び海面下に消え、クレーンが嘶きをやめたところだった。引き上げられた死体はどうしたって濡れそぼっているだろう。車に乗せて帰るのやだな、なんて思いながら。ひとつだけどうしても気になったことを見島に聞く。
「あのさ、ソナチネって映画知ってる?」
「僕は北野監督は天才だと思う」
知ってんじゃねえか、リスペクトしてんじゃねえか。クレーンて。なにが「あんまりこういうことはしたくない」だ。
雲間からのぞいた月がほんのわずかな月明かりを落としている。見島の右のつま先が、敏感に光を拾って海波と同じようにきらめいていた。