2-06:捜す女
 事象の地平線という言葉をご存じ?なんだかとっても哲学的な響き。実際のところはブラックホールの中心近くに存在する「光速をもってしても抜け出せない領域のその境界面」という、なんとも恐ろしげなポイントをさす言葉ですけれども。どんな物質も手段も行ったまま帰ってこれないので、その領域よりも内側の出来事を伺い知ることはできないという、比喩でなく文字通りすべての出来事の地平線です。でも「事象の地平線」ってともすれば文学的な響きじゃないです?すべての出来事の地平線、果てしなく遠くに見えるその地平線の向こう側は、誰にも窺い知ることはできない。その地平線が甘く好奇心を引いて輝くのはどこかに貴方の運命の女の子を隠しているからなんですのよオホホ。なんて、光ですら脱出不可能な事象の地平線が輝くわけもないのだけれど。ちなみにごく日常に存在する地平線までの距離は、わずか4.5キロほどらしいです。学校施設の過密していない田舎の中学生なら十分通学可能と判断され正規の学区内となる距離。私たちの知り得るこの世のすべてなんて、みんな中学生のうちに徒歩で拾得可能なものなのかもしれません。運命の女の子だってきっとそのくらいの距離にはいるものなんです、ほら中学で出会ってそのまま添い遂げるご夫婦とか。
 脱線はさておき、そのブラックホールに存在する事象の地平線上では時間の遅れが無限大となるのです。∞。大胆に言ってしまえばそこでは相対的に時間が止まるのです。ウラシマ効果など目ではなく、完全に時間が静止するのです。竜宮城から帰ってきた浦島さんは、玉手箱を開ける間もなく宇宙の終わりを目撃することになるのです。地上視点で見てみれば、助けた亀に連れられて竜宮城へ行ってみた浦島さんは永遠に帰ってきません。完全なる失踪です。未解決事件ですコールドケースです。どんなにこちらに有利な利害関係があろうとやはり出会ったばかりの見知らぬ人(亀)にのこのこついて行くとろくなことにならないというイイ例ですね。よい子と普通の子のみなさんは気をつけましょうね。悪い子のみなさんは多少実際に痛い目に遭わなくてはわからないかもしれませんけどね。
 さておき、宇宙空間で無情にも私に手を離されブラックホールへと落ちていく貴方は、次第にスローモーションとなり、事象の地平線に到達する頃には完全に静止し、見守る私の視界から消えることは永遠にありません。私が年老いて朽ち果てる頃になっても、貴方はそのまま。永遠にそのまま。強すぎる重力のある場所では時間の遅れが生じるものですが、事象の地平線はその最たる場所ということですね。

 今、私の目の前にも事象の地平線が発生していました。

 部屋の中央を仕切る、病院を想起させるようなビニールカーテン。開け放たれたその向こうは薄暗く、なんだかよくわからない器具や治療台で埋め尽くされているのが辛うじてわかる程度です。その隙間に三人の男性がいて、彼らは今じっと私を見つめ完全に静止していました。室内ですから風もなくそよぐモノもなく、本当に静止していました。
 一人は歯医者さんや美容院にあるようなリクライニング式の椅子に肘をついてしゃがみこんだまま、険しいにもほどがある表情でこちらを見ています。しゃがんでいてもわかる手足の細長さとヨーロピアンなお顔立ち(眉を寄せているので余計影が強調されて恐い)、そしてぐるぐるにうねったスーパーロングヘアといった容貌から、なんとなくヘドバンとか得意そうだなという印象を受けました。あるいはギターが泣いていそう。おそらく彼がこの家の家主、ひいてはミズホ氏の旦那さんのご友人でしょう。つまり暫定非ヤクザです。
 もう一人はこちらに背を向けて立っていて表情は伺い知れません。でもその華美なスーツとやったらめったらガタイの良い巨躯から、さっき黒塗りレクサスから降り立った一人だとわかりました。つまりは十中八九ヤクザ。残る一人はカーテンを開け放った張本人で、最も至近距離で私と対峙していました。芸能人のように小さなお顔。サングラスは胸ポケットにしまわれていて、眉をあげた表情のせいか他の二人から受ける印象よりだいぶ柔和な印象です。でも彼が。ミズホ氏の言葉が蘇ります。自分で自分の脚を切り落としたかも知れない人。その所業が本当なら、とてもファンキーとかクレイジーとかいう言葉では済まされません。切り落としたその脚に、自分の命を閉じこめて隠しているなんて、そんなダークファンタジーな噂までまことしやかに囁かれている人。そっと彼の脚もとへ視線をやりました。中途半端にたくし上げられた裾から、骨格そのままのような金属めいた右脚が覗いていました。

