シュレディンガーの胎児


シュレディンガーの猫をご存じない方はいないでしょう?ガイガーカウンタ、少しの放射性物質、そして死ぬのに十分な青酸ガスと一緒に密閉された、箱入りのネコちゃんのことですわ。その思考実験の真に言いたいことだとか量子学的可能性だとかは微塵も理解していないとしたって、まさか「シュレディンガーの猫」という言葉すら聞いたことがないなんて方はいないでしょう。
このネコちゃんがこうも人々の関心を惹きつけるのは、ひとえにその残酷な境遇にポイントがあると思いませんこと?ええ、人並み程度に情け深い一般人類であれば、ネコちゃんを密閉しようなんて思いもしないわ。どうしてそんなことをする必要が?いそいそとネコちゃんを箱へ詰め込んで、さあ箱の中の猫は生きてるものか死んでるものか――って、あ、ごめんなさい、死ぬとかそういうの、私本当にネコちゃんが可哀想な目に遭うのだけはも・本当に無理なんです、恐ろしくて想像もできない。よよよ。そもそも、シュレディンガーの猫というからにはシュレディンガーさんの猫なんですよねぇ?何故飼い猫をそんな恐ろしいことができるのかしら?というかご自分がお入りになればよろしいんじゃなくて?なんて、猫に甘々な人間ほど人類への対応が指数関数を描いてぞんざいになるという研究結果がありますわ※要出典。それは置いておくにしたって、かなり抜き差しならない事情があったとしか考えられない。たとえば、シュレディンガーさんがその一般人類数人分の性能があると推測される頭に銃を突きつけられて、さあやらなければどうなるもんだかわかってるんだろうなと脅しかけられながら、泣く泣く書き上げた論文だったり…などと、言われなくても「この論文を書いたときの作者の気持ちを考えなさい」しだすのがどこへ出しても恥ずかしくない怒れる猫派文系というものですの。
けれどみなさん、いいニュースですわ、我々は分かり合えるかもしれません。物理的根拠さえあれば情緒的根拠は問わないという一般人類的温かい心を丸無視する理系の姿勢に怒れる文系のみなさんとその逆、なぜ楽しい科学の話を毎度毎度現代文および道徳倫理および挙げ足取りの講義にしてしまわなくては気が済まないのかと呆れる理系のみなさん、ここに双方の揺るぎない共通認識があります。 

“猫はかわいい”

ええ、これこそがいつの時代もどんな世も変わることのない人類の共通認識・理性の拠り所ですわ。猫はか弱く儚く庇護すべきものの象徴ですもの。だってこれが「シュレディンガーの犬」だったらどうです?ワンちゃんであれば量子学的ゆらぎに左右されることなく、自力で状況を打破しそうなものじゃないですか?吠えたり、もしかして箱を内側から咬み破ったりして…。重要なのは実際それができるかじゃなくて、そんな姿が想像できるかというところですわ。猫を詰めるのは可哀想だから代わりにシュレディンガーさんを詰めよう、という正論を誰も言い出さないのはそのためね。シュレディンガーさんだって吠えたり、箱を咬み破ったりできるかもしれないですよね。

猫はそんなことはしないわ。
猫は自分の命すら他人事気味に眺めるものですわ。

ええ、ですから、猫に生きていて欲しいなら人類がお膳立てしなくてはね。我々が箱に閉じ込めたなら、自力で出てこられない可哀想で愛しい存在が猫だもの。それは我々の共通認識で、であるからシュレディンガーの箱に閉じ込められるのは猫というのは文系的には憤懣やるかたなく、理系的には必然の最適解なのですけれど。



ネコちゃんでしたら私も2、3思い出があるんですよ。小学校にも上がる前、私はほんの1日だけ小さな仔猫の飼い主でした。
すごくちいさなネコちゃんでしたよ。子供の私の両手のひらほどしかなくって、毛並みはボロボロで湿っていて、片方の目なんかまだ開ききっていなくて。
病気だったのかもしれないわ。
生まれて間もなかったのは確かで、誰かがすぐに助けてあげなくちゃ死んでしまうほど弱っていたのは本当に確かよ。死んでしまったんですもの。
なにしろ記憶が遠くって、夕闇に包まれてちいさなネコちゃんをすくい上げた次の記憶は、もう朝日の中で穴を掘っているところ。ネコちゃんを埋めるための穴ですわ。家の庭の片隅に真っ赤なスコップをもぞもぞ突き立てている。ごろごろ転がった砂利や申し訳程度の雑草がバカみたいに真っ白く朝日を照り返していて、見かねた祖母が私の背中に覆いかぶさってスコップを握る。私のちいさな手の上から。土っていうのはこう掘るのよ。最初に突き刺すの。ナイフを突き立てるみたいに突き刺すの。それから体重をかけてスコップの柄をぐるっと回すのよ。そんなふうに撫で回してたっていつまでたっても穴なんか空きやしない。祖母がスコップに体重をかけて、私は祖母の体にすっぽり包まれてしまう。祖母のにおいがする。鎖骨の辺りの、柔らかく緩んだ皮膚が首筋に擦れる。ちいさな私はふと、まいにち夜に、こんなふうに眠れたらいいのにと考える。

物心ついた頃にはすでに自分の座敷というものを与えられていて、私は一人で寝起きしていました。祖母に添い寝してもらったこともないし、夜泣きしたこともないんだとか。海外ではベビーベッドに寝かせた赤ん坊に個室をあてがうと言うし、さながら祖母の子育ては欧米式だったわけですわ。夜毎、祖母に見守られながら私は敷布団を広げ、シーツをくるみつけ、定位置に枕を置いて頭の形に注意深く凹ませました。私が枕に頭を下ろすか下ろさないかでもう、祖母は座敷の外に立って襖に手をかけていました。目を伏せて、なにかの儀式みたいに襖に恭しく両手を添えて「おやすみなさい」と囁くものだから、それはそれこそ秘密の呪文のように聞こえました。とても悪い呪文だから、他の誰にも聞こえないようにひっそりと囁かなくてはいけないの。幼く怖いもの知らずな私はそんな空想をしたものですわ。
祖母の手がぴっちりと、空気も通さないほどぴっちりと襖を閉めてしまうと、座敷の中は真っ暗でなにがなんだかわからなくなりました。真っ黒な中にあのざらざらの、暗闇のなかでだけ見える夜の粒子がざわめいて見えるだけで、きっとお化けや幽霊が居たってわかりっこないでしょう。知らないうちにここが私の座敷じゃなくってキッチンとかテレビの部屋とか、祖母の座敷になっていたってわからないかも。目を開いているのか閉じてるのか、忘れてしまいそうな暗闇に、夜の粒子だけがざわめいている。たまに人の顔に見える気がする。ネコになってくれればいいのに。このざらざらがどろりと流れてネコの形になって、私だけに見えるネコになってくれたらいいのに。

でも今日はホンモノのネコがいる。

ああ、急に記憶が蘇ってきたわ、今まで思い出せなかったのに。ええ、本当ですよ。今日は本当にネコちゃんがいるんだって、幼い私はそう思ったんですよ。祖母に内緒だったんです。あの病気の仔猫、拾ってきたのは祖母には内緒だったんですのよ。その頃私はまだ小学校にもあがっていなくて、独り寝のほかは散々祖母に甘やかされていましたけど。生き物を飼うことは許されていなかったんです。小さい生き物を撫でたり、水を注いでやったり、お尻を拭いてあげたりするには私はまだ幼すぎる、というのが祖母の見解のようでした。だから私はあの仔猫を押入れに隠しておいて――鳴きもしないのよ、あの仔――祖母がぴったり襖を閉めたあとに手探りで引っ張り出して、枕元に寝かせたんです。おかしボックス(私のものになったお菓子を収納しておく元石鹸の箱)の中で眠る仔猫はそのときは確かに、確かに寝息を立てていました。そのうち止まるんじゃないかと不安になるような寝息じゃなくって、それなりに心強い寝息だったのも確かですわ。たぶん、アニメの受け売りで飲ませておいたミルクが良かったのね。今日はほんとうにネコちゃんがいるの。真っ暗で見えないけど、確かに寝息で波打つ温度がそこにありました。そうだわ。そうして私は私の仔猫とたった一晩だけ、一緒に眠ったんです。真っ暗な部屋で二人きり。

途方も無い時間をかけて掘られた小さな穴に、小さな仔猫を入れて、掘るときはあんなに大変だったのに埋めるのはこんなに簡単。祖母の言うように土をかけて均して、汗をぬぐって。
「もう生き物を飼おうと思ってはだめよ」
祖母はたったそれだけ言いました。黙って猫を拾ってきたり、言いつけを破ったことなんてどうでもいいことかのように、たったそれだけ。普段の祖母なら絶対にそんなことはきつく言って聞かせるはずなのに。そのセリフだけが夜毎の「おやすみなさい」と同じ調子で耳に残って、そのあまりの不自然さに余計に記憶から浮き上がって、強烈に脳裏に染み付いている。
これが私のネコちゃんにまつわる思い出ですわ。


ところで、ちょっとどうかしているシュレディンガーさんの可哀そうな飼いネコちゃんの話に戻りますけど、これはデコヒーレンスの話なんですね。嫌だわまたカタカナ?なんて思われるもしれませんけれど、私だって物理学に用があるわけじゃありませんのよ。用があるのはそのほんのさわり、思考実験のほんのさわりの解釈の部分だけなので、もしシュレディンガーさんじみたまじめな人がいらっしゃったらここらでお帰り願いたいわ。
箱の中のネコちゃんは生きてもいるし死んでもいるっていうのはご存知でしょう?重なり合っているんですのよ、その二つの状態が。そして観測した時点でようやく、真実どちらの状態なのか決定する。つまりシュレディンガーさんが言いたいのって人類って何事も観測しなきゃそこにあるってことすらわかりゃしない悲しく渇いた生き物ってことなんですの、よよよ※要出典。ネコちゃんだけじゃありませんわ。箱も友人もアルミホイルも憎しみも悲しみも怒りも、つくづく人間っていちいち観測しなきゃ認識できないものですわねぇ。そう思いません?思うにそれが真の世界平和を遠ざけ続けているのではなくって?観測されなかったネコちゃんはどうなるのかしら。誰にも、なにからも、ネコちゃん自身からすらも観測されなったネコちゃんは。猫は自分の命すら他人事。重要なのはそれがイメージできるかってところですわ。ああでも悲しい。観測なんかしなくても認識できる存在がいたっていいのでは?生きてもいるし死んでもいるネコちゃんにどちらの運命も選ばせない、優しい存在が。


小学校にあがった私の一番のお友達は「りせちゃん」でした。理性の理に世論調査の世で理世ちゃんというんですよ。なんてステキな名前。大人になった今こそ、親御さんが彼女の名前に込めた愛情が身にしみるというものですわ。
りせちゃんはなんというか、その頃の私に言わせれば「わかってるオンナ」でした。
女子の髪を引っ張ったりランドセルを突き飛ばす男子の、その子供にはよく理解できないような家庭の事情をネチネチ突いて泣かせたり、「ちょっと貸して」と言ってピンクの消しゴムも虹色のヘアゴムもみんな自分のものにしてしまう女子の宿題を隠して窮地に立たせたり、りせちゃんはそういう子でした。「嘘はついてはいけません」「みんな仲良く」と説いた先生にその二つは同時には成り立たないとたどたどしくも訴えて、決して譲らなかったこともあったわ。どんなに優しくなだめすかしてもあの柔らかそうなまぶたに囲まれた目でキッと先生を見据えたままなので、しまいには先生も怒り出してしまって、それでも涙をボロボロこぼしながら主張を曲げなかったっけ。懐かしい。りせちゃんを皆は面倒くさいと思っていたかしら。でもきっと何人かは――私を含めて何人かはきっと、「なんかよくわからないけどかっけぇ」と思っていたはずですわ。ええ、その頃は言葉にしようもないけれどもね。自分なりのやり方で「いい子」になろうとしている子はたくさんいたけれど、自分なりのやり方で「正しい人」になろうとしていたのはりせちゃんだけでした。ですんで私の中でりせちゃんは「わかってるオンナ(8歳)」だったんですのよ。

