2-13:トカゲの尻尾、あるいは事象の地平線から手を振る男
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 灰色の病室の中の空気は凍りついていると言っても過言ではありませんでした。時間が止まっていると言っても。少なくとも私を含め四人は完全に意表を突かれ、つかの間静止していました。見かけ上の時間が止まる事象の地平線。その地平線の上で、ベッドで昏睡し続ける彼だけが忙しなく繰り返しの呼吸でシーツを波打たせ、たった今闖入してきた彼に至ってはスキップでも始めるのではないかというほどの軽快さでずかずかと私や見島氏すら追い越してベッドの脇まで歩んでいました。ややあって渕屋氏の顔に表情が芽生えます。苦虫を数匹まとめて噛み潰したような顔でした。

「…呉」
「…お父さんに内緒で悪ぅーい友達と付き合ってんのだあーれだ、渕屋くーん?」
「誰がお父さんだ、お前が親とか想像しただけでゲロ出る、クソッタレ」
「あ〜悪い友達と付き合うから口が悪くなるんだ〜。まあ元からだけど。とにかく悪い友達と付き合うなんて許しませんからね!そうだ、罰として父さんが門限を決めよう」
「言ってろハゲ!!」
「は…っ!?げてはないでしょーが、ちょっと!」

 よく言ってもチャラついた風貌、最早それがニュートラルであるかのように自然なにやにや笑い、息するように相手の神経を逆撫でし煽る言動。満身創痍のはずの渕屋氏ははち切れんばかりに青筋を立て、そのすぐそばの傷口からピッピッと血が噴き出します。ああ、ああ、身体に障ってしまう。
 渕屋氏の捨て身の発奮で、良くも悪くも室内の空気は氷解し止まっていたときは再び動き始めました。見島氏はゆっくり振り返り、恐れもなく千ヶ谷氏のすぐそばに立つ呉氏の全身を矯めつ眇めつし、まだかすかに驚愕の残る声を上げました。

「…驚いた。“トカゲの尻尾”が自らお出ましとは」
「え?なに?トカゲ?」
「こっちの話だ、気にすることはないよ」

 とは言われたものの、呉氏は自らの顔を撫で回し「え?俺って爬虫類顔なの?そんなことないと思ってたんだけど?」と憂慮しているのが丸わかりの顔をしています。もうこの際、いわくボコボコにされた“友達”とボコボコにした張本人たちを前にしているとは到底思えない彼の緊張感のかけらもない態度は気にしないことにしますね。
 問題は呉氏と見島氏が今、コンタクトを果たしていることです。見島氏の捜し人。恐らく“本命の”得難い情報。さっき見島氏がまくし立てていたことが本当なら、私にとっても得難い一縷の光。
 『どの程度のことまでならこの世に当たり前に起こり得て、解決し得るのか』
 その上限を大幅に引き上げる、奇想天外な存在。

「はじめまして、では恐らく無いんだろうが。君は十中八九僕のことを知っているし、僕は君のことを知っている」
「だよね。だってお兄さん、俺のこと捜してたんでしょ?会えて嬉しい?」
「嬉しいとも。君次第では狂喜乱舞することも可能だ」

 狂喜乱舞する見島氏、想像できるようなできないような。
 呉氏は道中で「友達を助けに行くんだよ」と言っていました。けれど彼がどのようにしてこの状況を打開し目的を遂げるつもりなのか、見当もつきません。それは皆が同じようでした。彼がどういうつもりでここに居て、どうするつもりなのか。理解しているものはこの場には一人もいないと分かります。渕屋氏に至っては苦虫まとめ食いの表情から戻ってきません。「これ以上呉に喋って欲しく無い」という意思すら、ひしひしと感じ取れました。

「で?」

 見島氏が状況の展開を待ち切れないというように口を開きます。語尾にはほんの残滓ですが、急くようなものがあります。

「君はどういうつもりでここへ来た?まさかその身一つで僕らからお友達の渕屋くんを救出しにか?いやいやもちろん僕のやりたいように君にやらせることは簡単なんだが、フェアじゃないだろう?君の腹づもりも聞いておこうじゃないか」
「『で?』はこっちのセリフだよお兄さん」

 歌うように柔らかな声音でも、やはり呉氏の言葉には相手の節々を煽り立てるような響きがあり、それで千ヶ谷氏が自らの照準を渕屋氏から呉氏に合わせ直す気配を感じました。到底それを迎え撃つだけの力が彼にあるとは思えません。どう見ても丸腰だし、筋骨隆々といった感じでもないし。
 それなのに呉氏はまるで意に介さず、まあ気づいてないだけの可能性もありますけど、堂々と背を向けてベッドで昏睡する男に視線を落とします。身体中をギプスで固定かれ、痛々しい様相で昏睡、明らかに異様とわかる、傷付いたCD−ROMがほんの一部分の再生を繰り返すような、そんな異様な繰り返しの呼吸で昏睡している彼は、一体何者なんでしょう。いわく“魂”が無いとか。見島氏が、呉氏が、そして図書館で出会った“神様”が当然のように発する“魂”という単語。それは一般にまことしやかに囁かれる幻想の類いとは違う響きを持っているように思えます。
 私にはそれがなんなのか、確かにわかっていたときがあったはずだとも。

「俺は“人助け”が好き」

 日曜学校の先生が聞けば泣いて喜びそうなセリフを、なんの嘘くささもなく呉氏は吐きました。嘘くささがないというだけで、清廉潔白かと言えばどうだか。表情は相変わらずにやにやしていましたし、ちらりと見島氏を見やった目にはかすかに、確かに、狂気じみたものの片鱗がちらりと垣間見えました。…いえ、気のせいかもしれないけれど。