「私、何か聞いたらいけないお話を聞いたかしら」

 平池さんは私のことを図太いだの鈍いだの好き放題言ってくれますが、私にだってこのあまりにもな膠着状態を気まずいな、誰か喋らないかな、と思う心はあるのです。ヤクザ方お二人をカンニングしてこの家への入り方がわかったからといって、ミズホ氏と別れたあとソッコーで入ってきてしまったのはやっぱりまずかったかなとか、お取り込み中っぽかったので応接セットに座ってみたはいいもののガンガン聞こえてくる意味深な会話(どうやらここは義足屋さん…?のよう、です…?)にこれ聞いてていいのかなとか、たった今の膠着状態を抜け出すための発言ももうちょっとへりくだって敬語っぽく言っとけばよかったとか、そういうことを思う気持ちはもうめちゃくちゃにあるのです。行動に伴うかはまた別の問題になってしまうんですけれど。
 私の一世一代の問いかけにも、奥の二人は微動だにしませんでした。恐ろしい、事象の地平線恐ろしすぎる、どこまでザ・ワールドしているつもりなのでしょう。心底ブルったそのとき、カーテンの元に立つ隻脚の彼のたくし上げた裾がストンと、その重力に負けて落ちました。形状記憶でもしているかのように、それは完璧に彼の義足の右脚を覆い隠します。そうしてやっと正常に流れ始めた時間に対応するように、隻脚の彼が表情を崩しました。笑顔。底抜けに明るい、ちょっと場違いなような笑顔は見る者に畏怖めいた不安をもたらします。そんな笑顔であくまで快活に、彼は言い放ったのでした。

「なんにもいけないことなんかないよ、話そうじゃないか。お嬢さん」

 マジか。
 と思ったのはどうやら私だけでは無かったようで、奥にいたスーパーロングの彼がガタンと物音を立てて立ち上がりました。隻脚の彼はどこ吹く風でこちらへ歩いてきます。彼が踏み出すたびに、その身体は左へ大きく傾ぎました。さっきは義足であることがわからないほど滑らかに歩いていたのに、どういうことでしょうか。彼は私の座っているソファと対のソファへ辿り着き、飛び込むように座ります。義足であるからそういう少々粗雑な動きになるのかと思いきや、金属の右脚を振り回すようにして組みその際机に踵をぶつけて結構な音がしても平然としている様子から彼元来の性質なのだなと思い直します。スーパーロングの彼が「オイゴラァ!!またぶつけただろが!!」と叫んだところからしても、やはりこの振る舞いは日常茶飯事のようです。
 怒声など聞こえもしないというように、隻脚の彼は正面で愛想良く微笑んでいます。陽光に気持ちよく照らされた笑顔は、とても柔和でイイ人そう。どちらかというとハンサムだし。けれど、そんな表情でありながら脚は組んでいるしふんぞり返ってソファに埋もれるようているし、つまり彼という存在全体から何とも言えない威圧感が放射されているしで、そのちぐはぐさが私の中の小市民的警戒心をぷるぷると奮い立たせるのでした。