「男の子は12歳までに家出したことがないと『手遅れ』なんだって」

どこから仕入れてくるのか、りせちゃんはそんなことを言い出す子でもありました。
「なら女の子はもっと早くしないと。そう思わない?」
「どうして?」
「女の子のほうが賢いから」
そして私は本当にそのとおりだといたく感銘を受けるような子供だったんですの。
りせちゃん共々家出をすることになったのはそんな経緯からですわ。予定は1泊2日。行き先は公民館の使われていない第2倉庫。明かり取りの窓の鍵が甘く、ほんの小さなその窓でも幼い私たちが身体を滑り込ませるには十分頼もしいことを知っていたんですの。その倉庫は二人の家から何百メートルも離れていませんでした。子ども会で事あるごとに、もしかしたら週ごとに通っているような場所です。まさに家出することそれ自体が目的の拙い出奔、可愛らしくってたまらないじゃありませんか。
放課後、私たちはランドセルをおかしバッグに持ち替えて、公民館とは反対側の三角公園でおち合いました。それなりの時間になるまではいつもどおり遊びまわって時間を潰そうという魂胆だったのです。ところが三角公園にはまだまだ『手遅れ』じゃない系の男子がたむろしていたので、私たちはこっそりと退散しました。これから家出するっていうのに「わかってない」奴らにウンコだなんだと囃し立てられたら興ざめにもほどがありますものね。
二人行くあてどなく――いえ、行き先は公民館なんですけれども、その瞬間はそうだったんですの――ねこじゃらしを引っこ抜いたり干からびた蛙をつついたりしながら田舎のあぜ道を練り歩いたりして。今にも倒壊しそうな――そしてきっと今頃は倒壊している――屋根が一応付いたバス停があったんですけれど、私たちはそこでいったんおかしタイムと洒落込んだんです。早朝と夜に一本ずつしかバスが来ないバス停でしたから、子供がたむろするくらい誰も気にしませんでしたわ。大都会にお住まいの方はそんなバス停信じられないかもしれないですけど、田舎ではごくごくありふれたことですのよ。
今にももろもろと崩れ落ちそうな(きっと今頃は、略)ベンチに2人して乗り上げて、りせちゃんはチョコボールを食べ始め、私は確か何を食べるか決めきれずにもだもだとバッグを掻き回していました。
「おいで」
見ると、首輪をつけたサビ猫がりせちゃんの膝に飛び乗るところでした。
「お前は特別な猫だからこれをあげる」
りせちゃんは手のひらにチョコボールをのせてサビ猫の鼻先に近づけました。彼女の名誉のために言っておくと、わざとじゃないんですのよ。りせちゃんの家で飼っていたのは可愛いボタンインコでしたから、ネコちゃんがチョコレートを食べてはダメだなんて知る由がないんですもの。そしてたった一晩しかネコちゃんの飼い主でなかった私も、それを知る由がないんです。
「ほら、遠慮せず食べなさい」
そして猫も自分がチョコレートを食べちゃいけないなんて、意外と知らないものですわ。子供であるがゆえ、無垢・無知であるがゆえの残酷劇場が開幕したかと言うと、そうでもありませんでした。りせちゃんがグイグイサビ猫の鼻先にチョコボールを押し付けていたそのとき――そうね、そうよ、そのときだわ、そう…
「趣味が良いのう」
声を掛けられました。りせちゃんでもネコちゃんでもまして自分でもない、オトナの男の人の声。顔を上げると、私たちの座っていたベンチのすぐ真横に、その人は立っていたんですの。いつのまにかね。
平べったい麦わら帽子、それをカンカン帽というのは後から知りました。羽織も着物も足袋も全部、なんだかぼんやりした仄暗いようなグレーっぽい色で、その人の肌の白さが余計際立っていました。いやさすがに際立っているという言葉で片付けられない気がするわね。肌の白さというより紙の白さ、それこそ白粉を塗った舞妓さんのような白さでしたのよ。その人は私を見下ろしていました。でも、私はまだ何を食べるかも決めきれずにバッグを漁っていて、趣味の良し悪しを評価されるようなことは何もしていなかったので、その言葉はりせちゃんが掛けられたものだと思ったのです。りせちゃんもそのようでした。
「楽しいかね」
「おじさんのせいで猫が逃げたよ、何も楽しくないよ」
図らずも残酷劇場開催を免れたとはつゆ知らず、りせちゃんの対応はトゲトゲしいものでした。たぶん、先生との押問答の一件でオトナへの警戒心が増していたのね。
「それは悪かったね」
おじさんは目を細めて笑いました。そう、おじさんだよなあと思ったものですわ。その頃私の中で和装をしたり「〜のう」とか「〜かね」とかいう言葉遣いをしたりするのは『おじいさん』であって、だから『おじさん』がそれをしているのはヘン、という意識があったのです。ネコはみんなメス、イヌはみんなオス、みたいな子供ながらの愛らしい思い込みですわ。
まあヘンなおじさんであることは確かだったんですけれど。
「ここで待ってたって、夜にならないとバスは来ませんよ」
りせちゃんはトゲトゲしいを通り越してタケダケしく、そして今思えばマセマセしくそう言いました。暗にこう言っていました、どっか行け。おじさんは少し顔を傾けて時刻表のほうを見、反対側に顔を戻してりせちゃんを見ました。その顔の動きがカンカン帽のツバで翳っていた目元に光りをもたらして――この人、瞳が黄色いわ――気づいた瞬間おじさんがまた私を見て、思わずど下手くそに目をそらしてしまって、なんだかすごく居心地が悪くて――。
「バスが来るまで待ちぼうけてもいいんだがね。私にとってはすぐこのあとのことだ。ついさっきのことでもある。のう?」
「行こう」
りせちゃんはスッと立ち上がって、私の手を掴んで歩き出しました。すんでのところでおかしバッグを確保して、私は小走りになって引っ張られた腕の分を追いつきます。気になって振り返るとバス停はもう小さくなっていて、ボロの屋根でちょっとした暗がりになっているせいで暗い和装のおじさんが立っているかどうかなんてわかりっこありませんでした。ええ、おじさんが現れたときと同じようにふいと消えたりしたかどうかはわからずじまいだったんですの。
三角公園・バス停と追い出されて、りせちゃんが不機嫌になっているのがわかりました。早すぎる足取りがそれを示していて、私はどうにかしようと必死で考えている。ネコの話をしようと思いました。サビ猫ちゃんの話を、飼ったらどうする?って話を。子供はみんな、自分のネコが欲しいものなのです。
「ねえりせちゃん、」
「あの人、歯もベロも無かった」
それから私たちは公民館に着くまでずっと黙っていました。

倉庫の地窓の一つをガタガタ揺すってそこだけ甘くなっている鍵を外し、私達は中へ入りました。中には古い机とか壊れたパイプ椅子だとかがかつて倉庫だったという名残り程度に散らばっていて、それをなんとなく動かして一晩居座るための場所を設営しました。持ち込んだ懐中電灯はかなりいい具合に室内を照らし、これなら夜中に怖気付くなんてことも無さそう、と安心したものですわ。
「懐中電灯とか蝋燭とかの灯りだと、天井が高く見えるんだよ」
「どうして?」
「影が長くなるから」
促されて壁を見ると自分の影が奇妙に引き伸ばされて大げさにぬるぬるしていて、教えてくれなくて良かったのに、と密かにりせちゃんを恨みました。
公民館の母屋のほうにはまだ人の気配があったので、私とりせちゃんは息を潜めて誰もいなくなるのを待ちました。しんと静まりかえった夜のしじまに2人ぼっちでおかしを食べたりトランプをしたり夜更かしして過ごす――というのが2人の漠然としたプランだったんですの。
でも、いつまで経っても人の気配はなくならないんです。それどころか、時間を追うにつれはっきりとざわめきが感じられるほど、むしろ人々が集まってくるようでした。
「今日って連合自治会のあつまりの日?」
「ううん、それは昨日」
「へんだね」
祖母が自治会の会計をしていたので、自治会事情には詳しかったんですの。りせちゃんはマセマセしく眉を吊り上げて懐中電灯の明かりに腕を透かしました。ハローキティの真っ赤な腕時計は午後7時を指していました。
念のため明かりは消して、2人して公民館側の地窓に這っていって、ジッと耳を澄ましました。何人もの大人がせわしなく歩き回っているのが見えます。消防団のおじさんたちの安全靴を履いた脚が右往左往して、まるでステップでも踏んでいるかのようだったことを覚えてます。彼らの声はよく通って、この倉庫の暗がりにも十分に届いてきました。
『りせちゃんのお母さんが、』
『ばあさんは先生と話さなきゃならないから』
『川には俺たちが行くから、お前たちは』
『学校から折り返し連絡きたか』
ほぼ同時に息を呑んで、私たちは顔を見合わせました。ああ、あのときのりせちゃんの顔ったら!地窓の向こうで、自分たちを探すために灯されている明かりの照り返しを、大人たちの焦り切ったざわめきを受けたりせちゃんの笑顔といったら、もう。あんなに可愛らしい女の子の顔を、私はこれまで見たことがありませんわ。ええ。
「わたしたちを探してる!」
「うん、おばあちゃんもりせちゃんのママもいるみたい」
「探してる、こんなに近くにいるのに…!」
「うん……っふふ」
私たちはひとしきり、懸命に声を殺しながら笑い転げました。どんどん緊迫したものになるざわめきを窓越しに聞きながら、それが面白くて面白くて、気持ちが良くってたまらなくて。
自分たちを心の底から心配する声を聞きながら家出をするのって、本当に最高な気分でしたのよ。
「ああー。これなら懐中電灯はいらないね」
公民館の玄関前には発電機まで出してきて強力なライトがたかれ、私たちの潜んでいる地窓からも十分に光が差し込んできました。不思議なことに、誰もこの倉庫の中を確認してみようとは思わないようでした。灯台下暗しというやつかしら。それとも、最後に鍵を掛けたのがあまりにも昔だったから、頭の中からすっかり抜け落ちていたのかしら。それにしたって川をさらいに行く前にちょっと開けてみたっていいのに…。私たちは私たちで、もうすっかり絶対に見つからない気でいたのです。
「あの人たち、川へ行ってきたのかな?私もあれ、きてみたい…」
「あれを着てプール入りたい」
消防団のおじさんたちの穿いている胴長に思いを馳せていると、ふいに女の人の泣き声が聞こえてきました。私は始め、こんなに賑やかでもやはり出るときは出るのかと身構えてりせちゃんに目配せしました。幽霊の話です。公民館にそんな噂はないけど…出てもおかしくないような年季の入った木造平屋だったんですもの。
りせちゃんはどんな表情もしていませんでした。でも私は、こんな顔をしているりせちゃんを見たことがありました。それはあの男の子を泣かせたときの顔であったし、宿題をなくしたことを問い詰められて取り乱している女の子を眺めているときのあの顔でもありました。
「ママが泣いてる」
りせちゃんはゆっくりと地面に横たわり、例えるなら、何十億円も動くプロジェクトをこれ以上ないほどうまくやりおおせ、勝利の一服を燻らせ味わい深く吐き出す豪腕社長もかくやという堂々たるため息を吐き出しました。それは何かを成し遂げた安心感だけが許す無表情でした。たっぷり余韻を味わったあと、りせちゃんはこれ以上ないほど満たされた顔でにっこりとしました。
「ママは『あなたは大丈夫かもしれないけど、あなたが持ってきた菌で弟が風邪を引いたらどうするの』って言ったの」
彼女を必死で探す光にちらちらと顔を照らされながら、彼女はため息のほんのついでというように無造作につぶやきました。
「どうしても許せなかった…」
消防団の1人に付き添われて心細げに公民館の入り口に立っている、あれは祖母の脚です。祖母の臙脂色の靴を眺めながら、私はそのぞっとするような低い声を聞いていました。
「どうしても許せないの。よくわからないけど、それだけはどうしても許せないの。ママがわたしに良いお姉ちゃんになってほしいっていうならなってあげてもいいし、ママがわたしのことも好きでたまらないっていうのは知ってるけど。でも絶対に許せないの。なんでだかわからないけど、その言葉だけは絶対に許せないの、わたし」
りせちゃんは心底不思議そうに、独り言のように吐き出したあと、くるりと私を見ました。
「こんなこと言ったらあんたにカッコ悪いって思われそうで嫌だったけど、言っちゃった」
「りせちゃんはカッコいいよ、私、りせちゃんよりかっこいい人知らない」
私がそう言うと、りせちゃんは歯を見せて笑いました。
実際、りせちゃんは私の憧れでした。その立ち振る舞いやポリシーはもちろんのことですけど、りせちゃんの家族構成が「両親と弟が1人、それからインコ」っていう、典型的な核家族だったことも私の憧れの的でしたの。そういうオーソドックスに、子供は憧れるものではないですか?核家族で、白い壁の家に住んでて、お姉ちゃん扱いされることに少し窮屈さを覚えているーーそんなオーソドックスな記号をたくさん持ってるりせちゃんが、ドラマかアニメの登場人物みたいで憧れてたんですわ。子供ってそういうところがありますでしょ?
対して、私は祖母と2人きりで暮らしていたし、家も木造文化住宅って感じでしたし、一人っ子だったし…。だからその夜、りせちゃんの典型的姉的苦悩に触れて私はますます熱狂しました。それでかしら。それまで考えもしなかったことを考えました。ええ、信じられないかもしれないけど、それまで考えなかったなんてなんてぼんやりした子供だと呆れられるかもしれませんけれど、その熱狂ついでにーーそれから、りせちゃんのママの泣き声に、それまで考えもしなかったことを初めて疑問に思ったのです。

