2-02:魂の無い男
 市役所最寄りのテナント入れ替えの激しい地帯にある新参喫茶店のひとつ。市役所はじめ周辺に勤める人々の昼飯処の候補のひとつに入ったり入らなかったりしているのかもしれない。こういうとこの飯って値段のわりに食った気もしないようなもんばっかな気がするけど、どうなの?という思いは結構みんな同じなのかもしれない。平日のまっ昼間であるせいもあるだろうが、いい感じに閑古鳥がぴよぴよ産声を上げている。休日はちゃんと客が入ってんのか?どちらにせよ、こういう店は往々にして男一人じゃ入りにくい。男二人でもそれはたいして変わらない。でもコイツがここがいいって(たぶん大した思い入れもなしにテキトーに)言うから。せめてもの抵抗、有無を言わさず禁煙席を選んで、何か言う前にタバコに火をつけた。嫌がるかなと思って。期待もむなしく、テーブルを挟んで向かいに座ったヤツは全く意に介した様子もない。この大嫌煙時代になんと余裕なことか。興味津々といった様子でメニューに取り付いて、いちいち大仰にメニュー名を読み上げるのが鬱陶しい。

「ジャンル名プレートってなに。公務員ってオシャレなとこで昼飯食べるんだね〜平池さん」

 予想通り一言多いし。お前が入りたいって言ったんだろが。
 苛ついた旨を伝えようと口を開いた瞬間ウェイターがやってきて、ヤツがニヤつく。いつのまに呼んだらしい。全然決まってないんだけど、わざとか?「俺アイスコーヒー、平池さんは?」って、本当にわざとらしく気遣わしげに聞かれておごってやろうという気も霧散しかける。まだ決まってねーだろが。仕方なく、『ジャンル名:プレート』からテキトーに選んでウェイターに伝えた。これでは何が来るかわかったものでない。「きゃっ、なんかよくわからんオシャレなもん食うのね平池さん、シュテキ!」と煽られて最早苛立ちを通り越し殺意すら沸いてきた。いや。いやいやいや。殺意もだが。そうじゃなくて。

「なに。お前何しにきたの。何の用?」
「ちょっと冷たいなあこちとら命の恩人すよ平池さん!」

 テーブルの向こうのヤツこと呉はさも当然とばかりに口をとがらせた。自らを命の恩人と称するのも、今自分が俺の目の前にいるのも、馴れ馴れしい以上に馴れ馴れしいのも、何もかも当然とでも言うように。確かに命の、というより魂の恩人ではあるのかもしれない。というかある。しかし恩人も自称してしまえばありがたみも何もない、あるのは胡散臭さばかりだ。
 あの摩訶不思議で暗澹迷濛の夜から早一ヶ月弱が経った。俺と彼が行動を共にしたのはあのたったの一晩なのだ。あとは何も知らない。俺からすればあれが今生の別れくらいの勢いで、再びこうして出会うこと自体がありえないものと思っていたのに。
 まあ、冷静に考えれば同じ市内の同じような地区を行動範囲にしているのだから、ばったり出会うくらいならなにも不思議ではないのかもしれない。コイツなんか日がなフラフラしているようだし。しかし、わざわざ会いに来るとなると話は別だ。時は昼休憩、昼飯をテキトーに済まそうと外へ出た矢先だった。

「ちょっと近くまで来てさ〜。市役所見たら平池さんのこと思い出して、元気してるかな〜って遊びに来たんじゃん。そしたらちょうど平池さん出てきてさ、最初フツーに声かけようと思ったんだけど、まさか俺のこと忘れてないかな?って思って、そんで『だ〜れだ』って」
「『だ〜れだ』は、ナイ」
「ナイかな」
「『だ〜れだ』はお前、きっつい」
「絵面的に?」

 ため息が出る。一ヶ月前にたった一度会ったことがあるだけの他人に、背後から『だ〜れだ』をかます衝動など一生理解できそうにない。もしも俺が女で彼のことを覚えていなかったら普通に事案発生である。俺が男で彼を覚えていたとしたら、つまり今回のケースなわけだが、ただただきっつい。絵面的にも精神的にも、ただきっつい。まあいい、まあいいまあいいどれもこれも許そう。百歩譲って彼は命の恩人なのだから。しかし許しはするが文句は言うのが(俺という)人間の性である。