「こんにちはお嬢さん、こうしてここに入ってきたからには君が用事があるのはそこの渕屋なのかもしれないが、まあその前に少し僕の相手をしてくれ、構わないだろうそのくらい。さてさてさてどこから聞いてたかな?僕のこの脚を直してほしいってあたりなら最初からということになるけども?それともこの右脚を作ったのがそこの渕屋だってあたりかな?それとも僕の右脚の行方がわからないとか、我々には時間がないとか、それで困ってるとか、打開策を探してるとかそのあたり−−」
「オイ!!」

 なんとも流暢に朗らかに、決してまくし立てているという感じではないのに聴衆に相槌すら打たせる隙の無い隻脚の彼の演説を、スーパーロングの彼(どうやら「渕屋」というお名前のようです)がにべもなく遮断しました。だからといって隻脚の彼が言葉を切ったのは意外でしたが。この数分にも満たない対峙でわかるほど、彼は「僕、人の言うことなんか聞かないもん」というポリシーをひしひしと染み出させているのです。スーパーロングの彼改め渕屋氏が長い脚を振り回すようにしてこちらへ歩いてきます。最初からずっと険しいままの顔には、一抹の動揺が混ざっていました。

「どういうつもりだ、なんの話をするつもりなんだ?どう見たって一般人に…」
「一般人?一般人かどうかはこれから聞くところだよ、名刺交換でもするかお嬢さん、僕の名刺をあげよう大事にするんだぞ」
「アンタ頭おかしいんじゃねえの!」

「頭おかしいのはテメエだろ」

 ずっとおし黙っていた巨躯の彼が初めて声を上げました。恐ろしい感情がひたすら押しとどめられ押しとどめられ圧縮され、結果ブラックホールのようにより恐ろしい引力を発しているような低い低い声。巨躯の彼は振り返って渕屋氏を見ています。睨んでいます。鋭い眼光が刺し射抜いています。竦み上がるような目の色にも、淵屋氏は全く堪えていないようでした。それどころか唇をうっすら歪めたその顔には、かすかに、けれど確かに軽蔑の色がありました。
 私について話されながらも、私抜きでめまぐるしく三人の言葉と感情が動いていました。私はくたくたの地図を頼りにここへ来て、私は解決したい問題を抱えていて、それはここへ来れば解決するかもしれないと言われて、それに近似することなら藁にもすがる思いでなんだって知りたくて、その噂がホントなら、その噂が本当に本当なら、私は、この隻脚の男の人に話を聞かなくてはならないのです。その右脚を貴方はどうやって、なんのために失って、それにはどんな意味があったのかという、きっとこの男の人の核心に土足で踏み込むようなことを。

「頭を使いもしないヤツになに言われたって響かねえけど?」

 なんということでしょう暴言です。せせら笑っているところがまたポイント高です。挑発された巨躯の彼はいよいよ身体ごと向き直ります。

「俺だって響かねえよおたくが何言おうとな。なあ、どういう神経してたらそんな良識こいた薄ら寒い台詞が吐けるんだテメエ、本気で頭おかしいんじゃねえのか?自分がその手で何やってんのか忘れたかよ。それに、俺たちが誰とどう関わろうがおたくには関係ない。関係あるのは死体が出たときだけ。そうだろうが?」
「千ヶ谷、物騒なこと言うなよこちらが怯えるだろう。どうもごめんなさいねお嬢さん死体なんて、ははっ、ジョークジョーク、比喩ですよ、こっちの話」

 マジか?
 比喩だとしていったいなにの?こっちの話ってつまりそっちの話なのでは?なんてそんなことを気にしてもしょうがないしむしろ気にしないことが推奨されることは私だって数年大人やってますからわかります。差し出された名刺を玉虫色の態度で丁重に拒否し(そういう職業に限らずどんな職業の方でもご懇意になりすぎるのは私の職業上の理由で一発アウトです)、私もそろそろ自分本位に話を戻すことにします。

「あの、私は貴方に聞きたいことがあって」
「僕?」
「ええ」
「僕だって!」

 隻脚の彼−−引っ込められる前に見た名刺によると見島氏は、なぜか自慢げ得意満面に二人を振り返りました。もちろんそんな和気藹々とした雰囲気では微塵もない二人はこれといった反応を示しません。殺伐荒涼としています。どうやらめげない強い男である見島氏は、底抜けの笑顔のまま私に向き直りました。

