畜生道の女

 弟が生まれた時のことは実は記憶にない。弟が生まれ、姉になる日のことをどんな面持ちで待ちわびたのかも思い出せない。その頃は私はすでに10を超えていたのだから、そんなはずはないと自分でも思うのだけど。小さな弟との日々を思い出すと、今でもほんの少し心がまっすぐになる。こんなにも誰か人間のことを愛しいと思うことが現実この世界でありうること、それはそれだけで生きていくだけのこの世の価値であるように思えた。それだけで人間としてまっとうに生きていける気がした。10を少し過ぎただけの小娘が、そんなことを思った。
 それだけ歳が離れていれば、姉弟で喧嘩をすることもないだろうという。
 性別が違うならなおのこと、互いに比べて僻み妬むこともないだろうと。
 そうかもしれない。その点でも私は恵まれていたと思う。実際弟が生まれて私は本当にうれしかったのだ。やっとこの世に味方ができた気がした。唯一、私と同じ立場にあると絶対的に信じることができる、だって同じ血を分けて生まれてきた同志なのだから。だから愛した。10も歳が離れていれば、きっとそれは親が子に注ぐような愛だった。庇護の対象を、僻み妬むことなどありえない。逆も然り。きっとそう。いや本当にそうだろうか。白状すると少なくとも私は、弟を妬ましいと思ったことなど何度だってあるのだけれど。弟のことは本当に、きっと親が子に注ぐように愛していた。産み落とした親鳥のようにすべてから守り、愛したいと思っていた。
 だから、私にこんなに愛される弟のことを妬ましいと思ったことは何度だって、数えきれないほどにある。


 先に断っておくと、私は幸せになりたかったわけではない。ただ不幸になりたくなかっただけだ。なぜかというと、それは私が不幸だったからだ。私を構成するすべての要素が、私のことを「惨め」だと客観的に評価していたからだ。「実際のところ」というのは、人生において基本的には意味をなさない。人生は建前によってのみ流れていくものだからだ。初潮を迎える前に父親に犯されたこと。母親が弟を産み落として死んだこと。嵐の夜に、泥酔しているはずの父親を迎えにも行かなかったこと。それどころかどうか死んでいてくれと、夜通し祈り続けたこと。「実際のところ」私がどう感じているかは別にして、そういう要素で構成された私はひどく「かわいそう」で「惨め」な女の子だ。それはもう仕方がない。どうしても運が悪いということはある。でも、到底受け入れられるものではない。悔しくて悔しくて、恥ずかしくて、惨めで、だから私は幸せになりたかったわけじゃない。私を構成するマイナスの要素を一つずつ、プラスの要素で帳消しにして、最低のラインに、ゼロに近づきたかっただけだ。惨めな私を路傍の石を見るようにそう見て取ったすべての人間に、つまりなにより自分自身に、ほら見て、もう惨めではないでしょう、って見せつけて見返したかっただけだ。
 最初の家族に恵まれなかったマイナスは、新しい家族で幸せを得て帳消しにできる。私は慎重に、そうなるように仕向けてきたはずだった。幼馴染の男の子が、客観的に見て「いい旦那さんになれそう」な青年に育つように、「歳の離れた義弟ともうまくやってくれる」夫になるように、私を愛するように、私と弟に幸せな家族を与えてくれるように、私を「惨め」ではないと満足させてくれるように。そうなるはずだった。それは別段難しいことではないはずだった。私の不可抗力で凶悪なマイナス要素は、人のいい幼馴染の夫によっていともあっけなく解決されるはずだった。私は私を惨めだと一度でも思ったことのある人間に対して「もう惨めではない」と勝ち誇れるはずだった。
 「結婚するから」そう言った私に、15歳になっていた弟は「おめでとう」と、当たり障りのない顔をして当たり障りのないことを言った。その声の完璧に抑制された抑揚に、やっぱりこの弟だけがこの世界で私の味方なんだと、そう噛みしめたのだ。


