私の死体に似たもの
「神父様は御御堂に罪深い秘密を隠している」

 小学校へあがる前に最初の発作を起こして、最終学年へあがる頃には最初のペースメーカーを埋め込むことになった。そうでなければ小神学校へ入るというのももう少し渋られたに違いない。『お行儀の良い子しかいなくて、静かな寮で規則正しく暮らしてて、考えることと言ったら神さまのことだし、とにかく穏やかなところ』。取り分け母は小神学校に対してその程度の認識しか抱いていないに違いない、とは子供心にも察した記憶がある。その頃には母もすでに心臓を悪くしていたから、もしかしたら彼女自身がそういうところで暮らしたかったのかもしれない。
 心臓を病むと、いや心臓には限らないかもしれないが、もう何も起こらないでほしい、と願うようになる。それは発作だったり、年々増える検査だったり、病に関係する出来事がこれ以上展開しないでほしいとかいうのもそうだが、ことに病んでいるのが心臓であると本当に「何も」起こらないでほしいと願うようになるのだ。
 人の子の人生において悲喜こもごも、何かが起こるとそこには心臓がある。心よりも先に心臓があって、感受性と直結したそれは遠慮もなく跳ねたり、高鳴ったり、止まりかけたりして自己主張する。それが嫌だった。病んだ心臓がそこにあると、何かが起こるたびに思い知らされるのが嫌だった。心臓が間違いなくこの胸に収まって脈打っていると否応なしに気に留めている瞬間に、それが均衡を失って間延びしてまた面倒くさがるように鼓動を止めるのではないか。そうして地獄の苦しみの堕ちて、そのまま。私は怯えた。私の胸の中に心臓があると思い出すたびに、つまりほとんどいつも、怯えて憔悴しきっていた。
 何も起こらないでほしい。私の人生に、これ以上もう何も起こらないでほしい。
 そんなことにばかり苛まれていたから、私は端から見ればひどく無気力な子供だった。父は男の子がそんなことでは、と気にしたが、私は父の仕事のせいで実家に常に知らない人間が出入りしているのも耐え難かった。母は案外そんな子供心を察していたのか、「かわいそうな子ね」と何故か笑いながらよく言ったものだ。「お兄ちゃんに元気を全部吸い取られちゃったのね」とも。


 神父という職業は天職だった。とにかくこの仕事は何も起こらない。決まりきったこと以外は何も起こらないし、忙しくはあるから余計なことを気に病む暇もない。人間社会で生きていればそれなりについて回るようないじらしい悪意すら、教会というだけで寄り付かない。ここに寄り付く人々は、彼ら自身の善性を信じている。善性を信じているから彼らは何も事を起こす必要がない。すでに全ての人の子は善性に満ちていて、あと必要なのは祈りだけ。
 そうして自ら勝ち取った平穏にぬるま湯のごとく浸かっているうちに、少しずつ麻痺していったのかもしれない。生来からの唯一の取り柄と言うべき慎重さ(腰の重さ・疑り深さ・鬱陶しいほどの悲観主義)を次第に痺れさせて、私は少し働きすぎたのかも知れない。気づけば司祭になっていたし、母校である小神学校の寮監すら押し付けられた。荒ぶる思春期の化身・男子中学生高校生たちと生活をともにするなんて、私の貧弱な心臓で換算したら10個/1日は消費しないともたないと嘆いたが、その生活にもじき慣れてしまった。昔の私ならそんなことはなかった。昔の私なら石橋を叩いて結局渡らず剰え私が叩いたせいでいつか崩れてしまうかもしれないと鬱陶しくぐじぐじするほどの慎重さを持ってして徹底的に遠ざけた変化だろうに、それをしなかった。変化に慣れて麻痺していたのだ。大したことはない、そうそう「何か起こる」ものではないと過信していたのだ。
 そうして自分から「何か事」を引き寄せるようになったから、向こうから来た。
 夕べのミサのあと、夕食の前に少し事務仕事でもしゃれ込んでおこうと思って自室に戻った。根城である寮監室は小神学校寮にあって、生徒たちは授業中か奉仕活動中か、はたまたもう食堂へ出かけたのか、ともかく静かだった。自分の呼吸の音に気が付くほど。鼓動の音に気が付くほど。怯え続けた幼少期の名残で、静かすぎでもブルーになってしまう。なんとなく思考が悪いほうに傾いてしまう。自室のドア。簡素だしレトロだしだが、特にセキュリティ面で不安を感じたことはない、人間相手には。
 祈るようにドアを開くと、「奴」はだらりと座っている。簡素な文机の煤けた椅子に、これ以上は無理と言うほど体をうずもれさせて。背もたれに頭を乗せているので、痩せ細った首筋が反り返り余計骨と皮ばかりに見えるのが厭だった。まるで恐ろしい病魔に冒された瀕死の犬のように、だらりとはみ出した舌が真っ青なのも厭だった。「奴」は遥か明後日の中空を眺めながら歌うように、あるいは呪うように呟く。
「神父様は御御堂に罪深い秘密を隠している」
 つと文机の上を見ると、これ見よがしにも聖書が引っ張り出してあった。私は今更聖書など読まない。罪深いだと。思わず鼻で笑いそうになった。どこから目線でものを言っているのか。柄にもなく強い言葉で詰りつけそうになった。「奴」は私が所属している神に裁かれも許されもしない、そんなことはわかり切っていたからだ。
「そんなことでいいのか神父様。子羊たちを掬い上げる前に、もっと可哀そうなものがあるんじゃないのかね」
 私の思考にかぶせるように、なぞり上げるようにほんの小さな声で囁く言葉が厭だった。ほんの小さな声なのだ。それでもよく聞こえるのは、辺りがひどく静かだからだ。心臓の鼓動が聞こえるほどに。