「貴方のその右脚の真実を知りたいのですけど」

 ものを頼むときは簡潔で単刀直入なほうが良いだろうと思いました。渕屋氏が心底めんどくさそうなうめき声をだし、その肩を千ヶ谷氏がすかさず押しとどめるのが見えました。見島氏は相変わらずの笑顔で私を見ています。

 どんな返答をされるものか考えました。

 まず、私たちは初対面です。私が彼の存在を知ったのはついさっきのことで、それはまた逆も然りのはずです。そもそも私の本来の目的はこの店自体だったはずで、しかしその理由も自分ですら入手経路を思い出せないくたくたの古い地図で明確な確信もないっていう…なんとも説得力がないというか、怪しさしかないというか、自分でもこんな女の言うこと一笑に賦すしかないと思うのですが。でも私が今いちばん知りたいのはその右脚の真実なのです。もしも噂が本当なら…自分で切り落とした脚に魂を閉じこめて隠しているなんて、そんな荒唐無稽な噂が真実なら。この世界が、そんなことが起こり得る場所なのだとしたら。そうです。

 私は、どの程度の出来事までが荒唐無稽で、どの程度の出来事までならこの世界で起こり得るのか、それを知りたいのです。
 そして私の抱える問題も当然のように解決しうるものなのか、解決策はあるのか、知りたいのです。
 どうしても。

 とはいえ一笑に賦されても仕方のない問いでした。お前なんかに答える義理はないと一蹴されても当然の問いでした。見島氏は底抜けに朗らかな、そしてそれゆえにぞっとするような笑顔で私を見ていました。

「なんだなんだ僕を知ってるのか。困っちゃうな、有名人だよ僕ってば。この右脚の真実?一体全体どこでどんな話を聞いて真に受けてるものか知らないけども、この右脚で落とし前をつけたときの話かな?それともこの右脚が無惨にも野犬に喰われたときの話?」
「その右脚に魂を閉じこめて隠しているとかいう話です」
「驚いた!!それは僕が流したヤツじゃないぞ!」

 思わず息をのんで身を引いた私とは裏腹に、見島氏はぐっと身を乗り出しました。

「なーんてね」

 ほんの一瞬笑みを引っ込めた見島氏の顔は、千ヶ谷氏が憎悪を込めて渕屋氏を睨むそれよりも恐ろしいものでした。弱いものを容赦なく嬲りものにし、強いものはそういう風に扱える場所にまで容赦なく引きずり落とす術を知っているし、実行することもできる、そういう目でした。そして次の瞬間声を上げて笑う彼は心底楽しそうにもうわべだけのようにも見え、つかみ所がありません。きっと恐ろしい人なのです。でも、私にとって恐ろしいものなど今更増えたところで本当に今更なのです。こう見えても切羽詰まっているのです。

「さてさてさてお嬢さん、ご覧のとおり僕には右脚が無い。嘆かわしいことにね、行方知れずなんだ。もう五年ばかりはね」

 彼は笑い、拳で自らの右脚を叩きます。コツコツ、という硬質の音が言うまでもなくそれが義足であることを示しています。「そうだ!切断面を見るかい?」というご厚意は丁重にお断りさせていただきました。「綺麗に縫ってあるよ、大丈夫、グロくないよ」と食い下がられますがそういう問題ではない。
 それにしても引っかかる言い方です。右脚が行方知れず。よくわからないけれど、例えば事故や病で脚を失うことになったなら、いずれにせよ然るべき処置を受けているはずで、行方知れずだなんて言い方をするでしょうか。切り落とすほか無いと判断されて切り落とした脚の行方を、五年も、気にするものでしょうか。どこかに保管されていたとしても、常識的に考えてもうそれは…。先ほどまだこの部屋がカーテンで仕切られていたときに聞こえた言葉「五年も僕のことをほったらかしにする脚」。まるで切り落とされた右脚がまだどこかで生きていて、あまつさえ意志すら持っているとでもいうような…。