「あのな、まず平日なんだよ、平日のド昼間なんだよ、仕事中なんだよ働いてるんだよ。お前はどうだか知らないけど」
「でも昼休憩なんでしょ?働いてないじゃんちょうどよかったじゃん〜」

 そう言われてしまえばそうなのだが、お前の態度が気に入らない。
 ウェイターがアイスコーヒーを二つ持ってやってくる。ひとつは呉のものだが、ランチタイムのプレートなんちゃらにはセットでコーヒーか紅茶がつくらしい。年季の入ってる風のテーブルに置かれたグラスに手を伸ばすと、呉が「平池さん、あげるね」と自分のぶんのコーヒーまで押しやってくる。コーヒー地獄かよ、そんなに俺にトイレ行かせたいかよ。というか、なんで飲まないものを頼むんだホントふざけてんなコイツは。そう憤りかけて、俺の脳裏を一ヶ月前のかすかな記憶がよぎった。西浜通りの中華食堂に半ばだまし討ちされるようにして入った、こんなふうに向かい合って座った記憶が。あのとき俺は健やかに幽体離脱中だったから何も飲み食いしなかったが。中の水を飲まれないまま表面の水滴を干上がらせていくグラスの様子がよみがえる。あのときもこいつは何も口にしなかったんじゃないか。もしかすると、口にしなくて平気なのかもしれない。もしかすると、口にすることができないのかもしれない。

 魂が無いから。
 それがどういうことなのか、俺は未だにわからないし半信半疑なのだけど。

「でも、ホントだよ。元気してるかな〜って心配してたのは本当。また身体なくしちゃったりしてないかなってね。今日はちゃんとあるみた…ぁアレレッ!?平池さんまた身体ないんじゃないっ!?」

 呉が大げさにのけぞった瞬間、ウェイターが先のコーヒーにミルクをつけ忘れたといって持ってきた。大変恐縮しながら俺に手渡す。中華飯屋で水すらついでもらえなかったときとは大違いだと思いながら受け取る。ウェイターが去る。呉はもう南無三という表情でけなげにものけぞり続けている。俺はテーブルの下で、そんな彼のつま先を全身全霊で踏みにじる。

「痛い痛い痛いいた、平池さん、痛いよっ」
「つまんねえだろが…」
「ジョークだからっ!小粋なジョークだからっ!!マジで、痛い!!」

 小粋って、意味わかってしゃべってんのかコイツ。足を離すと、呉はさっと自分の足を引き抜きいすの上で膝を抱えた。行儀が悪い。「ホントにね、良くないと思う暴力は、公務員のくせに」なんてぶつくさ言っているが、小粋の押し売りで笑えないジョークを飛ばすのだって言葉の暴力だろうが。
 「ともかく」と、呉は裏返した拳でテーブルを鳴らして仕切り直す。なにがともかくだ脱線してんの最初から最後までお前だろうが。

「どう?アレからまだ幽体離脱しちゃったりするの?」
「いや…。アレからは一度もないけど」

 そう、あれだけ毎夜悩まされていたのにあの夜からは一度もない。だから余計に、あの夜の出来事、コイツと出会ったことも含めて全部夢だったんじゃないかなんて、そんなふうに考えてしまうことすらできたのだ。コイツに公衆の面前で『だ〜れだ』をかまされるまでは。悲しいかな、俺はつまらないタイプの大人だから。奇想天外な出来事への理由付けのバリエーションが乏しい。
 当の呉はニヤニヤと、もっともらしい顔で「だろうね」と言った。

「渕屋がちゃんと“定位置”に戻しただろうからさ。平池さんの身体に魂戻したとき。ちゃんとした位置に収まってればそうそう抜けなんかしやしないよ」

 渕屋と急に固有名詞出されても、と思ったが、すぐさまあのデカいメタラーっぽい外人のようなハーフのような長髪の彼が浮かんだ。カーラジオにあわせて広瀬香美の懐メロを熱唱する彼のしかめ面が浮かぶ。というか、彼が魂を俺の身体に戻してくれたのだから、彼こそ命の恩人ではないか。忘れている場合ではない。ひそかに恥じ入る俺をよそに、呉は滔々と持論を展開する。

