マトリサイダー
 まだ子供と少女の境目にいる女の子たちが怖い。中学生の頃、ほんの一時期だけ仲間はずれにされた思い出が堪えているんでしょうか。全く関係ないとは言わないけど、それだけのせいにするのは的外れのような気もします。だって、私自身もまた別の時期に、別の女の子を仲間はずれにするのに加担したことがあるから。
 それがどんなに残酷なことか理解していました。本当は悪いことだと理解していました。でも、罪の意識はありませんでした。女の子から少女へ変わるほんの数年の間にだけ、通用する価値観というか、世界のルールがあると思います。あの頃、マジョリティであることはそれだけで絶対の正義でした。それが多少悪いことだとしてもです。マイノリティであることはそれだけで、残酷に痛めつけられても仕様のないことでした。それがたとえこの上なく良いことだとしてもです。そして子供のさなぎから抜け出しつつある女の子たちは、マジョリティが世界に元から存在するものではなく、自分たちで作り出すことができるものだと、言葉にはできなくても薄々勘付きはじめています。自らの些細な悪意がみんなに認められ、共有されて増幅して絶対の正義となって、ひとりの女の子を痛めつけていく。そのときはそれがとても気持ちよくて、正しいことのように思えた。罪の意識はありませんでした。それがどんなに悲しく、辛く、惨めなことか、身をもって知っている子は私を含めて何人もいたのに。いいえ、きっと知っているからこそです。それがどんなに悲しく辛く惨めに、効果的に、ひとりの女の子を痛めつけることができるものか、知っているからこそ。きっとそういう思いをしたことがない女の子よりも、したことのある女の子のほうが残酷な歓びの意味をきちんと理解していたはずです。
 だから大人になってそのルールから外れてしまった今は、女の子たちが怖い。あんなに無邪気なのに、可愛いのに、とても残酷な気持ちを疑わないでいられる年頃の女の子。誰の心にもそういう残酷な女の子が居て、息を潜めているんだと。そして間違いなく、私の中の女の子は特別残酷な女の子なんだと。そう突きつけられるのが怖いのかもしれません。認めたくない浅ましく外道な自分の心が、恥ずかしくて怖くてたまらないのかもしれません。
 窓の外を楽しそうに走っていく女の子たちを眺めながら、そんなことを考えました。彼女たちが着ている地味なセーラー服は、この近くの公立中学の制服です。膝丈のプリーツスカートから伸びる棒のような脚、着られていると形容したくなるような、肩幅の追いついていない襟元。あどけない彼女たちを眺めて、そんなことを考えました。

「セーラー服って可愛いわよね」

 ふいにそんな当たり障りのないことを言われて、私はハッとして視線を店内へ戻しました。テーブルを挟んで向かいに座った先輩が、窓の外を過ぎ去っていく女の子たちと私を交互に見ながら微笑んでいました。知らず自分の頭の中にかかりきりになってしまったのが恥ずかしく、また申し訳なくて、私の返事は曖昧でぼやけた相槌になります。先輩はそんなことはまるで意に介さず、ニコニコしながらケーキをつつきました。フォークを持つ手指と同じくらい真っ白なレアチーズケーキで、ブルーベリーのソースがかかっています。

「あなたが通ってた中学校の制服は、セーラー服だった?」
「はい、暗い紺色に黒いスカーフのセーラー服でした…」
「すてき。きっとあなたによく似合っていたでしょうね」

 お礼を言うものかもわからなくて、私の返事はまたごにょごにょとした不明瞭なものになりました。中学時代なんて、10年も昔のことを想像だけで褒められているのに、たとえお世辞に決まっていてもお礼を言うのは逆に不遜なような、図々しいような。それに、当時の私は、女の子だった頃の私は制服のセーラー服がそれほどお気に入りではなかったように思います。それは概ね他の女の子たちも同じで、暗すぎる色合いのセーラー服は「喪服」と揶揄されていました。

「私は中学も高校もブレザーだったの。隣の学区はセーラー服でね、すごく羨ましかった。もうさすがに着れないし、着たいなんて思わないけど、女の子なら一度は憧れるわよね」

 そんなことないんじゃないかな。今度は本心が危うくまろび出かけて、笑い混じりの相槌でごまかします。チーズケーキを口に運ぶ先輩の細く、白い手首、少し節の目立つ筋張った手指を見て、そんなことない、とまた強く思います。私は先輩が喪服のセーラー服を着ている姿を想像していました。先輩はもう十分に大人の私より八つばかり歳上で、職場の上司にあたります。過去に結婚していたこともあると、噂に聞いたこともあります。今、指輪をしていないことは何度も盗み見て知っていました。どこもかしこもほっそりと白い彼女が喪服のセーラー服を着ればさぞ映えるだろうし、半分子供の女の子たちとはまた違う儚さがあるだろうと想像できました。