私に両親がいないのは何故?

「ママを許せないことがあるといつも考えるの。ある日わたしは急に消えちゃって、パパや弟やあんたなんかは一生懸命わたしのことを探してくれるの。でも、ママだけはわたしを覚えてないのよ。覚えてないからパパやあんたたちが一生懸命探してるのが誰だかわからないの。なんでそんな一生懸命探さなきゃならないのかわからなくって、おろおろしてる。…そう想像すると、許せないってムカムカしてた気持ちがちょっと良くなるんだよ」
「どういうこと?ママに忘れられちゃうって、悲しくならない?」
「かもね」
私たちは並んで寝そべって微睡んでいました。遅い時間になっても絶えることのない光、私たちを心底心配し、探し回る明かりに心地よく照らされながら、これ以上冒涜的な贅沢はないと幼いながらに理解したうえで、なんの不安もなく微睡んでいました。
「でも、ママは責められるのよ。母親のくせに娘を忘れたのかって、それでも母親かって、みんなに酷く責められて許してもらえないの。でもママはわたしを覚えてないからどうしようもないのよ。あー、ママが大好きよ」
りせちゃんはにっこりして目をつぶりました。子供ってこんなものですわ。愛らしいでしょう。


次の朝目が覚めると、りせちゃんは居ませんでした。
全部夢だったなんてことはありませんわ。ちゃんと私はあの倉庫で目覚めたんですから。りせちゃんと、りせちゃんのバッグとりせちゃんが居た痕跡だけがなくて、私は締め切った倉庫の中を見回しました。壊れたパイプ椅子と机が少々散らばっているだけで、隠れるところなんてありません。そもそもそんなに広くもないんです、子供が2人だから広く感じていたけど、せいぜい四畳半から六畳ぽっちの広さでしょう。
私を置いて帰ってしまったんでしょうか?そんなはずない、と思いました。いかなる理由があってもりせちゃんはそんなことしない、彼女はなんにもわかってやしない子どもではないんだから、私のこともゆり起こすなり手紙を残すなりするはずでした。ふいに一人で倉庫の中にいるのがたまらなくなって、私は這いずって地窓から外へ出ることにしました。窓は、昨夜入ったあときちんと施錠し直したままになっていました。

で、外に出た私は速攻で自治会長に捕獲されたんですの。

そのあとはもう、ええ、本当に大変でしたわ。夜通し探されていたので当たり前ですけど、この安全神話崩壊時代に8歳の女の子が一晩居なくなったんだもの、皆さん生きた心地がしなかったはずで、私たちはそれを喜んでいたんですからね。自治会長と子ども会会長と担任の先生と校長先生と消防団団長にまで、みっちりこってりおのおの説教されました。当然ですわ。大トリを務めたのは祖母で、昨日の朝送り出されたときのままの格好の祖母を見てさすがにチラッと罪悪感が芽生えましたが、大勢の大人に寄ってたかって叱られた経験のない私はべそべそぐじゅぐじゅ鼻を鳴らすのに忙しく、生まれて何度目かの祖母のゲンコツを甘んじてくらいとうとう声をあげて泣き喚きました。そうなると血縁のない大人というのは弱いもので「まあまあ無事だったんだし反省してるし、いいじゃないの」と、なんだか解散ムード・一件落着の風情を醸し出しはじめたのです。

やっぱりりせちゃんは帰ってしまったのかしら。

その「一件落着・大団円」の空気を子供ながらに読み取って納得しかけました。諦めきれないのは、怒られるとしたらりせちゃんも一緒だと思ってたから平気だったのに…という少々恨みがましい気持ちですわ。公民館の母屋に集まっている人々、祖母を含めた自治会子供会役員たち、消防団のおじさんたち、学校の先生たち、後から考えてみればあれは警察の人だったわと胃がきゅっとするような人たち…から少し、壁際に下がるようにして女の人がいました。顔色が悪く、張り詰めたような、それが自分でも本当のところ腑に落ちていないような表情をしていて、これまた今にして思えば両脇から二人掛かりで支えられるように、抑えられるように立っていたと思います。

りせちゃんのママ。

話題の中心にいた私と彼女はやっと目があって、私は至極当然な疑問を至極当然な人に投げかけたのです。

「りせちゃんはどこ?」

その瞬間、大人の女の人の表情があんなふうに変わるのを初めて見ましたし、これからもきっとないでしょう。あんな目で見られることもきっとないと思います。大人たちのほとんどは私の言葉をなんとも言えない生やさしい顔で見ていましたけど、まず最初に祖母が私の肩ごと引っ掴んで部屋から連れ出そうとしました。大人たちが次々と表情を変えて私と祖母を部屋から出そうと促したり、奥の方で誰かをーー見えなかったけど、りせちゃんのママをーー押さえようとして、まるで音を立てて凍りつくように空気が変わっていったのを覚えてますわ。どんどん時間が引き延ばされるように感じて…なんとか外へ押し出された瞬間、部屋の中から邪悪な獣の咆哮のような恐ろしい唸り声が聞こえて涙も引っ込みました。大人の女の人の苦悶の泣き声が、幼い私にはそう聞こえたんですの。それってよくよく考えるとものすごく残酷なことだと思いませんこと?
祖母が自治会の誰かと話している間、私は祖母の袖に引っ付いていました。「どうして急に娘だなんて言い出したのか」「あそこん家は一人息子なのに」「医者に見せたほうが」そんな文節を拾い聞きしましたわ。時折部屋の中から邪悪な咆哮がりせちゃんの名前を呼ぶのを聞いて、恐ろしい仮説に思い当たりました。りせちゃんは何か邪悪なものに食べられてしまったんだ。その上、邪悪というのはつまり意地悪ということだから、りせちゃんのママだけがりせちゃんを覚えているように仕向けたんだって。りせちゃんを安心して眠らせるもしもの話、「ママだけがりせちゃんを忘れてしまう」その真逆に。りせちゃんが一番恐れていること。そんな恐ろしく意地悪な怪物が、私たちの話を聞いていたんだって。
気づくと祖母と2人きりでした。公民館の中からは困惑したざわめきの気配と、今は呻くように変わったすすり泣きが聞こえてきました。
「誰かと一緒だったの?」
祖母が私を見下ろしてそう聞きました。夜毎の「おやすみなさい」と、あの日の「もう生き物を飼おうと思ってはだめよ」とすっかり同じ、どこか形式張った声音で。祖母は朝日を背負って逆光になっていて、まるで祖母の形をした黒い何かみたいで、顔が見えない。私は答えることができない。確かに声を出そうとしているのに、唇が震えるばかりで何も出てこない。今となってはそこで何を言おうとしたのか思い出せませんけどね。
「あなたが無事で良かった」
ややあって祖母はそう言いました。確かにそう言って、ひんやりした手の甲で私の頬を撫でました。それが精一杯だとでもいうようなぎこちなさで。



ところで、この世界が4次元世界だってことは皆さんご承知おき済みですこと?線・面・高さからなる空間と、時間で4つの次元ですわ。ええ、まあ、そんなことない3次元だいやいや26次元だと主張してくださっても構いませんのよ。私がしたいのは「あ〜時間だけが現状どうにもならないものですわね〜」っていう至極叙情的でサウダージな話ですので。90年代の映画を観て「あああの頃に戻りたい、くすん」なんて思っても、シンギュラリティおよび機械知性の跋扈するディストピア的未来に遠く憧れても、叶えようなんて夢のまた夢ご冗談、と取られてしまうのが現実世界の現状ですわ。
旧約聖書の時代にはもう天まで届く塔を建設して空間を攻略していたのに、何千年経って未だに人類は時間を攻略できないものなんですねえ、よよよ。理論上は光が突き進む速さに追いつくことができれば、過去へはともかく未来へは時間を一足飛びに飛び越えることができるんだそうですよ。まあ、夢のまた夢ですけどもね。

つまり時間は猛烈な速さで突き進んでいるものですわ。
ならばどうして人々は世界から振り落とされずにいられるの?時間も自由にできない生き物風情の分際で!

ええ皆さん、とりあえず拳はお収めになって。ちょっとテンションあがっただけですの。「ちょっとテンションあがっただけ」で罵倒が許されれば弁護士いらないですけどね。被害者がハラスメントと感じたらハラスメントなの。ハラスメントハラスメント略してハラハラですわ。ああいけないわ、話が無限に脱線していくのは私の特性なんです、それにかけては他の追随を許しませんのよオホホ。
思うにこの世界で生きとし生けるすべてのものは、「くさび」を持っているんじゃないかって思うんです。空気や食べ物に対応するために心臓や肺や胃なんかを持ってるのと同じように、みんな「時間」に対応するための「くさび」を持っていて、文字通り「時間」にしっかり打ち付けているのよ。だから時間から振り落とされずにのらりくらりと生きていけるけど、代わりに時間を飛び越えることもできないんですわ。だってくさびを打ってしまっているんですから、一蓮托生ですわ。叶えるためにはくさびを引っこ抜くしかないけど、前述の通り時間は猛烈な速さで進んでいるから引っこ抜いた瞬間時間から、世界から振り落とされてしまうんですわ。なかなか夢のある屁理屈だと思いませんこと?