「良いことをするのが好き。困っている人を助けるのが大大大好き。良いことすると〜生きてるって感じがするよね〜?でもヒッキーも言ってんじゃん、誰かの願いが叶うころあの子が泣いてるよ〜ってさ。だからちゃんと考えなきゃ、選んでもらわなきゃ。俺は誰の味方になるのか。誰の困りごとだったら俺なんかでも助けになってあげられるのか」

 …ヒッキーって呼び方久々に聞いたな。このご時世だと自宅警備隊の方々のほうを想像してしまいますよねどうしても。
 そのとき千ヶ谷氏が動きました。歩くだけで途方もない威圧感を撒き散らしながら呉氏の眼前へ。巨躯の彼に至近距離に立たれ、呉氏は心持ち見上げ気味になります。思わず危ない、と思いました。喉が無防備に、非友好的な意思を無言でも発する千ヶ谷氏の前に晒されていました。

「御託はいい。さっさと正体を示せ。どういう状況かわからないわけじゃないだろ。無傷のままここに居られる理由を示せ。でないとそこの渕屋よりは酷い目に合う」
「うわっ、これ脅し?タダで帰れると思うなよ?ってヤツ?すっごい言ってみたいそのセリフ、死ぬまでに」

 …私ですらイラッとしますよ今の。案の定千ヶ谷氏は自らのスラックスの裾を吊るし上げ、取り出した何かを速やかに呉氏の額に突きつけました。…即死武器、即死武器じゃないですかおチャカじゃないですか、やっぱり持ってるんじゃないですか、爽やかなほどに銃刀法違反です、どうするんですかこれ。

「軽口ももういい。早く言え」
「やだーめっちゃ脅されてるんですけどー」

 どうしてこんなに危機感ないんですこの人絶対あれ、おチャカ、ホンモノですよ、という私の絶対おせっかい過ぎではない焦りは呉氏の次の行動でマックス恐慌の域に達します。
 呉氏は自らの額に突きつけられた銃を持つ千ヶ谷氏の手に無造作に自分の手を重ね、トリガーに添えられているだけだけだったその指を無理やり突っ込ませいつでも引ける状態にしたのです。

「いいよ、撃ってみなよ」

 信じられませんこの人バカなんじゃないでしょうか?恐慌に達した焦りは苛立ちに擬態します。さすがの千ヶ谷氏もわずかな驚きを見せました。渕屋氏が身を起こし、乗り出し気味になりました。

「やってみてって、ホラ」
「…虚勢か」
「痛いのはヤダけど〜。撃てばきっとアンタは納得できるよ。ホラ、撃って」
「呉、やめろ」
「撃ちなってホラ、結構怖いんだから焦らさないで」
「…それともイかれてるのか」
「はやく!」
「呉、やめろ!!」
「も〜…。3、2、1、ズドン!!」

 それこそ凶行でした。千ヶ谷氏の指をに絡む呉氏の指が白み、無理やりトリガーを引かせた。その理解が半ばのうちに銃声が響いて、銃口がピタリとくっついたままの額の反対側、呉氏の後頭部から何かが飛び散って、という新しい理解に襲われ、私は反射的に口を抑え速やかに床へと視線を落としました。そのまま現実を阻むよう目を閉じかけて、ふと思いとどまります。

 何かを見逃すと思ったから。
 私が見逃してはならない何かを見逃してしまうと思ったから。

 精神衛生を守ろうとする身体の動きにぎしぎし抵抗し、私は顔を上げました。頭のど真ん中を銃弾に貫かれた呉氏が、瞳から光を失いながら後方へ倒れていきます。飛び散る血とそれ以外のもの。すべてがスローモーションでくっきりと見えました。だから確かにそれは起こった出来事なのです。ここで起こった変化なのです。それなのに。

 連続する意識の次のセンテンス、呉氏はへらりと立っていました。

 額に傷など無く。後頭部に撃ち抜かれた穴など無く。けれど彼の背後の固い壁にめり込む銃弾が、確かに発砲はあったのだという事実を主張しています。千ヶ谷氏の銃を握るその手に、トリガーに掛かるその指に絡みついたままの呉氏の手も。

 彼はなんの変化も無く立っていました。
 何も起こらなかったかのように。

「…ね?」

 何も変わらないにやにやした顔で、呉氏はたしなめるように囁きました。圧倒的な脅威をいなした達成感も相手をやり込めたしてやったり感もそこにはなく、ただ単に事実を確認しあおうという声音でした。千ヶ谷氏は黙って銃を降ろします。鋼鉄の表情の下で、なんとか事実を飲み込もうと努力しているのが見てとれます。そんなの私だって同じです。誰だってそうでしょうこんなもん見せられたら。苦虫で中毒死寸前といった様相で、呆れたように視線を外した渕屋氏はこの結果は織り込み済みだったようですが。

「素晴らしい!ハラショーだブラボーだ!」

 そしてただ一人、歓喜している人がいました。千ヶ谷氏の、そして呉氏の凶行にも不気味な沈黙を保っていた見島氏が手を打ち歓喜していました。芝居掛かった振る舞いでも、それが動揺を押し隠すための演技ではないことだけはわかります。リアクションがわざとらしいほどオーバーなのは彼の性質のようですし。むしろ彼はこうなることをある程度予測していて、ただ見てみたかった。部下がこの闖入してきた男を撃ち、どうなるものかただ見たかった。その結果がどうであろうとも。不気味な沈黙のそんな理由に思い至って、ゾッとしました。

