パラライズ
 生まれて初めて煙草を吸った夜に、生まれて初めての恋をしたと思っていたけど、そうじゃない。吊り橋効果は知ってる?恐怖に早鐘を打つ心臓を恋と勘違いするように、初めて吸い込んだニコチンによって収縮した血管のもたらす眩暈を恋と勘違いしてしまっただけだ。にべも無い言い方をしてしまえばヤニクラ。本来の吊り橋効果より余程情緒も無いし救いようも無い。
 やけに腰骨のカーブにフィットしてくる助手席に座って、僕は手始めにそんな感じのことを伝えようとした。あんまり完璧に背骨の曲線まで埋めるので、逆に隙がなくそわそわしてくる。外は情け容赦無い豪雨で、ドロドロに溶け出したようなフロントガラスの向こうは夜であるということくらいしか分からず、今この車がどんな場所に停車しているのかも分からない。そして隣の運転席からは煙草の副流煙が流れてくる。もう魘されるほど慣れ親しんだ薫りだった。喉のあたりまでなら吸い込んだことさえあるのだ。僕の腕時計が狂ったりしていないのなら、僕が成人するまであと小一時間ほどはある。
 冒頭の吊り橋効果の話は僕が昨晩それなりに苦しみながら考え出したものだ。適度にウィットに富み、深刻すぎず、軽すぎもせず、しかし彼を傷つけ過ぎずに自分の保身も図れるような、つまりは別れの言葉。ドロドロに溶け落ちるフロントガラスに脳内で投影させながら、その3行目あたりまでをやっと言葉にしたところで遮られた。彼が、左手をほんの控えめに掲げたのだった。本当にたったそれだけで、もしかしたら遮る意図すらなくて単に顔の前の煙を払ったとか、そういう仕草だったかもしれない。それほどに意志薄弱で控えめな仕草だったのに、僕は言葉を切ってしまった。彼が指先を動かしただけで。慌てて演説を再開しようとするも、途中から再開していいのか最初からやり直したほうがいいのか掴めない。そんなの僕の好きにすればいい、僕が話しているんだから、とは思うけど、そういう風に考えるといちばん目を背けたいところに目が向いてしまうのだ。つまり、僕だってこんなこと話したくて話してるわけじゃない。

「咥えるんだ」

 いつのまにか彼の唇は僕の耳のすぐ縁にあり、彼の左腕は僕の頚椎のカーブとシートの作る隙間に差し込まれていた。右手は親指と薬指と小指が僕の顎を掴み、残りの2本が煙草を挟んでいる。咥えるんだ、だって。彼が言うとなんでも淫蕩な言葉に聞こえるのだ。出会ってから今この瞬間まで、僕はその命令を拒んだことがなかった。咥えろと強要されるものが煙草なのは、今この瞬間を除けば出会いの夜以来だけれども。ちらりと時計を見る。僕が成人するまであと40分ほどはある。

「吸ってごらん」

 ほとんど僕の耳に唇を押し付けながら、彼は窘めるように命令した。最初の夜は彼に何の疑いも抱いてなくて、すべてが酷く魅力的に思えたから躊躇もなく従った。煙が喉まで満たす感覚にすぐに怖気づいて、それ以上身体の奥まで入れることはできなかったけど。今は違う。煙が喉を塞いだってきっと恐ろしくはないけど、あと40分を待たずに彼に従ってしまおうなんて気持ちにはなれない。中断されてしまった別れの演説を寝ずに考えたのも同じ理由からだ。つまり、未成年だと知っていて煙草を吸わせようとするところからも垣間見えるように、彼は悪い人だ。モラルに欠けている。母の形見の品だという幾ばくかのガラクタの中にあった写真が、僕にそう判断させた。それは父の写真だった。初めて見る父の顔は、今僕の耳の形を唇でなぞっている彼にゾッとするほど似ていた。彼は父の弟だった。僕の血の繋がった叔父でもある。彼はそれを重々承知していながら、僕に「咥えろ」と、「足を開け」と、「腰を振れ」と、「勝手に果てるな」と、「逃げるな」と。