問題は「くさび」を持たない生き物ですわ。

もしもあなたが「くさび」の存在を知っていて、さらに現状自分が所持していないと気付いてしまったら、とるもとりあえず「くさび」が欲しくなるものじゃないかしら。今のところ「くさび」がなくても大丈夫そう、とは思っても、まあ持っていて損はないし万が一のために一つくらいは持っていたくなるものじゃないですこと?充電バッテリーなんかと同じだわ。幾つあったって別段困ることも無いんだから、だったら手に入れられるだけ確保しとこう、なんて考えになるかもしれないわね。もしくはもっと気軽かも。本当に「くさび」が無くても大丈夫、「時間」なんて朝飯前に捏ねくり回せるし往来できるわというのが当たり前の方なら(捏ねくり回してから朝飯前に戻ればいいんですものね)、ちょっとした嗜み程度に人の子の「くさび」をコレクションするかもしれないわ。試しに齧ってみたら味が気に入っちゃったという方なら、もっともっとたくさん欲しがるかも。蒐集欲に食欲、およそ欲と名の付くものには底が無いんですもの。いずれにせよなんだって度を超えて惹かれる欲しがるのはそれが当然じゃない存在ですわ。空気をいちいち珍しがったりしないでしょう?まああるにはありますけどねアルプスの空気の缶詰とか平成の空気の缶詰とか。ヒレ肉に価値があるのはそれが希少だからですわ。あなた自分のヒレ肉がどこにあるか、ご存知?
うふふふふふ冗談ですわ。ぜんぶぜんぶ、つまらない妄言ですのよ。聞き流してくださいね。


私は林間学校も修学旅行も宿泊研修も、泊まりがけの行事にはぜんぶ参加しませんでした。当然のように、祖母がそういう方針だったんですの。小学校の修学旅行のとき、担任の先生が家にまで祖母を説得に来たけど…私も便乗して泣き転がってみたりしたけれど…祖母の方針は頑として変わりませんでした。
たぶんそれで、みんなが修学旅行に行っていたときだったと思います。家庭の事情で修学旅行に行けない子は、まあ場合に寄るとは思いますけど私の場合は学校で自習の課題を出されたんです。まさに踏んだり蹴ったりで気分は最悪でした。
午前中は職員室で妙に気遣われながら自習して、午後、一人で帰路をぷらぷら歩いていたとき。意識的か無意識か、いつのまにか白い壁のお家の前まで差し掛かっていました。りせちゃんのお家です。私たちが家出して、私だけが帰ってきてから4年が経っていました。
そのお家にはステキな裏庭があって、ちょっとした花壇と水撒き用の蛇口がありました。そこに男の子がしゃがみこんで、鳥かごをざぶざぶ洗っています。――りせちゃんの弟だ――私は思いました。もっとも、そんなことを思うのは私くらいでしょうけど。
あの後、りせちゃんは本当に戻ってきませんでした。どころか、まるで始めからいなかったみたいになってしまいました。教室のりせちゃんの席には誰も座らず、「そこは誰の席でもない」とみんな納得しています。あんな、ど真ん中の席が空席なのに。先生の出席簿にりせちゃんの名前は無く、もちろん誰もりせちゃんなんて知らなくて、りせちゃんの弟はりせちゃんの弟じゃなくて林さん家の一人息子…。一年二年と歳を重ねて分別がつくようになるごとに、私はりせちゃんが本当に居たのか自信を失っていきました。あんなにステキな子、確かに私の都合のいい妄想だったのかもしれない。ほら、イマジナリーフレンドというでしょう?こんなにみんなが居なかったと言うんだから、間違ってるのは私と考えたほうが…。でも、そう納得してしまうのってすごくおぞましいことのような気がする。
そんなことを考えるたび、獣の咆哮のような泣き声がはっきりと頭の中に響きました。りせちゃんのママだと私が思っている人の泣き声は、何年たってもまるで昨日聞いたばかりかのように私の心臓を追い立てました。あれは、確かにりせちゃんという娘が居たと覚えているからあんなふうに泣いたんじゃないの?子供なりにそう考えて、りせちゃんのママに確かめたいような気がしました。でもあの一件以来、りせちゃんのママの話は町内中のタブーになってしまったし、それからどうしてるのかも知りません。
りせちゃんの弟だった子は、一生懸命に鳥かごを洗っています。その脇に、本物の生きたボタンインコがちょこんと座っていて驚きました。りせちゃん家ではボタンインコを飼っている。私はそれを、りせちゃんから聞いたから知っているのです。
「ねえ、逃げないの?」
垣根越しに声をかけると、りせちゃんの弟はパッと顔を上げました。まだ子供の私から見てもすごくあどけなく見えました。たぶん、それこそ、私とりせちゃんが家出をしたくらいの年頃のはずでした。
「うん。頭が良いんだ。鳥にしてはだけど…」
彼はまだ女の子相手に恥じらったり乱暴になったりする年頃ではないようで、素直にそう答えました。鳥かごから飛ぶ水飛沫を受けてちょっと仰け反ったりしながら、ボタンインコは本当にお利口に座っていました。まあ風切羽を切っていたのかもしれないですけどね。
「鳥かごを洗ってあげて偉いね」
「うん。ママは出来ないからね。それに僕の仕事だから、やってあげないとね」
そのときはとるもとりあえず、りせちゃんのママはまだちゃんとこの家に居るんだってことに安堵したんですのよ。
「鳥が好きなんだね」
「うーん、僕は犬のほうが良かったんだけど…」
「ママかパパが鳥好きなの?」
「んー?パパも犬が好きだよ、ピットブルが飼いたいって…でも…あれ?どうしてボンちゃんを飼ったんだっけ…」
「鳥が好きなのはママ?」
「ううん!ママは鳥が苦手なの、触れないから、だからどうしても飼うんならあなたたちで世話しなさいって…あれ…んー?でも僕、犬のほうが…」
「ボンちゃんて名前付けたのは誰?」
自分がほとんど泣き縋るような声音になっていることに私は気が付きました。りせちゃんの弟だった彼も、どこか泣きそうに顔を歪めてぼんやりと鳥かごを打つ水を見つめていました。まあ、西日のせいかもしれないですけどね。
そのとき垣根の影からひらりと黒いものが飛び出してきて、お利口に座っていたボタンインコをサッと咥えました。
「あっ」
と声を上げたときにはもう、インコはへんな鳴き声を上げたあとで、黒いものは用心深く獰猛に首を振りたくり、バキバキとなんだか嫌な音も立てました。人間に飼われている姿とちょっと繋げ難い野生の風格を見せつけたその黒猫は、ボンちゃんだったものを咥えたまま走り去っていきました。
「あ〜〜。マジで?あーん」
今度こそ泣きそうになっているりせちゃんの弟だった子を尻目に、私はボタンインコが座っていた場所を見ていました。水色の羽根と、小さな恐竜みたいな脚が一本。
「食べ残し」
思わずまろび出たその呟きが彼に聞こえなかったか気にする恥じらいくらいは私にだってあったんですよ。


大学2年生の春、祖母が亡くなりました。少しは闘病したんですけれど、市内の大学に通うため一人暮らしをしていた私が二、三度お見舞いに行けたかどうかというくらいで、あっさりと。
通夜と葬儀は地元の小さな教会で粛々と執り行いました。うちはカトリックですの。市内だったら珍しくもないけれど地元では少々珍しかったので、今や連合自治会長にまで上り詰めた自治会長――あの日私を捕獲した――が傍目に見てもどぎまぎしながら棺を担いでいたのを覚えています。ええ、うちには男手が、というかもう私しかおりませんから、自治会長やら葬儀社の男性社員やらが総出で祖母の棺を担いでくださったんですよ。
カトリックの通夜はですね、お焼香の代わりにみんなが一本ずつ花を持って、棺に入れていくんですの。故人の顔が辛うじて見えるくらい切り花で満たしてしまうんですのよ。当然それだけの量をひとり一本で満たすなんて大した有名人でもないと無理ですから、大抵は近しい人が何本も何本も良い塩梅に入れていくんです。それで私はずっと祖母の棺の横に立って弔問客ひとりひとりに挨拶しながら、葬儀社の方が次から次に渡してくれる切り花をせっせと祖母の顔の周りに詰めていたんですの。
通夜の夜も更けて、仕事帰りの近所の方だとかがちらほら来るほかは人もまばらになった頃です。自治会長が一緒に寝ずの番をしてくれると言ったけど、彼も祖母と変わりない歳ですから。何かあったら起こすからと言って、休んでもらっていたんです。教会と言っても古き良き昭和の日本の木造住宅と言った感じで、きっかり三畳の宿直室にはシスターがしっかり干した布団なんかも用意してあったんですのよ。
いい加減弔問客も途絶えて、私は誰もいない本堂で一人、祖母の棺の横に佇んでいました。本当に「ぽつん」という音がしそうなほどひとり。そう思って、棺の中の祖母の顔を覗き込みました。こんな顔だったかしら。死んでしまったものをなんとか仕立てているのだから、生きてるときとまるっきりおんなじというわけにはいかないわね。なんて、いいえいいえ、だって私は祖母の眠っている顔なんて見たことないんです。一緒に眠ったことがないし、駆けつけたときにはもうこの顔だったから。
このときはまだ、まったく悲しくなんてありませんでした。なんだか違うような気がしても、そこにまだ祖母という形で在るというのが、目で見ることに頼ってやっと生きている生き物にとっては大きいのかもしれないわ。その証拠に、何もかも取り返しがつかないような気分になったのは火葬炉の扉が閉まったときですもの。このときはまだ悲しくなんてありませんでした。
そうして祖母の頬を手の甲で撫でて、屈めていた腰を伸ばした私と入れ替わりに――その人は腰を屈めて棺を覗き込みました。ギョッとしました。ずっとひとりきりだと思っていたし、誰かが入ってきたり近付いてきたりするのに気が付かないほど浸っていたつもりもなかったんですもの。まるで沸いて出たようなその男の人は、もうたくさんの花で埋め尽くされている祖母の胸元に白い花を置きました。花びらと同じくらい白い手指で。
大声で自治会長を呼んで起こすかどうか悩みました。でも、この男の人はただ花を置いただけなんです。それなのにそんなことで悩む自分自身にもギョッとしました。そのうちに男の人は腰を伸ばし、祖母の棺の向こう側から私を見下ろしました。そう感じるほどには彼は背が高く、黒い衣服からぬぼーっと浮き出したような純白の肌をしていて、私を見る瞳は蛍光灯の下で誤魔化しようもないほどただ黄色く、私は昔こうして彼を見上げたことがあると、だから大声を出したくなったのだと、急に納得がいったのです。

「あなたがりせちゃんを食べちゃったんですか?」

そして納得がいった次の瞬間にはそんな言葉がまろび出ていました。無防備に。彼は、りせちゃんの特別な猫をチョコボールの刑から救ったおじさんは、私の言葉を甘んじて受けて哄笑しました。まあ、哄笑ってこういうときに使うべき言葉なのね、と妙に感動するほどそれはそれは教科書じみた哄笑でしたのよ。唇が大きく開いて…彼の口元は、りせちゃんの言っていた通りでした。歯もベロも無いどころか、何もないのです。ただの虚空でした。
「恥をかかせるな。故人を送る場で馬鹿笑いはマナー違反だろう」
「あら、カトリックではそれほどでもないんですのよ。お別れは悲しいけど、天国へ行くこと自体は悲しいことではないという考えですの」
「私は数珠を持ったり灰を摘んだりしてみたかったんだがね」
私は日本かぶれなのだ。そう言って、彼は確かに日本人ぽくはない目元を拭って笑いを引き剥がそうとしているようでした。じゃあどのへんの人っぽいのかと言われると困りますけど。そもそも人間ぽくもないわ。
「お久しぶりですね」
人間ぽくもない、ぼんやりそう認めながらそんなことを平然と口にする自分にも驚きましたし、
「そういう言葉を使うときは気をつけ給えよ。時制をはらんでる。私はついさっき君にあったばかりだし、明日初めて会うと言ってもまあ過言ではないな」
そんなことを平然と言う彼にも驚きました。
「何をしにいらしたの」
私の至極当然の問いかけには彼は、
「ある女性の忍耐強さと非情さに、敬意を表しに来ただけだ…興味本位で」
と答え、視線だけを棺のほうへ投げかけました。確かに、目的に相応しくきっちり髪を撫で付け、正しく喪服を着込んでいました。
しかしそうやって彼が明確に祖母へ意識を向けたことで、私は俄かに狼狽え不安になりました。それまでニコニコ笑顔だった人が、私を見て笑うのをやめた、そんなときの不安感に似ていました。ふわふわと、彼の態度に流されて能天気な対応をしていたけれど、もし彼が祖母を、りせちゃんみたいに。そう思うと急に恐ろしくなったし、焦りに駆られたんですの。どうにかしなければ。だって奥の部屋には自治会長もいるのだし――
「おや“怖がる”という態度も履修済み、相も変わらず趣味が良いのう…やはり『私』とは怖いものかね、恐ろしいものかね、いや答えなくて結構。こんなに融通の利かない世界は恐ろしくないのにか」
彼はもう祖母から視線を外していて、私を見下ろしていました。珍しがっているような顔。呆れ返ったような顔。面白がっているような顔。侮蔑するような顔。その全てにも見えましたし、ただ敵意はないと示す程度に口角を上げただけというふうにも見えました。
「今晩は寝ずの番をきっちりとやり遂げることだ。くれぐれもそこの座敷で寝こけてる自治会長と交代して寝こけたりしないように。君が夜通し起きていれば、とりあえず2人は無事だろう。今日のところは」
私の返事も待たずに彼はもう踵を返していました。2人って?私が何?今日のところは?目まぐるしく脳裏を巡る疑問符はなぜだか酷くよそよそしく感じられて、彼を呼び止める気も起きませんでしたの。その、礼服売り場のマネキンみたいな後ろ姿が闇夜に歩みだしていくのを確かに目を凝らして見つめていたのに、どのタイミングで彼が見えなくなってしまったのかついにわからずじまいでした。