「それで?そんなことになるのは、もちろん“魂”がその身体の中に無いからなんだろうな」
「そのとおりだよお兄さん、詳しいね〜」

 呉氏は額を摩りつつ答えます。痛みは残っているのでしょうか?そんなまさか。撃たれた事実を残酷に認識する脳が、そんな気に陥らせることはあるでしょうけど。

「俺の身体の中には魂はない。空っぽなんだよ。このベッドのお兄さんと同じくね。別の場所にある。それで俺の身体は時間を消化できない。あらゆる変化は受け付けられず名状しがたき認識の狭間で“無かったこと”になる。だからぶっちゃけ不死身だし、歳も取らない。魂が戻らない限り永遠にこのまま。それはこのベッドのお兄さんも一緒。でもまあ時間に対応できない・変化しないってことはつまり、フツーはこうなるってこと」

 なんだか今衝撃の事実がずいぶんあっけらかんと明かされた気がしますけど。呉氏がベッドで昏睡する彼を指します。まるで映像記録のほんのワンセンテンスだけを切り取られたかのように、死の寸前の呼吸を繰り返し繰り返ししている彼を。時間が流れていない。消化できない。変化できない。それは当たり前に時間が一方向へ流れる私たちの目に、度し難いほど異様な光景に映ります。

「ところがどっこい俺はこんななわけ。魂ある普通の人間と同じように行動できる。…できないことも結構あるけど、まあぷー太郎でいるぶんには全然そこらのぷー太郎と遜色ないよ。今こうして会話もできる、歩き回れる、恋だってできちゃうよ☆まあモテればの話だけど。そこは本人のポテンシャルですよ」

 遜色あるぷー太郎とは?とかもしかしておモテにならないので?とか思わずツッコミたいところは多々ありますが耐えます。空気読みます。もちろんこの場でいちばん空気を読めてないのは「☆」を完璧に発音する他ならぬ呉氏です。
 つまり、と呉氏は続けます。

「こういう方法もあるよ?ってわけ。で?お兄さんはどうしたいわけ?この人を…死なせたくないの?それとも元気に生き返らせたいわけ?」

 見島氏の表情に目立った変化はありません。けれどその貼り付けたような薄ら笑いの奥で、彼が昏く色めき立っているのがわかりました。瞳に長く患った執着の気配がありました。

 この人は一体なにに妄執しているのだろう。

 先ほど電話越しに会話したときに、私は確かにこの人の妄執の一端に触れたのです。それはどこにでもある恵まれない子供の話の形をしていました。恵まれない、というのは主観でしかありません。それを言えば両親無く育った私の子供時代だって世間一般的には恵まれないの範疇に入るでしょうけども、祖母に散々甘やかされてきたもので自分では恵まれなかったという認識はないですし、愛の形・幸せの形は人それぞれですからね、他人がやんやと言えるものではないですからね。それを踏まえても「なにに」という疑問が芽生えて消えないのです。けれど妄執などそんなものかもしれません。彼の妄執も、私の妄執しているものも、そこのあなたの妄執しているものも、他人が捜そうとすればするだけ目に映らなくなるものかもしれないですし。となると自分のものでもない妄執の片棒を担ぐ人って、相当なもの好きさんですね。空を掴むようなもの。水に落とされたインクを集めるようなもの。謂れのない底なし沼に落ちていくようなもの。
 千ヶ谷氏は誰からも顔を背けているので表情など伺えません。渕屋氏は今、どこか値踏みするような目でまっすぐ千ヶ谷氏を見ていました。その渕屋氏が口を開きます。視線はそのまま、口だけ呉氏へ向かって。

「呉。もう一度だけ言う。やめろ。今すぐ黙れ。それ以上喋るな。帰れ」
「やだやだお父さんが一緒じゃなきゃ帰んな〜い。…お前が無事に帰してもらえるように俺今頑張ってんじゃん。渕屋くんが死んじゃったら泣いちゃうよ俺、咽び泣くよマジで」

 それはそんなににやにやしながら言うべきセリフなのでしょうか。痛烈に嫌味でも返すかと思われた渕屋氏はしかし、何も言いませんでした。ただ見透かすように、千ヶ谷氏を見つめ続けていました。
 一方で見島氏はまるで銃を持った相手を前にしているかのように、呉氏から目を離さずに歩き、再びベッドの脇へ跪きました。その手はベッドの下の暗い空間へ。棺桶とか位牌とか、ショットガンとか?なんだかそういう度肝を抜くようなものが出てくるのではないというような、あまりに物々しい手つき。そうしてベッドの下から引きずり出されたものは、一見なんの変哲もない留め金付きのケースでした。ちょうどホルンだとかテナーサックスだとか、そういう少し大ぶりの楽器を収めておくような取っ手付きの四角いケース。そうちょうど、成人男性の膝から下がすっぽり収まるような。

「その人の“魂”はそこに入ってる」

 まるで他人事のような口振り。そして彼は邪気のない笑顔を、まるで良い点の答案を生徒に返却する教師のような笑顔を私に向けます。

「お嬢さん、貴女の“正解”が入ってる。開けて矯めつ眇めつ確認してもらってもいいが、まあオススメはしない。何故なら切り落としたのはもう五年も前で、あらゆる防腐処理を施しても“時間切れ”寸前だからだ」

 …噂のひとつは半分は正解だったわけです。「自分の魂を切り落とした脚に閉じ込めファンタジーのラスボスよろしく隠している」という完全にふざけ半分の噂。実際に閉じ込められてるのは彼の魂ではなく、そのベッドで死に瀕し続けている人の魂。こういう見方ができます。見島氏が脚を切り落としてまで魂を隔離したおかげで彼は辛うじて死から逃れ続けている。でも、こういう見方もしっくりきます。見島氏のせいで、彼は死ねない。死は有史以来人間が克服したいと願い続けてきた生命の必然です。必然なのです。死までがワンセット。少なくともそれが、この世界で生命であるための必要条件です。