「たぶんさあ、平池さんの幽体離脱が“癖”になっちゃってたのって、一回なんかの拍子に魂が抜けたのが戻ったとき、ちゃんとした位置に収まらなかったからだと思うんだよね。自力で戻りやすいってことは抜けやすいってことでしょ。そういうとこに癖がついちゃったみたいな。それを渕屋がちゃんとしたとこにちゃんと入れ直したから、もう前みたいに抜けることないんじゃないかなって。まあ素人考えだし、渕屋みたいにちゃんとした知識があればまた言い分があるんだろうけど」

 こういうことに関するちゃんとした知識ってなんなんだ。どういう専門家になるんだ。

「え〜ウチの渕屋センセはすごいんだから、モグリだけど。ブラックジャックみたいな?金にがめついとことかそれっぽいと言えなくもないかな」

 確かにあのよくわからない器具のそろった部屋でゴム手袋やマスクを装備した渕屋は闇医者然とした雰囲気があった。闇医者は闇医者でもそのブラックジャックのような超然としたイメージではなく、いかにもな職業の人のいかにもな銃創からいかにもな弾丸を秘密裏に摘出していそうなイメージだ。あくまでイメージね。

「モグリの医者なんてこの日本に実在するんだな」
「いっくらでもいるでしょそんなん、モグリなんて名乗ったもん勝ちじゃね、じゃあ俺だってほら、医者|(モグリ)ですよ〜!」
「そういうのいーから」
「つーか渕屋は医者じゃないけど」
「じゃあなんだよ」
「肉屋」
「は?」

 俺の脳裏にゴム手袋をはめ、マスクをしたあの渕屋が天井から吊り下がった枝肉を解体する姿がふわふわっと浮かぶ。っぽい。めちゃくちゃそれっぽい。彼のヨーロピアンでイカツい容貌にジャストマッチする。

「基本的になんでもできるし実際なんでも屋みたいになっちゃってるとこあるけどさ。それこそモグリの医者みたいなこととか、こないだ平池さんにやったみたいなこととか。でも本業は肉屋さん」
「すげえ想像できるすげえ似合う」
「たぶん平池さんが想像してる肉屋とは違う。スタローンが殴ってるような肉じゃねーから」
「なんだよわかるように説明しろ」
「え〜めんどくせえな」

 コイツ、ホントいっぺんぶん殴ろうかな。というタイミングでまたウェイターがやってくるのだ。グルなのかもしれない。テーブルに置かれたのはドライカレーのようなものにサラダの付け合わせのついた一枚皿だった。わりとフツーだ。プレートとかいうからもっと板じみたものがくるのかと身構えてしまった。

「ともかく、専門的な知識のおありになる渕屋センセは未だに平池さんが幽体離脱してたこと信じてないからね」
「なんでだよ、いや俺だって信じられないけど、見ただろ」

 反射で言い返してから、そういえば一ヶ月前の別れ際にそんなことを言っていた気がすると思い当たった。魂は揮発性だから身体の外に出たらすぐ霧散してしまうはずなのに、とかなんとか。それを聞いて俺は震え上がり、二度と幽体離脱なぞするものかと固く決意したものだった。決意したところで自分ではどうしようもないのだが。どうにかできたらそもそも身体なんか紛失したりしない。

「渕屋は俺の中に平池さんが入ってからしか見てないじゃん。あの調子じゃ絶対俺がなんかやらかして平池さんの魂入れちゃったくらいに思ってるね、ムカつく」
「そうだった気がしてきた」
「ねえなんでそうなんの、すっげえ協力的だったよ、活躍したよね?俺!」

 それは確かにそうで、結果的にあの夜のコイツはかなりのお人好しだったわけだが、ホントにそうだったか?と疑いたくなるような何かを持っているのだ、コイツの場合。『こんなにお利口にしてるのにどいつもこいつもどうして風当たり強いの』と、よよと泣き崩れるそぶりをする呉をよそに、スパイスの絶妙な香りがめちゃくちゃうまいドライカレーを頂く。そういうところだろ、とは内心に。しかしドライカレーはやっぱりちょっと量が少ない。こういう店だから女性客を想定した量なのかもしれない。