 その「奴」がなんなのか、つまり私だけに見えている幻のようなものなのか、わからない。そんなことを「わからない」と言わなければならない時点でマジでやばいというのはわかっている。ビューティフルマインド、昔観た。幻のようなもの、なんてふわっとした言い方では自分に甘過ぎるかもしれない、もう症状ではないか。
 どちらにしたって私には「奴」が現れて、ぼつぼつと不快な独り言のように私を詰る、遠回しに詰る言葉を吐いていくのは現実なので、始末に負えなかった。私がどうしようもなくひとりのとき、例えば自室、例えばミサの後の控室、そんな場所に「奴」は当然というように現れる。壁・ドア・鍵、まるでそんなものは意味を持たず、当然というようにそこにある。
「おじさんはね、入れない場所なんてないんだよ、だいたいね」
 さして問い詰めてもいないのに「奴」はそう言った。目はいつも曖昧な中空を夢見がちに眺めている。盲いているのかもしれない。
「試しに逃げてみてご覧」
 取ってつけたような控えめな笑顔に慄いた。生理的に受け付けないと思った。逃げようなんて考えられずに、どこか遠くへ消え失せてくれと訴えそうになった。厭だ・疎ましい、そんなことを感じる貧しい心になってはならないと、子供らに説くその口で。


「先生、だいじょうぶ?」
 我に返ると耳には心地良い程度のざわめきがあった。眼前には夕食のシチューの皿がある。スプーンを突っ込んだまま、ぎりぎりまで俯いていたらしい。私の悩みの種そのA、一里塚尋はコップの真横に尻を乗せてこちらを覗き込んでいる。
「もう皆食べ終わってますよ」
 実際にはまだ数人、年少の生徒が食卓についていたがまあ同じことだった。食事を終えた生徒たちはめいめい食器を片づけたり食卓を拭いたり、健気に動き回っている。
「尋、お前も手伝いなさいよ。先輩でしょうが」
「心配してるんですけど?先生が先生が善意を無下にするいっつも俺のこといじめる」
 猛烈に面倒くさい上にむかつく。手で追い払いながらなんとか申し訳の付く程度には食事を巻き返そうとする。一里塚尋は尻を上げない。
「今から食べて食べ終わるんですか?」
「お前の心配することじゃない。手伝ってあげなさいって」
「だから手伝ってあげてもいいですよって。卵とかくれてもいいんですよ?」
 それが目当てか。面倒になってゆで卵を渡すと、嬉しそうに剥き始める。
「でも心配してるのは本当ですよ?シスターたちがすっごく心配してます。最近スエナガ先生元気が無いわあ〜って。先生、心臓が悪いから、それで」
「俺が元気いっぱいだったことあるか」
「ないけどお」
 これで食事なんか残したらそれこそ心配されてしまう。けれど夕食前の短い邂逅を経て、私の喉は塞がったようだった。あの骨と皮ばかりの喉元が脳裏をよぎると、あの獰猛に湿った青い舌が眼前にちらつくと、呪いにかかったように胸が悪くなる。そして胸が悪くなる、なんて自分で思い浮かべた比喩にすらげんなりする。
「煙草吸うからですよ。清貧清貧清貧清貧清貧あー!」
 一里塚尋がもたもたと剥き終わった卵を取り上げて口に押し込んだ。「なんでなんでくれるって言ったのに意地悪意地悪」という泣き言を聞き流して、塞がった喉をこじ開ける。一里塚尋は悩みの種だが「神のお気に入りになりたい」という大層な思想以外はそうげんなりするものではない。共感はしないが理解はできる。なにより人としての理屈が通じる。卵をあげれば喜び取り上げれば発憤する、そういう理屈が通る。ちゃんと通る。