火葬場で、祖母が最期を過ごした病院の看護師さんに話しかけられました。
「佳名子さんが書いてた手紙、受け取れた?」
佳名子というのは祖母の名前です。彼女は祖母の数年来の友人でもありました。
「毎日ね、すごく長いこと書いてたのよ。えらく悩みこんだりもしてね。そりゃ、普通の孫とは違うものね。ずっと自分で育ててきて、我が子をたった1人遺していくようなものでしょ。そんな手紙がちゃんと渡ってなかったらと思うと、気が気じゃなくて…」
確かに、私宛ての手紙が遺されていました。病室の片付けの片手間に読んでしまえる手紙です。祖母から孫へ、ほんの当たり障りのない言葉ばかりが二、三行。本当に当たり障りのない、耳障りの良い言葉だけ。
「大丈夫ですよ。確かに受け取りましたから」
それが祖母の答えなのだと思いました。祖母が忍耐強さと非情さの果てに出した答え。祖母、孫、ええおかしな話ですわ本当に。私の『祖母』であることを彼女は全うしたんですの。


事象の地平線という言葉をご存じ?なんだかとっても哲学したくなる響き。シュバルツシルト面とも言いますわ。最たるものはブラックホール。その中心近くに存在する「光速をもってしても抜け出せない領域のその境界面」つまり超えちゃいけないラインのことですわ。どんな物質も手段も行ったまま帰ってこれないので、その領域よりも内側の出来事を伺い知ることはできないという、比喩でもなんでもなく文字通りすべての出来事の「地平線」ですわ。でも「事象の地平線」ってともすれば文学的な響きじゃないです?すべての出来事の地平線、果てしなく遠くに見えるその地平線の向こう側は、誰にも窺い知ることはできない。その地平線が甘く好奇心を引いて輝くのはどこかに貴方の運命の女の子を隠しているからなんですのよオホホなんて、だから光も輝きも抜け出せないと言うに。ちなみにごく日常に存在する地平線までの距離は、わずか4.5キロなんですの。学校施設の過密していない田舎の中学生なら十分通学可能と判断され正規の学区内となる距離。私たちの知り得るこの世のすべてなんて、みんな中学生のうちに徒歩で拾得可能なものなのかもしれません。運命の女の子だってきっとそのくらいの距離にはいるものなんです、ほら中学で出会ってそのまま添い遂げるご夫婦とか。
脱線はさておき、そんな事象の地平線にあなたが立ったらどうなると思います?強すぎる重力のそばではどんどん時間が遅れていくこと、ご存知でしょう?ええ、すべての事象の地平線ですもの、時間も止まるものですわ。
無情にも私に手を離されブラックホールへと落ちていくあなたは、次第にスローモーションとなり、事象の地平線に到達する頃には完全に静止し、見守る私の視界から消えることは永遠にありません。私が年老いて朽ち果てる頃になっても、あなたはそのまま。永遠にそのまま。もちろん私のほうからそう見えるというだけですけどね。あなたが実際にその地平線で何を体験して感じることになるのか、私には永遠に知る由がありません。だって時間が止まっているんだもの。そこは全ての物事とあなたを隔てる地平線ですわ。あなたがおよそこの世全ての苦痛より凄まじい重力に翻弄されていようが、私が与り知りようもないことです。意味もないし。私にとっては永遠に、あなたはそこにいるんだもの。



学生課の前は学生用の喫煙スペースになっていて、私はそれがすごく苦手でした。そこに常駐している彼らは本当に悪意もなく、気軽に、意味もなく、そんな気もないのだとわかっていても、気まぐれに投げかけられる言葉で自尊心が右往左往したりすり減ったり、しなくていい疲労をしたりするからでした。彼らが気軽に投げかけるのと同じように、気軽に受け流せばいいのに。でも、その頃の私のような女の子にはとても無理でしょうね。本来の意味で適当にあしらったり、それが無理なら耳に入れる必要すらないんだって、そうすれば彼らは私のことなんて忘れてまた別の女の子に目移りしていくんだってわかっていても、その頃の私のような女の子にはそれすら難しすぎることでした。
祖母が亡くなったので学生課で手続きする必要がありました。手続きを終えて学生課から出てきた私に、彼らはタバコを指に挟んだまま話しかけてきました。タバコの匂い。もう大人の形になっている男の人。「実家でトイプードルを飼い始めたんだけどさ、お兄ちゃんが帰省してくるとすごく吠えるの。大人の男の人を見慣れてないから、すごく怯えて警戒してるの。私や父さん母さんとは違う生き物に見えてんだろうね。あ、うち、お父さんは私より小さいからさあ」友人の他愛もない話がなぜかぐるぐる頭を駆け巡ります。私の容姿について何か言われました。複数のよくわからない笑い声。胸に抱えていた書類を覗き見るように指を差し込まれて、頭が真っ白になりました。

「早く来いよいつまで待たせんだよ!!」

ですが突然響き渡った怒声がいつまでも頭真っ白ではいさせてくれなかったんですの。文字通り頭を殴られる心地がして私は我に返りました。遥か10メートルほど、学食の入り口のところに仁王立ちした彼女はまさにその怒声そのものといった表情で、それは紛れもなく私に向けられていました。誰かを待たせた覚えなんてありません。今やすべての視線が彼女に注がれていましたが、まったく意に介したふうもなく、もう一度怒声をあげる代わりにぞんざいに手招きをしました。
それを見て、私はほとんど小走りになって彼女のもとへ歩き出しました。
どうして今までそれができなかったのか、もうその瞬間には甚だ不思議でした。背後で彼らが彼女について、あるいは彼女に従う私について面白がろうとしているのも、別段気にすることではないようでした。どうしてこれまでもそのように思えなかったのか、自分のことなのにもうわからないくらいでした。
私が彼女のところへ走っていくと、彼女はしかめきった表情をガラリと変えて――最高の役を演じ切った女優のように満足げな笑顔を私に向けました。
「びっくりした?」
「びっくりしたよ」
正直に答えると、彼女は声を上げて笑い始め、私の肩に腕を回しました。
「怒鳴ってごめんね」
「ううん、ありがとう」
皆さん驚かれるかもしれないけれど、彼女――南条さんと親しく会話したのはそれが初めてのことだったんですの。



南条さんとは基礎実験の班が同じで、怒声の一件があってからは一緒にレポートを書いたりするようになりました。南条さんは私よりも背が低く、レンズの薄いメガネをかけていて、紺色や暗い緑色の洋服を好んで着るような女の子でした。
「私は内向的で能動的なんだ。自分が話したいと思った人以外と話すのが嫌なの。ワガママなんだよね」
南条さんはタバコを吸いました。それを知っているのは恐らく私だけでした。彼女がタバコを嗜むのは彼女が一人暮らしているアパートの部屋の中でだけと決まっていましたから。
「タバコを吸うのは秘密なの?」
「秘密じゃないけど…いや、面倒だからやっぱり秘密かな」
「面倒?」
「タバコを吸う女の子には例え初対面だろうがくだらない下ネタを優しく受け入れる義務があると勘違いしてる人っているから。この中で誰とヤりたい?とかさ。そういうのってムカつくわ。こう、私のガワっていうか、形しか見えてないうちから内側に入り込んだ気になって、いい気になられてるみたいでさ。セックスの話なんて自分がしたいと思った人としかしたくないよ。あ、これはヤりたいって意味じゃなくて、話をしたいって意味ね」
私はたじろぎました。それはもうわかりやすかったのだと思います。南条さんが口も眉もへの字に曲げて笑いましたから。彼女が「面倒」だと言い切るものは、私が恐れて逃げ出したいものでした。そしてまさに、そういったものに遭遇していたところを彼女に救ってもらったのでした。
念入りに掃除された換気扇のファンに向かって煙を吐いて、南条さんは付け加えました。
「だから、アンタに怒鳴ったことでいろいろ噂されるのは別にいいわけ。先に動いたのは私だから」
「でも…」
それは理屈の話であって心情の話ではないのでは、というようなことを私は言いたかったのです。彼女のおかげで助かったのだから、それで彼女が損を被るとなると引け目を感じるのがまあ小市民のサガと言うものではないですか?
南条さんはすべて見透かしたように眉をあげると、煙を噴きながら笑いました。
「そんな顔しないでよ。もともと評判が良いってわけでもないよ、私」



南条さんの評判は確かに良くありませんでした。私はしばらくの間、きっとそれはあの日彼女が公衆の面前で、それも面白おかしく騒ぎ立てそうな人たちの面前で私を怒鳴りつけたからだ、と思っていました。話しかけたら睨まれただとか、無駄にツンケンしているとかいう評判も、面白半分の人たちに興味本位で構われたら当然かと思って。つまり根源的要因は私であるのに、南条さんの評判を払拭できない自分に、面白おかしく噂している人々に飛び入って諫めることができない自分に思い当たるたびがっかりして、南条さんに負い目を感じていたのです。今にして思えばその負い目が、私の南条さんへの好感度を無条件に引き上げていくようでした。こういう効果って心理学的に何か名前がついてそうですわ、アリストテレスの提灯みたいな。
けれどどうも、それだけでは無いようでした。唯一同じ高校から進学した学部違いのその友達は、ひさびさに私を見つけるやいなや図書館脇の談話スペースへ連行しました。
「ちょっとなになになに。私、友達と待ち合わせしてて…」
「友達ってもしかして南条?」
「そうだけど」
「ホントに南条と仲良いんだ」
そのときの彼女の顔といったら。人間ってこうも多種多様な感情を全部のせした複雑な表情が出来るものなんですね。
「友達選べなんて言わないけど。気を付けないとあんたもおんなじように見られるよ」
そんな言い草、もうほとんど友達を選べと言ってるようなもんでしょう。私は少しムッとしたように思います。負い目から好感度爆上げ中の南条さんを回りくどく悪く言われてムッとしたし、人を見る目が無いと暗に貶された気になってムッとしました。いつだってそうですわ。人々が友のために怒るのは、その友を選んだ自分の沽券にも関わるからですわ。
「なに?なんなの?なんでそんなこと言うの?何かあるの?」
「本気で知らないの?」
彼女は少しの間躊躇ったようでした。私はというと、今度は無知を馬鹿にされたと感じて身を強張らせていました。そのときの彼女と私、いったいどちらが良心のほとりにほど近かったんでしょう。彼女はちゃんと躊躇いました。言わせたのは私の頑なな態度ですもの。
「南条、斜川とデキてるって噂だよ」
そう言った彼女の唇が神経質にヒクつくのを、私はただ見ていました。