 これは檻なのです。
 この母なる宇宙の自然の理生命の必然“死”と“変化”から彼を遠ざけ監禁する檻。
 あるいはシェルター。
 この非情な宇宙の自然の理生命の必然“死”と“変化”から彼を守るシェルター。

「僕は彼が生きているだけでいい」

 どうしたい?の答え。表情も声音も言葉も完璧にコントロールされていて、推し量ることもできません。呉氏は相変わらずにやにやしたままこの言葉を聞いていました。どうしたって“良いこと”をしようとしている人の態度には見えないですね、どちらかと言うと悪魔とかそういうものの手先みたいですねこの態度、こうして魂が取り沙汰されているわけですし…一瞬書架に切り抜かれた西日の柔らかで鮮烈な色が脳裏をよぎりました。そこで書き取りの練習をしていた“悪神様”の、瞳の色も。

「悪いんだけど、意識もない意思の確認もできない人に勝手に俺と同じ方法を取るのは俺がヤダな〜だってそれはどう考えても“良いこと”じゃないもん。お節介、大きなお世話を通り越した、なにかな、そう要らないお世話?絶対そういうやつになっちゃうもんな〜」
「…要らないお世話?今更だ」
「代償の話をしてるんだよお兄さん。魂を身体の外に出しておくその代償の話を。アンタは要らないお世話を焼くだけでいいけど、焼かれたその人は自分で代償を払わなきゃなんないんだよ。今はお兄さんがその人の代わりに払ってるでしょ?その人の魂を隔離するために、お兄さん、代償を払ったでしょ?どんな代償を払った?それでしょ?その、たったの右脚一本ぽっち」

 くるくる回した人差し指でケースと義足の両方を指し示し、呉氏は暴言を吐きました。幸いなことに見島氏はまだ穏やかな表情をしていましたが、千ヶ谷氏は違いました。誰からも背けていた顔を呉氏に向け、その目元が神経質な痙攣を繰り返しています。ウサギくらいまでの大きさの生き物ならその視線だけで死んじゃいそうですね。こわいですね。千ヶ谷氏の背後でぐったりしつつまたも盛大に、あてつけのように鼻で笑う渕屋氏の折れない心もこわいですねハラハラしますね。

「さてここでクイズです。俺の“魂”はどこにあるでしょう?」

 この状況でクイズなんか出し始める呉氏の空気読めなさももちろんこわいですね。見島氏の表情はいつのまにか消えています。いい加減堪忍袋の緒が切れそうなのか、それとも全力でなにか考えているのか。

「“時間”ってこの世界のルールだよ。この世界のルールってつまりこの宇宙のルールだよ。この宇宙のルールって、つまり物理法則だよ。物理法則に従う“魂”の位置をずらして、ちょっと時間を消化できなくするだけなら、そりゃ右脚一本ぽっちの代償で済むかもね。ちょっとズルだけど、まだルールの範疇だ。でも俺のはルールを完全に無視してる。この宇宙の法則を無視して、ぶち破って、俺だけに適用されるルールを作ってもらってる。そんなとんでもない反則のとんでもない代償を、アンタが要らないお世話しちゃったらこの人の場合自分の意思じゃなく払わなきゃならなくなるでしょ。そんなのやだなぁ〜だってそんなの非人道的すぎるよね」
「…それを決めるのは君じゃない。参考までに教えてくれないか、その“とんでもない”代償を」

 呉氏はまだにやにやと笑っていました。しかしそのごく自然につり上がった唇が、わずかに震えていることに気がつきました。シーツに触れたままの指先も。それは恐怖の瘧に飲み込まれそうな人間の振る舞いでした。それでも表情だけは、なんの憂いもないかのような余裕たっぷりのにやけ顏なのです。

「俺の前に代償を支払おうとした人は、三晩保たずに自我を完全に失った。最期には発狂して自分に野良犬をけしかけて喰い殺させて、何も残らなかった。…代償は一生かけて払わなきゃならない。でも全部じゃないよ、半分だけでいい。眠ってるあいだだけ。と言っても俺の一生ってつまり、文字どおり永遠のことなんだけど。無限を2で割っても無限にしかならないよね」
「もう少し具体的に話せないか」
「具体的に?…そんなことさせられたら俺も野良犬をけしかけ始めるかもよ?」
「あまりに抽象的すぎる。それに現に、君はまだ正気を保ってる」
「まだなだけかもよ?アンタにはマトモに見えるってだけで、とっくに頭の中はグシャグシャかもよ?だいたいさあ、この宇宙の物理法則をとんでもなく破ったとんでもない代償だって言ってんのに、まだこの宇宙の物理法則の中にいるアンタが理解できると思ってんの?毎晩毎晩毎晩、アンタが話させようとするからだよ、アンタが思い出させるから、起きているあいだは忘れときたいのに、起きているあいだは、せめて起きているあいだは、起きているあいだはっ」
「呉ッ!!!黙れッッ!!!」

