2:11-犬のような男
 最悪。
 それしか言葉が見つからない…ってヤツ。ヤクザに首を絞められ、ヤクザに車で念入りに追突され、ヤクザに拉致られ、ついさっき後にしたばかりの件の病室に苦もなく連れ戻され、頭打ちすぎてか貧血かどっちもかフワフワしつつ気持ち悪いし、額の傷の流血は全然止まんねえし、おかげで顔の右半分が血でバリバリだし、俺が今座ってんのは病室の冷たく埃っぽい床。これだけのことが詰め込まれた一日をなんと形容すればいいのか。
 最悪…それしか言葉が見つからない…。
 にしてもこれだよ、と俺は軽く頭を振る。およそ五年フル放置したおかげで腰まで伸びた髪は、今重力に逆らって弧を描いて伸び上がり、毛先はあろうことかすぐ脇のベッドのベッドフレームにキツく固結びで結び付けられている。そこで馬鹿みたいに突っ立ってる千ヶ谷がやった。やってくれた。…髪の毛を括り付けて繋いでやろうって発想が出てくるところがさあ、こういうときに、サラッと出てきて実践するところがさあ、すげえ怖いんだけど、いろんな意味で。そんなぽっと出てくる発想じゃなくない?もしかして実践済み?…髪の毛長いのってフツーは女だよなあ…まあ人の趣味に口出す気なんか無いけど?とか考えたところでフワフワ具合が悪くなってきたので考えるのをやめる。傷んで枝毛だらけの俺の毛先は、固結びの圧力で圧縮され互いに重なり合いガサガサにめくれたキューティクル同士を歯車のように噛ませあい、もう二度と解けないに違いない。絶対解けない。だって普段から櫛通らねえもん。両手は無防備に空いているが、どう頑張っても迅速にどうにかすることはできそうにない。ソッコーで千ヶ谷に気づかれてぶっ殺されるのがオチだろう。
 千ヶ谷は俺から、つまり錫原慶二のベッドから数歩離れた部屋の中央で、背筋を伸ばして立っている。馬鹿みたいに。

 『待て』の姿勢だ、と俺は思った。

 この男は俺に対して理不尽かつ異常な殺意(しかし、正常な殺意とはなんなのか?)を抱いていて、その殺意をたぶん片手程度でお手軽に満たせるほどの力を持っている。タッパなんか見てみろ、2メートル近いぞアイツ。例えば明日、テキサス州ほどのサイズの小惑星が地球に衝突すると分かっていたとして、石油(採掘)王のブルース・ウィリスでも存在しない限り人類にできることなど明日終わる命への不納得をひとまず放り投げ諦観し受け入れることしかないように、そんな力を持っているヤツに本気で殺意を向けられたら諦観して覚悟するしかない。納得しているのと覚悟するのとは別問題だ。俺なんか片手で絞め殺せるのだ、千ヶ谷は。やろうと思ったその瞬間に。

 なのに千ヶ谷は丸五年、俺を殺さなかった。

 馬鹿たる所以だ。犬たる所以だ。どこまでもあの男の、あの隻脚の男のお利口さんなワンちゃんなのだ。あの男が「だめだ」と言うから、喉から手が出るほど殺したい俺も殺さない。本当に正真正銘の馬鹿なんじゃないのか。俺だってあの男が「切り落とせ」というから切り落としたのだ。お金をもらってね。だから俺を憎悪するということは自分の意思より大事なあの男の意思を憎悪するということだ。それはワンちゃんのポリシーに矛盾してるんじゃないのか?矛盾・理不尽・異常な殺意。本当に正真正銘の馬鹿なんじゃないのか。って、思ってた。
 でも、今日はマジで殺されると思った。車を横転寸前まで追い込まれたさっきじゃない、店で首を絞められたとき。ついカッとなって。あのまま邪魔が入らなければ、この男はそのまま俺を縊り殺していたのだろうか?殺されかけてわかったことと言えば、いつの時代も真実に肉薄する者は命の危機に瀕するということだ。

