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2006年1月21日 六本木Y2K

「ねー、今日さ。アイツ居ないから、前入る?」
不意に声をかけられたのは、いつも遠巻きに眺めていた天竺の常連のオネーサン。バンドを我が物顔でファンの子仕切るし常連組の中でもいつも偉そうだし、なんか迫力あって怖いし。そんな彼女からの突然のお誘いに、ビビって動揺する私。アイツって誰?前って?まさか?え?
文字通りに目をぱちくりさせた私の腕を掴んだオネーサンは、私を引っ張る。
「次、出順だよ。変なのに入られんのヤだから。好きでしょ?蘭様ぁ」
あれよあれよという間に押し込められた最前列。オネーサンは私をそこに置いて、両隣に陣取る人に守られてぽっかりと空いていた最前列のど真ん中へ。
目の前のステージを一目見て、心臓が飛び出るかと思った。だって、目の前に蘭さんの楽器がある。機材がある。いつもは誰かの後ろから背伸びして覗いていたステージがそこにあったのだ。
その日のライブは舞い上がってしまって、どの順番で何の曲やったのかとかいつもなら必死に噛み締めてる事は全然覚えられなかった。目の前に出てきた天竺の蘭さんを目に焼き付けるだけで精一杯。
周りから沢山聞こえる『蘭様ぁ〜⤴︎』のコールに埋もれながら、両腕を目一杯伸ばして掌広げて肘から先を大きく開いた。蘭さんの視界で見つけてもらえる事を願って咲き乱れた。
ライブでラストの定番の曲の前奏を奏でている蘭さんと、目があった気がした。熱くなる頬を感じながらも、きっと私の半径1メートル以内の子はみんな同じ事を思ってるんだからと、自分に言い聞かせる。
目があった気がした蘭さんが、演奏しながらゆっくりとだけどもどんどんまっすぐ前に歩いてきて、私の目の前で足を止めてワンフレーズ弾いてから、振り向き私たちに背中を向けて後ろに下がってゆく。そしてアンプの前まできて、足を止めた蘭さんは、こちらを振り向いてから片足でトントンとステージを叩く。
その仕草をしている蘭さんは、ずっとこちらを見ている様な気がした。でもそれは私の半径1メートル以内の子はみんなそう思ってるんだと言い聞かせながらも、なんとなく気になってしまい、視線をステージの上に移した。舞台を見ろ。と、蘭さんに言われたような気がしたのだ。
「…っ!」
真っ黒なステージの上に視線を落とした私は、声にならない悲鳴を上げる。そして、そそくさと手を伸ばして掴んだのは、白いピック。これ、蘭さんの!
ぎゅうっと右手に握り込んで蘭さんを見た。それからステージの上から天竺のみんなが見えなくなるまで、蘭さんと目があった気がする勘違いは一度も発生する事なく、私の手の中には蘭さんが落としていったピックが残った。
天竺の出番が終わり、次の出順のバンドのお客さんがやってくる。暗黙の了解で場所取りされてる最前列を、次のバンドの子に渡すと軽いお礼なんか言われて、こんなの初めての私はなんだかちょっとどぎまぎしてしまった。最前列で蘭さんを見られるなんて事、これから先も不可能だろうしとても良い経験をさせてもらったオネーサンに、一言お礼を言おうと彼女を探した。天竺の常連の子達は怖いけども、勇気を振り絞ってその目立つ集団に近づく。
なんて声をかえたらいいものか迷っている私に気付いたらしい彼女は、その怖い集団から一歩こちらに歩み寄る。
「おつかれー。今日はありがとね。蘭前空きそうで入ってもらえて助かった」
天竺のライブで見かける度に怖い人なんだとばかり思っていた彼女から、お礼の言葉なんて聞くなんて思っていなくて私はびっくりしてしまった。それでも怖いのは変わらないので、ドキドキしながらも口を開く。
「こちらこそありがとうございました。おかげで、初めてピックもゲットできました」
「蘭様ピック?え?」
まだ右手の中にあるピックをぎゅっと握りながら頷くと、彼女は目を瞬いて私の腕を強く掴んだ。そして、すごく距離を縮めて内緒話で聞いてくる。
「まさか蘭様、ステージにピック置いてった?」
彼女の問いに頷く。蘭さんがステージにピック置いてくのって、そんなに珍しい事なんだろうか?