 10歳を少し過ぎるまで、この世界に味方なんていないと思っていた。優しくしてくれる人でも守ってくれる人でも幸せにしてくれる人でもなく、私には味方が必要だった。疑いなく同じ境遇だと、つまり私と同じ程度に「惨め」だと保証されている同志が必要だった。高いところから救い上げてくれる人には私のマイナス要素を本当の意味で消し去ることはできない。同じ穴の底で並んでなんでもない顔ができる同志が、同じようになんでもない顔をする勇気を私に与えてくれる同志が必要だった。だから弟のことは本当に愛していた。本当に、生まれてきてくれただけで良かった。生まれてきてくれただけで彼は私の救い主だった。存在してくれるだけで十分なのだから、そのために私はなんだって投げ出せる。そう思ってた。
 16歳になった弟を、夫が犯していると知ったときも。
 本当に、本当に誤算だったけれど、こんなことになるなんて本当に計算外でそれだけで怒り狂ったっていいほどだったけれど、そんなことはどうでもよくて私は弟のためになんだってできると思った。弟に、私の実の父親のような仕打ちを働いた男に、どんなむごいことだってしてやれると思った。思ったと思う。たぶん。今はもう、本当にどう思っていたかなんて自信がないのだ。仮に、仮にその瞬間私が本気でそう思っていたとしても今はもう。
 弟が泣いてくれたら良かった。弟が私に泣きついて、私の夫のせいでひどく傷ついたと訴えてくれたらよかった。それができなくたって、ふとした瞬間に明確に堪えているのだと私が勝手に解釈できるような表情をしてくれたら、良かったのに。
 弟は素知らぬ顔をしていた。縛られて泣きながらえづいたことなど、殴り倒されて犯されたことなど、自分を惨めだと感じたことなど一度もないかのように、そんな仕打ちを受けていることなどおくびにも出さなかった。私の夫に殴られながら、犯されながら、射精されながら、私の前ではごく平然と振る舞い、笑い、ほんの小さなころから変わらない態度で私に話しかけた。
「学校で面談があるんだけど、保護者は来れないなら来なくていいってさ、聞いてる?」
「え?」
「寝ぼけてんの?面談」
「ああ、そうなの、そう、助かるね」
 ごく平然と。おくびにも。どうしてなの。何考えてるの。あなた、私の味方じゃなかったの。
「義兄さんはもう仕事行ったの」
「うん。あのね、お姉ちゃん今日また、帰り遅くなるから」
「そう。無理すんなよ」
 ふとした表情のひらめく瞬間でさえ、惨めさなどおくびにも出さずに。泣いてくれたら良かった。苦しいと辛いと憎いと惨めだと、そしたら私はあなたの味方になれたのに。生まれてきてくれただけで嬉しかったのに。私はあなたが生まれてきてくれただけで嬉しかったのに。
 何を考えてるの、ユキちゃん。お姉ちゃんの味方じゃなかったの。
 どうしてお姉ちゃんのこと、こんなに惨めにするのよ。


 結局のところ、私は何より弟のことが大事だったのだと言えると思う。私のマイナス要素をひとつずつ、虫を潰すようにすり潰していく作業は、おかげですっかり停滞してしまったのだから。ほかのすべてのマイナス要素より、弟が味方じゃないかもしれないことのほうがずっと、ずっと私を惨めにして雁字搦めにした。つまり私はなにより弟のことを愛していたといえると思う。何より弟のことが大事だったのだと、その証明にはなっていると思う。
 だから私は実際のところ、その悲鳴を待ちわびていたのだと思う。
 弟のその、この世すべての苦痛をぶちまけたような苦悶の叫びを待っていたのだと思う。
 私はその、はるか昔、父親に犯されたその部屋へ駆けつけて、何が起こっているか理解するより先に夫を突き飛ばし、器官を火傷しそうなほどに熱い水蒸気を嗅ぎ、今はもう自分より大きくなった弟を抱え上げた。はるか昔、どうかあのろくでもない父親がどこかで野垂れ死んでいますようにと願った夜、赤ん坊の弟が夜泣きしないよう抱きしめていたのと同じ手で。自分より大きな弟を風呂場に引きずっていき、到底人間のものとは思えない熱を放つ背中に冷水を浴びせた時、初めてぞっとするような恐怖が喉奥からこみあげてきた。それは許されない過ちがあるとすればという恐怖だ。償えない罪があるとするならという恐怖だ。取り返しのつかない失敗は確実に存在するという恐怖だ。年代物のシャワーの冷水では到底足りない気がして、台所へ氷をとりに走ったとき、ふと、流しのシンクの底に沈んだ包丁を見た。鈍く蛍光灯の明かりを照り返す、その希望の光を見た。すべての恐怖を帳消しにしてすり潰す希望の光を。
 結論から言って、私はその希望の光を一度は手に取ったのだ。よどんだ水に手を入れ、ぬめる柄を握り、かつて私が実の父親に犯され続けたその部屋に入り、何がおかしいのかヘラヘラ笑い続けている夫に馬乗りになって振り上げた。
 殺してやると思った。絶対に殺してやる。私の弟に、私の弟によくもよくもよくも、殺してやる殺してやる殺してやる、よくもよくも私の、私だけの弟に!私だけの味方に!私だけの私だけの、私のためだけに私の味方になるためだけに生まれてきた私の私の弟に!殺してやる!殺してやる!
 ふと、惨めだと思った。その瞬間、生まれてから最も強烈にそう感じた。世界中すべてが私をあざ笑っていると思った。不幸で可哀そうで浅はかで惨めったらしいバカ女だと、客観的にそう判断されて次の瞬間には路傍の石のように捨て置かれていると思った。
 実際そうなのだ。私は幸せになりたかったわけじゃない。不幸であるから不幸ではないと思い込みたかっただけだ。普通の人なら気にも留めないようなそんなことにこだわらなくてはいけないほど、惨めだったのだ。
 冷水の下で朦朧としている弟の前に這い蹲って許しを請うた。惨めに水をかぶりながら泣いた。次第に覚醒した弟はこの期に及んで私を気遣う言葉を吐いた。濡れそぼって重く垂れた髪の隙間から弟を見上げた。弟は優しい顔をしている。弟は生まれてからずっと私に優しい。優しいその顔にはっきりと、「お前は惨めだ」と書いてある。あなたはどうなのよ。私がこんなに惨めなら、あなただって同じように惨めであるはずでしょ。私のこんなに惨めな気持ちを、あなたなら同じように理解してくれるはずでしょ。
 そのために生まれてきたのよあなた。
 そのためにあなたをこんなに惨めにした女が目の前で這い蹲ってるのよ、ユキちゃん。待って、行かないで、置いていかないで。お姉ちゃんを一人にしないで。お姉ちゃんの味方でいて。ずっとお姉ちゃんだけの味方でいてよ。いかないで、いかないで。守ってあげるから。なんだってしてあげるから。今度はちゃんと殺すから。いかないで。お姉ちゃんの味方でいて。一人にしないで。