「渕屋なんか見た目の通り頭固いから、自分で見なけりゃ、平池さんが魂だけで歩き回ってたなんて絶対信じないよ」
「あのさ、たぶんすごく初歩的なことなんだけど」

 俺はようやく、もっとも基本的とも言える疑問を口にすることにした。あの夜の俺は、魂だけで歩き回る存在だったのだという。あの夜まで、俺は魂というものの存在すら信じていなかったのに、呉も渕屋も、当然のように魂の存在を認めている。第三者を交えて魂が身体から脱出する経験をした俺も、さすがに認めざるをえないと思う。この世界が俺が知らなかっただけで、魂だとか、そういうファンタジーなものを許容する世界なのだとしたら、幽体離脱だって当然ありえるだろうと納得できる。
 けれど渕屋は幽体離脱に関しては信じないと言う。
 そこがよくわからない。「魂の実在」だって「幽体離脱」だって、同じくらいファンタジーなもんではないのか。そもそも。

「“魂”って、なに?」

 魂ってなんだ。あの夜、あの夜まで毎夜、俺の身体から抜け出し、また確実に俺自身であった魂とはいったいなんなんだ。どういうカテゴリに分類されるモノなのか。ファンタジーか、オカルトか、はたまた超科学か。
 なんともめんどくさげな、あるいはなんとか言葉を選んでいるような間を挟んだあと、呉は口を開いた。

「“魂”って、“臓器”だよ、平池さん」

 その“魂”の無い男は椅子にふんぞり返り、俺から微妙に視線をはずして平常通りのニヤついた笑みを見せた。その視線の先には、また飲まれないまま表面の水滴を干上がらせていくコーヒーのグラスがある。決してグラスに伸ばされない手が鳩尾を撫でる。まるで本来ならそこにある臓器を手持ちぶさたに労るように。

「心臓や肺なんかとおんなじ。みんな持ってる。身体の中に。一人一つ。当たり前に。“魂”は、“時間”を消化するための臓器だよ」

 魂とは。
 神秘的な生命力の根元でも、精神と意識の擬人化でもないのだという。
 魂とは。
 沼地に揺らめく燐光でも、常識から線引きして存在を夢見るものでもないのだという。

 魂とは、“時間を消化するための”の臓器なのだという。

「まあ、臓器ったって、こう身体を切り開いてみても心臓や肺なんかと並んで収まってるわけじゃないよ。解剖の教科書にだって載ってない。在り方は他の臓器とはまるで違う。実体があるわけじゃない。そういう意味では魂は非科学的なものかもしれない。あるいは超科学的かも。でもちゃんとみんな、この世界に存在してる生物はみんな持ってて、魂があるからこの“時間が流れている”世界で当たり前に生きていけるんだよって、まあ渕屋その他の受け売りなんだけど」
「臓器…」
「実感沸かない?沸かないか。俺は平池さんのじゃなくて他の人の見たことあるんだけど、まあ魂って大きさはこんなもんだったよ、こんな形で。で、なんか黒くて光ってて−ー」

 そう言って呉は人差し指と親指でU字もしくはひらがなの「し」のような形を作って見せた。なるほど魂は臓器の中でもスマートで矮小な部類であるということだろう。
 いやいやいや。

「いや、待て待てそれはおかしい。だって俺はあの夜“幽体離脱”して“魂だけで歩き回ってた”んだろ?」
「そうだと思うけど?」
「このままの姿だっただろ。このままの姿で、お前と会話だってして、こんなこと自分で言いたかないが完全に幽霊みたいな感じで、とてもそんな大きさでは…」
「だから渕屋は信じてないって言ってんじゃん」

 なるほど。いやまるで理解はできないが「渕屋は幽体離脱を信じていない」という点に関しては腑に落ちた。渕屋たちの認識ではあくまで“魂の実在”は科学的常識の範疇だが、「魂は幽霊のような姿をしている」「魂は意志をもちいわゆる“幽体離脱”して行動する」なんてのはナンセンス、ということなのだろう。つまり遠回しに「お前の魂はおかしい」と言われているのはわかる。

「心臓でも肺でも、それを一晩身体の外に放り出して平気な人はいないし、それを信じる人もいないってコト。そもそも“魂”を一晩大気に触れさせてたら、跡形もなく霧散しちゃうって」

 なんだかイヤに小難しくてそら恐ろしくて食が進まなくなってきた。人間なんだかよくわからないけど自分に関わってしまっているものにはうっすらと恐怖を覚えるものである。とはいえ昼休憩にはリミットがあるのだ。ちらりと時計を確認すればちょうど半分を過ぎたところで、俺はもはや機械的に食事を進める。