「千ヶ谷ァ。俺がさっき店で言ったこと、図星だったんだろ」

 気づけば頭より早く口が動いていた。理不尽に思える殺意を向けてくるこの男を見ていると、俺はどうしても軽口を叩きたくなるらしい。呉のように。俺は呉じゃないのに。部屋の中央に立ち尽くす千ヶ谷は手を後ろに組んだまま、つまり『待て』の姿勢を崩さない。聞こえなかったかのように素知らぬ顔をしているが、目元がいかにも神経質げにヒクついた。効いてる効いてる、なんて思う俺。効いたら困るだろ、死ぬだろ。まあどっちみちもうこの状況、ゲームオーバーな感じはあるけど。千ヶ谷はお利口に『待て』をしている。つまりこの状況は見島の意思だ。焦りがあるのだ。手段を選ばないとも言う。俺をこうも惨めに追い込んで疲弊させておいて、早急に言うことを聞かせたい何かがあるのだ。予想はつくというか、それしかないというか。

「五年前、俺もまだも少し素直なお子様だったから、アンタのことは見島の良心くらいに思ってた。ホントだよ。あの日、見島が脚を切り落とせと言ってきたあの日、アンタのこと一瞬考えた。居たら、止めさせるんじゃないかって」

 『一瞬アンタが見島を止めてくれないかと思った』というようなことを言ったらコイツは何を今更なんて逆上するだろうかと考えながらもう同じようなことを口に出している。頭打ちすぎたからか、コイツ相手だからか。頭が回らない。思ったことをべらべら捲したてるこの口は、なんとか光明を見いだし俺を生かしたいのかさっさと楽になるためアポトーシスに走っているのか判然としない。千ヶ谷の表情に目立った変化は訪れなかった。たぶん、まだ。俺のほうを見ないまま、病室にたった一つ置かれた背もたれ付きの椅子に目を向けている。立っとくの疲れたのかよ、座れよ、それを投げたりそれで殴ったりは勘弁な、と思いながら、俺はずっと額をおさえていた右手を下ろす。ガーゼがバリバリと剥がれて、一瞬のちにドロッと血が噴き出す感触がして、舌打ちして再び額をおさえた。

「でも違った。居たとしてもアンタは止めはしない…。アンタが俺を殺したいのは、俺のせいで見島が右脚を失ったからじゃない」

 千ヶ谷が椅子を引きずってこちらへ歩いてくる。ああもう、それで殴ろうがそれを投げようがいいけどさ、いや良くはないが、だったら、だったらこの際最後まで言わせてくれよ。お前も五年間俺を怨み続けて溜まってるかもしれないが、俺だって五年間お前に怨まれ続けて溜まってんだよ、と半ば朦朧としながら思った。考えてもみろよ。脚を切り落としたのは見島の意思なのに、まるで俺が見島を引っ捕まえて無理矢理切り落としでもしたかのような怨まれっぷり、五年間も理不尽に、金網フェンスだけで隔てられた猛獣のような殺意を向けられていると思い続けてたけど、やっと今日すっきりしたんだ。やっと、逆立ちしたって理解できないと思ってたお前のことが少しだけ理解できた。つまりコイツはどこまでも犬なのだ。とんだ、イカれ犬だ。それなら怨まれるのも、納得はしないが筋は通るかなって。コイツが、コイツが今この瞬間もその殺意塗れの目で俺を見下ろすのは、