「知ってるぞ。この匂い。神父様はすすんで毒の煙を食らうのか。それはあれかな、すすんで磔になる精神へのリスペクトかな」
 喫煙所で屈みこんでいると背後に立たれた気配があった。衣擦れの音だ。「奴」が着ているジャケットか何かの。人にふいに側へ立たれたときに感じるあの体温の感じだとか、呼吸の気配だとかは無い。どこにも無い。
「煙を吸い込むたびに怯えているようでは程遠いけどね」
 嗤っているようではなかった。ただ事実をぽんと放っただけ、平板な声音がそれをより克明にして、それ以上吸い込めなくなった。何か感じる前に思考を遮断する。ぶっつりと何も考えないようにする。子供の頃に身に着けた術だけれど、どうしたって心より心臓が早い。
 幼い頃は心臓について他人に心配されるのも恐ろしかった。とにかく私は私の心臓をそっとしておきたかったのだ。無視しておきたかった。私にとって私の心臓は、今は眠っている何か邪悪な化け物だった。今は自分が邪悪な化け物であることも忘れて眠ってくれているのに、そうして心臓の話題を出されたら勘付かれて、起き出してしまうかもしれない。尤もらしく、あるいは善意の底から心配されたとして、常に恐れに苛まれ蝕まれていた私には等しく脅威だった。今にして思えば、母が「かわいそうな子ね」と笑った気持ちもわかる気がする。傍目から見ればその怯えは拙く幼く、いじらしくもある。けれど実際に恐れに苛まれていたのはこの私で、喉元を遥か遠くに過ぎ去ったはずの今でもその残滓は心臓に残っている。
「どうしたら消えてくれるのかな」
 気づけば熱を失った煙草の先が落ちるように、口からまろび出ていた。現実か幻かはたまた症状か、後の二つの可能性がある時点でまるで存在を認めたように相手にするのは下策と思っていたはずなのに、無意識に言葉が出た。ぎりぎりひとりごとだと判定されないだろうか。などと思っていると、後頭部の付け根、首の真後ろから声がする。
「秘密を打ち明けてほしいだけだよ。友達みたいにね」
 吐き気がした。喉を押さえて俯いたその横を、ボロ雑巾のような犬が掠めるように通り過ぎて行った。


 日曜日の午前のミサを終えて、敬虔なジジババの皆さまと立ち話をしていると彼の姿が目に入った。駐車場の区切りの役目をなんとなく果たしているような木の陰で、同じようにジジババに囲まれている。人当たりだけは良いのでモテるんだろう、精一杯やわらかい言い方をしても反社会的なカルテルの一員だけども。ジジババをいなして近づくと、向こうも同じようにジジババを振り切って来る。投げキッスなんかしちゃって、一体どんな話をしてるんだ、ここは教会だぞ。最後まで名残惜しく手を振って、それから彼は私を見た。そして彼の当然それであろう用件に思い当たって、今は会いたくなかった、と思う。視界の隅にボロ雑巾のような犬がチラつきはしないか、警戒してしまう。
「あいもかわらず世界中の苦悩を一手に引き受けたみたいな顔だなあ、感心感心」
 見島司はそう言って、世界中の慶事を一手に奪い取ったような顔で笑った。思えばいつも彼がきっかけだった。いつも見島司がきっかけで、私の勝ち取った平穏はどこか調子を崩していく。