「あの夜のアンタの抜け出た魂の姿も、性質も、すべてが常識はずれで、ナンセンスで、ありえない、前代未聞ってヤツだったわけ。もしも学会的なもんが存在してたら驚動天地の大騒ぎ、世紀の大発見、今頃平池さんは生け捕りにされて向上心と使命感にあふるる研究者たちのモルモットになってたかも〜?って、そんくらいありえないわけ、あの“幽体離脱”ってやつは」
「じゃあなんでお前は信じる」
「ええ〜だってこの目で見てるし」
「“魂”じゃないかもしれないだろ、そんなに違うってんなら。それこそ本当にオカルト的なものだったのかも、あの夜の俺は。よくある意識の擬人化とか」
「ぶふっ」

 呉の殺意を煽る笑いが俺にいささかの覇気を取り戻させた。ついでに食事も完了する。それなりに旨かったはずなのに半分は味わうどころではなかったけれど。自分のぶんのコーヒーに口をつけた。これやっぱ二杯とも飲まなきゃだめなのか。無性にタバコが吸いたい。

「俺は、わかるから」
「なにが」

 とるもとりあえずタバコを一本抜き出して、唇に挟んだ。100円(このご時世、ぽっきりではない)ライターで火をおこす。つかない。なんでだよ、さっきはついたじゃねえかと何度か試すがつかない。チープなスケルトンボディにはまだまだたゆたう中身が透けているというのに。

「そういうものが、フツーの人より少しだけ余計に、俺はわかるから。そういうツテがある」
「お前な、だからもうちょっとわかりやすく…」

 ライターをあきらめて、そして呉と目があった。刹那、酷い既視感に襲われる。日本人離れした色素の薄い虹彩が今、外からの陽光をちょうど照り返してほとんど色を失っていた。わずかばかりの黄色みだけが色として残って、それすら不気味に濁って渦巻いている。その様子は、その名状しがたい光の流動は、とてもじゃないが人間のものとは思えない。なんて、それはそれでぞっとするような感想を抱いてしまった。そうして既視感の正体に思い当たる。あの夜も思った。西浜通りの飲み屋街で、ネオンの下でこの男と向き合って、同じようなことを思った。

 お前は何者なんだと。

「まあ確かな事実としては、渕屋が俺の身体から取り出して平池さんの身体に戻したのは確かになんの変哲もないフッツーの魂だったんだよね〜。だからまあ、間違いないよ」
「…そう言うなら、そうなんだろうな」
「なに、なんか素直だね〜平池さん。やっぱ遠回しに『オマエの魂はおかしい』って言われてショックだった?そうだよねそんな人の特徴のことをどうのこうの言うのは俺も良くないとは思うんだけどでもまあ変わってるのはマジだからな〜大丈夫大丈夫、もう抜けてないんでしょ?ならもう別に気にするコトじゃないっしょ〜」

 怒濤のごとく軽口を並べ立てる呉に、なんだかまた覇気が抜かれてしまった。すっかりいつもの調子でニヤつく呉は耳に手をやって、ピアスの角度を微調整しているらしい。ちゃらついた長さの髪に隠れていた部分もちらりと見えて、なんだ、インダストリアルって言うのか。軟骨を横切って貫くピアスの太さ。そしてそんなところに穴を開けて大丈夫なのかというほど、ほとんど穴の縁に近い位置に何かを模したピアスが打ち込まれている。初めてあった夜もそれが無性に気になった。その驚くべき穴ぼこ具合もだが、そうじゃない、その暗い色の歪つなピアスが何を模しているのかが。やはりそれは影になっていて、髪の毛に隠れてすぐに見えなくなってしまうのだが。
 火のつかないタバコをくわえたまま俺はしばし考える。
 散々ナンセンスだのありえないだの言いたい放題評される俺の“魂”。時間を消化するという臓器。その臓器が。
 無いんじゃないのか。コイツは。
 無ければどうなってしまうものなのか。
 “時間を消化できない”というのは、どういうことなのか。
 飄々としているように見える、いたって普通の人間のように見える、でもとても人間とは思えないという気持ちもかすかに、ほんのかすかにだが俺の中にある。
 飲まれることのないコーヒー。
 魂を失うとはいったい、どういうことなのか。