斜川先生は生化学系の准教授でした。学生たちからは単に斜川先生と呼ばれていました。確か文芸部だか手芸部だかのサークルの面倒を見ていて、その界隈の学生とはそれなりに親しそうだけど特別ということはない、大学内でも特別目立つこともない先生でした。オープンキャンパスで綺麗な女の人と珍しく親しげに話していて、無遠慮な学生がお知り合いですかと囃し立てたらウチの奥さんだよ、と。左手薬指には無愛想な指輪を嵌めていて、お昼は学食ではなくお弁当。つまり南条さんが遠巻きにされるのはそういうことでした。
「噂でしょう」
私はなおも食い下がりました。けれどわかっていました。私が南条さんと親しくする理由も、彼女がそれを勧めない理由も、どちらもそれで成り立つと。実際、彼女は私が考えていたのとおんなじことを口にしました。
「そうだよ、噂だよ。それが本当かどうかなんてわからないけど、そういう噂があるのは本当だから。南条はそういう目で見られてるし、あんたも面白おかしく言われるかもしれないよ。知ってて仲良くしてるなら私なんか言うことないけど、知らないってフェアじゃないと思ったから。そうだね、要らないお世話だよね。でもあんたってぼーっとしてるから、つい心配になって。南条、見た目はあんなで可愛らしいかもしれないけど、」
「いいの。ありがとう。ぼーっとはしてないよ」
「ぼーっとはしてるよ」
彼女はバツが悪そうに笑っていました。私はそんな彼女を見るフリしてその背後の壁掛け時計を見ています。南条さんとの待ち合わせの時間を気にしています。


実を言うとそれがそれほどのことなのか、その頃の私にはピンときていませんでした。他人の配偶者とそういった仲になることが真実どれほど極悪なことなのか、グッと来ていませんでした。もちろん一般常識としては知っていたし、自分もそれに従おうという倫理観と良識もありました。けれどそれがどれほどの精神的苦痛を関係各所にもたらすものなのか、想像もついていなかったんですの。一つは私が恋愛経験ない歴年齢だったことがあるでしょう。恋人どころか甘酸っぴゃあ初恋の思い出すら未だで、ですから当然それを踏み躙られる痛みなど知る由もありません。一つは私が夫婦というものを見慣れていないというのがあるでしょう。祖母のもとで育った私にとって両親ひいては夫婦というものはステレオタイプの憧れではあったけど、具体的にどういうつもりでどういった温度感でペア行動している人たちなのかはこれもまたグッときていませんでした。一つは私がぼんやりしていたというのがあるでしょう。先ほどは見栄と頑なさの名残りから「ぼーっとはしてない」なんて言ったけど、やはり私はすべての物事においてぼんやりしているのでした。子供の頃から、いつもそう。目の前に乳白色のごく薄い膜があって、だからイマイチすべての出来事に他人事で無責任な感じ。ですから、南条さんが実際斜川先生とデキていたとして、それが一様にこのような評判を生むことなのかと、理解はしているけど半信半疑でもある、というような具合でした。

大学から少し離れたファミレスで、南条さんはコーンソテーだけを頼んできっちり四粒ずつ、フォークの先端に一粒ずつ刺さるだけをつついていました。
「友達が、南条さん可愛いって」
「へーありがたやありがたやーだね」
「女優の誰かに似てるって言ってたんだけど、私疎くって忘れちゃった…」
「あんたがわからないなら私もきっとわかんないよ、うちテレビないし」
「南条さんが言ってた卵のやつ、家でやってみたら美味しかった」
「でしょう、また今度作ってあげるよ」
「もう自分で作れるのに?」
「経験値が違うから、私が作ったほうがまだギリ美味しいかもしんないよ?」
こんなふうに頭の中に浮かんだことをだらだら話していいような雰囲気が、彼女もそれで楽しんでくれているような雰囲気が南条さんにはありました。抱腹絶倒楽しい、ということはないけれど、おいそれと手放したくないような居心地良さがありました。そしてそれは、彼女が周囲から遠巻きにされるほど、彼女が周囲にツンケンすればするほど強くなっていきました。南条さんは私だけにこんな柔らかい顔をしてくれるのかもしれないなと、思い始めていたんですの。
「あんたって男の人、苦手なの?男と話すときいっつも泣きそうな顔してる」
「慣れてないだけだよ、たぶん。家族に大人の男の人っていなかったし、高校まではみんな男の子って感じだったのに…なんだろうね、ついていけてない感はあるよ」
「私はあんたのそういう感じが楽なんだ。本当に」
どういう意味だろう、と私は静かに動揺しました。南条さんもそうだってこと?それとも、そんな私なら根掘り葉掘りしないから楽、ってことだろうか、とか。間違っても噂のことを問い詰めたりしてくれるなって牽制が、もしかして言外に?とか。こんなに慎重に動揺するのは、私が常に南条さんに対して負い目と後ろめたさを抱いていて、ひとえに嫌われたくないからでした。
「私、何かサークルに入ってみようかなって」
「今から?しんどくない?」
祖母が亡くなり、南条さんと仲良くなったのは春で、そのときはもう真冬になりかけていました。
「うん、だからそんなにガチっぽくないところで…無害な少数の人々で構成されている集まりで…人間関係の練習を…」
「なんじゃそりゃ」
「社会に出る前に…」
「あっはっは。なら文学愛好会紹介してあげようか」
「あれ、南条さんサークル入ってるの」
なら安心だぁと言いかけたところを「ううん私は辞めちゃったんだけどね」と遮られがっかりしました。
「本読むの嫌いじゃなかったら、だけど。書けなくてもいいんだよ。書く人もいるけど、自分の好きな本のことを緩く話し合ったり、そっちのほうがメインだから。興味があったら紹介できるよ、知り合いがいるから」
在籍していたのだからそりゃ知り合いはいるだろうなとか、如何にも緩くて無害そうで魅力的だとか、南条さんとそういうこと話したいなとか、どうして南条さんは辞めちゃったんだろうとか。
斜川先生ってどこの顧問みたいなことしてるんだっけとか。
そんなことを考えてたんですの。


文学愛好会はとても居心地が良いところでした。文芸というそもそも一人で黙々と取り組むものが好きな彼らは皆ほどよい距離感を持っていて、それでいて人数の少なさから新人を歓迎する姿勢がありました。もともと幼い頃からひとり遊びの多かったせいで本を読むのは好きだし、もう入っちゃおうかなあ…と、呑気に即決モードに至っていた私に、部長さんは懇切丁寧に説明を続けました。
「週末、ちょうど忘年会をやるんですよ。普段は滅多に全員揃うことないんですけど、忘年会はみんな来るから、そこでサークルメンバーを矯めつ眇めつするといいですよ。入る前にみんなわかってたほうが気が楽でしょう。それが終わってからやっぱ入るのやーめたでも構わないんです。というか、入ってからやめても構いません。来るものに甘く、去るものに優しくがうちのモットーです」
「ステキ」
「ただそんな感じの性格の人が多いってことです。そうだ、斜川先生も来ますよ。斜川先生、ご存知ですか?」


ファミレスの喫煙席で基礎実験のレポートを書きながら、私は南条さんにそのままそっくり報告しました。南条さんは楽しそうに、懐かしそうに聞いていました。
「ね、良いサークルでしょ。行って来なよ忘年会」
「斜川先生も来るって」
「ああそう」
「部長さんが南条さん懐かしがってたよ、ぜひ南条さんも一緒にって」
「あはは、私は行かないな」
「なんで」
南条さんは「あはは」の顔のまま、たっぷり時間をかけて修正ペンで字を消していました。この大IT時代にも関わらず、基礎実験のレポートはコピペ防止のためレポート用紙にボールペン書きで提出するアナクロニズムを求められていたんですの。手書きだって丸写しは可能でしょうけど、それでも「自分で書いてるぶんだけマシ」というそれこそアナクロニズムな教育論ですわ。それにしても少し丁寧すぎるその修正ペンさばきを、「なんで」であってほしいんだろうと考えながら私は眺めていたんですの。
「辞めたサークルの飲み会なんてどんな顔して行くのよ。行けない行けない気まずくて」
「でも、そんな感じじゃなさそうだったけど…」
「そうよ、私が捻くれてるだけ。それに人間関係の経験値あげるんでしょ、だったらあんた一人で行かなきゃ!私と行ったら意味ないでしょ」
「うん、そうなんだけど、うん、行かないなら行かなくていいや、南条さん楽しいかも、行きたいかもって少し思っただけなの」
「…」
「南条さん?」
不意に南条さんは修正ペンを置いて、真顔で私に抱きついてきました。肩口に南条さんの小さな顎が刺さって、南条さんのさらさらした髪の毛が耳元でそんな音を立てました。女の子特有のシャンプーみたいな匂いと、ほんのかすかに、こんな距離まで近づいてやっとわかる程度に彼女のいつも吸っているタバコの匂いがして、そのシークレットな感じ?プレミアムな感じ、秘密めいた感じ、なんかそういうコンセプトのカクテルとかチョコレートとかってありそうなんてわけわかんないことを私はどこか遠くで考えていて。抱きしめ返しちゃおうかな、と腕を上げかけたところで南条さんはふいっと体を離し、かと思うと「あははあはは」と笑い始めました。
「はー。タバコ吸ってもいい?」
「はあ、どうぞ」
「ごめん、笑いすぎて手が震えて…ライター点けてくれる?」
「どうやって点けるの?」
南条さんのライターは短い万年筆みたいな見た目をしていて、赤いボディは口紅に見えなくもなくて、火をつけるものと言えばコンロかチャッカマンという私には難易度が高すぎたんですの。「普通のライターと一緒よ」と言われて蓋と思しきところをぐりっと押すと、なるほどようやくライターらしい挙動で火が点きました。
「こういう友達が欲しかったの私。なんか今までずいぶん馬鹿みたいなことやってきた気がする」
「なん、え、そうなの?」
「そうなの」
こういう友達ってどんな?ずいぶん馬鹿みたいなことをやったって、どんな?南条さんといると確かに楽しくて、楽しいのに、楽しいから、失いたくないから、がっかりされたくないから、独り占めしたいから、頭の中がどんどん疑問符で埋め尽くされてパンパンになるのが常でした。
煙を吐き出しながら、南条さんももう修正ペンを取り上げていて、また丁寧に丁寧に文字を消し始めました。
「忘年会行ってきなよ、きっと楽しいよ」
斜川によろしく、と南条さんは言いました。



忘年会の日、私は斜川先生の隣に座りました。斜川先生がビールを飲んでいたから、私もビールを飲んでいました。
「君は新しく入ってきた子?一年生?」
「まだ決めたわけじゃないんですけど、部長さんが誘ってくださったんです。二年生です。六月に成人しました」
斜川先生の頬はもう赤くなっていて、意外にも人なつこい笑みを浮かべると「おめでとう」と私のグラスにグラスをぶつけました。
「俺もついこの間二十歳だったと思ったら、もうアラフォーに片脚突っ込んじゃってるんだもんなぁ。奥さんに言われちゃったよ、最近特にじじくさいって。自分だって同い年なのにねえ」
「奥さん同級生なんですか、綺麗な方ですよね」
「あはは、きちんと伝えとくよ。そうそう中学校のね、同級生なんだ。タバコ吸っても平気かい?」
「ええ、友人が吸うので」
斜川先生は背広のポケットからタバコとライターを出してきてビールの横に置きました。タバコは見たことのない銘柄で、いえきっと私が疎いだけでありふれた銘柄なんでしょうけど、少なくとも南条さんのタバコとは違う銘柄で、けれどライターは彼女のものと同じでした。短い万年筆みたいな。青い色違いのライターを、指輪の光る指が無造作に弄っていました。
「南条さんがよろしくと言っていました」
既にタバコを咥えていた斜川先生はどんな声も出しません。どんな反応も示しません。さっさと火を点ければいいのに、ライターを弄んでいるだけです。時折指輪に触れるのかコツコツと硬質な音がして、私はぼんやり、ああまたぼんやり、その音とこの話はこの気持ちの良いサークルの人々に聞こえて欲しく無いと考えてたんですの。
「南条さんが『斜川によろしく』って」
「……火を点けてくれる?」
大人の男の人特有の節くれだった指に触れないようにライターを受け取って、南条さんに習ったとおりに火を点けました。小さな火を手で覆って、先生の顔が近づいて、タバコの葉の燃えるひりつくような音がして。最初の煙を吐き出してしまうまで、先生は私の目を見ていました。目を見られて困ることは私にはありませんから、黙って見つめ返していました。
先生は私をお節介の委員長みたいな女の子だと見透かそうとしたかしら。それともネタを手に入れて強請ろうとする性悪な女の子だと?それとも何も考えていない自分が何を言ってるのかもわかっていない女の子だって。私はそのどれでもありません。ええ、私はそのどれでもないんです。
先生がふいに手を差し出しました。ライターを返してもらおうという当然の流れで出された手のひらでした。私はそれを無視して、自分の手の中でライターを弄び続けていました。



