2-05:眠る男
 窓の外にこちらを見上げる女がいる。
 詳細に言うと、建物の三階に位置するこの部屋の窓のちょうど真下あたり、閑静な住宅街というには落ち着きも気品も目に見える静けさも全然足りない、雑多で煤けていて配管剥き出しの建物が詰め込まれた路地にこちらを見上げる女が立っている。この建物を見ているんだろうことは確かだが、視線は微妙に外れていて中にいる俺とぶつかることはない。それもそのはずで、外からこちら側を伺い知ることはできない。マジックミラーとまではいかないが、自然光を反射して室内を目隠しするフィルムが貼られているからだ。人口の過密する都市部では、プライバシーを守りながら日の光を拝むのに難儀する。
 見上げる女は、ひどく真っ当な女に見えた。つまり、間違っても俺のような男に用事がありそうな人間ではない。俺に、ひいてはこの店に用事がある人間は残念なことに、なぜかろくでもないかきなくさいかの二者択一、あるいはその両方におまけつきというのがテンプレート王道スタイルなのだ。

「いいなあこのソファ…渕屋くん儲かってんなあ…」

 その筆頭も筆頭である「魂の無い男」が呟いた。ラグの上に置いたソファの向こうの肘掛けに頭、こっちの肘掛けにふくらはぎをのせた呉は要は寝そべっていて、信じられないほどくつろいでいる。喋るだけで人をイラつかせる才能はたいしたものだと常々思う。ふと、今し方覗いていた窓が目に入った。たったふたつ並んだ細長い窓にフィルムを貼るとき、呉にも手伝わせた。呉が貼ったほうの窓は、下の方になんとも不気味な鈍色の波紋ができている。魂が無い人間が反射フィルムを扱うとこうなる、というわけではもちろんなく、単に粗雑に貼られて皺が入っているのだ。芋蔓式に着火しかける苛立ちにほんの何瞬か目を閉じて耐えた。

「でも渕屋にはちょっと短いんじゃない?もらってあげよか?」

 ベッドじゃねーし、それ。
 そもそも俺はコイツに「しばらく店に顔出すな」と忠告したのだ。ここ一ヶ月弱の話である。かなりぶすむくれられたが、納得も何も店主が出禁っつったら出禁である文句なんか知るか。それなのになぜ。さらにどの面下げてそんなにもくつろいでいられるのか。存在するだけで人をイラつかせる才能はまっことたいしたものであると常々。細長い窓から差し込む日光が部屋に二本のスリットを作っている。そのうち一本が、見事に呉の身体の上を縦断している。二重スリット実験で発射される電子を弾丸に入れ替えれば、真正面に立っていなくたって被弾する可能性がある。目を閉じて、耐える。大丈夫、まだ我慢できます。ガキを叱るときだって頭ごなしに怒鳴ったって逆効果なんだ、大丈夫、僕はいつだって理知的でありたい。

「お前さあ。俺が言ったこと覚えてるよな」
「覚えております、サー」
「理解もしてるよな」
「ちょっと馬鹿にしないでくれる?サー」
「なんで来てんだよ、コラ」
「ここ、三階だから。店じゃないから。店は二階だから、ここは渕屋の家だから、セーフ」

 反射的に手にしていたクイックルワイパー(ハンディ)を投げつけた。ワイパー部分が表面積のわりに軽いためか、ハンディは想像よりもかなりふんわりとした優しさをもってして呉の顔面に着地する。「うべべっ!!埃っ!!あっ!!静電気で髪にっ」だかなんだかうるさい呉をスッとした気持ちでスルーし、今一度窓の外を見やった。

 女はまだこちらを見上げている。

 なんだろうマジで、ぜんぜん知り合いじゃないし、勧誘活動が盛んなタイプの宗教とかだと困るけどそういうのってだいたい二人組で来るって聞くし。マジの電波ちゃんだったらどうしよう。しかし、見上げる女は本当に真っ当な人間にしか見えない。よく言えば清楚、悪く言えば野暮ったい、正直に言えば地味なナリの、普通の女。髪型も顔つきも幼いが、化粧の仕方とか佇まいにガキにはない垢抜けた感じがある。電波ちゃんの持っている隠しきれない一辺倒さみたいなものは微塵も感じられない。ついでにうちの客御用達のろくでもなさきなくささうさんくささも全く感じられない。まあそんなもん見た目でわかりゃ苦労しないって言ったらそれまでだけど。
 まさか入ってこないだろうな、とは一瞬思った。
 まさか入ってはこないだろう。一見さんだろうが勧誘さんだろうがなんだろうが、気軽に入ってこないように、アリエル曰く「完全に古典的ラブホ」仕様の造りになっているのだから。