「あら、めずらしいですねこんなところで召し上がってるなんて」

 口を開こうとした矢先、このステキなカフェ空間に野郎二人という不毛で荒涼とした状況に一石を投ずる女声が背後から響いた。閑古鳥ぴよぴよ状態にすっかり気を抜いていたのだが、そりゃあ店舗であるから俺たち以外の客がいたっておかしくない。向かいに座っていた呉がさっと椅子から足を下ろす。コイツにも世間体を気にする心が一ミリでも残っていたのかと思うと目頭が熱くなるようなならないような気がしないでもなかった。
 ともあれ、一石投じた女声のほうである。俺はこの声にいやと言うほど、いやとは言わないが言葉のあやで、それくらいには聞きなじみがある。溌剌とは言い難いがとりわけか細いとか聞き取りづらいというわけでもない声は、なんとなくナビゲーションシステムなんかに搭載されている女声の人工音声を思い起こさせる。

「平池さんって吉野家しか外食チェーンを知らないのかと思ってたわ」

 背後から降ってくるこのどこまで本気か、悪気があるのかもわからない憎まれ口にも存分になじみがある。抑揚が独特なのだ。よどみない声音に最低限といった感じで乗せられたそれはよほど注意深く聞かなければ気にならないが、その独特さがますます人工音声っぽさに拍車をかけている。
 観念して顔を上げた。肩のところで切り揃えた髪。丸い額の下の目がどこかじっとりと俺を見下ろしている。そんな目をされる覚えはない。彼女が地味なブラウスとなんの面白味もないスカートを履いているのは、俺がなんの面白味もない社会人スタイルをしているのと同じ理由からであり、すなわち職場が同じだからに他ならない。

「…お前も外で食うならおごってやったのに、残念だったな」
「あら、ここへはコーヒーを買いにきただけですよ。それに、今日は吉野家の気分じゃなかったし」
「アレはお前が行ったことない行ってみたいって言うから連れてってやっただけだろが!」
「平池さん、平池さん、カノジョ?」

 呉が三割増しでニヤニヤしながら臆面もなく下世話に問う。ひそひそ感を演出しつつまったく小声じゃないし。デリカシーのかけらもねえのかコイツは。
 一方依然俺の背後をとったままの彼女はその声同様いまいち抑揚に乏しい顔を呉に向け、

「こんにちは。私は弓削さゆりです。この平池さんの職場の後輩。彼女じゃないわ」

 と言ったあと俺にまた視線を落とし「きっとね」と付け加えた。頭が痛くなる。こっちはこっちで、どこまで本気でどこまでが冗談なのかわからない。コイツはいつもそうだ。そしてご多分に漏れず呉がめちゃくちゃ喜んでいるのがわかる。クッソむかつくクッソ腹立つクッソ憎悪。
 弓削はその怜悧っぽくもあり無感情っぽくもあり、その実なにも深く考えていないだけの目を俺のくわえたままの火のついていないタバコへむける。決して彼女が考えなしということではなく、日常で起こり得る大抵の出来事は彼女の心の太平をさざめかすのに少しも足りない、というだけなのである。つまり平たく言うと鈍くて図太い。弓削は俺の肩越しに100円|(ぽっきりではない)ライターに手を伸ばし、いともたやすく着火させた。ありがたく火を頂戴し、ようやくありついた煙をしみじみと吸い込む。何かの不具合でつかない100円|(ぽっきりではない)ライターを着火させる、タバコを吸わない弓削自身にはなんのメリットもない特技だ。

「貴方は?平池さんのお友達?」
「そうそうお友達!」
「えっ」
「えって、ちょっと、えっ?」

 呉が眉を下げて、乗りだし気味だった身体を背もたれに戻す。呉のくせになんて心の痛む顔をしやがる。俺と呉がわずかな表情の機微で友情というものについて攻防しているのをまったく意にも介していないような平板な声で、依然俺の背後に立ったままの弓削が口を開いた。

「友達じゃないなら、これって浮気になるのかしら」

 お前は何を言ってるんだ?どこからつっこんだらいい?依然下がりっぱなしの眉で何かを訴えてくる呉はまだいいにしても、背後の頭上から無言も表情の圧力を感じて俺はたじろいだ。恥も外聞もなく告白すると、あの夜俺がまだ死ねないと思った理由の大部分は、彼女だからだ。
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