 見島司は、信じ難いことに私の元後輩である。何の後輩かというと小神学校の。信じ難いことに。彼は私より2年ほど後に入寮してきて、私が神大に進学する前には今なお語り継がれる暴力沙汰を起こして辞めた。小神学校にはお行儀の良い子供たちしかいないと信じていた母がその頃生きていれば、信じられずに卒倒したに違いない。
「ミサに出たのか?」
「出たとも!ちょっとじーんと来ちゃったね、懐かしくて」
 懐かしさ以外に何かないのかと思ったが、あるわけもない。私にとってミサが仕事の一つでしかないように。
「あのうわさはまだあるのかな」
「あのうわさとは」
「“旧礼拝堂には不朽体が隠されている”」
 まさにそこへ向かっていた脚を止めて、見島司は真顔で呟いた。その右脚は義足だ。昔は確かに二本揃っていたのに、再会したときには車椅子に座っていた。こうして義足で不自由なく歩けるようになるくらい、再会してからも時が経ったということになる。
「うわさを突き止めようとするようなやんちゃ坊主は居るのかな」
 彼がどう話を展開させたいのかわからず、私は黙っていた。今にも背後に衣擦れの気配か、あるいは視界にボロ雑巾のような犬が入り込んでくるのではと懸念して、二の句をつげずにいたというのもある。
「なんて言ったそばからなかなかヤンチャそうなのがいるなあ!」
 にわかにいつもの調子に戻った彼の視線の先を見ると、なんのことはない一里塚尋だ。荒ぶる反抗期の化身よろしく髪を金色に脱色しきっているから、他のお行儀の良い生徒たちに混ざっていれば目立つ。彼らはミサの後片付けをしていて、こちらに気づく様子もない。見島司がウズウズし始めたのがわかったので、さりげなく離れる方向へ身体で押して誘導する。いかに元後輩であろうと反社会的なカルテルの一員(やわらかい言い方)を現教え子たちに近づけたいとは思わない。そんなことを許せば私がシスターたちにやんや言われるに決まっている。
「なんだよ先生、職業差別は感心しないぞ神父とあろう者が。粉かけくらいさせろよ」
「なんの粉だよお前が言うとシャレにならないだろやめなさいよ、区別だよ」
「フフフフすっかり先生が板についてるじゃないか」
 笑いながら、また礼拝堂のほうへ歩き出した彼を立ち止まって見送った。私は行くことができない。悩みの種のその@を解決しない限り。解決する見立てはない。足掛かりすらない。