「見島の脚を切り落としたのが、自分じゃなかったから」
「…」
「アンタが、自分で、見島の脚を切り落としたかったんだろ。図星だろうが、このクッソイカれ犬!!」

 ものすごい衝撃と轟音で、一瞬世界の何もかもを認識できなくなった。視界は全てが乱雑に引き伸ばされ、劈く轟音に鼓膜は許容量を超え後引く耳鳴りを残す。椅子で頭を殴られたのだと理解したのは、やっと定まった視界がずいぶん傾いていて、さっきまで額をおさえていた血まみれのガーゼが遥か遠くへ吹っ飛んでいるのを理解してからだ。額から血が噴き出す感触がする。元からある傷なのか今追加で開いた傷なのかはわからない。痛みより衝撃のほうが強い、もうよくわかんねえだけかもしれないけど。でも、気を失ったり、致命的なほどじゃない。手加減されている…すぐに死んだりしないように。それだけはなぜか殴られたのを理解するよりもスムーズに理解できた。心臓がスッと冷えるのに気がつきそうになって、笑えてくる。ダメだろ俺、俺の口、なんなんだマジで、結局挑発しちゃってんじゃん、俺は呉じゃねえのに、一思いにやられるならまだしも嬲り殺しにされたいのか。

「そうだ」

 どこまでも平板な声で千ヶ谷は確かにそう言った。今しがた椅子で人を殴りつけるという凶行を働いたとはにわかに信じがたいほど、ほとんど透徹していると言っていい目で俺を見下ろしていた。それはいっそ振り切れた、狂気の目と言ってもよかった。

「そのとおりだ。やっとわかってくれたな」

 そしてまた椅子を振り上げる。今度はちゃんと腕で防ぎながら、笑いが漏れた。ああもう、本当に、厭だ、コイツ。同族嫌悪はつまり自己嫌悪だ。どうにもできない大嫌いな自分を目の前に突きつけられる心地がして耐えられないのだ。ていうかマジで痛え。頭はもうよくわかんないけど庇った腕が。感覚もなにもかも逃避気味にぼんやりした世界で、その痛みだけが悲しいほど現実を突きつけてくる。抱えた腕の隙間から千ヶ谷を見上げた。どんな表情もしていない。しようがないからだ。わからないからだ。

「アンタの考えるようなことなら手に取るようにわかる」
「だからお前は死ぬべきだ」
「何言ってんだ、殺せねえだろ、“待て”されてるくせに」
「“言うことを聞かせる”のと“黙らせる”のは許可されてる」

 千ヶ谷は俺の左脚を跨ぐように椅子を置き直し、そこに座って俺を見下ろす。なんだか楽しそうだ。タバコが吸いたい。吸ったらちょっとはこのだくだくしてる流血もマシになるんじゃない。それにしてもこの期に及んで“許可”とは、筋金入りのワンコロ根性に恐れ入る。

「現にお前はそう思ってるだろ。俺があの人の命令ならなんだって聞くと。犬のように、あの人の言うことならなんだってやると。だから今この瞬間も頭の中に安堵の余地を残してる。“今すぐ死ぬことにはならない”と。“見島が許さないことを千ヶ谷がするわけがない”」

 千ヶ谷が手を伸ばし、俺の額の傷に触れる。華奢でもなんでもない指を遠慮なく傷口の中に入れてくる。手遊びに虫でも潰すような手つきで。肉が裂けるわずかな音と、骨を直接弄られているようなゾッとしない感覚。痛みは実のところもうよくわからない。今めちゃくちゃ痛いのか、そうでもないのか。そうでもないわけないけど。だくだくと流れる血が完全に右目を塞ぎ、口まで流れてきた。千ヶ谷は引き抜いた血まみれの指を、俺の髪の毛で拭く。シット。帰ったら散髪だ。いや散髪しなきゃ帰れないか。帰れる気でいるのかよ、俺。

「だったら意味がある。そういう分かりやすい公式を見せびらかしといてやるのがこの世界のやり方だからな。納得は必要ない。理由も必要ない。矛盾していても構わない。ただ公式に当てはめるだけ。それは武器になる」
「“千ヶ谷は思考停止した犬である”って公式が?それって言い聞かせてるの?自分に」
「あの人が望んだら、やるのは俺じゃなきゃならなかった。あの人の手は俺じゃなきゃ意味がない。だからお前は死ぬべきだ」
「…あーわかった、わかった。自分が見島のいちばんのワンコロだと思ってたのに、俺みたいなどこの馬の骨だかわかんねえ雑種拾ってきちゃったから拗ねてんだ?そういうこと?」