「まったくさ、説明もなしに出禁にされたらさすがに傷つくんだけど。俺にだって心があるんですけど!?魂はないけど。いじめは心の殺人ですよ!?あーうー渕屋くんに殺される〜。…ねえねえなんか怒ってる?」

 ようやく髪の毛から引き剥がしたハンディを、呉はそのまま投げ捨てた。床に落ちるのを目で追って、コイツ靴揃えて脱いでやがる…!とまた苛立ちがこみ上げる。いやそれこそ理不尽でしかない怒りだけど。
 眠いのか、ぐだぐだながらもそれなりに不穏な愚痴を並べ立てる呉に呆れ半分げんなり半分。出禁にした理由は憤怒ではないが、憤怒する理由ならいくらでもある。記憶に新しいところでは例の手袋をガメただとか、“幽体離脱”した魂を突発でどうのこうのしてほしいだとか、そもそもなんの準備もなく他人の魂を身体の中に入れるなんて無茶の尻拭いをぬけぬけとさせた件だとか。

「お前最近の行い振り返って見ろよ、なあ」
「確かにね、手袋ガメたり平池さんの件でむちゃくちゃなお願いしたりしたけどさ、今更そんなことで怒るかな〜って思う訳よ。だって渕屋くんだよ?何年ってレベルじゃないよ、俺がつきっきりで鍛えてやってるからね、堪忍袋をさ。今更この程度でブチ切れる緒じゃあなくねってね、俺が太鼓判を…」
「…」
「あっぶ、あぶなっ!!ちょっと!!リモコンはマジで危ないでしょ!」

 反射的に投げつけたリモコンを、呉は奇跡的にキャッチした。非常に残念無念遺憾の意。呉はキャッチしたリモコンを、ハンディと同様に投げ捨てる。ハンディの上に、それは音を立てることもなく優しくに着地する。魂の無い男は依然、他人の家のソファの上にぐったりと横たわっている。さすがにわかってるじゃないか、とは面倒だからおくびにも出してやらない。

 魂とは。
 神秘的な生命力の根元でも、精神と意識の擬人化でもない。
 魂とは。
 沼地に揺らめく燐光でも、常識から線引きして存在を夢見るものでもない。

 魂とは、ただの臓器だ。

 臓器移植を受けた患者は免疫抑制剤を用いなければならない。ごく当然の免疫反応によって引き起こされる急性拒絶を防ぐためだ。人体は移植された臓器を“異物”と見なして攻撃しようとする。その逆もまた然りだ。移植された臓器のほうが新しい宿主を異物と見なし攻撃する場合もある。「自分のものではない、他人の臓器を体内に入れる」のは、それだけリスキーな行為だ。リスクを可能な限り抑えるためには、入念な準備が要る。そして、魂だって在り方は特殊であれどそんな臓器のひとつでしかない。

「お前、本当に何ともないんだろうな」
「なに?心配してくれるんだ、出禁にしたかと思えば。やだ〜飴と鞭ですよ、DV男の常套手段すよソレ、やばいよ洗脳されちゃうよ」
「俺の信用に傷がつくだろ、答えろ」
「なにもないし、なにかあってもそれだけの身体だよ、こっちでは」

 呉がわすかに頭をもたげてこっちを見た。二重スリットの光を受けて、黄色い目が爛々と輝いていた。平素通りニヤついた呉は眉毛をあげてウィンクしてみせる。少し歪になりかけた空気を誤魔化すように。

「べつに、なんともないよマジで。実際平池さんが入ってたのって小一時間もなかったしさあ、相性も良かったんじゃね?血液型とか一緒だったりして」
「ハッ!」
「いやいや関係あるかもよ?魂が“臓器”ならね」

 引っかかる言い方をして呉はまた頭を落とした。ふと、呉と同じ黄色い目をした男のことが脳裏をよぎった。それこそ彼にしてみたら魂が臓器だろうがなんだろうが馬鹿げた話でしかない。“あんなもの”の目に映る宇宙の価値観を持ち出されては敵わない。俺が生きているのはこの宇宙だ。呉が生きているのだって。そこに一番こだわっているのは今そこで寝そべっている男のほうのはずだ。