「ごめんね、話があって来たのよね」

 あまり見つめすぎたのか、先輩は促されたと勘違いしたようでした。そうです。先輩も私も定時で帰ることのできる日を何度も見計らって、今日ようやく私は仕事終わりに先輩をお茶に誘ったのでした。少しお話したいことがあるのだと言い添えて。こういう頼み方をすれば、上司でもある先輩はまず断らずに承諾してくれるでしょう。何が何でも、というわけではなく、断られてしまってもいい軽微な誘いでした。それなのに気持ちの弱いところのある私は、たったそれだけの誘いでも断られたらと思うと恐ろしくてたまらなくて、ついそんな予防線を張ってしまったのです。仲間はずれを経験して以来、誰かに拒否されることが必要以上に怖いのは事実でした。

 でもこれは、どうしたらいいのかしら。

 先輩の隣に座っている男性を見て、私は思いました。彼はごく自然に、先輩の隣に座っていました。先輩の隣に、というよりも「その」場所にーー全国にチェーン展開されたこの喫茶店の、この窓際の机の「その」席にーーごく当たり前のように、定位置だとでも言うように収まっていました。先輩と私の会話に耳を傾けたり加わったりという様子があるかというとまったくもってなく、かといって所在なさげにしたり、あるいは退屈そうな様子もありません。彼はごく自然に、そういうオブジェかなにかのように「そこにいる」だけで、自分がこの場にいることを疑う様子がないことだけははっきりとわかりました。
 彼は私の同期です。同期のよしみで当たり障りのない言葉を交わしたことは数回あるけれど、親しいか親しくないかと言えば親しくないうちに入るでしょう。そもそも部署が違うので、社内ですれ違うことさえ少ないのです。私の同期ですから、当然彼にとっても先輩は直属でないにしても上司にあたります。ただそれだけでした。私との接点も先輩との接点もそれだけで、彼が今この場にいる理由としては今ひとつ頼りないのでした。
 私の視線に気づいたのでしょう。先輩が紹介でもするようにほんの少しだけ彼のほうへ身体を傾けました。先輩の尖った顎の高さで切り揃えられた髪の毛がさらさらと動きました。その間も、彼は目立った身じろぎもせず自然に座っていました。

「二人は同期なのよね。私と彼は実は従兄弟同士なの。歳は離れているんだけどね」

 先輩と彼の関係の説明はそれでおしまいのようでした。彼がうなずいたりして肯定する素振りを見せるかと言えばそんなこともなく、先輩もまた同意を求めて「ね?」だとか、そんなことを言う素振りもなく、彼のほうを見ることすらなく傾けた身体を戻しました。従兄弟同士、というのは本当に初耳です。従兄弟同士というとかなり近しい血縁関係にあたるのじゃないかしら、と思うのですが、彼らの間にそんな親しさの気配は微塵もなく、ひたすら静かな温度のみが横たわっています。歳が離れていればこんなものなのかしら。わかりません。私の両親はともに一人っ子で、そのうえ両親が離婚してからは父方の親戚との親交がぱったり途絶えてしまったので、親戚付き合いというものがそもそも私にとって想像の範疇の外なのです。
 それにしても彼がこの場にいる説明にはなっていない気がするのですが、彼があまりにも自然にそこにいるので追求することもできませんでした。彼がそこに座って、時折手を動かしてホットコーヒーを飲む姿はまるで風景の一部でした。
 私の中の彼の印象は「普通のいい人」です。同期の中で特別リーダーシップがあるだとか、積極的だとか、あるいは特別付き合いが悪いだとか、敬遠されているとかそんなことはなく、普通にノリが良くて、必要であれば誰とでも普通に言葉を交わす、そんな印象です。普通に仕事もできて、同期でずば抜けてということはないけどきっと順当に出世もしていくんだろうなという立ち位置で、女性陣のみが集まったときの会話で「彼、少しいいよね」という声が上がれば普通に賛同の声が上がるような…そういう「普通にいい人」という印象です。ただ、同期の男性陣がまだどこかに残している、つい最近まで「男の子」だったことを感じさせるある種の無邪気さが、彼からは微塵も感じられないのでした。それに、当たり障りのないことを話していて感じたあの違和感というか、なんというか…。気の所為かもしれないけれど、私のように気持ちの弱い人間がはっと萎縮して言いなりになってしまいそうな、有無を言わさない「強さ」を感じたことがありました。きっと気の所為だけれど。彼は本当に優しい当たり障りのない物腰をしていて、そんな無慈悲な強さはとても似合わないのです。だからきっと私の弱く情けない性根がそんな勘違いをさせたのです。現に私は本当に、彼のことを「普通のいい人」だと思っているのですから。