 言わなきゃいいってわかってんのに、この口は。案の定無駄に長い脚が飛んできて胸骨のあたりを踏み潰された。うっかり咳みたいな声が出て、結構しんどい。胸骨が落ち窪んでくる、胸苦しい苦痛の感触がする。俺は自暴自棄になっているんだろうか。もっと上手くやれると思ってた。俺はやけっぱちになっているんだろうか。それこそ思考停止だろうが。コイツと同じ。…嗚呼、なんだ。そういうことか。笑える。俺も、コイツも。クソみたいだ。クソッタレみたいだ。もちろん見島も。自分の髪の毛が結びつけられたベッドを見やる。いつのまにか壁をつたってずり落ちた俺の視線は低すぎて、せわしなく上下するシーツが辛うじて見えるだけだ。

 錫原慶二。

 表向きには埠頭の廃墟崩落に巻き込まれて死ぬはずだった男。人々の羨望と、期待と、泥のような憎悪と、塵より軽い損得勘定を一身に引き集め死ぬはずだった男。死の寸前で、五年も留め置かれている男。
 彼がそんな惨めの極地にいるのは紛れもなくこの俺のおかげであり、所為であり、見島司ただ一人の意思だ。自らの右脚と引き換えに。
 馬鹿げてる。誰だってそう思う。馬鹿げてる。それが最も良心的な感想だ。本音か建前かは別として。

「…まさか五年も保つとはね。俺はちょっとした実験気分だったけど。アンタの頭おかしい大将の切り落とした脚に、コイツの魂を閉じ込めて五年も。でもこれ以上は無理だ。もう誤魔化せない。今にも時間切れになって、腐り乾き果てたミイラみたいな脚っきれじゃあ閉じ込めきれなくなって、魂を完全に失う。そしたらコイツはあのときアンタらに見せたトカゲと同じ結末を辿る。死より惨めに消え果てる。五年も保った。でもアンタの大将は五年でもっといい方法を探しきれなかったと思ってる。もっと時間があれば見つかるってな。そんな都合のいいものこの世にないってのに。そう、もう時間がない、このままじゃ…」

 つっかえながら話してる間にもかわいそうな俺の身体は踏み潰され、壁をつたってずるずるずり落ちていく。そのうち床に寝転んじゃいそう。

「でも、見島の脚はもう一本ある」

 千ヶ谷の瞳孔が激しく収縮するのが左目だけでもはっきりと見えた。俺の胸骨の上に置かれたままの靴底が、そのまま踏み抜いてしまうのを全力で堪える気配がその全身から読み取れた。本当に笑える。笑うしかないと言うのが正しい。矛盾まみれの男。妄執の片棒を担がされて、矛盾まみれになるしかない先に盲進していく男。俺と同じ。

「アンタのかわいそーな大将は絶対そう言う、今日。とりあえずの時間稼ぎで平気でもう片方の脚すら差し出す。その次はどうするつもりなんだろうな。達磨にでもなるつもりか?俺には関係ないけど。俺は仕事してるだけだからな。金を払ってもらって依頼主の言う通りの仕事をしてるだけだ。だから別にアンタと代わってやってもいい。仕事が一つ減ったくらいで困るほど食いっぱぐれてない。だからアンタと代わってやる。左脚はアンタが切り落とせばいい。アンタがやりたかったんだろ?わかってる。アンタの考えることなんかなんだってわかる。アンタが切り落とせばいい。コツは、一気に切り落とさないこと、少し残して、魂を移してから――ぁ」
「もういい」

 急に声が出なくなる。俺の胸骨に乗ったままの靴底が、全ての理性に基づくセーフティを振り切ってめり込み始めていた。みしみしと何かすさまじい過負荷を掛けられているような音が、自分の胸骨と肋骨が押し潰され擦り合わさる音だと気付いたときにはもう、呼吸ができていなかった。「は」だか「あ」だか、情けない音のついた最後の呼気が漏れて、それっきりだ。