 旧礼拝堂とは小神学校の家屋の最上階を占める一室で、私が生徒だった頃には既に立ち入り禁止だった。いかに小神学校と言えど所詮は学校、無遠慮と不躾を忍ばせる年頃の少年たちの集うところには、いかにも面白がっただけの噂が多々あった。昔悪魔祓いの儀式に使われていたとか。昔生徒が首を吊ったのだとか。
 不朽体が隠されているというのもその一つに過ぎない。
 不朽体というのは文字通り朽ちることのない遺体のことで、どこそこの聖人のまるで眠っているだけのような遺体だの、というのは確かにある。けれど時代は進んで、そんなものも科学によってどうにでもなるようになった今、そこまで畏敬の念を惹きつけるものでもないと思う。少なくとも町の神父にとっては縁遠くまるで実感のないものだ。
 噂にしたってそうだ。どこかで半端に聞き齧ってきた生徒が面白がって広めて、いかにもそれっぽいから連綿と語り継がれてきただけだ。
「先生、今日はいじめないでくださいね」
 告解の小部屋、真っ暗な仕切りの向こうから小憎たらしい声がする。今日も今日とて一里塚尋の告解だ。げんなりする。
「いじめられないように今日は普通に許しを請おうかな」
「そうなさい。色々あるでしょう、君は」
「先生もちゃんとしてください」
 正論を返されて私は黙った。
「規則を破ってまっすぐ帰らないで街で遊んでいてごめんなさい」
 げんなりする。本当に神のお気に入りになる気があるのだろうか。いや神父を志すのにそんな気があったら困るという話だけれども。
 つらつらとよくもまあそんなに許しを請いたいことがあるなあと聞き流していたら、ふいに悪寒がした。私は微動だにしていないのに、衣擦れの気配がある。一里塚尋のものだろうかと言う希望的観測は、耳元で囁かれた言葉で打ち砕かれた。
「彼の話は面白いね」
 ゾッとする。告解の小部屋、仕切りを挟んで一人ずつ座るのがやっとの真っ暗な小部屋。こんなところにも現れるのか。神の御加護は無いのか、と嘆きたくなる。一里塚尋の懺悔は依然続いている。耳の横に屈み込んだ「奴」が、明後日の方向を眺めながらゆらゆらと揺れる様子が容易に想像できて、厭だった。
「人の子の考え方というかね、人間らしさがよく出ていて」
「先生、聞いてます?」
「…続けなさい」
 そう言うほかにどうしたら良いというのか。仕切りの向こうの一里塚尋は何を疑ってみるでもない様子で、話を再開する。もうほとんど懺悔というよりは普段どおり世間話のていを帯びていたけれど。
「そういえば、街で先生の友達だって人に会いました。昔ここに通ってて、片脚が義足で」
 それが裏目に出た。見島司のことだ、と理解した瞬間、心臓が理不尽に跳ねた。思考を遮断する間もなかった。それが出来ていたとして、どうせ心より心臓のほうが早い。
「恐怖の臭いがする」
 ぽつりと、「奴」はやはりただ事実を放っただけというように呟いた。必死に隠し立てしていたモノを露呈する無様さを嗤おうなどという人間味は、端から持ち合わせていないのに違いない。それでもなんとか心臓を宥めようとした。自分の心臓にひたすら怯えていた幼少期のあの惨めさが、心臓の裏から顔を覗かせていた。
「おじさんはね、人の子の顔なんかわからないが鼻は良いんだよ」
「…先生?大丈夫ですか…?」
「すごくすごくね」
「…」
 なんと答えるのが状況的に正しいのか、すぐには思いつけなかった。一里塚尋が黙り込む。彼が黙ってしまうと静寂に包まれてしまう。告解室は礼拝堂の片隅にあるのだ。夕べのミサはとうに終わって、今はもう誰もいない。こう静かでは、自分の鼓動すら耳についてしまう。まるで早鐘のようなそれが。
「…先生、あのね、何度も言うのも失礼なのかもしれないけど、やっぱりシスターたちがすごい心配してるから、」
「っ」
 やめろ、言うな、と言うのは声にならなかった。「奴」がすばやく、音も立てずに私の口を塞いだからだ。あの痩せ細った身体のどこから出る力なのかと疑うほどそれは強く、頭を振って振り払うどころか微動だにさせることもできなかった。口を覆う手に爪を立てて引き剥がそうとする。そんなことはまるでされてもいないかのように、それをやめさせるそぶりもない。口を覆う手のほかには「奴」の気配はまるで無い。その手にすら温度が無い。一里塚尋は話し続けている。尤もらしく、あるいは善意の底から私を心配し、私の弱みをつまびらかにしていく。「奴」の眼前で。
「先生は意地悪だけどいなくなったら俺もまあいやだし?たぶんちゃんと病院にはかかってるんだろうけど、一回ちゃんと見直してもらうとか?してもらえるならしてもらったり…『心臓』だけじゃなくて、他のところが悪いのかもしれないし」
「なるほど」
 ゾッとするほど近くで声がした。暗闇からもう片方の手がゆらりと現れて、骨のような指が何かを一つ一つ確認するように、私の胸元を指差して行く。呼吸が苦しい。動けない。それは左胸を指して一度止まり、静脈を辿って鎖骨の真下でまたひたりと静止した。
「これか」
 知らず、悲鳴を上げた。その瞬間耐え切れずに悲鳴を上げてしまった。口を塞がれたままなので声など出はしないが、それでもくぐもった呻きが喉骨を直接震わせた。
「先生」
 一里塚尋が小部屋を出る気配がする。間も無くこちらの小部屋の扉が軋む。開かない。鍵などない、何も障害になるものなど無いはずなのに。
「先生、開けてください先生!返事して!」
 わからない。開くことを願ったほうがいいのか、悪いのか。少々荒っぽく扉が叩かれる。何度も何度も、蹴破ろうとしているのかもしれない。壊れない。化石と言っていいほど古ぼけたベニヤ板のはずなのに。
「先生、誰か、誰か呼んできますから、すぐ、すぐに戻ってきますから」
 気配が迷いながら扉から離れて行く。行かないでくれと願うべきなのか、そうでもないのか。
「試しに逃げてみてご覧」
 心臓とそれを助ける器具を指していた手指が、具合を確かめるように一度閉じて、開いた。何をされるかも分かっていないのに、身体は逃げようとした。なりふり構わずに逃げようとした。
「逃げ切れないから」
 開いた手指がふと消えて、私の身体の中から何かあっけなく壊れる音がした。次の瞬間、ぼこり、と私の胸元が不自然に膨らんで、また沈み込み、そして心臓を握りしめられた。