「やば。マジウケる」
そう言った今度は楽しそうに笑い出す彼女。偉そうで怖い印象しかない彼女の笑顔に逆にびびってしまった私の耳元にオネーサンはさらに唇を寄せた。
「出待ちするでしょ?また後でね」
そう言ったオネーサンは、天竺の出待ちでガードレールに座った蘭さんと喋ってた。
あれ?オネーサンはイザナさんのファンじゃないのだろうか?
「……」
「…もう、来ねぇって?」
「ウチらは、来ても入れないよ」
なんだか込み入った話をしていたのかもしれない。と、瞬時に読み取り蘭さん達に近づく足を止めた私を、蘭さんが見た。あ。今度は本当に目があった。
「お…おつかれさまです。蘭様あの…」
「おう。オマエ、ピック拾えたかー?」
蘭さんの物言いは、私にピックを置いて行ってくれたようでこれは営業だとわかっていても勘違いしてしまいそうだ。
「はい」
「ピック貸して?油性ペンある?」
「え…。ペンないです」
大事にお財布にしまったピックを取り出して、蘭さんに見せた。
「私あるよ。黒でいい?」
「は?イザナ用のシルバーの出せよ。いつものやつ」
「無理。蘭様程度じゃムリ」
オネーサンからはい。っと、手渡された油性ペンを受け取った私の手から、蘭さんがするりとペンを抜き取って、もう一つの手をこちらに差し出した。
「ほら、ピック。特別に俺のサインしてやるよ♡」
差し出された蘭さんの大きな掌の上にピックを乗せる。すると、ペンの蓋を開けた蘭さんがこちらを見上げる。
「あ、オマエ、名前は?」
尋ねられて、明かしても大丈夫な名前を口にした。
「ナマエちゃんね」
蘭さんの唇が私の名を呼ぶ。それだけで、苦しくなる程に心臓が騒ぎ出した。
さらさらと流れるような線で、ナマエとピックに書く蘭さん。あれ?蘭さんのサインくれるんじゃなかったの?と、不思議ニ思ってる私の目の前でナマエと書いたピックを裏返した蘭さんは今度はそこに蘭さんのサインを書いてゆく。
「無くすなよ?」
はい。と、手渡してくれたピックには、表と裏に蘭さんのサインと蘭さんが書いてくれた私の名前。
それをまたお財布にしまう私を見て蘭さんは笑う。
「そこ、入れんの?」
「大事ですから!」
また来てね。なんて、言ってくれたからそれが営業文句だと解っていてもまた来ます。と、蘭さんに伝えた。
蘭さんは油性ペンをオネーサンに返して、座っていたガードレールから立ち上がる。
どこかへと向かう蘭さんを目で追ってると、そこに居たオネーサンがまた私の腕を掴んだ。
「ねぇ、ナマエちゃん。連絡先、ちょうだい。今、蘭様んとこ空いてっから最前の人数によっては入れてあげるよ」
「え?」
「どっかのアンケの裏にメアド書いて」
はい。っと、蘭さんに貸していたペンを今度は私に差し出してきた。
彼女に連絡先を渡せば、また前に入れてもらえるかもしれないと理解した私は、それに従う他ない。
蘭さんがさっき握っていたペンだ。なんて、しみじみ噛み締めながら書いたメールアドレス。裏に私の連絡先が書かれた今日の対バンのバンドのアンケート用紙を手渡せばオネーサンはそれを畳んで鞄に入れた。
「六本木だから下手に変なの沸くし、ナマエちゃんが入ってくれて助かった」
「六本木、なんかあるんですか?」
「あれ?この辺蘭様と竜胆くんの地元なの、知らない?」
「そ。なんですね」
「ん。気をつけて帰んなね」
オネーサンはそう言って、天竺常連の集団に混ざっていった。


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