「ね、お話ってなにかしら。なんでも話してみて」

 彼を紹介したときより余程親しげに、先輩は私を促します。そう、「話がある」と言われて、従兄弟とはいえ関係のない人間を連れてくるものかしら…。もしかして、警戒されているのかしら。そんなことすら思うものの、先輩の笑顔だとか、ほっそりと筋の浮いた首を傾げる様だとか、若いだけの女の子には持ち得ない、使い込まれて少し節くれだった飾り気のない手指だとかを見ていると、私はどうしようもなく焦がれる気持ちを抑えきれないのです。心臓の最も奥深くからあふれ出してくるような、懐かしいような切ないような、甘いような何かに、焦がされて仕方がないのです。仕方がないので、私はいくつか用意していた話のうち、最も当たり障りのない仕事の悩みを話し始めました。先輩はとても用心深く聞き入って、相槌を打ってくれます。その隣の彼も、立ち入りすぎでない程度の態度で聞き入っているようでした。
 母親のような人。そんな女の人に、私は焦がれてしまう傾向がありました。私の母親というには先輩は若すぎだし、それこそ失礼にあたるほどでしょう。そうではなく、ほんの小さな子供の母親になれるような女性に私は焦がれてしまうのです。たぶん、私自身がほんの小さな子供だったころに母親に十分に甘やかされずに育ったからでしょう。
 記憶の中の私の母は、いつも眉をひそめてうつむいています。昼下がりの薄暗いダイニングのテーブルにたった一人で座って、いつもつまらなそうに、苦しそうにうつむいている。私がほんの小さな子供だったころの母はそういう人で、笑っているところなど見たことがありませんでした。話しかけても上の空か、頑なに黙ったままでいるかなので、私はずいぶん小さなころから大人にとって子供の話すことはつまらないことなのだと理解していました。
 父の女性関係にとうとう我慢ならなくなった母が家を出たことがありました。たった4歳の私を置いて。ほんの小さな子供の私と二人きりにされれば、父も自分の立場を理解して目を覚ますだろうという目論みだったのだと、大人になってから打ち明けられました。母の目論みは成功しましたが、二度目はなく、両親は離婚し私は母に引き取られました。母が私を置いて行ったときのことは、さすがにおぼろげにしか覚えていません。けれど、悲しかった記憶も寂しかった記憶もなければ、置いて行かれて泣きじゃくった記憶もありません。きっと何が起こっているのか理解していなかったのです。なんといってもたった4歳の子供でしたから。けれど、私が泣きじゃくって置いて行かないでと取りすがる様な子供だったら、きっと何かが違ったのかもしれない。昼下がりのダイニングでうつむく母の首筋の翳りを思い出すたび、私はそんなことを思います。

 先輩への相談は、思いの外うまくいきました。先輩は想像どおりとても親身に聞いてくれて、的確なアドバイスをくれました。意外だったのは、隣に座る彼もまた親身に聞いてくれて、アドバイスや賛同をくれたことです。彼は愚痴とも言える部分にも笑いながら賛同し、また自分の愚痴や悩みも吐き出しながら、最後には明るい展望へ向く様な話し方をしてくれました。やっぱり彼は「普通にいい人」だと、私はすっかり安心したのです。
 窓の外はすっかり暗くなり、時計を見るともう夕食を食べてもいいような時間になっていました。

「僕はそろそろ」
「そうね、今日はお開きにしましょうか」
「はい。ありがとうございました、二人とも」
「いいのよ。私なんかより彼のほうがよほどいいアドバイスをしてたわね、悔しいわ」
「そんなことないですよ、僕は便乗して愚痴っただけ」

 それはこの小一時間で初めて彼と先輩の交わした会話でした。やはり当たり障りがなく、温度はどこまでも平板でした。先輩が椅子を掴んで立ち上がります。筋の浮く白い手、さらさらと流れる髪の毛に、やはりなんとも形容できないあふれ出しそうな焦がれが私を満たします。