 そして後日、縛られて腕を折られ睾丸を潰され例の部屋に転がる夫を見ても、特に何という感情も沸いてこなかった。私がしなかったことを誰かがやっただけだ。ユキちゃんに置いて行かれてから、どうもうまく頭が回らず、感情が沸いてこなかった。惨めだと悔しいと恥ずかしいと思った気持ちも、殺してやると思った気持ちも、私を置いていくなんて許さないと思った気持ちも、確かに感じたことは覚えているけどその温度がどんなものであったかはまったく思い出せなかった。すべて幕の向こう側の出来事のように思える。かわいそうに、睾丸を潰されると男の人ってこうなるのね、たぶん病院に連れて行ったほうがいいんだろうなあ。
 私がやらなかったことを誰かがやっただけだ。なら、誰かがやらなかったことは私がやらなければ。今度はちゃんと最後までやらなくては。義務ではないけど、やったほうがいいんだろうなあくらいの気持ち。生きていく理由もしばらくは、それくらいしかない。それくらいはできる。いくらなんでもそれくらいは私にだってできる。この人が死ぬところを見届けるくらい、私にだってできる。今まで何にも成し遂げられなかったけれど、そう仕向けるくらいなら、簡単そうだから。それくらいなら。私はたぶん本当にこの人を愛していたし、弟を愛していたんだと思う。今はもう「本当のところ」なんてよくわからないけど。