 立ち入り禁止の旧礼拝堂はカーテンすら朽ち果てて、すべての窓から鬱陶しいほどの月明かりが注いでいる。かつて祭壇だった場所に私は座り込み、身体を丸めてぼんやりと舞う細かな埃を見つめていた。そうして新たな恐れから耳を塞ぐ方法を考えていた。
「人の子の中で友人を得るにはハートを掴むことだと聞くけどね、わかっていたつもりなんだが。あんたの場合特にそれが効果的だったって話だな」
 急に饒舌になった「奴」はがらんとした御御堂を歩き回り、あちこちで匂いを嗅いでいる。本当に犬のようだ。
「どこにでも入れるけどね、普通は身体の中には入り込めないな。人の子の身体の中は、どこもかしこも丸っこくてね。でもあんたの身体の中には人の子の作った鋭角があった。だから入り込めた」
 運が良かったな、と言う「奴」は嗤っている。その左手の手首から先はすっぱりと切断されたように消え失せて見える。その左手の手首から先は未だ私の中にある。人の心臓を握りしめて、文字通り手中に収めて、それで嗤っているのだ。
「壊しちゃダメなやつだったんだろう?その、身体の中にあったやつ。あんたの心臓はそれに頼りきってやっと、まともに動いていたんだろう?だから俺の手で代わりをやってやる。器用なもんだろう?大丈夫、俺の手のほうが性能がいい。例えあんたが死んだって、心臓だけは変わりなく動き続ける。マメだしな、俺は。大したことじゃあないんだ、お礼は結構。動かし忘れたりはしないさ」
 慈悲深いとさえ言える顔で「奴」は言った。私の心臓はそこにあった。「奴」の手もそこにあった。おぞましく握りしめられた私の心臓が、私の中にあった。私はぼんやりと、狂い出さなくても済む方法を考えている。
「神父様は御御堂に罪深い秘密を隠している」
 再三そう言って、「奴」は祭壇の横、部屋の片隅で足を止めた。一年ほど前、私が運び入れた間に合わせの寝台のその脇で。
「さて。こんなことを成し遂げるとは。人の子もなかなか侮れないね」