 喫茶店の外に出ると、本当に夜になっていました。店のすぐ正面の路肩に、高級そうな銀色のセダンが停まっています。別れも告げずにまっすぐセダンへ歩いていく彼を、追いかけてもう一度お礼を言うべきか迷いました。けれど先輩が隣で身じろぎもせず、ただその姿を見守っているので、結局私もそれに倣うことにしたのです。
 セダンの運転席の窓が開いて、運転手の男性が顔を出しました。アラフォーというのがちょうどいいような男の人です。その顔を見て息が詰まりました。私の中の弱く情けない部分が、一斉に竦み上がって萎縮しました。私の同期の彼、「普通にいい人」であるはずの彼に、一度だけ感じた違和感。有無を言わさない、無慈悲なまでの意志の強さ。人の顔色をうかがいながら生きてしまう弱い人間を打ちのめし、言いなりにするような、サディステックとさえ言えるような強さ。セダンの運転手の男性は、「普通にいい同期」の彼のそんな部分を抽出して人間の形にしたような、そんな雰囲気の男性だったのです。
 初対面の人になんて失礼なと、私が自分を恥じているうちに、彼はセダンに辿り着きました。窓の空いた運転席の真横に立ち、男性と二言三言交わしたかと思うと、その顎にごく自然に手を伸ばしました。彼の手が運転手の男性の顎から頬を撫でて、そのいかがわしさに目を奪われたその瞬間、二人はキスをしていました。
 世界に二人しか存在していないかのようなキスでした。海外式の挨拶と言っても、とても済まされない情熱的なキスを二人は交わしていました。彼は腰を屈めて、男性はセダンの中から目一杯首を反らして。彼の手は男性の耳元を掴み、男性の手は彼の頚椎に回されていました。どう見ても、恋人同士のキスです。関係のない他人が見ていていい行為ではない、と私は思いました。かといって目を逸らすのも。隣にいる先輩に、男同士だから目を逸らしたと思われるのが嫌で、できませんでした。先輩は彼がセダンへ歩く姿を見守っていたときとなんら変わりなく、まるで今も彼女の目に映っているのはただ歩いているだけの彼だとでも言うように平然としています。私はまた、先輩に倣うしかありませんでした。だから、先輩の表情を確認することも叶いませんでした。

「あの二人は実の親子なのよ」

 私の当たり障りのない相談に相槌をうっていたのと変わらない口調で先輩は言いました。さすがにギョッとして、思わず先輩を仰ぎ見ます。先輩はやはり、先ほどまでと変わらない笑顔で私を見て、言い聞かせるように首を傾げます。

「髪の毛の感じとか、よく似ているでしょう?」

 彼も、男性も、同じように色素の薄い柔らかそうな髪の毛をしていました。唇を離した彼が助手席のほうへ回り込んで乗り込む寸前、私たちのほうをはっきりと見ました。濡れた唇でごく自然に微笑んで、彼は会釈をして軽く手を振りました。有無を言わさず。応えそうになった私の手を、先輩の手が強く握りしめました。ひんやりとした手で、想像もできないくらい強い力でした。代わりに先輩が手を振ると、彼はセダンに乗り込んでドアを閉めました。運転手の男性が前を向いたまま運転席の窓も閉まって、セダンは静かに発進します。すぐにスピードは上がって、二人を乗せたセダンは宵闇に消えていきます。

「お腹が空いたわね」

 私の手を握ったまま、先輩が言いました。握る力は強く、痛いほどなのですが、不思議とそれが心地いいのです。先輩は私の顔を覗き込みます。さっきの男性のように私が首を反らせば、きっと唇が触れてしまう。そんな距離です。

「良かったら、夕食も一緒にどう?私きっと、あなたの口に合う料理を作れるわ」

 誘われている。私にだってそれくらいのことはわかりました。ふと、脳裏に母の姿がよぎりました。希望のない昼下がり、うつむいて、孤独で、つまらなくて苦しくて、ここにいない人に焦がれている、まだ若い女だった母の姿が。目の前の先輩に母の面影を重ねて探しました。すんなり重なる気もしたし、むしろ見たこともない母を苦しめていたほうの女に重なるような気すらしました。私はそんな女の人に焦がれる傾向があります。私の中にいる特別残酷な女の子が、大丈夫だよ、さっきの二人を見たでしょうと楽しげに囁いてきます。先輩のような女の人に焦がれて仕方ないのです。心臓の最も奥深くから湧き上がり、心臓の裏を焦がす名も無き感情が、先輩のような女の人を手に入れたくて、めちゃくちゃにしたくて、大事に大事に独り占めしたくてたまらないのです。

「はい。先輩さえ良ければ」

 囁くように答えると、先輩は満足げに微笑みました。到底母の面影には重ならない美しい笑みでした。先輩の尖った顎の高さで切り揃えられた漆黒の直毛が、さらさら流れて私の頬に触れました。
prev top next
GFD