 渕屋氏の鋭い怒声に、呉氏の肩がビクつきました。まるで突然揺り起こされた人のように。うめき声未満のため息にわずかに色が乗った程度の声がその喉から漏れました。恐怖の瘧に飲まれ、擦り切れようとする人のような声。黄に近い褐色の瞳がつかの間煌めき、色を失います。何かを飲み込むようにぐっと上を向き、その渦巻く瞳で彼は虚空を見つめました。無表情。笑っていない彼の顔を、渕屋氏はベッドフレームに繋がれた髪の毛が張り詰めるほど乗り出して、固唾を飲んで見守っていました。けれど呉氏の顔から人の神経を逆撫でする笑みが消えたのはそのほんの一瞬だけで、黄色の瞳が昏く翳った一瞬のちにはもうへらりとしたにやけ顔を取り戻していました。まるで今のも「無かった」ことかのように。
 嫌な静寂でした。長く患われた妄執の影と、突如決壊しかけた狂気の残滓が蔓延る嫌な静寂でした。やがてその静寂を、より酷い妄執で押し破るように、見島氏が口を開きました。

「なら、僕がやろう」

 至極当然だと言う口ぶりで。この状況を最も迅速に展開させる選択肢を、ただそれだけの理由で無造作に掴み取るように。

「僕の魂を君と同じ方法で身体から出して、この人の魂は空になった僕の身体に入れればいい。入れられるんだろう?君が五年前、彼の魂をそうしたように。僕は君と同じになる。僕は僕のためにその恐ろしい代償とやらを払う。それなら君も納得だろう?煩わしいタイムリミットもなくなる。僕が死ぬまでは、彼は死なない。何も問題ない」

 理屈の上では確かになんの問題もないように思えます。すべてが都合よく収まりすぎてできすぎていると訝りたくなるほどです。渕屋氏が思いっきり眉をひそめて顎を引きました。ずっと、呉氏の頭を撃ち抜かされた時さえ鉄面皮を崩さなかった千ヶ谷氏が、悪夢の微睡みから目醒めようとする人のように俯き加減の頭をゆっくりと振りました。「なにを言ってる?」それは声にはならず、唇だけが辛うじてそう動きました。思わず零れ落ちたそれをぎりぎりで押し留めたのか、声にすることすらできなかったのかはわかりませんでしたが。
 事象の地平線へ向かって落ちていく人の眠るベッドのすぐ脇で、事象の地平線からこちら側へ手を振るような芸当をやってのける彼は相も変わらず笑っていました。なんの邪気もない笑みでした。人の不幸を笑ったり、人の幸せを妬んだりといった人間の生臭い感情とは、いっさい無縁の笑みでした。

「いいじゃん、やってみなよお兄さん」

 それすら挑発ではなく、強いて言うなら何事もやらぬよりやるほうがオススメとでも言うような寛容さが言外に含まれている穏やかな声音なのです。その理屈が許されるのは少なくともローリスクローリターンが見込まれる場合までです。ハイリスク(未知)リターンの場合はただの無謀というものです。

「だったらそんなところにいないで。はやくおちてきて。俺のとこまで」
「お望み通り」

 呪いのような言葉と呪詛のような返答がなされました。

「そんなことをする必要はない」

 そして、悪夢の微睡みから無理やり目覚めようとするかのような牽制も。

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 その男の綻びに気がつくような人間は、幸いなことにその男の生きる世界にはいなかった。気に留めるような、気にかけるような、というほうが正しい。本音と建前なら建前のほうがよほど重要な世界だ。それはどこの世界だってそうなのかもしれない。どんなに健全な世界だって、本音のほうが重要で尊重すべきだとそれこそ建前だけでも通してもらえるのは全てが曖昧で不確かな子供のうちだけかもしれない。建前を取り繕えなければ獣と変わりない。本能だけに従うのなら人間とは言えない。建前が重要な世界だ。特に。獣のように獰猛で、煌びやかで、精巧な張りぼてだけがこの世界のルールだ。
 トカゲ。カナヘビ。千切れた尻尾。
 五年前この渕屋という男と出会ったとき、どうしようもなく生意気で薄気味悪いクソガキだと思った。それは取るに足らない印象だった。同時に、不安の予感がした。惨めに心を手折る類いの不安の、ほんの僅かな予感がした。それは彼自身に感じたものではなかったのかもしれない。彼と、見島司が。精巧な張りぼて、建前が重要な世界でことも無くそれを使役し渡り歩く男の、その張りぼての底。奇妙な、得体の知れない綻びのその閃きに、この渕屋という男が作用する予感が。その作用に絡めとられる予感が。
 忠義心とかそんな殊勝なものじゃない。それこそ損得勘定だ。見島司の張りぼての一部であり続けるなら、この世界で優位に生きていける。犬のように、あの男に、この俺が、従うことに意味がある。
 張りぼては、張りぼてであることを知られてはならない。たとえそれが公然の秘密であっても。その底に綻びがあることを知られるなど以ての外。幸いなことにその男の奇妙な綻びを知る者はこの世界にはいなかった。俺以外には。その綻びに作用することなどあってはならない。俺以外は。
 だがもうそれも破れてしまった。
 この人は自ら張りぼてを破り、晒してしまった。
 ならもう少し破れかぶれになったって変わりないはずだ。

「この男を死なせずにおくのに、もうそこまでする価値はない。五年前なら価値はあった。この男が瞬きもできず、だが死んではいない、そういう状態にあることは確かに牽制力があった。でもそんな状態が五年も続けばもう意味はない。この男はもう社会的に死んでる。そうでなくとも五年前に死んでるはずだったんだ。貴方がそこまでする必要はない」
「…必要はある。それに僕には“そこまで”でもない程度の代償だ。むしろ撃たれても平気なようだし」
「貴方は見てないからそんなことが言える」

 悪夢を見たのだと思った。
 死に切らなかった錫原慶二をここへ運び込み、見島司がほんのひととき行方を眩ませそして脚を失ったあの日、そんなことも知らずに行方を眩ませた彼を探していたあの日、悪夢を見たのだと。
 あんなことをする必要はない。価値もない。なんの見返りもない。なぜそれがわからない。

