プロローグ

 その日は、墨のような重い雲が隙間なく空を覆っていた。
 午後から台風が近づき激しい雨が降る予報だったので、早めに仕事を終わらせるべく8時前に家を出る。
 ノートPCを持って行きつけのカフェに入り、いつも座る窓際の机についた。
 ここで考え事や仕事をすると、なぜだか気が散ることもなく熱中できる。お気に入りのカフェだ。
 ほうじ茶ラテとベーコンホットサンドを頼み、今書いている小説の執筆作業を進めた。

 終盤の山場を書き終えたところで、時刻は11時40分を過ぎていた。
 今日はこの辺にして、残りは家で書くとしよう。雨が強くなると帰るのが億劫になってしまう。
 店の扉を開けると、春雨のような雨がポツポツ顔にかかった。

 早足で帰宅している途中、自宅マンションの近くにある信号で止まり、ふと鞄のポケットに手を入れる。そこで、愛用の手帳がないことに気づいた。
 うっかりしていた。締め切りが近くなり、寝不足が続いていたのが原因だろう。
 急いでカフェに戻り自分の座っていた席の周りを見て回る。店員さんにも聞いてみたが、探している物は見つからなかった。
泣きそうだ。最も重要な小説データは自宅にもノートPCにもバックアップがあるが、今までのアイデアやメモはその手帳にしか書いていない。
 魂を失ったように歩いていると、天気もその心持ちにあいづちを打つように雨音を強くした。

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