 その寝台には、私の兄が眠っている。

 眠っている、と言って良いものか。そうではないだろう。意識がない、とも言って良いものか。厳密にはそうでないに違いない。私にはよく分からない。分かっているのは一年ほど前、車椅子に座った見島司が一人の部下に手伝わせて兄を連れてきたことと、私がそれを拒まなかったことだけだ。
「魂がここに無い。こんなことをされたら俺も追い切れない。臭いがしないからな。神父様も覚えておくといい。俺から逃げられるかもしれん」
 そんなことを見島司も言っていた気がする。魂を移したとか、それで『時間がない』とか、その間に救う手立てを探すとか。そのときは深く受け止めもしなかったが、時が経つほどにそれは真実味を帯びてきた。兄は、どう見ても瀕死のていなのに今まで死なずにいる。呼吸もある。緊張した脈動もある。けれどそれだけだ。生命維持装置の類いに繋がれているわけでもないのに、瀕死のまま死なずにいる。起き上がって食事を取ることも水を飲むこともないのに、変わらず生きている。変わらないのだろう。きっとそれだけだ。髭も髪の毛も伸びることはなく、洗われない身体が臭ってくることもなかった。死なずにいる。生きている。何も変わりなく。それだけだ。
「こういうことができる人の子が居るということだ」
「私は知らない」
「でも連れてきたヤツのことは知ってるだろう?」
 ぐっと、心臓が文字通り締め付けられた。眉根が寄る。「奴」は離れた場所に立っているのに、鼻先で覗き込まれているような心地になる。
「失敬、問い詰めてるわけじゃない。誘ってるだけだよ。一緒に探そうね」
 吐きそうになった。笑えばいいんだろうか。「奴」が冗談を言うはずもなく、しかし嗤うことは結局出来たわけで、そうなると冗談も言うかもしれなくて、ということを考えだすとやはり気が狂いそうになる。そんな私を慮る様子はもちろん無く、「奴」はまともに私を見て言う。
「神父様のお兄様は残念ながらこの有り様だが、少なくともあと1人、何食わぬ顔で生きてる人の子がいるはずだ。お兄様と同じように魂をどこか別の場所へ隠して、何食わぬ顔で跳んだり跳ねたり笑ったり、俺から逃げおおせてね。俺はそいつを食べなきゃいけないから御愁傷様だが、神父様も人の子ならこのお兄様にも跳んだり跳ねたり笑ったり健やかに生きてほしいんじゃないかね。それかいっそ楽にしてやるとか。人の子にはそういう情があると把握してるがね。そんな方法があるなら知りたいだろう。目的が合致してるという意味だが。ここは少し埃っぽいしね」
 まさか「奴」に情について諭されると思わず、私は本気で思考を停止した。頭を抱えたくなるが、嗤われるとわかった今は額を押さえるに留める。
 そして兄を眺めた。死んでいるような生きているような、噂の不朽体そのもののような兄を。幼い頃。自分の心臓に怯えていた幼い頃、私は兄が嫌いだった。同じように生まれて自分だけが病んでいる妬みがあった。父と仲が良いことへの妬みがあった。私から「元気を吸い取ったような」と評されるその利発さへの恐れがあった。あらゆる才能への嫉妬ではなく恐れがあった。同じように生まれて、絶えず何かが起こることに怯え続ける私の横で、性格と才能に任せて絶えず何かを起こし続けていたのが兄だった。
 それも幼い頃の話で、私が小神学校へ入ってからはほとんど一緒に過ごしたこともなく事実上生き別れていたようなものなのだから、そんな拙い悪感情など最早ない。いくらなんでも。私にだって肉親の情くらいある。私はただ、私はただ。
「私には兄を生かす理由も楽にしてやる理由もない」
 それが神の御心なら、神の御胸に導かれるものを無理矢理引き留める理由もない。同時に、肉親をみすみす死なす理由もない。私にとって兄はその程度の存在だった。どんな人生を歩んで来たかさえ朧げにしか知らないのだから、実質他人のようなものだろう。理性と常識が辛うじて肉親の情を沸かせているだけで。
「じゃあこの機会に考え直してみるのはどうかな。拒否権はないということだが。自分にも利があると思って働くほうがあんたも楽しいだろうね」
 「奴」はあっさりと言い捨てて、次の瞬間にはもう居なかった。ただ心臓を指が撫でる気配だけがする。最悪の感触だ。
 私はよろよろと立ち上がって、兄のそばへ寄った。眠り続けているのか死に続けているのか判然としない、ただ変わることだけがなくなった兄の寝台へと。そろそろ戻らなくては騒ぎになるだろう。こんな夜更けに、シスターたちを安心させなくては、一里塚尋を、可哀想なことをした、小憎たらしくはあるが生徒には変わりない。変わりない。変わりない。

「兄さん、かわってくれないか」

 昔、何も起こらないで欲しいと願った。同じ日に生まれた兄が次々と事を起こすのを尻目に、もう私の人生には何も起こらないでほしいと。
 変わらなくなった兄を見ていると心が安らいだ。もう何も起こらなくなった兄を見ていると、楽になった。それは私と同じ顔をしている。
 それは私の死体に似たものだった。
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