「貴女は真実が知りたいと簡単に言うけれど、真実なんてものはこの世のすべての人が喉から手が出るほど欲しがっているものなんだ。責めているわけじゃあない、それは人間なら当然の欲求だ、義務だ、その心が無ければ人類は未だ太古の渦中にいるだろう。僕たちが今こうしてスーツなんか着てこんなステキな部屋でお喋りができるのも先人たちが真実を追い求めたその恩恵の副産物だ。彼らが血反吐を吐いて真実を掴み取ったね。そうだよ、真実ってものは思いの外価値のあるものなんだよなあ、ホイホイとタダで渡したりしちゃあ真実に失礼だってくらいにはね。でも、貴女が欲しいのはこのちっぽけな僕のこんな右脚の真実だ、人類規模の真実に比べたら大したことなんかない、ちんけなものだ、だからまあ、この僕のちんけなお願いと物々交換と行こうじゃないか。簡単だよ、この僕の右脚の在処を突き止めてくれたら、そのときはこの右脚の真実をお話ししよう」

 それはほとんどその「真実」を自分で突き止めろと言っているようなものではないでしょうか。言外に断られたのかと思いましたが、どうも彼は本気なようです。スーツの内ポケットをまさぐりながら、なおも話は続きます。

「とはいえさすがにそれだけじゃな、見つかるわけがないと貴女が判断してあきらめてしまうかもしれない。だから三つの条件のうちどれかひとつでも成し遂げてくれたら真実を差し上げることにしよう。今のが一つ目。脚捜しよりも人捜しのほうがお好みなら二つ目だ。この男をご存じかな?ご存じならどうか連れてきて欲しい。ご存じないならどうか捜し出して連れてきて欲しい。お嬢さんの本当に知りたいことも僕よりこの男のほうが知っているかもしれないし」

 見島氏が私に差し出したのは、一枚の写真でした。一人の男性がフォーカスされています。カメラから情け容赦なく外れた視線だとか、カメラの存在自体をまったく意識していない佇まいだとか、雑踏というほかない背景だとか、解像度の隠しきれない荒さだとか、これはどう見ても盗撮…まあみなまで言うなということですよね、カメラに向かってにっこりしてくれるような間柄であるならわざわざ猫の手以下である私に頼んでまで捜し出す必要もないわけですしね。画像解像度は鮮明とは言い難いものでしたが、人の顔を見定めるには十分なものです。映っている彼は残念ながら私の友人知人ではありませんでしたが、それにしてもどこかで見たような…まあどこにでもいそうな雰囲気と言ってしまえばそれまでなのですけど。

「それで三つ目だけど…まあ、これは先の二つが成し遂げられなかったときでいいだろう。きっとね、三つ目はお嬢さんには荷が重い。先の二つよりも成し遂げるのは難しい。そんなものを最初から聞かせるのは忍びないさすがの僕だって胸が痛む…ねえ?まあでも意地悪だと思わないで、先の二つがどちらも成し遂げられなかったら否が応にも知ることになる、成し遂げてもらうことになる…そのときのお楽しみで構わないだろう?」
「わかりました」

 もしかして脅されているのかも知れませんでした。「やっぱり今までの全部無し!いちぬーけた!じゃ!」とでも捨て台詞を残し華麗にダッシュするべき展開なのかもしれません。この隻脚の男の人は、今まさに、気まぐれに、飛んで火にいる夏の虫の私の目の前に茨の道を敷いているのかもしれません。踵を返す最後のチャンスなのかも知れません。しかし私は今、全力で茨道につっこみました。受け取った写真を手帳に挟んで鞄にしまいました。返せと言われる前に。見島氏はやはり、終始笑顔で私を見ていました。最初はあれほど私たちの会話を阻止しようとしていた渕屋氏も最早手遅れと判断したのか(あるいは救いようがないと判断したのか)もう何も言いませんでした。