 予報を裏切らずに暑く、せっかくこう古ぼけた平屋で無駄に広い庭があるのだから水でも撒いてみようかしらと思ったのだ。しばらく、あと何日かは暇でいる予定だったので。ホースを持ってきてシャワーノズルを繋いで、水を撒いてみて、そうそうこんな感じと思った。こんな感じのイメージがある。隠居したおじいさんなんかがこうして庭に水を撒いているイメージ。なんのためなのかはイマイチわからない。
 しばらく水をまき続けて、涼しくなったような気もするけど何より飽きてきたころ、水気をたっぷり含んでゆらゆら揺れる空気の向こうに人影を見つけた。生垣の向こうに立っている男の人。笑顔。背は高いけどまだ男の子と呼んだってよさそうな年ごろに見える、ユキちゃんと同じくらいかな、なんて最近はその程度でも弟が脳裏をよぎることは珍しいから自分に驚いてしまった。でもまあ、よく考えれば数日前に会ったんですもの、おかしくないよね。
「何か御用ですか」
 水をまくのをとうとうやめて、私は男の子に呼びかけた。生垣を越えてこっちに来ないので、生垣のほうへ歩いて行きながら。この家に誰かが訪ねてくるなんて、もうないと思っていた。それこそ数日前に終わった夫の葬式を最後に、もう二度とないものだと。
「ハルくんが」
 それを聞いて弟の名前が「ユキハル」だったとまともに思い出したくらいだ。私の中で弟の存在はほとんど「ユキちゃん」という概念と化している。
「こないだの葬式のときにライター落としたっていうから。俺もこっちに来る用があったんで取りに来てやったんですけど」
「ユキちゃんのお友達なの」
 私の問いかけには笑い声の付かない笑顔が返ってきた。そうだという肯定だとも、あるいはもっと他の何かだとも、あるいは知人ですらないとか、あるいは今しゃべったことは全部嘘だとか、つまりなんの答えにもなっていない不可解な笑顔だった。私は生垣に近づきかけたところを引き返して、家の中へ引っ込んだ。しばらく葬式のときにユキちゃんが座っていたあたりだとか玄関だとかを見回してみたけど、がらんどうの家の中にそれらしきものはない。仮にあったとしたって、それがユキちゃんの物かどうかなんて私にわかりっこないのだ。私はもう一度庭へ出た。黙って引っ込んだのでもしかして帰ったかと期待したが、彼は変わらず生垣の向こうに立っていた。不可解な笑顔で。
「ごめんなさい。見つからなかった」
「よく探してくれた?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
「やっぱり」
 なにがやっぱりなのか。聞いても良かったけれど急に億劫になって、もう用も済んだのだから早く帰らないかしらこの子、とすら思う。
「ごめんなさい。わざわざユキちゃんの代わりに来てくれたのにね」
「俺が行ってやるって言ったらハルはすげー嫌がってた」
「そうなのね」
「あいつはね、俺のこと強姦魔かなんかだと思ってるんすよ、失礼しちゃうよね」
 ごうかんま。鸚鵡返しに口を動かして、早く帰らないかしらこの子と思う。
 ひらめきがあった。なんの根拠もないけれど、この子がやったのだと。きっとこの子が私のやらなかったことをやったのだ。私のやらなかったこと、つまり、ユキちゃんのためになんだってやるということを。
「誰の葬式だったんだっけ」
「私の夫よ」
「お姉さんまだ若いのにね、歳の差夫婦だったとか」
「いいえ、幼馴染だったから」
「どうして死んだの」
「自殺」
「安心しなよ、俺はアンタのことクソ女だと思ってる」
 私は彼の喉のあたりを見ていた。彼の喉が生きて動くのを見ていた。彼の顔だとか表情だとかは、少し日差しが強すぎてあたりが明るすぎて、うまく頭に入ってこない。
「ハルは自覚なく拗らせてるからな、死ぬ気で逃げ出しといて喪服の未亡人になったアンタ見たらほだされかけちゃってるわけ。油断も隙もねえよ、だから絶対会わせねー」
「どうしてそんなこと」
「俺はアンタのことが死ぬほど妬ましいから」
 思わず笑いが出た。こんなに自然に笑うのは久しぶりのことだった。妬ましいですって。私がやらなかったことをあなたはやったくせに。やってしまったくせに。私の弟を救い上げてしまったくせに。同じ穴の底にいた弟を勝手に連れて行ったくせに。私だけの弟だったのに。私のために生まれてきた弟だったのに。
「俺って結構女々しいからこういうこと本人に言っちゃうんだな、ハルくんはウサギメンタル言うてたけど」
 ライターが出てきたら捨てろと彼は言った。知ったことか。ライターなんか、もしつま先に当たったって拾い上げもしてやらない。

「最高の気分だっただろ。弟の人生すり潰しながら生きるのって」

 誰もいなくなった庭にもう一度水をまき散らしながら、私は笑って、泣いて、涙を流すことにカタルシスの効果があるって本当だなあと思った。こんなに気持ちいいと思わなかった。再三言うけれど私は別に幸せになりたかったわけじゃない。不幸になりたくなかった。ひとつの不幸も降りかかるのを許さないだなんて、世界一幸せになりたいと願うより傲慢だと知りながら。私は弟が生まれて来てくれただけでよかったし、確かにあの人のことも愛していた。弟のことを妬ましいと思ったことは数えきれないほどある。こんなに私に愛されている弟を。私には、この私のように、私の人生をすり潰してまでともにありたいと願ってくれる味方が必要だった。
prev top
GFD