「ここまで、きちんと、吸うんだ」

 僕の唇に煙草を置き去りにした手が、胸骨のあたりをねっとりと撫でた。手のひらが大きいので、肺を二つともすっかり覆われてしまう気になる。二、三度撫で下ろした手は、肺を二つ完璧に覆える位置でぴたりと静止した。僕をそうして座席に拘束するように、押さえつけるように覆う手。そこでじっと、手の下に煙が満たされるのを待ち構えるかのように。左の乳首がちょうど彼の薬指に触れているのが落ち着かない。
 観念して、僕は慎重に息を吸い込み始めた。彼の唾液でかすかに湿ったフィルタを通って、苦い煙が喉まで満たす。それから、言われたとおりに溜まった煙を肺に入れていく。二つの肺が彼の手の下で膨らんで、膨らみ切って、これ以上は無理というくらいまで細く長く吐き出す。最初の夜とは違う、ごく薄い色の煙の混じった吐息が彼の手にあたって車内へ霧散していった。ちらりと時計を見る。僕が成人するまであと30分ほどもあった。僕は悪い子だ。

「イイ子だな」

 真逆のことを言った彼は煙草を取り上げて、自分でも吸った。左手で吸うので、勢い抱き寄せられる格好になってぐっと顔が近づいた。ひんやりした頬、柔らかな無精髭。柔らかで色素の薄い髪。一度だけあったことのある母は僕とそっくりだと思ったけど、髪の毛だけが違った。母は見事な漆黒の直毛をしていて、それが羨ましかったから、一度きりの邂逅で顔の印象がかすんでしまってもそれだけは覚えている。対極にあるような、柔らかで色素の薄い髪。彼も、写真の中の父も、そして当然僕も。

「叔父さんのことを酷いヤツだと思ってるな?」

 初めて自分のことを「叔父さん」だなんて呼びながら、彼はまた煙草を吸った。頬が触れ合う。冷たくて心地よくて、いつまでも擦り付けていたくなるような頬だ。クラクラするんだ。これぞまさしくヤニクラである。初めて身体の奥まで入れたニコチンと、そのまま沈み込んでいきそうなほど僕の胸に馴染んだ叔父さんの手が僕の頭をまるで使い物にならなくさせていく。酷いヤツ?どうだろう。僕は悪い人だと思ったはずだ。モラルに欠けていると。

「でもな、お前の父さんだってなかなか酷いヤツだったぜ」

 叔父さんの言葉と手が僕の胸にすっかり馴染んで溶け込んでしまって、胸骨の表面まで沈んでいくところを想像した。叔父さんの手が僕の胸骨を掴むところを。ドアノブを捻るみたいに無造作に。

「セックスの上手さで人間性の酷さを帳消しに出来るなら、きっとお釣りが来るけどな」

 笑えない冗談のようなことを、笑いもせずに叔父さんは言った。語尾の子音に僕の知らない色が乗ったのを聞き逃さなかった。叔父さんの手が胸骨にすら馴染んで、心臓まで沈んでいくところを想像する。するりと胸骨をすり抜けて、いきなり心臓に指が落ちる。僕はその瞬間身体を跳ねさせて、今の叔父さんと同じ色を乗せた子音だけの息を吐く。一度収縮してしまった血管はなかなか広がらない。頬が叔父さんと同じようにひんやりしていく。
 急に叔父さんが手を離して、心臓まで掴まれた気になっていた僕は息を飲むのを隠しきれなかった。知らず呼吸が浅くなっていたことに気づく。叔父さんは愛おしそうに僕の顎を撫でてから、スーツの袖を無理矢理、両腕とも限界まで捲った。シャツの裾をベルトから引き出して、薄い腹筋の浮いた腹部をあらわにする。そこには大小さまざまな傷痕がまみれていた。すっかり薄くなって引っ掻き傷のようになったものや、今なお生々しく盛り上がって縫い跡まで白く残っているもの。叔父さんのお腹と両腕と、防ぎきれなかった右のこめかみにもう一つだけ、たくさんの傷痕が這いずり回っていた。