それからはすごく簡単でしたのよ。慣れないビールで酷く酔っ払ったふりをしておけば良かったんですもの。先生はずっと私の腕を持って支えていました。ホテルの入り方も何もかも、初めてだからわからないって態度でいれば何も特別なことをする必要なんて無いんです。すごく簡単だなあと、奥さんに電話している先生の剥き出しの背骨を見ながら思っていました。あちらはむしろ私のこと、すごく簡単だなあって思っていたでしょうけどね、ええ。簡単でどうしようもない女の子だって。笑ってしまうわ。私はあとはもう、目を閉じるだけで良かったんですの。


夢を見ました。悪夢と言っていい夢です。夢の中で目覚めた私は、今にも潰れてしまいそうでした。何か恐ろしく巨大なものの下敷きになっているんですの。幸い、それは柔軟性が、というより軟体動物の死骸みたいに滑ってぐちゃぐちゃしていて、本当に潰れてしまうようなことはなかったんですの。でも本当に、耐えきれないほどおぞましくって。抜け出そうと一生懸命押してもそれはぐちゃぐちゃ柔らかく、よくわからない分泌液なのか単にそれ自体が溶け出しているのか滑っていて、少し力を入れると指の間に引き千切れて残ったりして、ほんの少しずつしかはい出せないんです。まるで巨大な臓物の海で溺れてるみたいでした。だんだん、本当にそうなるんじゃないか、この得体の知れないおぞましいものに取り込まれて、あるいは身体中入り込まれて窒息して溺れて圧死するんじゃないかって、必死に這い出そうとすればするほどそんな恐ろしい考えに支配されて、半狂乱になりそうになるのを必死で堪えていました。永遠に思えるほどもがいて、やっとの思いで上半身だけ這い出したんです。私は全裸でした。まあ、滑って汚れきっていて、恥じらいなんてものはありませんでしたけど。半身をようやく捻って、私は自分が潰されていたものをようやく見ましたわ。それはズタズタに切り裂かれた巨大な生き物の大腸みたいでしたわ。それはほとんど腐りかけなのに浅ましく生き足掻こうとする巨大な軟体動物の半死体のようでしたわ。それは醜い蛞蝓と蛭と蛇を掛け合わせたうえに失敗した存在していること自体が哀れな瀕死の怪物みたいでしたわ。そんなものがちょっとした山みたいにうず高く乱雑に折り重なっていて、ところどころ痙攣するように蠢いていて、肌にじかに触れていて未だに脚は抜け出せないでいる。私は初めて視覚情報だけで吐き戻すという経験をしましたわ。幸い胃には何も入っていなくて(夢だし)、しばらくコントロールできないえずきに胃から舌先までを痙攣させただけでしたけれど。暗い淀んだ海みたいな、生命の終わりカスが静かに降り積もった場所みたいな、磯臭さと生臭さの境界みたいな匂いがしました。

「おや。そこで何してる。いやいや冗談だ。何か踏んだような気がしたが、あいにく日常茶飯事でね。瑣末なことだ」

聞いたことがあるような声にまだ戦慄く体を叱咤して見回すと、臓物の小山のてっぺんにあのおじさんが座っていました。あの薄暗いバス停、あのひとりぼっちの棺の隣、当然のようにそこに立っていたあの黄色い目のおじさんが。私はいつもこうして彼を見上げている。どうして。
「私の脚が失礼した」
遥か上空と言っていいほど高い臓物の小山の上で彼が『よいしょ』とでも言うように体を傾けると、ぐちゃぐちゃと酷い音を立てて臓物が蠢き私の上から退いていきました。それでそれが鮮魚店のバケツに山と捨てられた臓物や腐りかけの軟体動物の怨霊なんかじゃなくて、彼の『脚』なのだと私は理解したんですの。理解して吐きました。
「おやまあ。『私』とはおぞましいかね、恐ろしいかね。なに、ヒトなら大抵そういう反応だ。上出来というやつだろう。ともかく、これでも私は気を遣うほうでね。往来を行くときはこんなにしどけなく脚を放り出したりはしていない、見ただろう?自重している。往来が吐瀉物まみれになるのも先ほどの君のようにヒトを踏ん付けて轢き殺すのも毎度となるとうんざりだからな。つまりここで、君相手なら露ほど気にもならないということだが」
「ここはどこなんです」
「夢という夢は私の下で引き千切られ掻き回され蹂躙されるものだ。遍く。ひとつ残らず。『君の夢だ』と知ることに一体何の意味が?」
ふいに笑い声が響きました。彼は穏やかな無表情で私を見下ろしているだけです。彼の『脚』がところどころ裂けるようにして『口』を開き、不揃いな牙を剥き出しにして笑い声をあげているのでした。鉈で切り裂かれた傷口のような口がぐちゃぐちゃ身をよじらせ笑うのを見て、尻のあたりからつむじまで一気に粟立つのがわかりました。彼の『脚』は、どこもかしこも生理的嫌悪を最も効率的に煽るようデザインされたようでした。ひたすら忌まわしく、ひたすら悪辣なんですの。
「何しにいらしたんです、一体私に何の用があるんです、あなたは一体なんなんです」
「君が自分の部屋を歩き回るように私は数多の夢を轢き潰す。夢を見る理性ごと磨り潰す。なんせこの図体だ。夢の一つぽっち、通りすがりどころか寝返りにも満たぬ。シーツの上の塵芥の分際で私が誰かなどと気にするかね。懇切丁寧それに乗っかって自己紹介してやるほど君に対して興も乗らない。一時は面白くなると踏んだがまあこんなものよなあ。君の趣味が良かろうが、私の趣味とはどうにも合わない。私は君ほど多情ではない」
わかるようなわからないようなことをまくし立て――いえまくし立てているなんてことは決してなくて、彼は一貫して締め忘れた蛇口程度の控えめさで話し続けているのですけど、なんせすんなりわからないから――歯に絹着せているというか、ほんの幼いころだけ暮らしてた外国の言葉で話されているようなもどかしさがありました。そう、もう少しでわかりそうなのにっていう苛立たしさ。彼は好意はないけど敵意もないというようなある意味気安い無表情でただ私を見つめているのに、そういったすべての要素が不快感となって、まだいつでもえずけるとスタンバイしている私の胸に蓄積されていくのです。
「あなたが何を言ってるかわかりません、いつだってわかりません、りせちゃんは――私の両親は」
「おやおやまだ続けるか?牝猫風情が少しは笑わせてくれる。だが生憎付き合う義理も無し、興が乗らないというのは多少の強がりだ。というのも、芝居は観る専でね。自分で演るなどかなわんかなわん。仕留めた獲物はどうした。現では今頃食事中かね。なに今夜は端からそのつもりだっただろう。素知らぬふりでカマトトぶって芝居ごっこに巻き込もうとは、いやらしい女よのう」
私は黙っていました。裸で、よくわからない粘液にまみれて、吐き気に内臓を支配されながら、遥か耳元に獣の吐息を聞いていました。ともすれば低く唸り声が混じりそうで、今にも臨界を超えて暴走しそうな狂気を秘めた速度で、理性のかけらも感じられない。ボタンインコを仕留めた黒い獣みたいな。それはじっと耳をこらしていると、次第に自分の気管支から聞こえてくるような気に陥るのです。
「役を演じきるのは女優だが、信じ込むのは病態よなあ。それが悪いなんて言わないがね。どちらも醜いことに変わりは無い。つまり風情がある」
彼は笑う虚空の口元を扇子で上品に隠し、着物の袖から時計を取り出して「おや時間を食ったな」と呟きました。わかりやすく回りくどい『これにて解散』の決まり文句が少しおかしかったのは本当で、食ってかかってみたくなったんですの。
「あなたともあろう方が『時間』なんて気にするの」
「私は君よりは時間の価値というものを知っている。今の君よりずっと」
ちょっと食ってかかろうという負けん気は、彼の『脚』の変化を見て綺麗に萎びれました。つまり、食い荒らされた内臓みたいなそれがいっせいに蠕動し、内側からひっくり返されるみたいに嫌な音をギチギチたてながらのたうち回り、押し出された黄色い目玉が蛸の吸盤のように『脚』の先から先までギッチリと並んでギョロリと、私を見据えたので。
「ヒトは「死ぬこと」さえやりおおせてしまえばすべての苦痛と苦難は終わりだと思いがちだが、そうではない。そうではないとも」
彼は囁くように言い、『脚』の一つにもたれながら扇子で顔を隠しました。
また嗤っているのだ、と思いました。
「ま、君がそれに価値を置くかどうかは定かじゃないがね」


目覚めてもまだ吐き気が残っていましたし、喉の奥には本当に吐いたかのように苦い味が残っていました。慌ててシーツを確認したものですわ。ラブホテルで寝ゲロしてしまった人間の立ち振舞いなんて、知る由もなかったですし…聞ける人もいませんでしたし。幸い吐き戻したのは夢の中でのみのようでした。ホッとして、私は部屋を見回しました。シーツの上にぽつんとひとりきり。斜川先生はもちろんいません。まあ、帰っただけかも。ネガティブ思考のつもりで私はそう考えました。楽しいことが起こるかもしれないときに、念願が叶うかもしれないときに、それが確実だとわかるまではまだ喜ぶなまだ早い、と自制するものではないですか?私はそういったタイプですの。念のため、部屋のどこにも先生の痕跡が残っていないことを確認してから私は部屋を出ました。お腹も空いたことですしね。ええ、私の眠る部屋で何が起きていようと、私自身のお腹は大して膨れもしないんですの。



斜川先生が居なかったことになっても、南条さんが急に人気者になったりということはないようでした。南条さんは変わらず遠巻きにされていて、変わらずツンケンしていました。ただ、どうしてそういう状況になっているのかという話になると、誰もはっきりとした答えを持っていないし、あまり長い間その話題に興味を持っていられないようでした。南条さんを遠巻きにする人々も、南条さん自身でさえそのようでした。

りせちゃんのときと同じ。

でも、確かにそうですわね。教室の真ん中の席が空席なのも、犬派の家庭でボタンインコを飼っているのも、特に理由もなく嫌われている学生がいるというのも、一つ一つは大したことじゃあありませんものね。案外、人間がひとり世界から引きずり落とされ『居なくなって』雑な痕跡を残していったって、大した齟齬は生じないものですわ。生化学の准教授に欠員があるのも、自分には娘も居たはずだと主張する母親も、そう摩訶不思議なことじゃあございませんでしょ?人間様の素晴らしい論理的思考能力(または「常識的」という言葉を笠にきた冷笑主義)を持ってすれば、ほとんどの『少し不可解』程度のことにはそれこそ常識的な納得をもたらすことができますわね。ええ、ほんの赤ん坊の頃に両親を失った子供が両親のことを考えないのも、何も不思議ではないでしょう?それだけ育ててくれたおばあさんが良くしてくれたのねえって。けれど、祖母の立場からするとどうです?ちょっと苦しいかもしれないわね。さすがに我が孫が息子の娘なのか娘の娘なのかわからないっていうのは「ちょっとおかしいねえ」では済まされないのでは?自らに「子供がいた実感はないのに孫が居る」ことになんの疑問も沸かないなんて、私なら気が狂ってしまったのかと思うわ。あるいは、その子は誰?その「孫」はいったい、なんなの?祖母はそんな苦悩など悟らせませんでしたわ。頑なに私をひとりで眠らせた祖母。ひとりで眠るのは寂しいわ。毎晩悪い呪文をそっと囁くように「おやすみなさい」と呟いた祖母。まるで化け物を閉じ込めるみたいに。ひとりで眠るのは本当はすごくすごく寂しいわ。私をどんな目で見てたかしら。私に何から話して聞かせるか、最期の病床で苦しんだかしら。だって祖母が死んだら、誰も見張る人がいませんものねえ、私がちゃんと一人で眠っているかって。
でもいいんです。祖母は何も話さずじまいでしたから。唇に乗らない思惑なんて存在しないのと同じでしょう。おばあちゃん。私のおばあちゃん。あんなに長い間、なんて忍耐強くて可愛らしいほど非情な人。祖母はただ私の「おばあちゃん」のまま死ぬことを選んだんです。祖母は私の共犯ですわ。それで十分だわ、十分ですの、私。


