笑顔で惑わせて

「ねえ」

 雨雲をかき分けるような澄んだ声に足を止めると、体を打ち付けていた雨が止む。
 振り向くと、丸いサングラスをかけたファッションモデルのように背の高い男性が傘を持って立っていた。
 白髪からのぞく顔は息を呑むほど美しく、美術館で見たどの彫刻より端正な風貌をしている。

「そんな格好で歩いてたら風邪引くよ?」
「……お気遣い、どうも…」
「家まで送るよ」
「……」
「だいじょーぶ!取って食べたりしないから!」

 そう愛想よく笑う彼の笑顔に悪意なんて少しも感じられず、思わず頷いた。
 自宅マンションまで送ってもらう中、雨と風はどんどん強さを増していく。
マンションの前に着いた頃には、傘をさしていても足元が水びたしになるほど荒れていた。

「それじゃ、僕は帰るよ」
「あ、ありがとうございました…」
「いいのいいの!人助けが趣味だから!」

 そう言ってまた愛想よく笑い、ひらひらと手を振る彼に深くお辞儀をする。
 鍵を開けてマンションのフロントに入ってから外を見ると、彼のさした傘が風でひっくり返っているところだった。
 壊れて使えなくなった傘をたたんで一度マンションの前に戻ると、荒れ狂う空を見ながら何かを考え込んでいる。

「あの…」
「あれ、帰らないの?」
「その…よかったら、天気が良くなるまでうちにいてください。さっきのお礼もしたいので」
「えーいいの?でも彼氏に悪いなあ」
「独り身なので、お気になさらず…」
「そう?じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」

 見知らぬ男性をこんな軽々と家に上げるなんてどうかしているかもしれないが、今の詩織は大切な手帳をなくし雨でびしょびしょになって自暴自棄になりかけていた。
 エレベーターに乗り21のボタンを押すと、彼が後ろからひょこっと顔を出す。
雨に濡れた服から甘くみずみずしい果肉のような香りがした。

「へぇ〜35階まであるんだ。すごいね」
「そうですね…」
「でもエレベーターの時間が長くてストレスかな」
「そんなに気にならないと思います…」

 21階に着き、エレベーターの扉が開く。
左の廊下を進んで相川の表札のある2104号室の扉を開けると、彼は楽しそうなわくわくした顔で扉をくぐった。

「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
「わぁ〜。さすが、女の子は部屋が綺麗だね」
「物が少ないだけですよ」
「1LDK?ほんとに一人で住んでるの?」
「はい。あの、シャワー、先に浴びますか?」
「いやいや、家主さんが先に入ってよ。君の方がびしょ濡れだしさ」

 濡れた服が体にぴったりと張り付いているのを見て、今更恥ずかしくなる。
 お先に失礼します。と言うと、足早にバスルームへ逃げ込んだ。

 身体を洗いながら彼のことを考える。
 まるで雲のように掴みどころのない飄々とした人だが、言動は優しく裏表はなさそうだ。
そこまで考えて、前作のミステリー小説の犯人とそっくりなことに気がついた。
 しょうがない。もし刺されて生きていたら小説のネタにしよう。

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