「あれは酷かったけどね。いつだっけ。死にかけのオッサンの魂入れたことあっただろ」

 呉は寝返りまで打ち、本格的に寝入る体勢を探しているように見える。だからベッドじゃねーんだけど、ソレ。
 あれは酷かった。それはもう一昔前の話だ。俺がやっと魂がそこに無いことの様々な可能性を利用し始め、また呉に対して心底呆れ果て愛想を尽かしたくなった最初の時期の話だ。それはもう一昔は前の話だ。呉にとっては、あるいはその男にとっては、永遠に“今”の話なのかもしれないが。
 なんだか大人しくなってきた呉にいやな予感がして歩み寄る。離れ際、見やった窓の外に見上げる女はもういなかった。

「ほんとに酷かったんだぜ、この俺が言うんだから間違いないよ、本当に酷かった…」

 ソファの脇に立って見下ろした呉は案の定目を閉じかけている。信じられない。寝入り端も初っ端、センチメンタルになってるところを悪いが情け容赦なく揺り起こさせてもらう。

「オイ!!寝るなよ!」
「寝るよ!!寝にきたんですよ!!」

 思わず張り飛ばしたくなるような台詞とは裏腹に、呉は揺さぶりのリズムに合わせて跳ね起きた。揃えていた靴を履こうとして失敗したのか、蹴散らしながら立ち上がり、よろよろと部屋の隅へ向かって歩いていく。このリビングダイニングの隅をかなりの威圧感で陣取っている二畳ほどのボックスルームの扉に手をかける呉に、一応声をかけた。

「何時間寝んの」
「…八時間くらい?」
「ハッ!!健康的なこって」
「三日くらい寝てないからな〜、じゃ、よろしく」

 ひらひら手を振って、呉は防音室の扉を閉めた。扉のパッキンが空間を密閉する独特の音がする。蹴散らされた靴を見て思わずため息が漏れた。そしてなんとなしに窓の外を見て、堂々たる風格をもってして路駐している黒塗りのレクサスを見てもっと盛大なため息が漏れる。いや、まあタイミングとしては上々、呉が元気に無駄に意味もなく冷やかしにきているときじゃなくて良かった。逆に良かったかも、呉の身柄を拘束できているときで良かったかも、いつ襲来してくるともしれない男なのだから、それは、黒塗りのレクサスのほうも。
 呉を出禁にした理由はただひとつ、最近になって妙に足繁く襲来してくるようになった男と邂逅させたくないからだ。



「やあやあやあ元気か?元気そうだな元気だろうな?僕も元気だ。僕は元気だが僕の脚が元気じゃない。この右脚がね、またこの足関節のとこがうまく動かなくなった、直してくれ」

 開口一番悪びれるどころか輝く歯並びの笑顔で言い放った見島は、治療用のビニール椅子に金属製の踵落としを放った。やむを得ず視線を下ろすと、ぱっと見でわかるほど、素人だって「これはマズいな」とわかりそうなほど、継ぎ目のべこりと凹んだ右脚が。ジーザス。
 ところはY軸方向にマイナスして二階である。三階とは違って全面ガラス張りの窓には同じように反射フィルム。すぐ窓際に応接セットがあって、ビニールの遮光カーテンで隔てた奥のこの場所はもろもろの作業スペースとなる。そう、もろもろの。こないだ“幽体離脱くん”こと平池さんの魂入れてやったのもココ。その同じ治療椅子に、かすかで耳障りな金属音とともに参上したこの隻脚の男はご機嫌に踵落としをした。正確に言うと俺に診せるために右足をのせたのだが、いかんせん仕草がいちいちオーバーで乱暴なのでビニールのシートがダメージを受けてべちんっと鳴る。その背後には千ヶ谷、今日も今日とて悪人ヅラでご機嫌斜め、威圧感は丸出し垂れ流し。その仏頂面が存在するだけで部屋の空気が三割り増しで悪くなる気がするのでなんなら紙袋でも被っといてほしい。