「もういい」

 それは俺を踏み殺そうとする身体とはちぐはぐなほど冷静で静かな、たしなめるような響きさえある声音だった。手が勝手に伸びて、自分を殺そうとする脚にかかる。そんなことではどうにもならないと頭ではわかっているのに。どう考えてもこの状況を率先して作り出した口先にそぐわない行動だと頭ではわかっているのに。矛盾だ。

「死ね」

 もうほとんど聞こえなかった。唇の動きだけで、それが本当に小声でなんの抑揚もなく、だからこそおぞましい質量の憎悪に裏打ちされて吐かれたものだと理解できた。脚が引き攣り始める。肋骨のカーブが限界まで鋭角に近づいていくのがわかる。心臓がひしゃげていくのがわかる。呼吸するための器官はとっくに潰れ、内壁を惨めに密着させていくのがわかる。すべてが白み始める。すぐ隣で死の手前に居座り続ける男より、ずっと先へ、この世界の法則にしたがって近づいていくのがわかる。わからなくなってくる。わからなくなってくる。

「千ヶ谷」

 ふいに張り上げるでもない、しかし朗々とした声が響いた。

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 素敵なオーシャンビューの切り立った道を抜け、すぐさま山めく中たどり着いたのはいかにもな病院的施設でした。病…院…?って感じですけれども。いかにも、いかにもこう、非正規的な…このあたりは書類の上では一介の私有地であったはずです。医療施設の登録はありません。あくまで書類の上では。
 呉氏はというと、着くなり「じゃ、俺は野暮用があるから〜」とかなんとか言ってふらりと立ち去ってしまいました。え〜でした。完全にええ〜でした。
 それで見島氏にコールしています。…携帯電話の番号を交換しているのは行き過ぎた交際のうちに入るのでしょうか。いえきっとギリギリセーフですよね、名刺交換だとこう営利目的感公然感がビシバシに出てしまいますけど、番号だったらこうちょっとした手違いで…かなり情報リテラシー的に問題のある手違いさえあれば…。出ないかもしれないとは思いました。こんな、彼にしてみれば少しからかっただけかもしれない路傍の女のことなど忘れているかもしれないと。それはそれで平池さん的にはオールオッケーでしょうが。予想に反して彼はきっかり3コールで応答しました。

 それで今ここにいます。

 他とは不自然なほど隔離された病室。締め切られたカーテンは暖色を宿した生成色をしているのに、どこか寒々しい灰色の気配のする病室。部屋には既に三人の人物がいました。中央のベッドで物々しい処置を施され横たわる男性が一人。そのすぐ脇の椅子に座っている男性が一人。椅子に座る男性の正面で壁に頭を押し付けるようにして、床に座っていると言っていいのかほとんど倒れていると言うべきなのか判断に迷う男性が一人。

「千ヶ谷」

 私をここへ誘った彼、義足のヤクザさん見島氏が、素っ頓狂とも言える朗々とした声をあげました。それはこの部屋の空気にとことんそぐわない明朗快活な声音で、それで初めて私はこの部屋に充満するただならぬ空気に気がついたのです。

「殺すな」

 あくまで朗らかで、なんの強制力もなさそうな呼びかけでした。たとえば寝室に出没した蜘蛛なんかを殺そうかどうか迷っている人に、ほっとけほっとけどっかにいくだろうし蜘蛛は益虫だと言うしわざわざ殺すなんて手間を掛けなくてもねえと言い聞かせるような。あくまでどうするかの判断は委ねると言うような寛容さすらありました。呼びかけられたのは椅子に座っている男性、あのガタイの良いヤクザさんだと推定できました。千ヶ谷氏はちらりともこちらを見ず、たっぷり数秒の間のあと、ほとんど床に倒れている男性の上から脚をどけました。床に倒れている彼、渕屋氏が弾かれたように咳き込み、しかしそれほど長くは続かず、ぐったりと身体をくの字に曲げて蹲ります。その血まみれの額を床に擦りつけて喘ぐには、すぐ脇のベッドフレームに結びつけられた髪の毛の長さが少し足りないようでした。

 …え?今、殺そうとしていた?