「顔色悪いよ」

換気扇の下、南条さんは面白くもなさそうな顔で火をつけないタバコを唇で弄んでいました。あのおぞましい夢を見てから、あのおぞましい夢を見て目覚めてから、寝起きの喉に貼り付いていた吐き気は今もなお続いていました。まるであの『脚』の下から抜け出そうともがいていたときみたいに、なかなか夢の名残りから抜け出せずにいたんですの。気管支とか食道とか、そういった身体の細い器官にあの『脚』が入り込んでいるようで、気を抜けばえづいてしまいそうでした。
南条さんはしばらく戸棚をごそごそやっていたかと思うと、おもむろに小分けのドーナツを引っ張り出して言いました。
「ちょっと食べて見なよ、美味しいよ」
「食欲がなくて…」
「ホントに具合悪そうね」
結局ドーナツもタバコも放り出して、南条さんはちゃぶ台にもたれた私のところへやってきました。にわかに「はい、お腹だして〜」と言い出す彼女はお医者さんごっこでも始めるようです。わざとらしくメガネを押し上げてまじめくさってまっさらなレポート用紙を構える姿が可愛くて、私はやっと少し笑えました。
「で、ほかにどんな症状が?」
「胃もムカムカするしお腹も変な感じだしとにかく気持ち悪い」
「ははっなんかつわりみたい」
南条さんは考えなしに言っただけでしょう。お教えしてなかったかしら、彼女は嘘も冗談も本当に得意じゃないんです。ちょっとぎょっとするようなことを、面白いと思って口にしたりする女の子なんです。それに実際、私たちはそういう話をしてきませんでした。恋人の惚気だとか悩みだとか愚痴だとか、そもそも恋人がいるかどうかという話さえ…一重に私が、彼女が、彼女と斜川先生にまつわる噂を巧妙に避けた結果そうなっていただけなんですけれど、斜川先生が「居なかった」今となっては。私たちはそういった話をしてこず、少なくとも私たちの共有する日常にそういったものは存在しなくて、だから「つわり」なんて言葉は突拍子もないもののはずで、それなりに笑い飛ばせる冗談のはずでした。

私はどんな反応も返せずに南条さんを見ました。
「…なに」
南条さんの表情が次第に笑みの名残りを失って均衡を欠いていくのを、目に焼き付けるようにして見ていました。



「居なかった」人の種で孕んだ子は、本当に居るのかしら。孕んだ私はここに居るのだし?居る状態と居ない状態が重なり合っていたりして。実際に胎を開けてみなくてはわかりませんわね。似ていませんこと?箱に閉じ込められたネコちゃんと。誰かがこじ開けるまではどちらでもあるんですわ。つまり、あえて開かない優しさというものもあると思うんですの。そういう優しい存在がいたっていいと思いません?どちらでもある状態が本人(または本猫)にとってどんなものかは、それこそたとえこの世すべての苦しみよりむごいものだったとしても、私には与り知りようがないことですわ。だって私にとってはどちらでもあるんだもの。私はあなた方の苦痛を糧にして遍く優しいモラトリアムの海に浸るのです。ええ、ですから確かに共通しているのは「どうしてそんなむごいことをするのか」ということですわね。どうしてネコちゃんを箱に閉じ込めるの。どうして赤ん坊を暗いお胎の中に閉じ込めるの。笑ってしまうわ。あなた方がそれを知ることにいったい何の意味が?



たったそれだけの言葉の詰まりを誤魔化してなあなあにできる仲ではありませんでしたの。私と南条さんは、その程度の仲ではなかったんですの。私はかなりの匿名性と大袈裟な客観性をもって事実を白状しました。お酒の席で、前後不覚に酔っ払って、気づいたらベッドに一人で、相手は今となってはわからない人。南条さんは怒りました。南条さんは泣きました。私の無防備さを詰り、私の行動を一つ一つ遡って想定して落ち度を指摘し、なぜもっと早く言わなかったのかと泣き、なぜ頼ってくれないんだと泣き、私が付いていれば良かったと泣きました。彼女の感情の怒涛を余さず受けながら、私はこういうことを南条さんに言われたかったんだなと思いました。いいえ、こういうことを南条さんに、言いたかったんだって、どこか遠くで、ぼんやり。
「病院に行かなきゃ」
南条さんはあとからあとから溢れる涙を頻りに拭きながらそう言いました。
「私もいっしょに行くから、お願いだから」
「うん」
「今日は遅いから、明日行こうね。今夜はここに泊まる?」
「うん」
「私が一人にしたくないだけなの」
「そうね、ひとりではいたくないわ」
明日の朝、この部屋で私がたったひとり目覚めたって、世界は意にも介さないでしょう。こんなに彼女の名残りで溢れた、彼女が吸った吸殻のある部屋だけが無造作に残されたって、世界は勝手に納得するでしょう。そういうふうに出来ているんですの。恐ろしいわ、ええ、あなた、今頃お気づきになって?




平池さんは会社の先輩です。新人当時の教育係的な先輩で、今も何かと面倒を見てくださいますわ。というか、たった三人だけの部署ですの。課長を除けば彼と私、たった二人の課員ですわ。
平池さんはタバコを吸います。この大嫌煙時代のすみっこでしぶとく煙を吸引し続けていますの。銘柄にこだわりはありません。私のこれまでの人生に登場した喫煙者たちは皆、銘柄に関してなにかしらのこだわりや思い入れを持っていましたから、私には平池さんの無頓着さが珍しく感じられたんです。平池さんはタバコをくわえたまま眉を顰めました。
「ぜんぶ燃えて灰になるだろ。同じだろ」
焚き火でも焚いてろってな斬新な見解ですわね。
あるとき平池さんと私と、他部署の偉い人とお食事をする機会がありました。いわゆる接待ですわ。ええ、未だにそういうことがある古風な会社なんですの。先方が大変なザルで、見たことも飲んだこともないお酒がたくさん出てきました。平池さんが頻りにこちらを気にかけているのがわかりました。それでも最後まっすぐ立って、一礼して先方をお見送りするところまではやり遂げたんですよ。そのあと全くだめでしたけど。
一度気づいたときはどうやらタクシーの中でした。窓ガラスの外にたくさんの光が引き伸ばされてぐるんぐるんしていました。平池さんが平気か、帰れるのかと問いかけてくるので、平気です、帰れますと返事をしたのは覚えていますわ。こういうとき、平池さんはどうするのだろうという考えがぼんやりとありました。どうなったって別に構わないんですけどね。ええ――

「弓削!!」

強く揺り起こされて、私はようやく全ての現実に毟り取るように引き戻されたんですの。ワンストロークで見開いた目の前に。
猫の顔がありました。
黒い毛並みの、顔のパーツがすべて溶け崩れ掻き回されたようなおぞましい猫の顔。不自然な位置で不自然な形に見開いた目が私を見据え、耳から喉元まで裂け広がった口が捲れるように開き、冗談みたいに尖った牙に幾重にも取り囲まれた暗い喉の穴が今にも私の顔を齧りつき、その喉奥に飲み込もうと迫っていました。いつかどこかで聞いた獰猛な獣の吐息。

これが私の正体だわ。
驚く程しんとした頭に、確信だけが横たわっていました。

それがそこに見えたのはほんの一瞬で、当然のように立ち消えたあとには引き攣った顔で私を覗き込む平池さんの顔がありました。平池さんのそんな顔、初めて見た。いつも大抵しかめっ面なのに、何故だかそういう緊迫した表情はすこぶる似合わなくって可笑しいんです。平池さんはまだ私の肩を強く掴んだまま、こめかみに汗なんか浮かべてるんです。
「何かデカくて黒いバケモノみたいなのがお前に食いつこうとしてたから…」
浮かされたように口早になった平池さんは、そのわずかな文節の中で急速に常のしかめっ面に落ち着いて行きました。言った端から言ってることの素っ頓狂さにバツが悪くなっていってるような顔ですわ。同じ速度で、その肩ごしに天井や素っ気ないインテリアの数々を眺めた私は、あ、ここって平池さんの家なんだなあと理解していったんですの。
「…いや、酔っ払ってた。悪かった。寝ろ。水飲むか?」
「お邪魔させてくださったんですか」
「おまえ起きないから」
「すみませんすみませんありがとうございます…」
私はベッド脇のソファに寝かされていて、平池さんはなぜかその脇の床で寝ていたようでした。ベッドに上げるのは抵抗があるけど人をソファに寝かせておいて自分だけベッドに寝るのは忍びない、というのがいかにも平池さんぽくて、らしくて、そして私は唐突にすべて理解したのです。やっと、すべてを理解したのです。

『ヒトは「死ぬこと」さえやりおおせてしまえばすべての苦痛と苦難は終わりだと思いがちだが、そうではない。そうではないとも』

つまり大抵のヒトにとっては自分の死こそが思いつき得るすべての苦痛であり苦難であり恐怖なんですの。南条さんにとっても、斜川先生にとっても、りせちゃんにとっても私の両親にとっても私が同じベッドで眠ったもう思い出せない人たちも。人間風情がいくら知恵の実を貪っても最も恐れなくてはならない大事なところは獣のようにきちんと覚えているってことですわ。庭に埋められたあの仔猫ちゃんみたいに。りせちゃんは惜しかったわね。もしも彼女の恐れることが「ママが苦しむこと」だったら、きっと食べませんでしたわ。でも、真実彼女の恐れることは「自分が自分が死んでママが苦しむこと」でしたから、しかたないわね。あなたが死ぬことより恐れることがあるなら、私きっとそのように食べますわ。あなたがいちばん恐れているようにしてあげるわ。あなたがいちばん惨く感じられるようにしてあげるわ。でも大抵のヒトって自分の死こそが思いつき得る苦痛苦難恐怖の限度なんですもの。しかたないわね。しかたないわよね。みんなそうなの。今まで、両親さえそうだったの。戸の閉められた部屋の中から、見てましたわ、戸を開けることなく。祖母ですら、それが露呈するのを恐れたのかもしれないわね。けれど、なのに、なのに…

「平池さんのいちばん怖いことは…」
「あ?なんか言ったか?」
「…」
「何泣いてるんだおまえ」
「…泣いてなんかいないです」

人がわざわざ背もたれの方を向いてるのに覗き込んできて、本当に信じられない。慰めもしないし、ティッシュを箱ごと投げてよこすしもう本当に信じられない。抱き締めるくらいしたらいいのに、タバコに火をつけて座り込んでしまうところが本当にいかにも平池さんで、本当に信じられない、信じられないこの人。

絶対に離さないわ。
このために産まれてきて、今日まで暴食と悪食を重ねて辿り着いたんです、私。

銘柄にこだわらない平池さんの吸うタバコは、奇しくも私がこれまで出会って来た誰かのタバコと同じ香りがしました。とるに足らないことですけれども。ええ、あなたに言っているんですよ。あなたに私の身籠るおぞましさすべてを知られたところでとるに足らないことですわ。私はあなた方のそういった理性や苦痛を糧にして食い散らかして、食い散らかして、食い散らかして、真に手に入れるべきものを見つけ出したんですの。

prev top
GFD