「前に直してから一週間と経ってないんだけど?」
「なんだって!僕ってば上客じゃないか!ご贔屓にしまくってるってわけだよ!フフン」
「千ヶ谷、お前の上司どうなってんだなんとかしてくれ」
「…」
「無視!マジでどいつもコイツも!頭がおかしくなりそうだ!!あー!!」

 ついに発憤し憤懣やるかたない雄叫びを上げる人間を、いったいどういう神経をしていたら弾ける笑顔、あるいはまったくの無表情で見守れるのか。もうこのあたりのまともな人類は絶滅したのかよ。だいたい“ものをたいせつに”とは、日本人ならいちばん最初に習うことではないのか?それこそ幼稚園児だってものを粗雑に扱えば怒られることを知っているのに、どうやらこの男は知らないらしい。もう人生やり直せよ、頼むから。
 俺は無駄に室内を練り歩き、意図せず振り乱した髪を力任せに掻きあげたあと、顔を覆って治療椅子の足枕の部分につっぷした。

「俺の作品をやったらめったら虐めないでくれ…」
「残念、もう僕のもの」
「そんなに壊すんなら生身の脚に戻したらどうだ。生身の脚でも同じように扱えるのよ。ありがたみがわかるだろ」
「おもしろいこと言うな渕屋」

 見島はずっと片脚立ちなのにも関わらず、ピンと背筋をのばしたままふらつきもしない。両手をわざとらしくもみ合わせながら、ぐぐっと身体を曲げてこちらを覗き込んでくる。その動きはすこぶる軟体じみていて、何かの前衛的なダンサーのようだ。しかし彼はいわゆるヤのつく自由業である。

「この右脚の行方がわからないからお前に脚を作ってもらったんじゃないか」

 白々しい、と俺は思った。見島は代わり映え無く笑みをたたえている。千ヶ谷が静かに肩に力を入れ、その悪者じみた顔をさらに凍てつかせるのが見なくても、空気の動きでわかった。
 芝居がかった仕草で、大仰に、見島は右腕を前へ伸ばし、男にしては小造りな手指の人差し指だけを残して握る。残った人差し指がめいっぱい伸ばされて、金属の踝を覆う折り目正しいスラックスの裾にかかる。裾を引っかけたまま腕を戻すと、引きずられたスラックスは抵抗らしい抵抗もなく義足の付け根までめくれ上がってしまう。生身の脚と比べてしまえばあまりに細い。ていうか、またなんか見たことない傷増えてね?気のせい?という視線を察したのか偶然か、見島の手が細かな傷だらけの義足をなぞるように覆った。

「これはもう僕のだ。僕の脚だ。僕のものだ。これが僕の脚だ」

 呪文のように。ならもうちょっと優しくしてやれよ、自分に厳しいタイプかよ、という軽口は飲み込んだ。見島の目がほんのわずかに、確実に、常軌を逸し始めていたからだった。

「だって仕方が無いんだ。五年前までの僕の脚はもう僕の手元には無い…ブフ、手元だって!いいか今話しているのは脚の話だぞ、無いんだ、だからどうしようもないんだ、あったって仕方がないかもしれないけどな、今ここにあったって、仕方がない、だってもう五年も僕のことを放っておくような脚だからな、期待はできないよな」

 ビニールの遮光カーテンが安物なりに頑張って光を遮るので、俺たちのいる場所は仄暗い。千ヶ谷の巨躯がさらに影を落としているので、見島の顔はほとんど翳ってよく動く口元しか判然としない。目元などほとんど影の中に落ち窪んでいる。かたり、と何かの身じろぎする物音が聞こえた気がした。一瞬呉の存在を思い出しイヤな汗をかきかけるが、起きるわけがないと思い直す。呉は目覚めない。目覚めるまでは、目覚めない。

「我々には時間がない。だから代わりがいるんだ。仕方ないよな、自分の脚が使えないんだから代わりが要るのは仕方ないだろ。どうせ代わりにするなら次はもっといいのがいいって思うのは、これは人間のサガだよ。なあ、人間なら当たり前のことさ。人間ならそうでなきゃな。同じコトを繰り返してるようではダメだよ、なあ。可能性があるなら試行錯誤を重ねるべきだ。それが人間のサガだ。性質だ。義務だ。なあ渕屋、次はもっといいのがいいって、俺は人間だから思うんだ。例えば、こう蹴り出すと仕込み刃が飛び出したりして色ももっとゴールドとかのカッコいいのがーー」
「却下。銃刀法違反」
「へー!ヤクザにそれを言うのか!」
「ヤクザがそれを言うのかよ。ダメだダメだそんなもん絶対アンタは壊す毎日壊す。ったく、三十路過ぎといてなに言ってんだ。オラ、さっさと外せまた何日かかかるぞ」
「まあまあまあホントせっかちだよなあ渕屋くんよ」