 私自身の小市民的(かつ一般的小市民より非社交的)な日常で培われた経験則にはとうていデータのない眼前の出来事に、一瞬脳内が完全にフリーズします。いわゆるVシネ的ドラマチック展開。千ヶ谷氏は椅子から立ち上がりながら、あくまで静かな声音で返答しました。目だけは、それでも寝室から逃げていく蜘蛛を見送るような、そんななんでもないような目だけは床に蹲る彼から離さぬまま。

「殺しはしない」

 嘘でしょうが。
 咄嗟に胸中でツッコんでしまいましたがもちろん口に出すような愚行は犯しませんとも。もっともまだフリーズしたままの脳では到底喉をうまく震わす信号すら出してくれそうにありませんけども。千ヶ谷氏は速やかに蹲る渕屋氏の傍らに膝をつき、さっきまで自分の靴底がめり込んでいた彼の胸元を何かを探すように素早く確かめました。

「黙らせるだけです」
「ならばよろしい」

 “黙らせるだけ”そう言って渕屋氏の鳩尾を抉るように殴り抜いた千ヶ谷氏の凶行を見て、何がよろしいので?という感想を抱く私はどうやらこの場ではマイノリティなようでした。人が人を殴った音としてはイマイチぴんと来ないような、鈍く重い音が響きます。俯きがちな渕屋氏の口が精一杯開き、しかしそこからなんの悲鳴も、呼気すらも出入りしていないのが見てとれました。鳩尾、気管が潰され呼吸が満足にできないのです。まだ新しい傷なのか、額から血がぼたぼた落ちています。…本当に死んでしまうのでは?やだ私、あんまり見ていたくないかも…じゃなくてここは女性の特権つん裂く黄色い悲鳴の一つでも出して事態の急展開虐げられる渕屋氏のレスキューを図るべきなのではと息を吸い込みかけたところを見島氏に肩を抱かれ、途端に吸い込んだ息はそのまま行き場を失ってしまいました。肩を抱くその手つきは平素ならば少し照れてしまいそうなほど完璧に紳士的でしたが、だからこそ私には彼の台本に無い行動も勝手な退場も許されていないと理解するのに十分なものでした。

「やあやあすまないね、女性にこんなところを見せてしまうなんてものすごく心苦しいが我慢してもらうしか選択肢を提供できない。まあでももしも具合が悪くなってもここは一応病院だから遠慮なく言ってくれれば横になるくらいはできるとも。大丈夫、わりとすぐ慣れるさ、こういうのって案外ね」

 見島氏の声音は相変わらず明朗としていて淀むことがありません。立ち上がった千ヶ谷氏がこちらを見、私という存在の説明を目で訴えていました。

「まさか忘れてないだろう?こちらのお嬢さんは驚くべきことに真実にたどり着いた。全くもって恐れ入るよ。だからまあその真実を確認する権利があるということだよ。約束だからね!僕は約束は守る、ヤクザ、ウソツカナイ、ってやつだ、わはは!まあこんな僕の真実なんてチンケなものなんだ、がっかりされるかもしれないと思うと心が痛むが」

 何から何まで明朗快活で好印象な語り口で、何から何まで張りぼてのように思えました。わりとデンジャラスな状況なのはさすがの私もひしひしと感じ取れました。けれど自分で来た茨の道なのです。ふと平池さんの顔がよぎりました。私と相対する時、平池さんは大抵怒っているか呆れ果てているかなのでよぎったのもそんな感じの顔でしたが、なぜか強烈な懐かしさを覚えました。縁起でもない。でも、最悪の事態にはならないでしょう。少なくとも私だけは。おチャカなんて出されて即死攻撃を受けたりしたらわかりませんが、そこで蹲っている渕屋氏と同じようなじわ死に攻撃を受けた場合、事切れる前に意識を失う瞬間があるはずです。ならば最悪の事態にはならないという確信がありました。最悪の事態にならないというだけで、そんなことになれば最低の事態になることは明白ですけれど。それにできれば痛い思いはしたくないですよね、苦しいのもいやですね、だってほらやっぱり、一応女の子だし、なんて都合よくジェンダーを振りかざし相手方の紳士の品格に訴えかけておきます(心の中で)。
 見島氏は私の元を離れ、ベッドを回り込んで蹲る渕屋氏のもとへ屈み込みました。歩く姿は完璧ですが、義足のせいかそういう動きだけはすこしぎこちないものになります。優しい手つきで渕屋氏の顔を撫で、溢れ出す血など目に入っていないかのようにその額に赤く貼りつく髪の毛を掻き上げてやって。行動は紳士的ですがいかんせん表情が快活で楽しげな弾ける笑顔なので心配でたまらなくなります。