「あんな姿になる必要はない」
「それを決めるのはお前じゃない。千ヶ谷、渕屋を手懐けてやってくれ。それとも僕の言うことは聞けないか?」
「そんなことは」
「ならやれ。“時間がない”と、これ以上僕に言わせるな」

 いたって穏やかな口調だったが、目は温度のない拒絶の色を宿していた。意見は聞きいれない、許さないという拒絶の色。そこはかとない狂気の色。ずっとこの人を見てきたつもりでいた。いかに有能か、いかに必要であるか、そしていかに綻んでいるか。狂気の瞳が最後のチャンスだと言っている。言外に、それ以上御託を抜かすつもりなら以降は自分ひとりでなんら問題はないと言っている。思い通りにならないなら排除すると。
 俺は床に座り込んだままの渕屋に向き直った。生乾きの血液と貼り付いた髪の毛で片目だけ中途半端にひしゃげてはいるが、彼は両目で俺を見ていた。嘲笑もなく。挑発もなく。ただ吟味するような目で。

 そんな目で見るな。殺意がぶり返しそうになる。あるいはそれでもいいのか。最悪の場合、それでもいいのか。
 だがそれはまだ、プランBなのだ。

 ホルダーから目当てのモノを取り出す。目敏く気づいた渕屋が口角を上げる。それは嘲笑でも挑発でもなかったが、堪えていたものがついに溢れ出したという感じではあった。一瞬その喉に突き立ててしまおうかと本気で心変わりしかけ、それから――。

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 一瞬なにが起こったのかさっぱりでした。
 辛うじて目の前の光景――床に蹲っていたはずの渕屋氏の身体が紙切れのようにぞんざいに宙を舞い、紙切れのようとは言え成人男性のリアルで残酷な重量を持ってして見島氏に直撃、そしてもんどり打って倒れる二人――を認識しても、理解はなかなか進まず、もちろん次の展開を予測するなんてことは不可能でした。えっと、渕屋氏の髪の毛はベッドフレームに繋がれていたはずでは…?疑問に忠実に視線を動かすと、件のベッドフレームの脇に仁王立ちしている千ヶ谷氏が目に入ります。その手にはドス。その語源は「脅す」が訛ったものだとか、あるいは実際に使用した際の音(※何に使用するかは各人想像されたし)からだとか、諸説あるあのVシネ的必須アイテム刃先も煌めくドスが。疑問解決の小さな閃きに任せまた視線を落とすと、ベッドフレームには渕屋氏の頭髪だったものが数十センチほどだらりと巻きついたままでした。結構クる絵面ですよ、精神的に。頭髪の色が幾分色素の薄いアッシュ系だからまだいいもの、もしもこれが緑の黒髪だったりしたら病院というシチュエーションもあいまって完全にホラー映画です。
 煌めくドスで髪を切り裂き渕屋氏を解放した千ヶ谷氏が、そのまま見島氏目掛けて渕屋氏を突き飛ばした。なんのために?因縁浅からぬ(とお見受けする)お二人ですから、腹いせに投げたところ手元が狂ったなどというところ?もちろんそんなわけではないことは、千ヶ谷氏がもんどり打つ二人に目もくれず床に置かれたケースの取っ手を引っ掴んだことで重々承知できました。

 反逆です。
 主人の不本意な決定に対する忠義者の反逆です。
 いわく魂の入っているそのケースを持ち去って、なにもかも手遅れにしてしまえば、見島氏の正直トチ狂ったとしか思えないハイリスクな賭けを阻止できるという目論見です。

 ケースを引っ掴んだ千ヶ谷氏は、ドアまであと数歩というところで立ち止まりました。やはり忠義者の本能、忠実なる犬(だって皆さん犬犬とおっしゃるから…)の本能が後ろ髪を引くのかと思いきや、違うようです。千ヶ谷氏の露わな頸部に二つ、小さな針のようなものが。それはワイヤーを伴っていて、その伸びる先には渕屋氏の下敷きになりながら銃のようなものを構える見島氏が。それはおそらくまごうことなき“銃のようなもの”であり、つまりテーザー銃(遠距離タイプのスタンガン)のようでした。ようでした、というのは普通そんなもんまともに食らったら立ち止まる程度では済まないのでは?という疑念からくる迷いであり、ぶちぶちと無造作に針を引き抜き投げ捨てた千ヶ谷氏のなんとも心強い様子と、短い付き合いではありますが見島氏がこのように脅しにもならない武器を所持するような御仁であろうか?という推測を天秤に掛けた結果、いよいよもって千ヶ谷氏がいわゆる熊用とか象用の麻酔銃かなんかでないと活動不能にすら追い込めないトンデモ人間の類なのでは?という結論に不本意ながら達してしまいました。

「他所の目があるからな。電話対応する女性の声が数トーン高くなるのと同じだよ。特に女性もいることだし。優しく言ってやったのに」

 他所(私・呉氏・渕屋…氏…?)の目があるからか、見島氏は自分の上でぐったり転がっていた渕屋氏を思いの外優しく押し除けます。そうしてテーザー銃を投げ捨てるとすんなりと立ち上がり、右脚を何度か踏み鳴らしました。確かにその義足はもろに渕屋氏の身体の下敷きになっていましたし、具合を確認しているのでしょう。その悠然とした様子がそら恐ろしく、一方でこれだけ猶予を与えられているのに、せっかくテーザー銃もものともしなかったのに、律儀に立ち止まったままの千ヶ谷氏が謎でした。
 逃げてしまえばいい。今のうちに。あなたの望むような展開にしたいなら。そのケースを持って立ち去ることは、彼にならまだ訳ないことのはずなのに。