 壊れた義足を外しにかかるのかと思いきや、見島はそのまま右脚を引きずり下ろしてくるりと踵を返した。さっきの踵落としでいよいよ関節部分が動かなくなったのか、それは普段のなめらかな歩行にはほど遠く、踏み出すごとに身体が左へ大きく傾ぐ。千ヶ谷は身じろぎもしない。何をするのかと思えば、部屋を隔てるビニール製の遮光カーテンの元までたどり着いた見島は一気にそれを開け放った。三階とは比較にならない大きさの窓から注ぐ陽光が網膜を直撃する。カーテン越しの仄暗さに慣れた目には、白んだ部屋の風景はおぼろげにしか見えてこない。だが見えたとして、そこには誰もいない応接セットくらいしかないはずだ。呉は上で寝ている。一度あの防音室に入ってしまえば1、2時間で出てくるということはない。だから誰もいないはずだ。なのに、クソが。

「私、何か聞いたらいけないお話を聞いたかしら」

 誰もいないはずの応接セットには、一人の女が座っていた。あまりにも真っ当で、あまりにも普通の、あまりにも平然と、あまりにも、無神経とさえ言えるような冷静さをもってして、窓の外からこちらを見上げていた女が座っていた。台詞のわりにはあまりにも泰然としている。本当に聞いたらいけない話だったとしても、それがなにか私にとって困ることでもあるのかしら?とでも言いたげな顔である。
 千ヶ谷は眉の一本すら動かさない。ただ、忠実に自分の上司の次の一手を待っているのがわかる。女の泰然とした視線を受け止めた見島は、平素の常軌を逸した場違いな笑顔を浮かべて耳を疑うようなことを言ってのけた。

「なんにもいけないことなんかないよ、話そうじゃないか。お嬢さん」



 呉のことを思い出したのは夜も更けてからだった。嵐と不穏と面倒事の具現化のような三人が去り、半ば現実逃避気味に義足の修理に没頭していた俺は、日付が変わる頃になってようやく顔を上げた。真っ暗な階段を上がり、三階に入る。入ってすぐのリビングダイニングは、二つの細長い窓から射し込む月明かりで三つに分断されている。そのもっとも暗がりで、二畳ほどの防音室が異質な威圧感をまとって沈黙している。二本の月明かりを跨いで、もうずいぶん長い間俺にとって一番の面倒事である男が眠るその小部屋を開け放った。
 セミシングルのベッドを置いてしまえばもう隙間しか残らないような防音室の中で、呉は器用にもその隙間に落ち込んでいた。アクロバティックな寝相だこと。唯一シーツの上に残っていた腕を掴んで引っ張り上げると、隙間から現れた呉は目を開いていて、何もない空中を見つめるその虹彩はなんとも言えず不気味な色をしている。

「シートベルトでもして寝たらどうよ」

 毒づくと、呉は非常にしょっぱい顔つきになってブフゥと吹き出した。

「いや、それはちょっとさ、イイ考え風に言ってるけど完全に見た目がレクター博士じゃん、アブナいじゃん」
「じゃあ敷き布団にしろ」
「それいいね!落ちないしね!…この部屋に敷き布団って、なんかもうギャグだろが」

 せっかく抜け出した隙間にまたはまりこんで座って、呉は低く低く笑い続けた。シートベルトで拘束されて寝る姿より暗がりで笑い続ける姿のほうがたぶんよほどアブナげだと思う。本当に頭おかしいよなコイツ。本当に本物の馬鹿だよなコイツ。
 人間ならそうでなきゃな。隻脚の男の譫言がよみがえる。同じコトを繰り返してるようではダメだよ、なあ。可能性があるなら試行錯誤を重ねるべきだ。それが人間のサガだ。性質だ。義務だ。
 本当にそうだ。アレはアレで頭がおかしいが、それだけは賛成だ。
 すてきな月明かりの夜、ドツボにハマって延々と垂れ流される笑い声を背景に、俺はそんなことを思った。
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