「やあやあ渕屋、男前が上がったじゃないか!額の傷は男の子の勲章だぞ、一つ二つ付けといて損はないとも!さあ落ち着いてゆっくり息を吸うんだ、さすってやったほうがいいか?いきなり吸うんじゃない、噎せたりするかもしれない、すこしずつ気管を労わるように吸うんだ、簡単だろう?」
「…だれか…さんのせい…で…」
「お前と千ヶ谷の仲がエテ公ワンコロのごとく悪いのを考慮しないで千ヶ谷を迎えに行かせた僕のミスだ、責任は僕にあるよ」

 誤用とされるのほうでの確信犯的なセリフだとさほどくわしく事情知らない私でも思いました。渕屋氏は唇を歪め、盛大に鼻で笑います。この状況で折れない強い心を持っているなあと思いました。現実逃避気味の素の感想。

「…こんな手段に訴えるなんて、アンタもずいぶん余裕ないじゃん。…んなことしなくたって、脚くらい切り落としてやるよ。だれかさんとちがって。仕事だからな」
「心強い申し出だが、まだそれはプランBなんだ。プランBならこんな目に合わせる必要ないとも、お前がきっとやることなんかわかりきってる、二回目なんだからな。でもまだプランAなんだよ。まだあと少し悪あがきする時間は残ってる。どうせ代わりにするならもっといいものを。これは人間のサガだよ、なあ」

 やばい、話について行けなくなってきました。脚くらい切り落とすって、二回目って、もしかしないでも一回目はまさに見島氏の失われた右脚のことを指しているのでは?
 見島氏の失われた右脚の在りかについて、私は答えを出しました。ミズホ氏の痛ましい思い出を辿って。『探すまでもなく、あなたが自分で所持している』と。落とし前で差し出された身体の一部は、のちのち文字通り落とし主に返却されるのだという呉氏との答えあわせに基づいて。見島氏は肯定しました。提示された三つの条件のうち、脚探しはブラフ、というより手遊びのようなものだったと肯定されたようなものです。つまり、彼が本当に求めているのは、この際明かされなかった三つ目を除くなら消去法で――。
 私が一つずつ答えあわせをしているあいだにも、見島氏は滔々と弁じ続けます。

「脚はもう一本ある。けど、全力を果たさず同じことを繰り返すのは芸がないじゃないか。お前だって新しいことがしたいだろう?」
「…なんの話」
「とぼけるなんてひどい男だ!時間がないのには変わりないんだ手短に済ませよう。お前が大事に大事に隠し立てしてる男のことだ」

 ほんの一瞬、見島氏の顔から全ての表情が消えました。それは渕屋氏も同じで、なんの思惑もない素のままの目がまっすぐに見島氏を見返しました。室内の空気が、不穏な音を立て変わり始めるのが感じ取れました。

「戸籍上すでに死んでいるはずの男のことだ。生きているなら年齢にそぐわない外見をしている男のことだ。まるでそいつだけ時が止まってるみたいに。そこにいる千ヶ谷が、あの日僕を血眼になって捜してた千ヶ谷の見た話を僕の経験に合わせて推測するなら、他人の魂をその身体に入れて運び歩くことができた男のことだ。つまり自分の魂がそこにはないのに生きている人間と同じように歩き、振る舞うことができる男のことだ。同じように魂がないそこで寝ている男や、いつかの小さな爬虫類と違って。そしてお前が後生大事に大事に隠し立てしてる男のことだ。忠実で気の利く犬みたいにな」
「知らない」
「言ってるだろう、時間がない」