「突然お邪魔して、私の為にお時間をさいて下さってありがとうございました」
「なんのその」

 立ち上がる私に見島氏はひらひらと手を振りました。そして底抜けに明るい無邪気そのものの笑顔で「がんばって」と付け加えたのでした。




「ということがありました」

 淀みなく話し続けながらもプレートランチを完食した後輩は、ほっとひといき、とでも言うかのごとくアイスコーヒーに手を伸ばした。その水かさがきっかり1センチ減るまで黙って見守る。彼女がグラスを置くのを見計らって煙草の火をもみ消すと、俺は背もたれから身を起こし、拳の最も柔らかい部分(親指の付け根)で彼女の額を小突いた。

「信じられない…パワハラもセクハラもモラハラも飛び越えて暴力だなんて…ただでさえそういうことに敏感なこの世の中でましてや平池さん、公務員ですよ?形だけでもコンプライアンスを遵守しなければやんややんやここぞとばかりに叩かれるというのに…おお人事おお人事」
「信じられないはこっちの台詞だ…!」

 大声を出さないよう奥歯を食いしばって発声したら地獄の底で唸っているような声になってしまった。それでも目の前の後輩、弓削さゆりはなんにも響いていないような平素の無表情でどこ吹く風である。そりゃそうである。話を聞いていれば先の日曜日、彼女はどう聞いてもヤクザまがいの邸宅に単身乗り込みどう聞いてもヤクザと対峙するどころかえげつない取引まで交わしてきているのである。堅実薄給の冴えない先輩の言葉なぞおそるるに足らずと言ったところだろう。堅実薄給なのは彼女とて同じだが。というかヤクザと取引した女にコンプライアンスがどうとか言われたくないわ。
 時は昼飯時、いわゆるブルーマンデーである。ブルーマンデーでも最もブルーな時間帯であると思われる始業直前、「聞いて欲しい話がある」というので昼休憩を待って昼飯がてら連れ出したのだった。場所は奇しくも以前呉の野郎とランチタイムとしゃれ込むこととなった喫茶店である。相も変わらず閑古鳥がピヨピヨしていたが、弓削の話の内容的に人の多い庁舎の食堂なんかで話させなくて本当に良かったと思う。この女はそんなことを気にも留めずに話すだろうし。

「なにを怒っているんです?ご心配なく金銭のやり取りだとか豪華すぎるお歳暮お中元のやり取りなんかはまだ発生していません」
「そんなもんどうでもいいわ。そうじゃない、そうじゃなくてお前、本当に…どうしてそういうことを誰にも相談なく…」
「今相談してるわ」
「事後報告だろが…!」
「ヤクザさんのところにすすんで行ったわけではなくて、行った先がたまたまヤクザさんのところだったんです。どうしようもないわ」

 それにしても危機感が足りなくないか。最後のほうなど自分でも自分から茨道につっこんでると認めているではないか。逃げろよ。どんなに優しい取引だろうがヤクザと取引なんてするものではない。相手がヤクザとわかっているぶんなおさらではないか。むこうから「多少のあくどいことはやります」って看板をぶら下げて来てくれてるんだぞ、避けろよ、むしろ避けるのが礼儀なくらいだろうが。逃げろよ、危機感を持ってくれよ、危ないだろうが、何かあったらどうするんだ…。
 言いたいことはつぶさに浮き上がり、多すぎて喉の奥で大渋滞を起こしている。こういうときに言うべき一言を咄嗟に抽出し言ってやれないからだろうか。ふとそんな自虐気味な考えが浮かび上がって、俺の喉は余計年末帰省ラッシュのごとき渋滞の体を様する。そもそも彼女がこんな突飛な行動に出た理由だ。話にも出てきたとおり、彼女は何か解決したい問題を抱えているという。それはよほど大きな問題で、彼女の核心に根ざしているものなのだという気配はこの何年かの付き合いの中でひしひしと感じ取れる。しかしそれがいったいどういう問題なのか、彼女の口から聞いたことはない。