「千ヶ谷、それを置け。戻ってこい。僕がまだ人の目なんかを気にして優しいうちに」

「お姉さんお姉さん、手伝って」

 ふいに小声で囁かれ足元を見ると、呉氏がぐったりした渕屋氏をずるずる引っ張ろうとしているところでした。あの、もう少し空気読む場面じゃないんですかね?だってヤクザさんバーサスヤクザさん、長年の(知らないけど)パートナーあるいは主従関係の決裂しようかという、恐ろしい瞬間ですよ?とどこまでも日本小市民的なことを思うものの、渕屋氏があまりにぐったりしているので私も片方の腕を掴んで加勢します。空気読んで怪我人が回復すりゃ世話ありませんってことで。

「こんなペラッペラだけどさ、縦にだけは長いから、そこそこ重いのコイツってば」
「はあ。怪我のほうはどうです?」
「めちゃくちゃいい気分だよ」

 嘘でしょうが。ずいぶん髪の短くなった渕屋氏の捉えようによっては縁起でもない軽口へのツッコミは胸の中に仕舞っておきますね、もう今日の分だけで仕舞ったツッコミ、溢れそうですけど。
 投げられた衝撃がトドメを刺したのか、渕屋氏はいよいよぼんやりしています。早急に手当だかなんだかしなくてはなりませんが、この部屋から出ることは当分無理そうだとそれこそ空気が示していました。二人のヤクザさんのどんなことに巻き込まれるもんだか知れたもんじゃないです。空気読まなきゃ助かるもんも助かりません(そして生じる矛盾)。
 傷口のある頭部を高くしなければなりませんでしたが、枕はもちろんベッドの先客が使ってますので結局呉氏が膝枕することになりました。「お姉さん服汚れちゃうし。お姉さんのほうが動けたほうがいいし」との弁とともにどう見ても医療用の先の曲がったハサミを渡されたときは思わす真顔になりましたが。野暮用ってもしかしてこれをガメてたんですかね…なんのために…「なにって、武器でしょ」…聞きたくない聞きたくない。
 見島氏はゆっくりと腕を組み、千ヶ谷氏を眺めていました。まるで逃げていかないのを知っているかのように。そのとおりで、千ヶ谷氏はいまや完全に振り向いて見島氏と対峙していました。なぜ逃げないのか。逃げてしまえば終わりなのに。時間切れまで逃げ切ってしまえば。時間切れが近いことは、昨今の見島氏の苛立ち具合が明白にしています。どうして逃げないのか。

「…俺は貴方に死んでほしくない」

 そうして溢れたその本音に、私の喉は思わず「嗚呼」という音を漏らしました。千ヶ谷氏は、この人は。

 まだ話せば通じると思っているのです。
 話して、わかってもらいたいと思っているのです。
 まだどうにかなると。
 こんな目をした人を相手に。
 こんな、長く患い最早理屈もなにもドロドロになった妄執と狂気にまみれた目をした人を相手に。

 狂気の目をしたその人は、いっそ柔らかく微笑んで子供に辛抱強く言って聞かせるような声を出しました。

「僕は死ぬなんて言ってないだろう。ちょっと魂を他へ移して、お前が持ってる魂の入れ物になるだけだ」
「俺はそうしてそこの死人の魂に惨めに身体を蝕まれて狂い果てる貴方の醜態も見たくはない。それは死んでるのと同じだ」
「そうなるとは限らないじゃないか」
「貴方は見ていないからそんなことが言える!そこの死人の魂を入れたコイツがどんなおぞましい姿だったか、まるで悪夢のような――」
「千ヶ谷、お前に割ける時間は終わりだ」

 ごく小さな銃声。組んだ腕を解いた見島氏の右手には銃があり、千ヶ谷氏の左腕が不自然に跳ね、左手から離れたケースは落ちて物々しい音を立てました。一瞬遅れて千ヶ谷氏の二の腕あたりが赤黒く染まります。千ヶ谷氏は落ちたケースに気を取られたようでした。それで反応も出来ず、受身を取ることも出来ず、躍り掛かった見島氏の義足の一撃をもろに側頭部へ受けました。金属の脚は床まで降り切らないまま、今度はよろめき傾いた千ヶ谷氏の顎を真上へと打ち抜きます。どちらも酷く鈍い金属の殴打音がしました。鋭利な爪先がどちらにも深い切り傷を残し、赤い飛沫をぱっと散らしました。

「お前を痛めつけるのは心が痛む、痛むとも、でも本気でやらなきゃこっちが殺されかねないからな。そういう男じゃなきゃ、僕は連れ歩いたりしないさ。ただ言うことを聞くだけじゃね。だから心が痛む。お前にこんなことしたくない。こんなことさせないでくれよ。お前を傷つけたくないんだ、千ヶ谷。お前はどの程度叩きのめしたら素直になるんだ?もうこのくらいでやめさせてくれ。頼むからやめさせてくれ。こんなことしたくない…」

 いかにも悲痛な声音とは裏腹に、金属の脚は徹底的に千ヶ谷氏を打ちのめしていきます。見たくないのに、恐ろしすぎて目が離せない。呉氏に小声で「お姉さん、向こう向いといたほうがいいんじゃない?」と声をかけられてやっとつかの間視線を落とせました。落としたら落としたで千ヶ谷氏がボコボコにされるのをいかにも楽しげな顔で見ている渕屋氏が目に入ってうわあってなりましたけど。絶対いい気味とか思ってる顔ですよこれ。
 ついに千ヶ谷氏が床に倒れ、弧を描いた血は慣性に従ったのであとからその顔に降り注ぎました。2メートルはあろうかという巨躯が受身も取らずに倒れていく様は、正直言って圧巻でした。