 渕屋氏の顎が跳ね上がりました。見島氏の右脚が、金属の鋭利な爪先が顎先を一寸撫で、降ろされます。その晒された喉に、ごく細い赤い線がじわりと浮かびました。なんてものを脚にしてるんでしょう、この人。手遊びのような嗜虐心を突きつけられて、なお渕屋氏はどんな感情も見えない目をしています。あくまで突っ撥ねる気なのか、本当に知らないのか、朦朧としているのか、自暴自棄なのか。見島氏が仕草だけでベッドを示します。まるで瀕死のままこの世に留め置かれているかのような生白い肌の男性を。

「こんなことができるんだ。その男にもお前が一枚も二枚も噛んでると踏む見立てはそんなに不自然か?そんなことができるなら、僕の脚なんかよりずっといい。なあ渕屋、次はもっといいのがいいって、僕は人間だからそう思うんだ。それもおかしくない。時間がない。僕はできることをする。やりたいようにする」
「…ねーよ」
「聞こえない。もう一度言ってくれ」
「させねーって言ってんだよ!!テメエらにできるわけがない!!」
「千ヶ谷」

 それはこの満身創痍の痩せた男の人のどこにそんな激情が残っていたのかと驚かせるような、そしてその聞いている側を仰け反らせるような激情はまだ発露しきれず存分に渦巻いていると知らしめるような思いがけない怒号だったのに、見島氏は背後の男の名前を囁くだけで呆気なくいなして見せました。呼ばれた彼が心得ているとでも言うかのようにスーツの上着を脱ぎます。動きやすいように。確実に遂行できるように。…な、なにを。

「手短に。両手は潰すな、いずれにせよ後で使う」
「…わかってる」
「言うことを聞かせろ」

 こともなげに、恐ろしげで意味深な指示を出して、見島氏は踵を返します。そしてばっちり目が合ってしまい、その瞬間明朗快活な笑顔を見せるものだからもう恐ろしいったら。その背後、千ヶ谷氏のシャツの上からでもわかる圧倒的破壊力を滲ませる背中。渕屋氏の髪の毛はベッドフレームに結びつけられているし、そうでなくともすでに満身創痍の感がある彼がこの状況をどうにかできるとは思えません。やだ私、本当に見ていたくない…じゃなくて、ここは本当に前後不覚の大声でも捨て身の脱走でもして状況を打開しなければ後から後悔しそう一介の人間として。恐らく私がそんな恐慌に陥っている可能性を見抜き歩み寄ってくる見島氏とはまだ距離があります、これが何か一手でも確実にしてくれる距離なのかは一介の堅気小市民素人ですのでわからないけど、とりあえずなんでも喚き散らし気狂いのふりでもしながら脱走して助けを…。
 知らず震える喉を叱咤し、私がなけなしの覚悟を決めたときでした。

「こんにちは〜」

 背後でドアの開く気配がして、そんな能天気極まりない挨拶が不穏な空気を一刀両断にしたのは。あまりに場違いな温度の声に、奮った喉から力が抜けてしまいます。しかしこの意表を突いた声に毒気を抜かれたのは見島氏と同じだったようで、私と相対し、つまりドアのほうを向いて声の主をまともに認めたその目がかすかに見開かれました。千ヶ谷氏さえ、横目でドアのほうを見てそのまま動きを止めました。油断ならない空気が確実に間延びしたのを確認して、私も背後を振り仰ぎます。

「あ、あ〜もうこんばんわの時間だよねこれ、さすがにね」

 なぜか照れ照れしながら訂正した呉氏は、友達の家に上がり込むような気軽さで病室に入り込み、ヘラリと笑って後ろ手にドアを閉めました。
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