 俺に相談できないことなのか。俺は相談できない男なのか。

 自虐を通り越して最早自分本位なそれを突き詰める前に打ち払った。弓削と俺との雲行きが怪しくなるとき、そんなときはいつも、そういうものが根底にある気がする。

「だって平池さん、信じられます?」
「なにがだ」
「自分の脚を切り落として、その脚に魂を移しておくだなんて。そもそも魂ってなに?ってなりません?」

 思わずおし黙ってしまった。なぜなら俺はつい先日魂のみで夜の街を徘徊し、魂がない男を知っていて、魂ってなに?という疑問の答えもおぼろげながら知っているからだった。知っていることをかき集めて総合してみると「ありえるんじゃないか?」という結論になってしまう。というか、呉がそうなんじゃないのか、というアハ体験まで得てしまった。俺が無事に身体を取り戻した夜明け、呉は言っていた。「身体の中に魂がないだけで本当に魂が無いわけじゃない、ちょっと別のところに置いているだけで」と。見たところ呉は五体満足だが、魂は大気に弱くて揮発するとか言っていたし、魂を保護しておく器に自らの脚を選ぶというのはなんともヤクザらしい発想とも考えられるし…とそこまで考えて思い至る。なんでそんなことをしなくてはならないのか。わざわざ魂を自分の身体の外に置いておくことになんのメリットがあるのか。魂が身体の中に無い呉は、人を殴ってもいささかのダメージも与えられず、見ているぶんには水分すら摂取しない…後者はともかく、前者はヤクザとしては致命的なのではないか?いや最近のヤクザはそこまで武闘派でもないと聞くけど。確か呉は魂は時間を消化する臓器だと言っていて、それがどういうことなのか肝心なところは弓削の登場で聞きそびれて…というか、魂が身体にないのにどうして呉はああも普通に行動できるのか。俺が幽体離脱したときは終始意識は魂のほうにあって、身体のほうは死体同然…いや、それは俺の魂のほうがおかしいとか言われたんだったか?あれ?
 やにわに考え込みだした俺をどう捉えたのか、弓削は鞄をごそごそやり始めた。そうして取り出したのは手帳である。

「とりあえず過去五年間で妙齢の男性が右脚を切断する事故等なかったか調べることにします。でもあちらさんの職業柄このアプローチはちょっと望み薄なんで、平行して人捜しのほうも…」
「しなくていいだろが。やめろ。ぜんぶやめろ。その男に関わるのをやめろ」
「手始めに平池さんに協力していただこうかと」
「頼むから話を聞いてくれない?俺の頼みを聞いてくれない?」
「平池さんしか頼れる人がいなくて」
「あざとい」
「あざといと思っても口に出さずに可愛いなあって言うのがセオリーなのでは?というか本当に平池さんくらいしかこんなこと話せる人いないんですもの、残念ながら」

 本当に残念なことを言いながら弓削は俺に一枚の写真を差し出す。受け取るものか、と睨むもやはりそんなものこの女には効きゃしないのだ。そもそもやめろと言ったところで今更やめられるものなのかも怪しい。頑として受け取らないでいると、弓削はテーブルに写真を置いて俺のほうへ滑らせる。ここまでされて見ないのも大人げないかと、しかし良いように受け取られては困るので視線だけ写真に落とした。

「その男の人、ご存じないですか?どこかで会ったことがあるような…気がするんですけど」

 そしてどう見ても隠し撮りの写真に映るニヤケ面を見て、俺は弓削の記憶力の無さに感謝した。同時に、俺がこの男の連絡先まで(無理矢理交換させられて)知っていると答えたら弓削はどうするつもりなのか考えてしまう。お前、コイツと他でもないここで会ってるだろうが、という言葉はとりあえずしまい込む。どう答えるのが最も無難でことなかれな結果を運んでくるのか。
 ピンぼけの写真の中で、明後日の方向へ例の癇にさわるニヤケ面をしているのは、紛れもなく呉だった。
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