「…なら、俺の、…からだを、つかえばいい…」

 ここまでされているのに、千ヶ谷氏はそんなことまで宣います。この恐ろしげな巨躯の彼は、救いようがないほどいい人か、あるいは忠義者のようです。

「それじゃあ意味がない!意味がないんだ!ああ千ヶ谷、千ヶ谷千ヶ谷頼むから言うことを聞いてくれ。良い子だから。言うことを聞いてくれ。聞けるだろう?聞けると言え。でないと…」

 仰向けに倒れた千ヶ谷氏の襟首を掴み、ぐっと引き起こす傍ら、見島氏の右脚は千ヶ谷氏の胸を踏みつけました。鳩尾にその鋭利な爪先が突き刺さっていました。

「殺したくないって言ってるだろ?そんな惨いこと僕にさせるな」

 何センチくらい?心臓へはあと何センチで届いてしまうのでしょう?あとどのくらい体重をかけてしまえば、それは致命傷に。
 千ヶ谷氏は虚ろな目で見島氏を見上げていました。奈落へ、踏み入る脚に噛み付いて引きずり戻そうとした飼い犬を手酷く躾る飼い主を。顔のいたるところに切り傷があり、鼻は折れ、右目は腫れて塞がり始めていました。左腕はだらりと垂れて真っ赤に染まり、きっとそれ以外の服の下にも無数の傷があることでしょう。骨だって折れているかも。そんな仕打ちをした相手を、千ヶ谷氏はいっそ穏やかな目で見つめていました。反逆など考えたこともないかのような目で。

「…おれは、貴方の下ではたらいていたい」
「…良い子だ」

 それを聞いた見島氏の肩がほんのわずか下がったのを見て、演技がかった悲痛な声でまくしたてていた言葉は本心なのかもしれないと思い至りました。本心と行動がまるで切り離されている、それはそれで恐ろしいことですが。

「おれは貴方のいうとおりにやっていきたい…」
「そうだろうとも」
「…それは貴方が生きてなきゃ出来ない」

 バチン!!と拍子抜けるような音がして、ほぼ同時に見島氏の身体が崩折れました。ゼンマイが切れるように。頭が床に落ちるすんでで千ヶ谷氏の右手が伸び、襟首を掴んで助けます。その手にもう一つ握られているもの――スタンガンが彼の意識を奪ったのだと、そこでようやく理解できました。
 見島氏の襟首を掴んだまま、千ヶ谷氏は長い長いため息を吐きました。ずっと長い間体内に凝った澱を吐き出すように。そしてにわかには信じがたいことにひょいと起き上がると、見島氏の身体を床に横たえ、剰え立ち上がってこちらへ歩いてきます。セガールまたはシュワちゃんスタローンも真っ青なタフっぷり。落ちたままのケースを左手で持とうとして、顔を顰めて右手で持ち直したところに辛うじて人間らしさを見出すことができましたけど。

「お疲れさま、お兄さんタフだね〜」

 待ってましたとばかりに能天気に呉氏が声をあげました。もうこの人はこういう人なんですね、いやってほどわかりました今日一日で。千ヶ谷氏は特に答えず、仁王立ちのままこちらを見下ろしています。で?と呉氏。

「アンタはそれ、どうしたいの?」

 それ。取っ手付きのケース。見島氏の右脚、ひいては背後で時間を失ったままの彼の魂。千ヶ谷氏はつかの間それを見ていました。主人の妄執の元凶を。

「…逆らわないでいるべきだ。そうなる運命なら、神の御胸に帰る選択肢を奪う権利なんて誰にもない」
「ワオ、お兄さんって信心深いんだ、意外。こりゃ渕屋と気が合わないわけだね」

 この観光地方都市ではクリスチャンは然程珍しくもありませんけどね。大多数の日本人と同じように、身内のお葬式を出すときくらいにしか宗派や信仰のことなど思い出さないという人も。たとえばこういうときとか。まあ渕屋氏が無神論者なのはそれは納得ですけど。
 呉氏はどこかきらきらした目でにっこりとしました。

「お兄さん、やっぱいい人だね」
「…どこが」
「俺が“良いこと”だと思った結末に持ってってくれたからそう言ってるだけだから気にしないで。さ!渕屋くん働いて〜あのお兄さんに魂戻してやって〜」
「…見てわかんねえ?俺ものすごい怪我人なんだけど」
「さっきまではそう思ってたけど、このヤクザさんのほうがめちゃくちゃだし、でも大丈夫そうだから渕屋くんも頑張れるっしょ。時間ねえし」
「そのヤクザのせいで怪我人なんだけどな!!」

 それでも渕屋氏は長い長いため息を吐きながら起き上がりました。とんだブラックですね、まあ個人経営職人芸がその希少性でときたまブラックみを帯びるのは珍しくもないことなのかもしれませんね、公務員でよかったなんて言うとボコボコにされそうですけどね。
 立ち上がった渕屋氏はずいぶん短くなった髪(しかも右サイドは肩甲骨あたりまであるのに左サイドはぎりぎり肩につく程度というザンバラっぷり)を払い、怪我だらけで立ち尽くす千ヶ谷氏を一瞥しました。そしてふんと、盛大に鼻で笑うと、悪辣な笑顔のまま言いました。

「このワンコロ」
「言ってろ。ワンコロで結構」

 キャッチボールのようにケースを受け渡す二人を見て「仲良いね〜」と、呉氏があのにやにや笑いで囃し立てました。
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