「お前の母さんは恐ろしい女だ。一人はきちんとやり遂げた。俺のことはやり損なった。酷い女だ」

 僕は一度だけ母さんを見たことがある。僕が生まれてからのほとんどの生涯を、すべてのものが柔らかで、ボルトで固定された部屋で過ごした彼女が、唯一のやり方でそこから抜け出し自由になった姿を、棺の中で眠る姿を見たことがある。
 僕は想像通り母さんにそっくりだった。
 髪の毛は父さんにそっくりだったけど、あるいは叔父さんに似ているのかもしれないけど。

「叔父さんのことを酷いヤツだと思ってるな?」

 叔父さんは僕の耳元で愛おしそうに囁く。悪い人だと思ったんだってば、酷いかどうかは、わからないって。叔父さんは僕の耳が好きだ。自分の耳なんか意識して見ない。母さんの耳は漆黒の直毛に隠れて見えなかった。食い入るように見つめた父さんの耳の形は、叔父さんとは少し違っている。僕の耳の形は誰に似ているんだろう。それによっては叔父さんのことを酷いヤツだと思うかもしれない。

「ポケットの中のものを出していいぞ」

 外は相変わらず情け容赦無い豪雨で、フロントガラスはドロドロに溶け落ち続け、僕はここが何処なのかもわからない。何処にいたって叔父さんの声の届く範囲なら同じだと思ってた。今日はどうだろう。ポケットの中のものがあれば自由になれるだろうか。でも昔、父さんと叔父さんを滅多刺しにしたナイフは、母さんから自由を奪い柔らかな檻に縫い止めた。それっぽっちだろうか。母さんは何か得ることができたんだろうか。

「ここは波止場なんだ。少し進むだけで死ねる、二人とも」

 叔父さんがエンジンをかけた。暗い車内に浮かび上がったディスプレイのデジタル時計は、僕の腕時計と同じ時間を指している。僕が成人するまであと15分ほど。叔父さんはチェンジレバーに手を伸ばす。ワイパーが一度だけ動いて、一瞬だけ溶けたフロントガラスが均された。土砂降りの外は本当に海だった。暗い海の縁ぎりぎりに、この車は停車している。荒れた波のしぶきにさえ晒されているに違いない。

「叔父さんのことを酷いヤツだと思ってるな?」
「いいや。叔父さんが僕の父親だったらよかったのにって思ってた」

 何度目かの問いに正直に答えると、叔父さんはしばらく黙っていた。煙草はとうに僕の座席の下に落ちて、僕の靴底に潰されている。どうしてそんなことにこだわるのだろう、叔父さん、さっきから自分で言っているじゃないか。叔父さんは酷いヤツ、父さんはもっと酷いヤツ、母さんも恐ろしく酷い女。僕は。写真の中の父さん、棺の中の母さん、今僕の隣で、ブレーキに乗せた足を貧乏揺すりのように小刻みに震わせている叔父さん。僕は。三人の特徴を余さず受け継いでいる僕は。

「叔父さん、キスして」
「…」
「叔父さん、ねえってば」
「…」
「父さん」

 フロントガラスは情け容赦無い豪雨のせいでドロドロに溶け落ちたようになっている。今、叔父さんが再びエンジンを切る。叔父さんは酷い人だ。叔父さんは悪い人だ。父さんは酷い人だ。本当に酷い人だ。

「20年前の今頃、兄さんにいちばん酷く犯された。本当に気持ちよくて死んでしまいそうだった。手も足も動かせなくて、息もできなくて、今頃お前が産声を上げてるんだって思うと、あれが俺の人生最高の日だったな」
「僕も今のところその日が人生最高の日だよ」
「違うだろ?お前は、」

 今日だろ?
 僕の膝を跨ぎながらシートを倒して、僕のナイフで僕の衣服を切り裂きながら、彼は人生最良の日だとでも言うように笑っている。気が変わって刺されやしないかとそんな不安がよぎるけど、それでもいいし、自分が母さんから与えられ、また与えられ損なったものを彼がやすやすと人に渡すとは思えない。ともかく別れの演説は無駄になった。時計をちらりと見る。20年前のこの瞬間、呪いの結晶のように産み落とされた僕は今、目の前の愛しい彼らと同じ大人になった。
top next
GFD